夏落ち葉
今日の名言 一番大切なことは単に生きることそのことではなくて、善く生きることである。 |
プラトン『ソクラテスの弁明・クリトン』 |
樫(かし)や楠(くす)などの常緑樹は緑の葉のまま冬を過ごしたあと、初夏に新葉が出てから古い葉を落とす。常磐木(ときわぎ)落葉とも呼ばれる夏の落葉と、秋から冬にかけての落葉との大きな違いは、新しい葉に押し出されるように落ちる葉なので、どれほど散ろうと決して裸木にならないことだろう。
鬱蒼と青葉を茂らせたまま、枯葉を降らせる姿にどことなく悲しみを感じるのは、常緑樹という若々しい見かけの影のひそやかな営みが、ふと顔を見せるためだろうか。紅葉という色彩もなく、乾ききった茶色の葉が風にまかせてぽろりぽろりと落ちていく。
しかも、常緑樹はたいがい大樹なので、ああ、この茂りのなかにこんなにも枯れた葉があったのかと驚くほどきりもなく続き、掃いても掃いてもまた同じ場所に枯葉が落ちることになる。
掲句はまた、時間は常にうしろに溜まっていくという。「うしろ」のひと言が、ひっそりと過去の時間をふくらませ、孤独の影をまとわせる。生きるとは、きっとたくさんの時間の落葉を溜めていくことなのだろう。『流速』(1999)所収。(土肥あき子)
夏落葉 掃除すほど 延びる枝
夏近し 代謝の時期や 常緑樹
一昨日、昨日と我が家の庭木の剪定をした、楠木・椿・つつじ・金木犀などである。金木犀などは毎日のように路面に落葉を落ちし始めると、掃いても掃いても、落る夏落葉である。それだけ新芽伸びる。
しかし真木は、素人では剪定は出来ない。高さと枝振りになった今年の暮れに植木屋さんに頼もう。真木といえば、一年中葉を落し、葉が小さく掃除が大変である。
青い葉を取って水に浮かべると威勢良く動くので、子供たちで遊んだ記憶がある。遠い昔のことである。
« 社会構造の変革 | トップページ | じっと耐えていることだ »
この記事へのコメントは終了しました。
コメント