道徳教育の欠陥
細く長い首が優雅な白鳥や黒鳥を、どうして力まかせに殴ってしまったのだろう。 連休のさなかに流れたニュースに、なんともやりきれない思いがする。
ことの起こりは1週間ほど前だ。水戸市にある湖で、頭や首などに傷を負った7羽が無残な姿で死んでいるのが見つかった。
「いったいだれが?」。地元の怒りが膨らむなか、市内に住む男子中学生たちが警察の調べに、「棒で殴った」と認めたという。警察は動物愛護法違反などの疑いで話を聴いている。
中学生といえば、まだきちんとした判断力が備わっているとはいえない。おもしろ半分だったかもしれないし、仲間でふざけているうちに、いたずらが過ぎたのかもしれない。
しかし、それにしても、と暗い気持ちにならざるをえない。かれらが生きているものへのいとおしさを肌で感じられなくなっていたのではないか、と思うからだ。
少年たちも幼いころ、生きた動物や昆虫に興味を抱き、飽かずに眺めた時期があったはずだ。生きるものの不思議さ、愛らしさに、目を輝かせもしただろう。そんな思いをいつしか忘れてしまったとすれば、なぜなのか。 まるでゲームをするかのような感覚だったのだろうか。
だが、あと少しの想像力があれば、こうはならなかったと思いたい。ハクチョウにも命があり、懸命に生きていることに思いを至らせる。殴られた時の鳥の痛みに、ほんの一瞬でも想像を及ぼしてみる。そうすれば、棒を振り下ろしたりはしなかったろう。
生きものを大切にできなくなっている。それは少年たちだけの問題ではあるまい。
映画「ALWAYS 三丁目の夕日」には昭和30年代の風景がふんだんに出てくる。そこに欠かせないのが近所のおじさん、おばさんの存在だ。つかず離れずの関係を保ちつつ、よその子でも、悪いことをすればしかり、良いことをすればほめた。
だが、向こう三軒両隣の近所づきあいは希薄になり、隣人の孤独死にも気づかない世の中になってしまった。 そんな時代だからこそだろう。家庭や学校だけにまかせず、地域で子どもたちの面倒を見ようというさまざまな取り組みが必要だ。
私はボランテアで、10年以上、ゴミ拾いを毎朝行っている。タバコの吸殻が多い。何か道路とか交差点で、灰皿でもあるように捨てられている。ある日、サラリーマンが私が掃除をしている前で、火の点いたまま捨ていった。「ちょっと私が掃除をしているじゃないか!困るよ」と言った。そうしたら「電車が来るから忙しいから」と言って行ってしまった。
吸殻一本ぐらいいいじゃないかと無意識に捨てていく大人の行動を子供たちが見ている。ゴミを捨てるのは何のためらいもなく捨ててしまう。「子供は大人の後ろ姿を見て育つ」と言われている。知らないから仕方がないという理由は分かる。
白鳥や黒鳥を、棒で殴って殺しても、そんなに大変な事を意識はなかったものだと思う。昔の近所の「うるせい親父」的な人間がいなくなったのも原因なのかもしれない。
悪さをしている子供を見て、注意をするには、親を教育しなければと思う事がしばしば問題になっている。「モンスターペアレント」何んて言葉は何時からか、道徳教育の欠陥が悔やまれる。(朝日新聞社説参考)
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