朧月夜
今日の名言 万(よろづ)の事は頼むべからず。愚かなる人は、深く物を頼む故(ゆえ)に、恨(うら)み、怒(いか)る事あり。 |
兼好法師『新訂 徒然草』 |
昨日につづいて虹の句。こちらは農村の光景だ。どこまでも広がる早苗そよぐ青田の上に、虹がかかった。それだけでも美しい絵になるが、かかった虹は珍しい「二重にじ」だった。
作者以外、周辺には人影がない。月並みな言い方だが、まるで夢を見ているみたいだ。空に写った天然の色彩のグラデーション。それが見ているうちに、外側の虹(副虹)からうすれていき、主虹もはや消えかかってきた。虹は空に溶けていくわけだが、このときに作者もまた風景の中に溶けていく感じになっている。
束の間の至福のとき、とでも言うべきか。「虹」と「青田」の季重なりなどと野暮なことは言いっこなし。自然がそれこそ自然にもたらす光景や風物は、いつだってどこでだって季重なりなのである。こしゃくな人間の知恵などは、この圧倒的な季重なりのシーンの前では、吹けば飛ぶようなものではないか。
作者はおそらく子供なのだろうが、この素直な汚れのない感受性には打たれるし、大いに羨ましいとも思ったことである。国定教科書『国語・四学年(下)』(1947)所載。(清水哲男)
環境は恐ろしい程の速さで変わってしまった。僅か50年の半世紀に青田は勿論、山が無くなてしまた。そして、50年前の場所名も消えてなくなり、今使われない。私のごく近く例であるが、下河原=湯殿川から田んぼに水を引き青田が広がっていた。 富士谷戸山=雑木林に松がよく似合う山、ウサギや、キツネなどが棲んでいた。 大ぱら(原)=高台大地に畑が広がっていた。
その他、数えれば沢山あると思うが、今住んでいるところでさえも、50年前は、時田の腰巻きという場所で桑畑であった。今は勿論使っていないし、殆どの人は知らない。
だから、人間によって、住みよくしたつもりが、今は住み難くなってしまった所などがあり、そしていかに、他の動植物を失ったかを、認知すべきだ。人間の生活で、肉体と精神の維持と向上がなければ、開発はすべきでない。
そして、掲句のような虹を見ることが出来なくなってしまった。それにしても、今の子供は米の稲や藁・ 麦の麦がらを知らない小学生がいるという、悲しいことと思う。
昨夜、外に出て空を見上げたら、朧月夜であった、こんな地球の環境の移り変わりなどをどんな思いで眺め返しているだろうか。そんな思いがした。
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