夏の花火
今日の名言 戦争は政治におけるとは異なる手段をもってする政治の継続にほかならない。 |
クラウゼヴィッツ『戦争論』(上) |
夏休みが始まり、平日の昼間の駅に子どもたちの姿が見えるようになった。夏休みのイベントのなかでも、花火と外泊は絵日記に外すことのできない恰好の題材だ。わが家も掲句同様、わたしと弟とそれぞれの宿題を背負い、花火大会の前後を狙って祖父の家に滞在するのが夏休みの恒例行事だった。
打上げ花火の夢のような絵柄が、どーんお腹に響く迫力ある音とともに生み出されていくのを二階の窓から眺めていたことを思い出す。打上げ音が花火よりわずかに遅れて聞こえてくることの不思議に、光りと音の関係を何度聞かされても腑に落ちず、連発になると今のどーんはどの花火のどーんなのかと、見事な花火を前にだんだんと気もそぞろになっていたこともまざまざとよみがえる。
そしていよいよ白い画用紙を前に、興奮さめやらぬままでかでかと原色の花火を描く。しかし花火を先に描いてしまうと、夜空の黒を塗り込むのがとても厄介になることも、毎年繰り返していた失敗だ。以前の読者アンケートに、このページを読んでいる小学生もわずかに存在するという結果が出ていたが、花火を描くときには「夜空から塗る」、これを愚かな先輩からのアドバイスとして覚えていてほしい。〈夏来ると浜の水栓掘り起す〉〈蝉穴の昏き歳月覗きをり〉『再見』(2008)所収。(土肥あき子)
私は、花火には、あまり感動しない、女房のもの凄い、花火に対する想いが強く、よく付き合わされる。熱海の花火で、ホテルに泊まったり、あちこちの花火大会につき合わされ閉口した経験はしばしばである。
遠くで、音が聞こえないが、静かに夜空を彩る風情はいいが、近くで人ごみに分け入り、花火スポットを探すのが嫌なのである。
熱海後楽園ホテルに宿を取り、両親と義母の妹二人を招待したことがあった。女房の熱烈な申し入れで、計画に乗せあられた。いやな、顔も出来ず応じたが、酷く気を使い疲れた思い出がある。
孫達が夏休みで、我が家に泊まりに来る。線香花火で、遊ぶのだが静かにパチパチとする位が好きである。
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