ラジオのこと
今日の名言 旅はどんなに私に生々としたもの、新しいもの、自由なもの、まことなものを与えたであろうか。旅に出さえすると、私はいつも本当の私となった。 |
田山花袋『東京の三十年』 |
私が子供の頃ラジオは生活を彩る大事な電化製品だった。夕暮れ時の商店街のあちこちからは相撲や野球の中継が流れてきたし、中学になると深夜ラジオのポップな音楽やおしゃべりにうつつを抜かした。
掲句のラジオは寝床で気軽に聞けるトランジスタラジオではなく、茶の間に置かれた旧式の箱型ラジオだろうか。ラジオの上にひょいと置かれたまま忘れられているクスリ類としては、常備薬として出番の多い「正露丸」や「メンソレータム」でなく、痛い魚の目やイボができたときだけ集中的に使う「イボコロリ」を選んだのは絶妙の選択と言っていい。
ラジオの上に「イボコロリ」がある風景は、たとえその事実がなくとも、ああ、そうなんだよねぇ。と自分が住んでいた家に重ねて共感を呼び起こす説得力を持っている。たまたまそこに置いた家族の誰かがいなくなったとしても、片付けられずにそこにあるものがどの家庭にもあるだろう。
埃をかぶったラジオもイボコロリも家族の視界にありながら半ば存在しないものとして、四季を通じてそこに在り続ける。些細で具体的なものに焦点を絞ることで、「今生」の生活の内部にありながら生活の外側で持続する時間を感じさせる無季句だと思った。「ぶるうまりん」(2007/11/25発行 第7号)所載。(三宅やよい)
昔、親父は連れ合いに早く死なれて、私の妹暮らしていた。親父も妹(当時5歳)が母親を亡くし不憫と言うことで、長らく一緒に暮らしていた。親父も妹を嫁には積極的には出したくないようで、婚期を逸してしまった。親父が死んで、暫くしてして、めぐり合い結婚したが・・・。
一人になって寝る時は何時も、ラジオを聴いていた。チャンネルはNHKだけである。そんなこを思い出していたが今、自分もNHKだけのチャンネルで、ラジオを聞きながら寝るのである。年をとると人と話をするのが面倒くさい。
春眠や 夜明けのラジオ 鳥の声
春の宵 時報の音や 台所
夏近し 年寄り夫婦の ラジオかな
さわさわと ラジオ音する アカメ垣
アカメモチ 隣を塞ぐ 葉が燃(萌)えて
年をとると、耳が遠くになり、ラジオのボリュームを上げているのに気づかない。アカメモチの垣根の散歩道からラジオの声が聞こえる、おばあさんは元気にしているんだ。
« 酒饅頭の味の思い出 | トップページ | ビル・ゲイツ会長と胡錦濤主席 »
この記事へのコメントは終了しました。
コメント