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2008年5月30日 (金)

法事に思う

10005i1法事に呼ばれている。そこで考えてみた。

 同い年の小渕恵三元首相が現役で病に倒れ亡くなった。橋本竜太郎元首相も同い年であるが亡くなった。2人とも輝かしいご功績を残された。そして、血の出るような苦労と努力を重ね、財や地位を築かれた人も近所にもいる。その人の生きざまをかえりみる時、心の琴線に響かないこともある。では、人の幸せとは何か、生きている時が花や、死んでしまったらおしまいだ、などと、短絡な言葉は慎みたいものですが、つきつめていくと「今、生きている」その事に尽きると思う。 

 人がこの世に生まれてくることは、「受け難き人身を受けたのだ」とお釈迦さまは、教えたと言う。それは先祖から父母へと続く命をいただいたということで、しかもさまざまな命に支えられ生かされているという事実にもとずくものである。先祖や天地自然に畏敬の念をもち、謙虚な姿勢を生き方の基本として、ただひたすらに今生を生きぬくということだろうと思う。

 病院での死は自宅での場合と違い肉親との距離をつくってしまう、遺体に触れることさえない場合もある。家族3世代はつい30年位前まで普通であったが、今は核家族が進んで、なかなか子供が人の死を見つめる事がない。人間は生・老・病・死の体感させる事が如何に大事か、71歳の年を数えて、つくづく感じるのである。

 人の死、それが身近な人である場合は、悲嘆、落胆は大きいだろう。その程度は深く、長く続きます、場合によってはそのショックから立ち直れずに、自分の命をちぢめる人もある。 
 日本人は欧米人と比べると、この悲嘆、落胆からの回復の程度が早いと言われているようだが、死が突然である場合と、病床看護がある程度なされた場合と、老若、男女によっても違いはあるが、死別しても追善供養(死者の冥福をいのり、供物をそなえて回向する)をとおして、死者は永遠に消滅したのではなく、亡き人と一体感をもち続けることができるからだと思う。

今回の法事は義姉の3回忌である。普通の人間であったと思うが、有名人と同じ、一人の人間である。人は皆同じ一生を生き抜き終える。確かに、死んでしまえば皆同じであるが、残された子孫は、そのDNAを継いで生きているのである。もし、先祖がいなければ今はない。

そう考えると、先祖を敬い今を大事に生きなければと思う。そして子孫をしっかり受け継ぐことだろう。

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