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2008年5月23日 (金)

啐啄同時

10081啐啄同時(そつたくどうじ)

1週間前に、湯殿川に鴨の親子が泳いでいるの目にした。5羽の鴨はまだ巣立って何日でもない、一体無事に育つのは何羽なのかなあ・・・自然の厳しさと命の尊さと、そして禅の言葉に啐啄同時ということを何となく思い出した。

啐啄同時とは(鶏の雛が卵から産まれ出ようとするとき、殻の中から卵の殻をつついて音をたてる。これを「啐」と言い。そのとき、すかさず親鳥が外から殻をついばんで破る。これを「啄」という。そしてこの「啐」と「啄」が同時であってはじめて、殻が破れて雛が産まれる)

野鳥は巣立ちの時にも「啐啄同時」しているのである。自分で餌をとり自活していく能力が雛に具わったとみると、親鳥は雛に巣立ちを促す、雛もこれに応じて巣から出る、自立の瞬間である。

しかし人間は子離れしない親、親離れしない子がいかに多いように思える。「啐啄同時」の機会をなくしてしまっているのかなあ・・・・。

親の指導と子供の自発性とが一致した時、はじめて効果をあげるのだが、ほんのちょっと待っていれば子供がひとりでに覚えたり行動したりするのに、教えなくてはならない大事な時期をはずして手遅れになったりしている。

子供は知らないと思っても、親の身勝手はちゃんと見抜いていることもある、また寂しい子供の心は、親の愛情をもとめているのである。教えをうける側と教えをあたえる側とが一致した時、真の教育が行われるのであって、子供の教育は、その心身の成長の段階に応じて適宜適切におこなわれなくてはなりません、タイミングが大切である。

人間関係に於いても、相互の啐啄が時間的に間髪入れずに意気投合しているようであればうまくいく。機縁とは、あることが起こるようになるきっかけを言うのだが、自ずとおとずれてくるものであって、作ろうとして作れるものでもない。機縁とは熟するもので、この機縁が熟した時こそ、啐の時であり、啄の時なのである。いま、その機縁を失ってしまっている親子が多い。

世の中を 憂(う)しと恥(やさ)しと 思えども 飛び立ちかねつ 鳥にしあらねば 山上憶良

この世の中を 憂(うれえ)うとも、恥ずかしいとも 思うけれども どうしても飛び去るわけには行かない 鳥ではないのだから・・・

思い出す。

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