破れ草鞋
一人の破草鞋の人間で終わらない下さい。
破草鞋(やぶれわらじ)とは破草履(やぶれぞうり)のことである、使い物にならない無用のもの、役立たず、利用価値のないものということだろうが、無用になり、役立たずになって、利用価値がなくなって初めて、物の本質があ現われるということもあるだろう。破草鞋であっても藁であることには変わりがないから、堆肥にもなる。
むかし、小作農の百姓の親父が、足中と言う草履であるが短く足の裏の半ばしかない草履を作って野良仕事や、草刈に行く時に掃かされた。子供らは物日や学校に行く時だけで下駄や、ズックで、遊びは裸足であった。そんな生活は昭和23・24年ごろまであった。
その頃生まれた、団塊の世代の人々が定年になって、肩書きもなくなり一人の人間になる、定年をむかえた人間は破草鞋になって、功も否定され、名も否定されてしまう。人は自己をも否定して、空に無にして始めて、本来の自己が現れるのだろう、本来の自己を生かすことができる。
団塊の世代の人々は肩書きもなくなり一人の破草鞋の人間になって、ゆっくり、ゆったりの生き方に無上の幸せを味わうことが出来ているでだろうか・・・。
しかし、私が今悩んでいるのが、地域のために、今までのノウ・ハウを生かしてくれる人が、少ない。警察・役所・建設業・医療関係の方は多くいられる事だと思うが、自分の生活で一杯なのか、地域の活動に参加してくれる人が少ないという事だ。
破草鞋と思うのは、まだ早い。人生をリセットする意味とこれからの人生設計に地域のボランテアを取り入れも一つの選択肢であろう。人のために、地域のために力貸すことも破草鞋を足中にして、生き甲斐を感じて欲しい。
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