百姓と夏
今日の名言 人生は一行のボオドレエルにも若(し)かない。 |
芥川竜之介『歯車 他二篇』 |
4日府中大国魂神社にて
火のようにさみしい夏がやってくる 近三津子
夏は来ぬ。実感的にはまだかな。それはともかくとして、まだ猛暑に至らないいまどきに「夏」と聞くと、気分が良くなる。少なくとも、私の場合は、だ。一般的に言っても、おそらくそうではないかと思うのだが、揚句の作者はそのようには思わないと言うのである。逆である。
しかし、句にその根拠は示されていない。だからして独善的で一方的な物言いかと言うと、あまりそうは感じられないところが、俳句ないしは詩歌の妙と言うべきか。そう言われてみれば、何かわかるような気もしてくるのである。この句の生命線は、もとより「火のようにさみしい」という比喩にある。
さみしさも高じると、火のようにめらめらと燃え上がり、手がつけられなくなるほどに圧倒されてしまう。その手のつけられなさが「夏」という言葉と実際とににかかるとき、そこには常識から言えば一種パラドックスめいた納得の時空間が成立するのだ。「夏」と「火」とは合う。でも「火」と「さみしさ」とは、なかなかに合い難い。
作者はそこを強引に「私には合う」と言ってのけていて、それをポエムとして仕立て上げているわけだ。自由詩の世界ではままあることだけれど、俳句ではあまり見かけない表現法である。したがって揚句は、読者の感受性を調べるリトマス試験紙のようなものかもしれないと思った。この断言肯定命題にうなずくのか、それとも断固忌避するのか。
そのことは、読者のいわば持って生まれた気質にかかわってくると思われるからである。もちろん、どちらでも良いのである。ともかく、また今年もやがて「火の」夏がやってくる。愉しくあって欲しい。『現代俳句歳時記・夏』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)
それしても、我が家の狭い庭に生える雑草の伸びるのが、恐ろしく早い、草萌えるというか、10日も、経つとアット言う間に埋め尽くしてしまう。改めて、雑草の生命力・繁殖力の強さに驚かされる。
むかし、親父言われた。「百姓の夏は、草との闘いである。」こんなことも、「上農の教え」
「上農は、草を見ずして草を取る。」
「中農は、草を見てから草を取る。」
「下農は、草を見ても草を取らず。」
上の言葉は、むかしから稲を作る(人を育てる、自己の取り組みに対する教訓)人の心構えとして、伝えられている言葉である。あらゆる立場に通用する言葉である。
確かに、のびきった草を見て、これを刈るのかと思うと、いやになって行動も渋リがちになり、余計にやらないという悪循環が起こるもんだ。
こんなことを思い出した。
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