椎の花
今日の名言 幸福だけの幸福はパンばかりのようなものだ。食えはするがごちそうにはならない。 むだなもの、無用なもの、よけいなもの、多すぎるもの、何の役にも立たないもの、それがわしは好きだ。 |
ユーゴー『レ・ミゼラブル』(四) |
祖父母、父母、兄弟姉妹、叔父叔母、従兄弟。どうかすると、同じ名字を持つというだけで、近しい気持ちになることさえある。種族を血によってグループ分けする血族は、一番たやすく結ばれる共同体である。
しかし、容易に断ち切ることのできない血の関係は、そこかしこでうとましく個人の人生につきまとう。マルセル・プルーストは『失われた時を求めて』で、焼き菓子のマドレーヌの香りと味覚を過去への重大なキーワードとしたが、掲句は椎の花の形状や濃厚な匂いを先祖から脈々とつながる血を意識するきっかけとした。
椎の花房は咲くというより、葉陰から吹き出すようにあらわれ、重苦しい病み疲れたような匂いを放つ。そして、まるで望まれていない花であることを承知しているように、あっけないほどあっさりと花の時期を終え、細かな残骸をいっしんに散り敷き、漂っていた匂いもまたふいに消えてしまう。
花の盛りを意識すればするほどに、しばらくすれば一切が消えてしまう予感にとらわれる。裾広がりの血のつながりに思いを馳せることは、うっとおしさと同時に、別れの悲しみをなぞっていくようにも思えてくる。『花鳥諷詠入門』(2004)所収。(土肥あき子)
旅人の心にも似よ椎の花 松尾芭蕉
今頃木曽の山中では椎の花がひっそりと咲いていることであろう。この花の侘びた姿が旅行く人の心を慰めてくれたらよいのに。
昨日、心臓手術を3年前にして、九死に一生を得たような?兄と風呂に行って来た。掲句の解説にあるように、血縁とは、「絆」のようなものである。絆とは「愛・優しさ」なのかも知れない。老いて、病に見舞われてしまう血縁者がいれば、無意識に手を差し伸べる。これ血縁と所以であると思う。
椎の花とは、実が「どんぐり」となって独楽などで子供ころに作って遊んだ。しかし「どんぐり」といっても種類があるそうで今更ではあるが、コナラ・カシワ・ミズナラ・シラカシ・クヌギ・アラカシ・アベマキ・ウバメカシ・マテバシイ・スダシイがあるとう事だ。
椎の花といえば、昔から芭蕉はじめ沢山の人に短歌・句などの詠まれている。
椎の花 人もすさめぬ にほひかな 与謝蕪村
お若いと言われこのごろ椎のはな 池田澄子
などがあるが、匂い気になる事と、花はどう見ても葉陰で目立たないところから、人間に例えたら、細やかさにかけるが、血縁・子孫を大事にして、質実剛健というところか・・・?。
« 出鼻をくじかれる | トップページ | 益々巧妙化してきた詐欺師 »
この記事へのコメントは終了しました。
コメント