おたまじゃくしは、いま・・・
今日の名言 あの人は本当は頭がいいから阿呆の真似ができるのね。上手にとぼけてみせるのは特殊な才能だわ。 |
シェイクスピア『十二夜』 |
お世辞にも形の良い句とは言えない。雨露で切れる。破調だがリズムはある。それにしても言葉がぎくしゃくと硬い。流麗な言葉の自律的な結びつきを嫌って、凝視への執着をそのまま丁寧に述べた感じだ。
雨露が蝌蚪のかたちに見えるという比喩が中心。玻璃の内側に病気の子どもを閉じ込めて、外側を無数の雨滴が降りてくる。蝌蚪型は比喩だから季語ではないという見方もあろうが、蝌蚪の季節だからこその比喩だという見方もできよう。
そう思えば季感はある。蝌蚪型という素朴で大胆な把握はまさに草田男譲り。口あたりの良い流麗な句にない魅力がある。形式のリズムのよろしさが内容より出しゃばると、一句は軽く俗な趣になる。その軽さを「俳諧」と見誤ってはいけない。
定型もリズムも季語も「写生」という方法もみんな一から見直すように仕掛けられたこの句のような立ち姿にこそ「文学」が存するのではないか。「俳句とエッセイ」(1987年10月号)所載。(今井 聖) 玻璃=ハリ(水晶) 蝌蚪=カト(おたまじゃくし)季語が春
今日は雨 蝌蚪の泳ぎは 忙しく
森深く 孤独蝌蚪の 尾が沈む 斌雄
零なり 無限を追ひて 蝌蚪泳ぐ
10年前のむかし、直ぐ前の公園の池には、おたまじゃくしが沢山いたが今は見ることが出来ない。ということは、カエルがいなくなったという事だ。それがけ環境破壊が進んでしまったのかたった10年ぐらいだ。従って池にすむ昆虫類もすっかりいなくなってしまった。
小川・土手が、コンクリートになって、生態系が変わってしまったのだ。だから、童謡の「春の小川」「どじよっこふなっこ」などの歌は、今の子供には分からない子もいるだろう。ちょっと寂しい思いだ。
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