良寛の心こと
今朝目が覚めると何故か「良寛」の事が頭を巡った。今、世の中『耐える』、ちょっと耐えることが出来ないで取り返しのつかないことが多いと感じている。で、良寛の心に触れて見たかったからだと無意識に思ったのだ。そこで、ちょっと。webで、拾い書きしてみたのだが・・・。
むかしむかしある所に(とは言っても越後の国は国上山五合庵)、それはそれは偉い偉いお坊様(とは言ってもいわゆる良寛様)がおったそうな。あるとき麓の国のお殿様が(とは言っても長岡藩主牧野忠精公)、城下にお寺を建ててそのお偉いお坊様を住職に迎えようと手紙を書いたそうな。
しかし、そのお偉いお坊様は、なかなか「うん」とは言わなかったそうな。どうしてもそのお偉いお坊様を住職に迎えたいお殿様は、みずから赴いて「是非に是非に」とお偉いお坊様にお願いをしたそうな。しかし、それでもそのお偉いお坊様は丁重に断った後、一句の返答を送ったそうな。
焚くだけは風が持て来る落ち葉かな (良寛)
これは贅沢はしない、なにごとも身の丈にあった生活が大切だ。と言うことを句に託したんだそうな。結局、お殿様はその偉いお坊様を招くことはあきらめたそうな。めでたし、めでたし。
ものの本によると、良寛の「心の原型」は、(1)「自他を差別しない心」 (2)「筋金入りの自戒の心」 (3)「生涯を通して耐えた厳しい修行の心」 即ち、「思いやりの心」、「自制心」という。それに加えて「学問への下向きな向上心」を加えるとしている。
良寛は39歳で帰郷した後、完全な世捨て人になってしまう。しかも、僧としての務めもするでなく単に、「僧の資格」を持っている浮浪者でしかない。今で言う「ホームレス」である。
良寛は非常に弱い人間である。円通寺で学んだ事は「道元」の絶対的な正統意識である。 道元は「正法眼蔵」の中で「詩文」などに淫する事は堕落であり、又「老荘思想」を避けている。しかし、良寛は自分の性格【性格悲劇】から「道元の禅」には耐えられないと悟り、道元の正統的な思想から許すべからざる「詩文」「老荘思想」へひた走り、本当に隠棲を始め「老子」や「荘子」の様に天地自然の中に入ってしまう。良寛は、修行する事によって「心」強くなるかと思ったようである。
しかし、「三つ子の魂百までも」で山本家を出奔して突然出家した時の「心」はそのまま変わることはなかったのである。即ち、良寛は現実社会の責任を放棄して、僧籍に逃げ込み又その責をも放棄して自然の中に逃げ込んでいるのである。良寛に言わせれば、「良寛の『心の原型』は買いかぶり」であるというかもしれない。
そして、ここで一つ付け加えておくのは良寛は一生「豪商・名主山本家出身」と言うことはついてまわっていると言うことであろう。表だっての援助は出来なかったであろうし、良寛も要請しなかったであろう。当然質素で貧しい生活をしていた…。働いてもいないのである。当時の一般庶民としては考えられない、普通なら餓死しても当たり前である。良家の出身の「お坊ちゃん」の発想から抜け出せない良寛であったのであろう。
その上、良寛の人生は良寛の詩文などから推察されるものばかりである。良寛を作家と見れば、本当のことを書かなかったかも知れない。しかし、良寛はプロの仕事・芸術家は毛嫌いしている。従い、良寛は多量の詩や書を残しているが、これらは暇つぶしに過ぎなかったのである。
帰郷後の最初の10年程度、空庵を求めて各地を転々としたが 「通うところ便なれば即ち休す、何ぞ必しも丘山を尊とばん」である。国上寺中腹の五合庵も、単に便益があったからに過ぎず自分の意志で「こうしよう」とかの意志は一切感じられない。
良寛は、「子供が好きで…いつも子供と遊んでいた」のであろうか。事実そう言うこともあったかもしれないが、多分遠くから見ていたのではないかと思う。子供というのは、人間の基本的な本心、動物的本能を強く持っている。弱いと見れば、集団で襲いかかったりするのは昨今の「ホームレス狩り」をみれば良く分かることである。
しかし、多分そんなことはなかったで有ろう。豪商・名主山本家出身のその地方の有名人である。子供はそんなことは重々知っている。良寛は、議論をふきかけない子供には接する事は出来たが、分別ある大人とは接することも出来なかった思わせるものである。
晩年には、40歳の離れた若い美貌の貞心尼と恋に落ちている。良寛は本音で行動し、行き当たりばったりで安直生きたのである。
« もう、瀬戸際作戦は通用せぬ | トップページ | 来年度予算 »
この記事へのコメントは終了しました。
コメント