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2008年7月28日 (月)

林住期に思う

07akitakoma_sumire11_3林住期=古代インドでは、人生を四つの時期に分けて考えたという。「学生期」(がくしょうき)、「家住期」(かじゅうき)、そして、「林住期」(りんじゅうき)と「遊行期」(ゆぎょうき)。
「林住期」とは、社会人としての務めを終えた後、すべての人が迎える、もっとも輝かしい「第三の人生」のことである。

古代インドでは、人生を四つの時期に分けて考えたという。「学生期」(がくしょうき)、「家住期」(かじゅうき)、そして、「林住期」(りんじゅうき)と「遊行期」(ゆぎょうき)。
「林住期」とは、社会人としての務めを終えた後、すべての人が迎える、もっとも輝かしい「第三の人生」のことである。

人は何の為に生きるのか?働く為ではない。子供を育てる為ではない。家庭を維持する為ではない。

人は何の為に生まれてきたのか?一生の中で、一体、どの時期が人の絶頂期といえるのだろうか。人生の黄金期、ハーベストタイムとは、はたして何歳から何歳くらいまでの時代を指すのだろうか。インドには古くから人生を4つに分ける考え方があった。古代インドのバラモン教の思想にある『林住期』。それは人生の終わりの日々ではなく、その時期を人生の最も重要な時期と捉える。

定年は人生の終点でも折り返し地点でもない。そこから始まる重要な歳月の出発点である。かつて「人生50年」といわれた時期を過ぎ、今は「人生100年」の新時代へ突入する!現在『林住期』の真っ只中の世代の方。会社員なら定年がそろそろ見えてきた人。すでに定年退職をした人。

または定年後に新しい職場に転じた人達はもちろんの事、これから誰しもが迎えるだろう『林住期』予備軍の若い世代全員に贈る新しい人生論。人は何の為に生まれて来たのか?それをまともに考える、第三の人生の目的、人生のクライマックスがここにある!

老いとは高齢者の老いのみをさすものではない。老いは自然なものであり、細胞は絶えず生まれ死にしていますから、細胞の新陳代謝において、若い人であっても老いは生じる。高齢化にともない肉体の老いはさけがたいものである。

長寿社会が急速に到来しました、60歳以上の旅行客が多くなった。旅行や、リュックをかついでのハイキングや登山などは、いずれも日常を捨て帰ることのない旅ではなく、非日常を楽しみ、わが家に帰る旅である。
 生活の場を郊外に移したり、農業を始める人もいます。逆に生活に便利な都市の中心部や介護を受けられる施設などに居場所を移す人もいる。 

幸いにも長寿を生きることができれば、さまざまな人生の喜びを経験する事だろう。むろんさまざまな苦悩も伴うが、苦悩も味わい深いもので、喜びそのものであると受容できるようになれるように努力したいものだ。

ほろにがきものや淡白なものにも深い味わいを感じたり、雲の動きや川の流れなど無情なるものの輝きに心躍らせ、小さな野の花や草木の芽吹き、生きものの息づかいなど無常なるものへ哀れさと愛しさを感じ琴線に触れる。これも老いのゆえに感じることかも知れない。こういう感動が得られることは老いの特権でだろう。

還暦~古希~喜寿の時期は、人生にとって最上の時期であるかも知れない。孔子の言葉では「六十にして耳に順ふ、七十にして心の欲する所に従いて、矩を踰えず」である。

インドの人の生き方に「妻子を養うことも、そして家の職業も安定した段階で家長が一時的に家を出て、それまでにやろうとして果たし得なかった夢を実行に移そうとする人生のステージ」林住期がある。

「七十にして心の欲する所に従いて矩(のり)を踰(こ)えず」と述懐している。この一言こそ、われわれ老境に入った者がめざすべき理想の境地と言えるのではないだろうか。

酒を呑むにしても、他人とつきあう場合にも、自己規制をかけることもなく、思いのままに振舞っても、結果として人間としての常識、社会的な規範を踏み外すことがないようになる、それは本当にすばらしい境地だと思う。

不可能に近いほどむずかしいことかもしれないが、それをめざして老いを生きるのは、何となく楽しみが与えられるような気がする…。

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