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2008年5月23日 (金)

のみとり粉

今日の名言

心の中の自我を抑えることのできぬ者ほど、自身の驕慢(きようまん)な心のままに、隣人の意志を支配したがるのです。

ゲーテ『ファウスト』(第二部)

34391のみとりこ存在論を枕頭に 有馬朗人

蚤取粉の記憶はかすかにある。丸い太鼓型の缶の真中をパフパフと指でへこませて粉を出す。蚤はそこら中にいた。犬からも猫からもぴょんぴょん跳ねるところがよく見えた。犬を洗うときは尻尾から洗っていってはいけない。水を逃れて頭の方に移動した蚤が最後は耳の中に入り込み犬は狂い死ぬ。

かならず頭から洗うんだぞ。そうすれば蚤は尻尾からぴょんぴょんと逃げていくと父は言った。父は獣医だったので、この恐ろしい話を僕は信じ、洗う順序を取り違えないよう緊張して実行したが、ほんとうだったのだろうか。蚤取粉を傍らに「存在」について書を読み考えている。

蚤というおぞましくも微小なる「存在」と存在論の、アイロニカルだがむしろ俗なオチのつくつながりよりも、アカデミズムの中に没頭している人間が蚤と格闘しているという生活の中の場面が面白い。

西田幾多郎も湯川秀樹も蚤取粉を枕頭に置いてたんだろうな、きっと。『花神コレクション・有馬朗人』(2002)所収。(今井 聖)

戦後の昭和22・23年の頃に学校で、女の子はDDTを頭からかけてもらっていた。みんな真っ白になっていた。今では想像がつかないが、それだけ、ノミやシラミがいたのだ。

布団にもいて、掲句のように枕元に蚤取粉を置いた。しらみは卵を着物の襟などに産み付けてなかなか落ちない。洗濯には煮え湯をかけて洗濯した。

僅か60なん年前のことである。こんな時代を経て今がある。それにしても、不衛生の時代だった。文化・文明の進化は、有難いと思うが、その反面失った人間愛・絆は、はかり知れないものがある。「向こう横丁の隣組」「言いつぎ」などの言葉もなくなったしまった。

 青い実の 梅の木の下 風匂う

昨日は全国的によい天気であった。東京地方も27度となった。湿度35パーセント位だったそうだ。梅の木陰に入ったら、気持ちのよい風が吹いて気持が良かった。大分梅の実も大きくなっていた。  

  

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