社会構造の変革
この夏から医療や介護の現場に働くインドネシアの人々の姿がみられそうです。外国人への門戸開放の一歩。高齢社会日本の希望と不安が交錯します。
高度経済成長に入る直前の昭和三十年代の東京の下町の「夕日町三丁目」とそこに暮らす人々を描いた二〇〇五年の映画「ALWAYS 三丁目の夕日」は記録的な大ヒットでした。
美化しすぎのきらいがなきにしもあらずですが、木造の住宅と商店、都電やオート三輪、三種の神器だったテレビなどが懐かしさを誘いました。売れない純朴な青年作家と少年の共同生活や小料理店のおかみとの不器用な恋、それを見守り励ます近隣の人々の物語は心をほのぼのともさせました。
同じ農耕社会。稲作文化や仏教儒教を共有したせいでしょうか、タイでもカンボジアでもベトナム、インドネシア、ミャンマーでも優しき気づかいの人々がいて、取材で「言葉の壁を越えられる」との思いを強くしたものでした。
日本はその東南アジア各国との間で、経済活性化のための経済連携協定(EPA)を結び、十六日の国会承認によって、この七月にもインドネシアから看護師、介護福祉士の第一陣が来日する見通しとなりました。
協定での受け入れ枠は二年間で看護師四百人、介護福祉士六百人の千人。半年間の日本語研修などのあと病院や施設で働くことになりますが、専門的、技術的分野に限定していた外国人労働者受け入れをそれ以外に広げるのは初めてで、門戸開放の転換点とも。フィリピンからも看護師ら千人の受け入れを決定、タイ、ベトナムからも受け入れを求められています。
日本社会の高齢化は急激で、厚生労働省は、要介護認定者は二〇〇四年の四百十万人から一四年には六百万人以上となり、介護労働者は、十年で百万人から最大百六十万人に増やす必要があるなどの数字をはじき出しています。
少子化と労働人口の減少で、介護もいずれは外国人に頼る時代がくるのかもしれません。気くばりの東南アジアの人々にはその適性があるかもしれません。しかし、介護現場を現状にしたままでの門戸開放は問題が大き過ぎます。限定的とされる今回のインドネシアからの受け入れでさえ、両国の未来にとって最悪のシナリオとなる恐れなしとはいえません。
二〇〇〇年四月スタートの介護保険制度は、制度存続の危機に直面しています。矛盾が噴出、とりわけ財政の悪化や二度の介護報酬引き下げは、介護現場への重労働・低賃金のしわ寄せとなって、大量離職となっているからです。
〇五年調査で離職率20%、離職者は二十万人。そんな介護現場への外国人看護師、介護士は、重労働・低賃金労働固定化の道具として利用されかねません。労働者同士が反目する惨状を招きかねません。若者たちが希望と情熱をもち、資格のある潜在看護師、介護福祉士七十五万人が働ける職場であってもらわなければ、われわれ国民が困ってしまうのです。
日本人の生活環境の激変は、頂上が見えない発展に、一直線で駆け上った後ろを返り見ないで、なりふり構わず、上っている。我先にと自己主張はいまだに続いている。
しかし、こうなったら、外国人の力を借りなければ仕方がないのか、特に医療・介護は高齢者でなくても、不安である。安い給料で働く若者は嘆く、こんな重労働で働いても、結婚して生活ができないと言う。
高度成長と日本の身の丈にあったもでなかった“つけ”が来たのだろう。しかし、自分の始末を出来ない日本人の多さに、国民は反省すべきだ。
この記事へのコメントは終了しました。
コメント