« 命の尊さ | トップページ | 新派女優水谷八重子という人 »

2008年5月22日 (木)

自然の怖さと優しさ

今日の名言

人が四十三歳にもなれば、この世に経験することの多くがあこがれることと失望することとで満たされているのを知らないものもまれである。

島崎藤村『夜明け前』第二部(下)

539571

魚屋に脚立などあり夕薄暑 小倉喜郎

やや汗ばむ日中の暑さも遠のき、涼しさが予感できる初夏の夕暮れは気持ちがいい時間帯だ。一日の仕事を終え、伸びやかな気分で商店街をぶらぶら歩く作者の目にぬっと置かれた脚立が飛び込んでくる。その違和感が作者の足を止めさせる。

と、同時に読者も立ち止まる。「どうして魚屋に脚立があるのだろう。」ただ、はっとさせるだけでは謎解きが終ったあと俳句の味が失せてしまうが、置かれている脚立にさして深い意味はないだろう。それでいてやけに気になるところがこの句の魅力だろう。

その魅力を説明するのは難しいが、脚立から魚屋の様子を思い浮かべてみると、水でさっぱりと洗い流されたタイル張りの床や濡れた盤台が現れてくる。そこに立ち働いていたおじさんが消えて脚立が店番をしているようにも思えておかしい。ある一点にピントを絞った写真が前後の時間やまわりの光景を想像させるのと同様の働きをこの脚立が持っているのだろう

アロハシャツ着てテレビ捨てにゆく」「自販機の運ばれている桐の花などあくまでドライに物を描いているようで、「え、なぜ」という問いが読み手の想像力をかきたててくれる楽しさを持っている。『急がねば』(2004)所収。(三宅やよい)

 軒先に 巣作り始める  薄暑かな

 長袖に 半袖にするか  木陰あり

 はんけちの たしなみ清き 薄暑かな 万太郎

昨日、宮が瀬ダムを見てきた。新緑と、もう一層緑を濃くした木々と山一面に同色の筆を使った画面に湖面の漣に揺れる鴨が浮かんでいる。自然の雄大さと、調和の取れた一服の画になっていた。人間の心に癒してくれるのは、この自然が一番ではないかと思えた。自然の力はここにおいて尊い。吾人の性情を瞬刻にして急成長させ純粋に詩境に入らしめるのは自然である。

苦しんだり、怒ったり、騒いだり、泣いたりは人の世はつきものだ。
私が欲するものはそんな世間的の人情を鼓舞する様ではない。俗念を放棄して、しばらくでも塵界を離れた心持になれる詩が読みたい。

ミャンマーや、中国の四川省では自然の恐ろしさに、感じてしまっているが長い歴史ののなかにこう言った自然災害は、何度もあって今日があるのだろう。

人はこれを学び、こういった災害を乗り越えて、生き延び将来に向けた備えていかなければならない、「自然の怖さと優しさ」つくづく感じさせられた。

毎日新聞(余禄)抜粋から、                                    ミャンマー人のいう「五つの昔からの敵」とは火事、飢饉、洪水、疫病、そして政治権力だという。火事は別としても、洪水、その後の飢饉と疫病に加え、政治の非情まで一度に降りかかってきては国民もたまらない。

この間の中国の地震災害とは対照的に情報公開を渋るミャンマー軍政すら死者・行方不明13万人と認めた惨状だ。支援物資は被災者の4分の1程度にしか届いておらず、現地からは被災孤児を狙う人身売買の暗躍や援助物資の横流しまで伝わってくる。

そんな自然の脅威であるが、その自然を愛して人間は生きている

« 命の尊さ | トップページ | 新派女優水谷八重子という人 »

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 自然の怖さと優しさ:

« 命の尊さ | トップページ | 新派女優水谷八重子という人 »