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2008年8月12日 (火)

思いつくままに

3612心に残る言葉で(河合隼雄・臨床心理学者)

明確な目標があってそれに到達するなんてものではなく、生きていることそのままが自己実現の過程であり、その過程にこそ意味があるのだ。

人生もマラソンにたとえられたりするが、われわれが人生マラソンを走っていく上で、「数字」にこだわっていないか、考えてみるといいであろう。

自分は何点を取ったか、席次は何番か、何平方メートルの土地を買ったか、年収はいくらか。確かにマラソン人生も数字に満ち満ちている。そして、われわれは「数字」にとらわれてしまって、やたら疲れていないだろうか。
自分の人生マラソンで、「あの雲まで」とか「山が近づいてきた」といえるような「風景」がどのくらい見え、どのくらい楽しめているかとかんがえてみるのがいいのではなかろうか。数字では計算できない人生の風景をどのくらい自分は見ているのか。

禅の場合、常識的な答えを言うと老子に「喝」とやられる。しかし、大人と子どもの場合では、大人の常識的な答えは「正しい」こととしてまかりとおり、子どもは「悪い子」として位置付けられてゆく。これによって、子どもがせっかくの立ち直る機会を失うのみならず、大人の方も人生の味を深く味わうことがなくなってしまうのである。


人は誰かの言葉で、勇気付けられたり、立ち直ったり、元気になったりするものである。そして、そして私にも幾つかある。現在も心の支えとして、“座右の銘”としている言葉である。

価値観はみな違う。常識が、非常識に全く正反対に受け止めてしまう人は世の中にはいる。民主主義で多数決で事柄を決める。世の中はそれで成り立っている。

今世論調査で政府の支持率を気にする政府であるが、先に行ったサミット後の調査ではマスコミのによっては大分差があったところが気になる。

生きるということは、歩いて(散歩)してこう考えた。生きるという事は、生き引き継ぐ事で、未来にバトンタッチする事で、生きている義務である。そして、生きているうちに、何をなすべきか、未来の人たちに残さなくてはいけないもの、残してはいけないもの、よーく考えて見ることにしよう。

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