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2008年7月18日 (金)

真夏の花・夾竹桃と百日紅

今日の名言

いづれの行もをよびがたき身なれば、とても地獄は一定(いちぢやう)すみかぞかし。

唯円『歎異抄』

Img312_0610161紅の花枯れし赤さはもうあせず 加藤知世子

紅の花が夏に枝の先に黄色の花をつけ、しだいに赤色に変化してゆく。赤色になった紅の花はやがて枯れてしまうが、枯れてしまった赤さはもう色褪せることはないと作者は事実を言う。これは事実だが作者の思いに聞こえる。どういう思いか。それは命が失われてもその赤が永遠に遺されたという感動の吐露である。

花の色はそのまま人間の生き方の比喩になる。眼前の事物を凝視することから入って、人生の寓意に転ずる。これは「人間探求派」と呼称された俳人たち、特に加藤楸邨、中村草田男の手法について言われてきたことだ。「人間探求派」の出現の意義は反花鳥諷詠、反新興俳句にあった。

だから従来の俳趣味に依らず、近代詩的モダニズムに依らずの新しいテーマとして、写実を超えたところに「文学的」寓意を意図したのだった。加藤楸邨理解としてのこの句に盛られた寓意は手法として納得できる。一方で楸邨は「赤茄子の腐れてゐたるところより幾許もなき歩みなりけり」の齋藤茂吉の短歌を自分の目標として明言している。

茂吉の腐れトマトの赤は寓意に転じない。もっと視覚的で瞬間的な事物との接触である。この知世子句のような地点の先に何があるのか、そこを探ることが「人間探求」の新しい歴史的意味を拓いていくことになる。講談社版『日本大歳時記』(1981)所載。(今井 聖)

夏にふさわしい花、夾竹桃、百日紅である。さるすべり呼ぶ場合ああ、幹の肌がつるつるしているので、なるほどと思うが、我が家の百日紅は、母が10年ぐらい前に50センチ位の苗を植えてもらったのが、樹の丈は3メートルぐらいになったが、枝は細くまだ全然つるつる感はない。でも、今年も枝先に一杯花のつぼみが見られる。名前の通り3ヶ月も咲き続ける。

その百日紅を植えてもらった、お袋は今年4月に93歳で、亡くなった。ふさふさとした、赤い花を見ると母を思い出してしまいそう。

夾竹桃は、ギラギラと強い日差しに映えるように深紅な花びらを風にゆすられている。遠くに海が見え白い砂浜が続く先にある、白壁の家に似合う花である。

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