高野山本山布教師 坂田 義章師の法話
一茶に、
そこふむなゆうべ蛍のゐたあたり
と詠んだ句があります。一茶は御存知のように逆境に育ち、多くの愛児を失っております。植物はもとよりのこと、蛍、ハエ、蛙、閑古鳥等に対しまして、命のふれあいを実感し、彼等を己の分身、愛児の分身とみているのです。同情や愛情を超えたそのものになりきっての詠歎であります。生命の空しさを体験した一茶が般若の知恵の眼に照らされ、精一杯生きている、或は、生きたいという生きものの願いを肌で詠んでおるように思われます。
「存在するものはみな空なり」との教えを知らされ、生命の尊さが愛児との死別によって肌に痛いほどしみとおっていたからこそ、アイロニカルにまたユーモア的に詠歎し得たのでしょう。
「殺生」という言葉があります。辞書を引いてみますと、「殺すことと活かすこと」「生きものを殺すこと」と書いてあります。私は「殺して活かすこと」と読みたいのです。ものを殺すことによって人間を活かすことであります。仏教では殺生戒というのがありまして、何でも命あるものを殺してはならないと教えられています。
スリランカでは、蚊も殺さず、そっとうちわで払いのけるというようにきびしい戒律を守り続けているそうです。僧侶たちは、昔から水を汲む時、木綿の布をはった杓で水をこして汲みます。水の中にいる眼に見えない微生物を飲んでしまっては可愛いそうだと言うのであります。
今日は、終戦記念日だ。私はその当時8歳で、日本が戦争で負けた。これから日本はどうなるのだろうと、真剣に考えた日である。63年前の事である。
確か暑い日だったなあ・・・今日は猛暑日?・・・。
« 拉致被害者家族会に斉木アジア大洋州局長が説明 | トップページ | 終戦記念日 »
この記事へのコメントは終了しました。
コメント