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2008年1月

2008年1月31日 (木)

春隣

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叱られて目をつぶる猫春隣    久保田万太郎

春隣=春がもうすぐそこまで来ていることだが北国の人々は、一日でも早く春の来ることを待ち望んでいる事だろう。似ている言葉=春近し。

二月。四日は立春。そして、歳時記の分類からすれば今日から春である。北国ではまだ厳寒の季節がつづくけれど、地方によっては「二月早や熔岩に蠅とぶ麓かな」(秋元不死男)と暖かい日も訪れる。まさに「春隣(はるとなり)」だ。

作者は、叱られてとぼけている猫の様子に「こいつめっ」と苦笑しているが、苦笑の源には春が近いという喜びがある。ぎすぎすした感情が、隣の春に溶け出しているのだ。晩秋の「冬隣」だと、こうは丸くおさまらないだろう。「春隣」とは、いつごろ誰が言いだした言葉なのか。

「春待つ」などとは違って、客観的な物言いになっており、それだけに懐の深い表現だと思う。新しい歳時記では、この「春隣」を主項目から外したものも散見される。当サイトがベースにしている角川版歳時記でも、新版からは外されて「春近し」の副項目に降格された。とんでもない暴挙だ。外す側の論拠としては、現代人の「隣」感覚の希薄さが考えられなくもないが、だからこそ、なおのこと、このゆかしき季語は防衛されなければならないのである。(清水哲男)

車窓より瀬戸の島山春隣   星野立子

齢積む音閑かなり春隣            中原道夫

背を丸め歩く姿や春隣      キリギリス 

だいぶ年を取った兄の歩く後姿を見てようやっと冬を乗り越えて、春隣の言葉どおり暖かくなる日を身体は、待ち望んでいるようである

社会不安障害

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今日の名言

樹木は伐り倒されても直ぐに生えて来るが人間は殺されると再び得ることは容易でない。

『プルターク英雄伝』(三)

動機、発汗、震え「社会不安障害」

自分は子供のころから、「引っ込み思案」と親から言われていて、恥ずかしながら70歳の爺さんになってしまった。もう遅い何とかしようと思ってもしようがない。

益々複雑多岐になった世の中、生まれ持ったおしゃべりの上手な人・下手な人がいる。上手な事に越した事はないが、人格の評価基準にされるのは、如何かと思う。上手な人と出会うと、羨ましく思ったり、どうすればうまくなれるのだろうかと、悩んでいた時期もあった。

まあこれが精神療法・薬物療法で改善されると言う。性格の問題だけではないようだ。従って幼少の頃から、注意深く関心を持つ事が大事なのかなあ・・・そこで昨日(1/30)のZAKZAKの記事に以下の記事があったので記してみた。

人前で何かしたり、注目を浴びたりする。知らない人と会話したり、接したりする。そうした場面が苦手で、緊張して手や声の震え、動悸(どうき)や発汗、顔の紅潮などが起こる人も少なくない。だが、それを苦に人づきあい自体を避けるようになると、社会生活への支障となる。

 こうしたことは従来、単に性格の問題と片づけられてきた。しかし近年、これは「社会不安障害(SAD)」という病気で、精神療法や薬物療法で改善が可能と考えられるようになった。

 『人の目が怖い「社会不安障害」を治す本』(マキノ出版)の著書がある、三木内科クリニックの三木治院長に聞いた。

 「社会不安障害は、人とかかわる場面で不安や苦痛を感じ、そのために社会生活に支障をきたす病気。米国精神医学会の診断基準(DSM-IV)に記載され、注目されるようになった。疫学調査の結果、8-30人に1人と非常に高い確率で起こることがわかり、社会問題となっている引きこもりやニートの増加とも関係していると考えられている」

 病気とされることにかえって抵抗感を覚える向きもあるかもしれないが、治療によって改善できる点に着目すべきだ。

 「抗うつ薬として広く使われているSSRIが、社会不安障害にも有効とわかってきた。また、自律訓練法などの心理療法も改善に役立つ。何より、性格のせいだとあきらめなくていいことが、この問題に悩む人への福音といえる。治療で社会不安障害を克服できた患者は、他人には理解されなかった苦しさから解放される。長い間避けてきた場面から逃げないことで、人生が変わった、という人もいる」

SSRIとは Selective Serotonin Reuptake Inhibitorsの略で、新世代の抗鬱剤の一群を指す。

だから、精神障害になった人でも薬物療法で改善されるという事を認識する事である。

 【Aさん(50)のケース】

 50代男性、Aさんはバリバリの営業職を経て、30代半ばで起業。ところが、そのころから突然、人混みや人づきあいに異様な緊張感を覚えるようになり、レストランや映画館に入れない、冠婚葬祭の席も逃げ出したくなる、といった症状が現れた。だが、人に知られては…と、20年近くもそのことを隠し続けた。3年ほど前に新聞記事を見て、初めて自分の症状が社会不安障害と認識。SSRIの投与を受けたところ、しだいに人前で緊張しなくなり、1年ほどで仕事や生活のほぼすべての場面で不都合を感じないほどに改善した。

 「社会不安障害は一般的に思春期や若いころに起こることが多いが、Aさんのような例もある。いずれにせよ、問題となるのは、その人が感じている日常生活への支障の大きさ。たとえ、動悸や発汗などの身体症状が軽度でも、本人にとって非常に気になり、生活に支障をきたしているなら、社会不安障害と診断される可能性がある。精神科や心療内科などの医療機関に相談してみてほしい」 ZAKZAK 2008/01/30

2008年1月30日 (水)

分らぬつなぎ法案

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怒号の飛び交い、握りこぶしが上がりそうな国会、なりふり構わず!!に ここが、天下分け目の決戦の時と言わんばかりの論戦そっちのけで、国会の先生達は必死である。もう少し議論の場を作れないのか、ちょっと国民に分る国会運営をして欲しいがなあ・・・

『ガソリンなどの暫定税率を2ヶ月間延長する法案』は与党も、民主党も国民のためと言っているが、よく解からない。

確かに、重油の値上がり、で関連する家庭用品は値上げラッシュである。ガソリン・灯油も高い。25円も安くなればどれだけ庶民は助かるが、地方の道路は、欲しくても出来ない。しかし、道路は無くては生活が出来ない。

この問題の、もうひとつおかしいとろは、暫定税率で10年もだ!、どう見ても分らない。それを何回も、繰り返したのだから、なお更だ。

自民、公明の両与党は、3月末で期限切れとなるガソリンなどの暫定税率を2か月間延長する議員立法の“つなぎ法案”を国会に提出した。1月中の衆院通過を目指す。

各誌社説の見出しでもバラバラであり、国民はもっと判りにくい。(以下の通りである)

毎日新聞は、「つなぎ」の役目なら無用だ。

産経新聞は、ブリッジ法案 対立激化だけでよいのか。

読売新聞は、暫定税率延長 混乱回避にやむを得ない措置だ。

朝日新聞は、ガソリン税率―とんだ奇策が飛び出す。

日経新聞は、「暫定税率」で国民生活を混乱させるな。

東京新聞は、つなぎ法案 奇策よりも充実審議を。

国民の噂はでは、道路族議員・陳情次第・おらが議員・有力議員綱引き・政治力の世界など自分の選挙区優先のみ我田引水・だけで奔走しているようでならない。

了見の狭い、地域限定の議員では世界の動きを見る事は出来ない。こんな所に二流の評価されてしまう要因だ。

国難の時期に、世界の流れに乗り損ねてしまう恐れさえ覚える。

涅槃寂静(その3)

今日名言

女に忘れられたら、男だって意地になります。
そういう女を忘れるために、できるだけの手は打ってみる。
それでもうまく行かなければ、せめて忘れたふりをする。

モリエール『タルチュフ』

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これが最後となる。

春秋時代の話ですが、楚の荘王は、即位して三年になるのに、政令一つ発すること'もせず、「王を諌める者は、死刑に処す」と布告して遊び呆けていたそうです。国の前途を憂えた伍挙という臣下が、恐る恐る申し出たそうです。「丘の上に鳥がおります。三年のあいだ、飛びもせねば鳴きもしません。これはいかなる鳥でありましょうや」と、やんわりと諌めの言葉を発したのです。荘王は、答えました。「三年飛ばずとも、ひとたび飛べば、天のきわみに至るであろう。三年鳴かずとも、ひとたび鳴けば世を驚かすであろう。おまえの言いたいことはわかっておる。」といって、さがらせました。しかし荘王の遊びは輪をかけたようにひどくなり、数カ月後、遂に決死の覚悟で蘇従という二人目の臣下が諌めの言葉を申し出たのです。「諌める者は、死刑だと布告したはずだ、知っているのか」という王の問いに蘇従は答えました。「わが君の迷いを覚ますことができますなら、この身を滅ぼそうとも本望です」と。それ以来荘王はピタリと遊びを止め、素晴らしい政治を展開し、孔子をして「楚の荘王とはなんと立派な人物だろう」と言わしめるだけの英邁な人物となったのです。

 荘王は三年半のあいだ、ただ単に遊んでいたのではありません。真に国の前途を思う臣下と、ただ王に諂って保身を考える臣下とを見極めて、不惜身命の思いで王に従う臣下の名乗り出ることを待っていたのです。戦略的に生きていたからこそ、国政に乱れがあっても、一喜一憂することなく、心乱さず、泰然自若の行動が取れたのではないでしようか荘王がただちに手がけたのは人事でした。これまで王と一緒になって遊んでいた取り巻き数百人を辞めさせ、新人を登用し、伍挙と蘇従に国政を委ねたのです。国民は大喜びし、荘王は、ひとたび鳴けば世を驚かすだろう、という自分の言葉を実践したのでした。

 宗教的組織あっても、悟りへの戦略的取組を持たないと修行者の霊的生命を殺してしまうことがあります。阿羅漢になりたいとして、焦り、しっかりとした修行も積まずに、霊的能カを追い求めて失敗した団体がありました。ある教団では、かつて、霊能力信仰が強まり、心の修行を忘れて、過去世の言葉を語る異言能力を追い求めていました。霊現象に興味を持ち、その能カを与えられた会員達は、その殆どが、魔界の者の餌食となって、倒されていったのです。

 そうならないように、修行者の組織のなかでも、自分の悟りを目指して、焦らずに、長期視点から、戦略的に修行の計画を練り上げなければいけないと思います。修行者が最後に狙われるのが、名誉心、自己顕示欲と言われています。魔界の者は、修行者の心にある「己心の魔」を見抜いています。大如来は悟りを開きたいという思いのなかにも、くなりたいという気持ちが、やはりどこかに潜んでいるところがあるのです。ここをくすぐられた場合に、どうしても、こじ開けられて入ってこられることがあるのです。」と教えて下さっています。名誉心、自己顕示欲、そのほかにも、嫉妬心、冷淡さなど、完全にはぬぐい去れていない心の汚れがあるはずです。それをよく見抜いて、計画的に反省することです。今与えられた環境、地位、待遇、健康など、全ての条件を自分の悟りへの戦略の中に組み入れてしまうことです。今はこの環境、条件のなかで、この部分の心の汚れを修正しているのだ、これが済めば、つぎはここを磨いていくのだ、という長期戦略があれば、目の前の出来事に一喜一憂することなく、平和な心を楽しむことができるはずです。

 かつて最澄が、空海との確執から悟りの道を踏み外しました。根来の密教僧も間違えました。ルシフェルが地上で失敗したのも、地位欲、名誉欲、でありました。無我、空の教えは、悟りへの道であると同時に魔界のものから自分を守るための大切な教えであるということなのです。決して揺らぐことのない、平安を求めて、戦略を立てていきたいものです。

今、日本の指導者はこの「仏教の真髄」を学んで貰いたいと強く感じる。

2008年1月29日 (火)

涅槃寂静(その2)

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今日の名言

他人の歯や眼を傷つけながら、報復に反対し、寛容を主張する、そういう人間には絶対に近づくな。

『魯迅評論集』

21世紀と言わず、この仏教の真髄の考えは、未来永劫通用することで、生きている人間の心の支えとなっていくことだろう。

地上生活を送るなかで、人はそれぞれの役割を、家庭や会社、地域のなかで持っていると思いますが、何のために役割を持っているのかといえば、仏の子として、仏の心に少しでも近づいていくために、実地体験、実習をさせていただいているのだと思うのです。子育ても、会社生活もすべて、そうなのです。地上生活の全ては、仏の心に近づくための修行であると定義するのです。人生をそのように定義したなら、今日一日の自分の思いと行いは、仏が見ておられて、お喜びになるだろうか、悲しまれるだろうか、と推定してみることです。きっと今まで自分の心配してきたことがらは、仏の関心事では無いはずです。なんだ、取り越し苦労だったのか、仏の考えに無いことなら、心配などしなくてよかったんだ、と思えるでしょう。そして、平和な心境が、涅槃寂静への第一歩が訪れることでしよう解脱の奥行きは広いものがあります。信仰心による解脱は、疑いの克服、猜疑からの自由、仏を信ずるという平安です。禅定を続けるなかに得られる自由は、争い、憎しみ、三次元的な欲望、物質的波動からの自由を得た平安です。三学修行から得られる自由、智慧を得ることによってもたらされる自由が、無明からの自由です。これが阿羅漢になったといわれる段階の解脱、涅槃寂静です。自分自身に科した戒を守り、禅定のなかで八正道を修し、そして、教学を怠らず学び続ける精進の後に、真の智慧を得て果たした解脱、その心境を、大如来は次のように、表現されています。

「涅槃の境地に達した方は、ちょうど澄みきった湖の底の小石や貝殻を、透き通った水を通して見るようなかたちで、みずからのこの世の苦しみというものが、見えるようになってくるのです。これが「涅槃寂静」の境地です」と。これは、実在界から地上の人生を眺め、苦しみの所在を見抜く境地でもあるのです。この境地は、心の働きの中で知性とか理性の分野の解脱からくる智慧に基づく平安です。さらにその奥に、感情や意思をも含めた心全体が自由になって、平和、安泰を感じる境地があります。一切衆生を救済したいという菩薩の心境、愛を五月の風のように屈託なく、爽やかにお届けしようという心であります。その奥に仏陀の悟りである、最奥の解脱があるのですが、一般人には少々無理であると言われています。

 国難をもたらした、オーム教という殺人集団の頭目とその幹部達が、最終解脱という言葉を弄んでいましたが、何処に心の平安があるというのでしょうか。宗教にはまったく該当しない、単なる収奪を目的にした強盗集団にしか過ぎないのです。それを見抜けなかった世論の、宗教に関する無知、邪見は目を覆うばかりです。最終解脱をしたと自称する者が殺人を犯したのに、その邪教性を論駁できないマスコミ人、また受難者キリストと同列に扱おうとする似非言論人が罷り通る言論界には、正しい宗教を学習するという、謙虚な反省の心が求められる筈であります。

論駁=相手の論や説の誤りを論じて攻撃すること。

 解脱には各段階がありますが、阿羅漢に達しても、菩薩に達しても、その平安の心境を維持することは地上生活の中では難しいものがあります。一旦は解脱したとしても、うぬぼれてしまえば、それまでであり、転落が待っているのです。悟りはその維持が難しいのです。

 平和な心を維持し続ける要諦は、長期的展望を持つことです戦略的に生きると言ってもよいでしょう。正しい信仰があっても、短期的な視点で見ていると、いつのまにか、不安感に苛まれることになってしまうのです。人生を長期に展望すること、戦略を持って生きることが、日々の些事に心を曇らせ、魔界の者に倒されてしまわない秘訣であると思います。

2008年1月28日 (月)

涅槃寂静(その1)

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今日の名言

手軽なことだ、災難を身に受けない者が、ひどい目にあってる者らに、あれこれと忠告するのは。

アイスキュロス『縛られたプロメーテウス

三法印の最後の涅槃寂である。

諸行は無常、常に変化し、変転していくものである。諸法は無我、全ては仏の念いの中に生かされている仏の子である、故に、この地上の一切のものに執着するなかれ、この地上生活の意味を良く見抜き、仏神に感謝して生きていこう、というところまで述べてきました。三法印の最後は涅槃寂静です。無我なる生き方をするとき、すなわち解脱し、自由自在の境地に達した時の平和な心境が涅槃寂静であります。仏の子としての、霊的自覚の下に生きている境地のことであります。

 涅槃とは、ニッバーナのこと、もともとの意味は吹き消すことであります。何を吹き消すのかといえば、肉体ありとする錯覚から生じる煩悩の炎です。無明に基づく生き方の中で作る愚かしい縁起の連鎖と言ってもよいでしょう。智慧なきが故に、夏の虫が、ガス灯目掛けて飛び込んでいき、身を焼き尽くしてしまうような、愚かな行為のことでもあるのです。無明に基づく愚かしい縁起の連鎖を吹き消して、仏法真理に基づいた良き連鎖に変えるとき、身も心もサッパリとした平和な心境になれるのです。

 そんな綺麗ごとを言ったって、誰も実践できやしませんよ、実生活では、住まいのことや、子供のこと、給料のこと、出世のこと、などなど常に心配ごとの連続で、平和な心なんて持ち得ませんよ、とおっしゃる声が聞こえるような気がいたします。勿論解脱にも、段階がありますから、仏と同じ解脱を得ることは、今世一代では困難でしょう。しかし、先ず第一段階として正しい信仰、仏神への信仰を持つことです。

「ニッバーナ」というのは、苦しみ、老い、死、病気から自由になった状態であり、あらゆる問題、心配、苦難のない至高の幸福な状態。

2008年1月27日 (日)

諸法無我(その2)

今日の名言

ああ! 京の織り子は、つづれ破れた木綿を着て、誰が着るのか判りもしない綾絹(あやぎぬ)を、せっせと織っているよ。

細井和喜蔵『女工哀史』

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現代の政治家や官僚などの指導者に必要な諸法無我を心して欲しい。

かつてこの地球上には、いくつかの文明が生まれては消えてゆきました。その文明の中で、地上生活を送った魂達は、その時点では、社会の規範を金科玉条とし、名誉を求め、民衆の称賛を求めて、これこそが人生の目的であると感じて生きていたことでしょう。しかしながら、何千年も経ったいま、その規範にどれだけの価値があるのか、といったら疑問でしょう。それは恒久的国家理想、永遠の社会規範とはいえないでしょう。その時代を生きるうえでの、人生の海図ではあったでしょうが、重々無尽に重なった縁起の連鎖から出来上がったその時代の海図にしかすぎなかったのです。未来永劫に続く海図というのはこの世にはないのです。だから、諸法無我であるのです。

 宗教も同じです。その時点で地上に生きている人間の理解し得ること、理解可能な範囲での仏神の理想しか、地上には広がらない、降ろせないのです。しかし、その中で得た経験、その時代の海図を頼りに航海を終えた中から得られた心の経験が、仏に近づいていくための、魂の栄養分になっていくのです。それを可能ならしめてくださっている仏神の慈悲、地球という輝ける大地、演習場を提供してくださっている仏神への感謝を忘れてはいけないのです。仏神は、仏子達の織りなす地上生活の進化、進展に応じて、地上の宗教をも計画してくださるのです。

今地上には、釈尊の本体である大如来が下生され、大きな文明の創造を開始されました。いいかえれば、それだけ大変な時代、地上が危機的状況を迎えている時代でもあるのです。地上にすむ一人一人が社会への責任感を持ち、少しでも社会を良くする運動にたちあがらなければなりません。ささいなことかもしれないが、為そうと思えば、行動ができたのに、優柔不断に流れ、何の行動も起こさなかったとしたならば、夢が覚めた時、即ちあの世に帰ったときに、「為さなかったという罪」、不作為の罪に苛まれることになるのです。勇気を出して行動しなければなりません。諸法は仏神の掌にあるのであって、我なるものは本来ないのです。自分の人生、自分の生活、自分の財産等と見えているものは、夢幻なのです。とくにこの混迷の時代・変革の時代をリードする指導者の役割、政治家や、経済人、言論人に求められていることは、諸法無我の奥にある仏神の理想、仏の考えに思いを馳せて、仏の説かれる法に耳を傾け、仏の僧団を大切にすることなのです。そのためにこそ、人生を私物化しないで生きることが大切なのであります。地上の国民を、少しでも仏神に近づけるような、仏に回帰するための経験を提供するために働くことです。ゆえに、指導者は、無我、無私でなければなりません。

 昔、楚の王様がある隠者に、国を治める方法を聞いたところ、身を治める方法を教えたそうです。楚王が重ねて、国を治める方法を間い正すと、隠者が答えたそうです。「今までに君主の身が治まっているのに、国が乱れたという例を聞いたことがありません」と。古来日本の指導者もこれを学んでいます。天子、天皇の地位にある指導者は、国の乱れは己の徳に間題があるのだと自戒して、国政を預かることを、常識としていたのです。天帝から、地上の統治を任されているのが、天子であり、国内に天変地異が起こり、人心が乱れるのは、天子の責任であると考えたのです。

唐の時代には、「十思」「九徳」という指導者の基本的心構えがありました。「十思」とは、①足ることを知って、自戒をし、②民の安楽を願い、③謙虚に自制をし、④満ち溢れる海は全ての川より低いことを思い、腰を低くし、⑤限度を弁え、⑥始めを慎重にして、終わりを慎み、⑦部下の言葉をよく聞き、⑧悪をしりぞけることを思い、⑨報償を誤ることのないようにし、⑩重すぎる罰にならないように心掛ける、ということです。現代の国家指導者に、このような、指導者としての心掛け、国を預かる無我なる指導者の姿勢があれば、邪教とマスコミの中に悪魔がはびこるようなことのない、立派な国家になるはずです。

 無我なればこそ、国家の危機管理にも迷うことなく、判断が下せるはずです。明治維新をやり遂げた、勝海舟は、朝鮮との間の国際的大事件、閲妃事件に困惑していた、小村寿太郎に、「自分も江戸開城などの大きな交渉で、苦労をしてきたが、結局いえるのは、死生を意にとめたら仕事はできないということだ。身命をなげうち、真心をこめてやるという腹さえきまっていれば、あとはその場合その場合で考えたらいい」とアドバイスをしたそうです。未来永劫に渡る恒久的判断基準、物差しは、この地上には見出そうにも、見出せないのです。であるならば、仏神の御心、実在界の視点を、静かな心の中に降ろしていただくような、気づかせていただくような、謙虚な気持ちで、指導者は生きていくことが求められるのです。それが、哲人政治家の姿でしょう。この日本に一刻も早く、哲人政治家が誕生することが待たれます。

2008年1月26日 (土)

寒中に想う

Shibutoge61 人を良くすると書いて「食」だそうです。なるほど・なるほど。

すつと水仙その上なににもなし  橋場千舟     

水仙の立ち姿。「すつと水仙」。それはギリシヤ神話の水仙を持ち出すまでもなく端正だ。頭上に空以外なにも遮るものがない(むしろ「空」さえもすでに存在しない)悠久の空間におかれた水仙にしばらく自分を同化させたくなる。しかし、どうして今まで誰も「すつと水仙」と俳句を詠み出さなかったのか不思議なぐらい自然。「水仙のすっと・・・」なら思い付くのだが。「すつと水仙その上に」とサ行音が頭韻的に配置され、スマートな句の運び。だが、下五の「なにもなし」のもう一度ハッとさせられる。水仙の水仙らしい姿をリクリエイトしている句だ。(塩見恵介氏)
 

屋根裏に寒の朝日の黄金なす    石田波郷

アッと言う間に1月は終ろうとしている。昨日病院に診察に行った。特に採血の結果で異常なし、病院の待合室で、元会社の先輩が入院していた。そして別の病院に兄も胆炎で入院している。諸行無常の感である。

季節は巡り巡って来る。豆まきの立春・バレンタインデー・そして桜の開花・孫の入学である。世界同時株安・年金問題・公務員の汚職・幼児の虐待などの嫌な世の中である。そんなに嘆いていても仕方がない。今は寒いが、きっと暖かくなる。ポジテブ思考で行こう。先だって読売新聞が日本で生まれて誇りに思うかとの質問で93㌫の人が「誇りに思う」と答えている。何だか勇気が沸いたようだ。

老後の不安が拭い去れない私だけど・・・・

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 諸法無我 (その1)

今日の名言

欲するものを得ないでは生きられず、そのためには、時も快楽も生命も犠牲にする、それが恋なら私は正真正銘恋しているのです。

ラクロ『危険な関係』(上)

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「諸行無常」を勉強して、「諸法無我」に・・・

はっきりいって難しい、熟読し理解したい。

第二回 諸法無我 (その1)

無我なる生き方をするために、諸行無常の物差しが必要なことを述べました。もう一つの物差しが諸法無我という教えです。どちらも地上人生で、肉体煩悩に基づく執着を捨て去りなさいというものですが、諾法無我とはいかなる教えなのかを、学んでおく必要があります。

 諸行無常とは、一切の存在は常に変化変転する、よって、地上の何ものにも執着することなかれ、という教え、即ち時間の流れの中で、この世の存在を見た時に、川の流れのように常に流れ流れて、変化するという見方でありました。一方、諸法無我は地上の存在を空間的にながめてみたときの真理であるのです。

 諸法の法とは、存在と言う意味です。諸々の存在、この地上の一切の存在は、無我であり、我なるものはない。すなわち、重々無尽に重なった縁起の連鎖で成り立っているものであり、永遠に変化しない恒久の存在、その存在が独自にもっている固有の性質、自性なるものはないということです。存在は無自性であるということです。

 これは異なことを、人にも、物にも性質があり、国には憲法が、企業には、社是が、どんな組織でも個性があるではないか、全ての存在には自性があるではないかと反論するかたもありましょう。しかし、自性ありと見えるのは、無明に基づく地上の錯覚、肉体煩悩という色付きのフィルターを通して、地上の存在を認識しようとするところから発生するのです。フィルターを清浄無垢にしてみれば、そこにあるのは、仏神の根源的計画、宇宙創造計画があるだけなのです。かつて、遥かなる昔に、仏神から別れ、再び仏神へ戻る旅にでた仏の子供、仏子たちが、仏との分離感をもったままで、認識しようとしている姿が、我在り、自性ありという心の曇りになるのです。本来無なる自我感を、サナギが殻を脱ぐように、いつの日にか、脱皮し、解け去らせ、洗い清めていかなければならないのです。

 ゆえに、我なるものがあると見えるのは、解脱以前の認識であるのです。解脱を果たした魂に認識出来るのは、無我なる存在、仏神と一体となった本来の自己であり、それこそが追求すべき自己なのです。無我なる自己、仏神と一体である自己を追求するための貴重なる体験フィールド、演習場として、三次元の地上という魂修行の場を仏神は与えて下さっているのです。織田信長がどこまで仏法真理の悟りを得ていたのかは分かりません。しかし、彼はあの桶狭間の戦いで、今川勢の大群を前に、16才で一の谷に散った平家の若武者に思いを馳せ、「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。一たび生を得て滅せぬもののあるべきか」と、扇を片手に、幸若舞の「敦盛」を三たび舞ったのです。そして、矢継ぎ早に下知を飛ばし、立ったまま湯漬をかきこむと、単騎清洲城を打って出たそうです。城を出るとき間に合ったのは、五騎だ気だったと云うことですが、その行為の中に、地上人生の放擲をも覚悟して、天下統一の夢、強敵との決戦に懸けようとした、若干26歳、青年信長の心意気を見る思いがします。

 毀誉褒貶の多い、その後の人生は覇道に生きた人生だったかもしれません、しかし、悟りのレベルは別にしても、何がしかの諸法無我の理解を持っていたがゆえに取れた、信長の行動であったのではないでしょうか。信長に学問を教えたのは、臨済宗の禅僧、沢彦(たくげん)でした。その影響でしょう、彼の死生観には、魂の不滅という考えがあるのは確かです。その死生観があったがゆえにこそ、牢固とした旧弊を捨てて、国家的大イノベーションを断行し、日本の新時代を開くことができたのではないでしょうか。

 ましてや、仏道を志すものであるならば、仏国土ユートピアの建設のために、仏の理想実現のために、それのみに生きる人生、を選択しなければなりません。本来の世界から見たならば、信長の言う通り、この世の人生は夢幻の世界なのです。現実と思っている地上こそが夢、夢(あの世)こそが現実、これこそが恐るべき逆説、人生最大の逆説であるのです。諸法無我とは夢から目覚めよという仏の檄でもあるのです。

2008年1月25日 (金)

日本国民に誇り

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今日の名言

むかし景気のよかったものは、復古を主張し、いま景気のよいものは、現状維持を主張し、まだ景気のよくないものは、革新を主張する。

『魯迅評論集』
「日本国民に誇り」93%で過去最高…読売調査(読売新聞)

このところ暗いニュースばかりで心がいじけてしまうが、まだ見捨てたものでない。読売新聞の調査は、「ホット」した。 

日本国民であることを誇りに思う人は93%に達し、「国の役に立ちたい」と考える人も73%に上ることが、読売新聞社の年間連続調査「日本人」で明らかになった。

 いずれも、過去の本社調査と比べて最も高い数値。戦後60年余りを経た今の日本人の「国家意識」の高まりがうかがえる。

今回の調査は、連続調査の1回目として「国家観」に絞って12~13日に面接方式で実施したもので、今年で開始30年となる本社毎月世論調査の過去の結果とも比較し、変化を探った。

今回、日本国民であることを「非常に誇りに思う」と答えた人は55%で、「少しは誇りに思う」は38%だった。「誇りには思わない」は6%に過ぎなかった。本社調査では同じ質問を1980年、86年、95年にも行っており、「非常に」「少しは」の合計は91%(86年)、「非常に」は54%(80年)が最高値だったが、今回はいずれもこれを上回った。

「日本の国や国民について、誇りに思うこと」の具体的内容を複数回答で選んでもらったところ、「歴史、伝統、文化」を挙げた人が72%で最も多く、「国土や自然」43%、「社会の安定・治安」「国民性」(各28%)などがこれに続いた。86年の同様調査と比べると、「歴史、伝統、文化」が19ポイント増えた一方、「教育・科学技術水準」が22ポイント減の19%、「経済的繁栄」が17ポイント減の19%に落ち込んだのが目立った。

「国民の一人として、ぜひとも国の役に立ちたい」との考え方については、「そう思う」が73%だったのに対し、「そうは思わない」は20%だった。2005年の同様調査ではそれぞれ68%、28%で、国への貢献を前向きにとらえる意識が強まったことがわかる。

政府のあり方について、「小さな政府」と「大きな政府」のどちらを望むかを尋ねたところ、「小さな政府」を選んだのは38%で、「大きな政府」の33%を上回った。ただ、00年の同様調査と比べると、「小さな政府」を望む人は9ポイント減り、「大きな政府」を求める人は4ポイント増えた。この間に小泉内閣が進めた市場原理主義的な構造改革で、格差問題が深刻化したことなどが影響したようだ。

素晴らしいことだ。日本の国民として責任を持てる人間が一人でも多くなって貰いたいと思った。

2008年1月24日 (木)

雪の朝のこと

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今日の名言

松の事は松に習へ、竹の事は竹に習へ。

『去来抄・三冊子・旅寝論』「三冊子」

涙雪とも言うのか昨日(23日)の朝、6時半に雨戸を開けて見たら,まだ薄暗い街灯の明かりで見ると、雪がふわふわ、綿虫のように舞い降りるよな感じだった。将に静かに涙を流す雪?寒中である外は寒そうであるが、これなら多分これ位で終るのだろうと思った。

何時もの通り朝食の支度をしながら考えた。社会の悪を雪で覆いつくしてしまったら大変だ。すなわち、公務員の汚職・政治化の不正から始まって一般家庭の問題で、殺人・虐待などの問題や日本中の環境汚染なども雪で覆いつくしてしまったら、それこそ大変だなあ・・・

朝食を食べ、片付け終って外に出たら雪は綿をちぎったような大きな塊で黒雲から舞下りるよう降ってきた。これはいけない、雪で全てが覆い尽くされたら後の始末が大変と思い、早速、何時のように河川敷から国道の歩道をゴミ拾いに出かけた。降る雪は、頭に肩に積もり始めた。登校する生徒・幼稚園に行く親子みんな、足早に私のゴミ拾いをしている姿に異様に映ったのか目をそむける感じさえ覚えた。

ゴミや空き缶・ペットッボルは、雪で被い尽くし真っ白になって一見きれいであるが、溶ければそのまま残るが凍って拾えなくなってしまう。

「おはよう!いってらしゃい」とこちらから声をかけたら、幼稚園の可愛い女の子が「おはようございます」と挨拶をしてくれた。「ほっと」してしまった。こんな事に感動するなって、オーバーかも知れないが心に沁みた。これがボランテアの極意?なのかなあ・・・

1.もらう喜び・受け取る幸福

 2.できる喜び・達成する幸福

 3.あげる喜び・与える幸福

昨日の朝は、自分の行動が人にはどう移ろうと構わない、自分で、幸福と感じればそれでいいと思った。一日一善を心がけているが、少しでも穏やかな平和の暮らしを出来る社会になるように祈りながら、作業を終えた。

雪は午前中降って我が家の庭木にも3センチぐらい積もって、ちょっと重そうに感じた。

2008年1月23日 (水)

仏教の真髄を学ぶ(3)

これで良いんだ・普通だ・何時も通りだ・変わった事はないなど、日常自覚しないで過ぎてしまう。

社会情勢はもとより、人間も、全ての生きている生物・万物は、一秒たりとも元の姿はないのである。過去は戻らない、いわゆる諸行無常である。

認識有る・無しで人生を楽しく過ごせるのと、苦しんで過ごす違いがでる。だから、今現在を大事に、悔いのない生き方をしなければならないと思う。

webに仏教の真髄を学ぶより勉強!シリーズ(3)

諸行無常とは、平家物語に書かれた栄枯盛衰、盛者必衰のもの悲しい響きを訴える為にある教えではありません。仏教は幸福論であり、諸行無常も人々を幸福に導くため、「無我」を知って魂の喜びを味わうための教えであることを忘れてはなりません。環境は心に応じて変わっていくのです。思いと行いで良き種を蒔けば、良き結果、良き環境が出現し、悪しき種を蒔けば、悪しき結果、悪しき環境が出現するのです。

 勿論もっと深く諸行無常を探究していくと、そこに仏の慈愛が見えてくるのです。魂修行の乗り船としての、この肉体も、地球という魂修行の環境も、そして、魂が規範とするべき道標、考える方向性、即ち人間の理想像、如来像も全て仏の思い一つで存在していることが見えてくるのです。

 たとえば、肉体や、地球を構成している物質の成り立ちを調べていく程に、その不思議さに驚嘆するのではないでしょうか。手も足も原子や分子からできていますが、もっと細かく、素粒子のレベルで見てみると、一瞬たりとも、同じ粒子ではないのです。常に現れては消え、誕生しては亡くなっていく粒子群、常に入れ代わっている粒子からこの肉体はできあがっているというのです。これを見ても諸行無常が判るのですが、そうならば、青空に浮かぶあの雲が、もとの羊や鳥に似た姿を変えていくように、いつの間にか、手も足も姿を変えてしまっても不思議ではないはずです。でも、粒子が入れ替わっても手は手ですし、足は足のままです。けっして手が足に変化してしまうことはないのです。なんという不思議なことが、なんという素晴らしい奇蹟が起こっているのでしょうか、誰が、どのようにして、何を、素粒子に命じているのでしょうか。その素粒子は誰が、どうやって作るのでしょうか、そんな事が人間に出来るのでしょうか。考えがそこまで及んでくるとき、そこには仏神の力が存在することを感じざるを得なくなってくるのではないでしょうか。

 地上の物質が存在するのは、霊的世界に必ずその種があって、根がはえて、そして地上に芽をだし、葉を出してくるのです。その種に相当するもの、完壁な種の設計図を仏は霊的世界に作ってくださっているのです。その設計図、理念があるから、雲が姿を変えるようなことにはならないのです。もしもその理念が無かったとしたらどうなるでしょう。人間杜会は機能するでしょうか、昨日お会いして、約束したその相手が、今日はまったく違った乗り船に乗っていたら、しかも、グロテスクなお化けのように変わっていたら、魂の修行なんてできません。心のなかで、「私ですよ、昨日は人間の姿でしたが、今日はロバの変形した姿になっちゃったんですよ、でも私は私なんですよ」と言われても頭の中が煙に巻かれるだけでしょう。今日も昨日も家族を家族として、友人を友人として認識できることに、どれだけの感謝を払ったでしょうか。私たちは何と恵まれた世界に住み、恵まれた法則の下に人生を享受しているのでしょうか、素晴らしい魂の磨きをさせて頂いているのです。

 このような仏への感謝に繋がる世界が、諸行無常の探究の先にあるのです。それは当然のことながら、無我を知った魂のたどり着く世界でもあるのです。そして、人間は何を目標にして、己れを変えていけば良いのか、どのように考えて行けば良いのか、どんな思いと行いの訓練をしていけば人間完成の港にたどり着けるのか、こうしたことを、仏が教えてくださっているのです。それが無ければ、どんな航海をして、何処の港を目指したらよいのかも判りません。

 仏の教えを正しく解釈し、手垢のついた薄汚れたものにせず、純粋に生き抜いて、如来となって魂の目的港に入るために必要なものが無我なる生き方であるのです。

仏教の真髄を学ぶ(2)

これで良いんだ・普通だ・何時も通りだ・変わった事はないなど、日常自覚しないで過ぎてしまう。

社会情勢はもとより、人間も、全ての生きている生物・万物は、一秒たりとも元の姿はないのである。過去は戻らない、いわゆる諸行無常である。

認識有る・無しで人生を楽しく過ごせるのと、苦しんで過ごす違いがでる。だから、今現在を大事に、悔いのない生き方をしなければならないと思う。

webに仏教の真髄を学ぶより勉強!シリーズ(2)

『アルジェリアの猟師はね、猿を捕まえるのに、椰子の実にサルの手が入るだけの穴をあけて、エサを入れ、その実を木に括りつけておくんですよ。猿は、エサがほしいから手を入れてエサを握るんですが、握ると拳が引っ掛かって手が抜けなくなるんです。エサを放せば助かるんですが、その知恵がないから、握った拳を放せなくて翌朝猟師に捕まってしまうんですよ。貴女は怒るかもしれないが、冷静に見たら、貴女の姿は、お金にルーズな主人、冷たく不幸な家庭、という映像をしっかりと握っているアルジェリアの猿に似ているかもしれませんよ。』というアドバイスをいたしました。最初は納得出来ないという風情でしたが、すこしずつ正しく見る姿勢を取戻されて、自分の愚かな姿が本当に見えてきたときに、どうしたら、握り拳を放せるでしょうか、と尋ねられました。

 『結婚したときはどうでしたか、優しかったご主人なんでしょう、好きだったんでしょう、子供が無事に生まれたときは嬉しかったでしょう』という問い掛けに、拳がゆるんできたのです。最後は、もう一度やり直します、主人はきっと私が裁判官のように毎日裁いているために、苦しんでいたんだと思います。本当は優しい人なんです。家庭を変えられるような気がします。といって帰っていかれました。正見の反省という仏法真理によって人も環境も変わっていきます。この婦人のように、正しい見方ができるようになると、環境が変わって見えるような、環境の意味を解釈する知恵が生まれるのです。そして次に、環境そのものが変わってしまうのです。この家庭もきっとご主人の姿、家庭の雰囲気が明るいものに、楽しい楽しい家庭に変わってしまうものと思います。

おひとりさまの老後

今日の名言

母国に帰る敵軍はひき止めてはならず、包囲した敵軍には必らず逃げ口をあけておき、進退きわまった敵をあまり追いつめてはならない。

『孫子』

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老後の問題が深刻です。年金・医療・介護と不安が尽きません。一体どうすればいいのか、ここに東京大学の上野千鶴子教授著(出版社=法研・出版日=2007-7月・定価1470円)の要旨をNHK・視点論点より記し、考えてみたい。

東京大学教授・上野千鶴子著

『おひとりさまの老後』、という本を出版しました。
結婚していようがいまいが、誰でも最後は1人、という考え方が共感を得たようです。
シングルで通した人も、死別や離別でシングルアゲインになった人も、女性も男性も、長生きすれば最後は1人に変わりありません。

2000年のデータを見ますと、80歳を超えて長生きする確率は、男性の2人に1人、女性の4人に3人です。
その80歳以上の男性の10人に3人、女性の10人に8人は配偶者がいません。
夫に先立たれるのは女性、と思ってる方もいらっしゃるようですが、このところ、妻に先立たれる男性も増えています。
後続する世代には、高齢シングル予備軍がいます。「負け犬世代」と呼ばれる女性のシングルが増えていることは、ご存じでしょうが、それ以上に、男性シングルが増えています。
40代前半の男性の4人に1人は配偶者がいません。
この中年シングルは、このまま高齢シングルに、流れ込んでいくだろうと思われます。
老いてシングル、は女性だけとは限らなくなりました。
配偶者に先立たれたあと、子世帯との同居を選ばずに、1人暮らしをする人たちも増えています。
日本の高齢者同居率は下がる一方で、5割を割りました。
1人暮らしの高齢者は、300万人を超しました。
この数はこれからも増えるでしょう。
ここしばらくの間に、介護の常識が大きく変わりました。夫婦がそろっている間は夫婦2人で暮らし、どちらかが倒れたら、残ったほうがぎりぎりまで介護をするという、夫婦介護が、当たり前になりました。
夫婦には年齢差がありますが、介護が順番に来るとはかぎりません。
妻が先に要介護になる場合も多く、そのために、家族介護者のうちの男性の比率が増えています。
だからといっていって、子どもと同居するって、本当に幸せなんでしょうか。
今日の同居はほとんどが、配偶者を失ってからの中途同居、それも親の呼び寄せ同居が大半です。
そうなれば、子どもが親に、親の家に入るんではなくて、親が住み慣れた土地を離れて、子どもの家に入ることになります。
子どもの家の家風に、従わなくてはならないのは、親のほうです。
実際、中途同居の親の幸福感は、高くないことがわかっています。
その上、要介護状態になったら、再び施設への入居など、同居から離れて、別居が待っていることもあります。
だから私は「お母さん、お父さん、1人で寂しいでしょうし、火事でも出されたらたいへんだから、うちに来ない?」という子どもからの誘いを、悪魔のささやき、と呼んでいます。
この悪魔のささやきに対して、「おまえの気持ちは嬉しいが、私は行かないよ。
住み慣れた土地の住み慣れた家で、1人で老いていくよ」と、きっぱり断るための条件はなんでしょうか。
そのためには、1人暮らしの高齢者に対するこれまでの見方を変える必要があります。
自分で選んだ1人暮らしならお寂しいでしょう、は余計なお世話です。
1人暮らしを選んだ高齢者には、暮らしの達人と言うべき人が多いですし、1人で暮らすことは決して孤立と同じではありません。
それだけでなく、1人暮らしの高齢者の在宅生活を支える社会的な仕組みが必要になります。
私は、先進的な介護で有名な、さまざまな介護施設を訪ね歩いてわかったことがありました。
入居者の方に「こちらの住み心地はいかがですか?」と、お尋ねするんですが、あるとき、そう聞くのをふっとやめました。
というのは、どんなにすばらしい施設でも、ご自分の意志で入って来られた方が本当に少ないことに気がついたからなんです。
そういうモデル施設の経営者の方たちに、必ずこうお聞きすることにしています。
「ご自分が要介護状態になったら、どこで介護を受けたいですか?」その中で「自分の施設で」と答えた方は1人もいらっしゃいません。
お答えは例外なく「ぎりぎりまで自分の家で」というものでした。
どんなに立派な施設よりも自分の家が一番というのは、高齢者の本音ではないでしょうか。
家に帰りたいというのと家族のもとに帰りたいというのは同じでしょうか。
私はそうは思いません。
自分の家に帰りたくても、そこに家族が住んでいるばっかりに家に帰れないということも起きるんです。
これが1人暮らしなら誰に遠慮することもなく自分の家に帰ることができます。
自分の家で、他人に支えてもらって1人で安心して老いていく。
そのためには、要介護高齢者の単身生活を支える仕組みがどうしても必要です。ですが、ご存じのように介護保険は単身高齢者の生活を支えるようにはできていません。
家族介護が前提で、その家族の負担を軽くするのがせいぜいなんです。
その家族の負担も重くなれば、施設に親を入居させる傾向がありますし、介護保険は在宅支援をうたいながら、結果として施設志向を強めたと言われています。
介護保険は、介護を他人に外注することを常識にしました。
にもかかわらず、介護保険制度が目指す自立とは介護を受けない状態を指します。
つまり、介護保険は使わなければ使わないほどよいという考え方です。
その上、日本の高齢者はこれまで、家族や他人からお世話されるようになったら申し訳ない、もったいない、私のような厄介者が、と肩身の狭い思いで生きてきました。
自分は介護を受ける権利があると、権利の主人公にはなってこなかったんです。
人はゆっくり死ぬ動物です。ピンピンコロリというわけにはいきません。
きのうまで元気だった人が、コロリっていくのを突然死って言うんです。
死ぬまでの平均寝たきり期間は8.3か月と言われています。
介護は受けて当たり前、だからと言って肩身の狭い思いをしなければならない理由はない、と思うと、日本の高齢者はこれまであまりに自分の権利主張をしてこなかったのではないでしょうか。
よい介護を育てるためには、きちんと自己主張できる利用者でなければなりません。
そう考えて、この本には、介護される側の心得10か条もあげてみました。
その点でも、自分たちの権利を自分たちの力で獲得してきた障害者の権利運動に、学ぶことがたくさんあると、私は思っています。
そう考えて、中西正司さん、この方は障害者自立生活運動のリーダーの方なんですが、この方と共著で、『当事者主権』、という本を書きました。
そう言うとすぐに「負担はどうなる」という議論も起きますが、各種の意識調査を見ますと、日本の国民は自分たちの老後の安心のためなら、多少の負担増に応じても構わない、と考えてることがわかります。
問題はそのお金を託すだけの信頼できる制度が構築できるかどうかです。
これからますます増えるおひとりさまの男女が、安心して老後を迎えることができるかどうかは、私たちの政治的な選択にも関わっています。
そして政策を決定する立場にいる人たちには、ご自分が介護される未来に対して、是非とも想像力を持ってもらいたいものです。

2008年1月22日 (火)

仏教の真髄を学ぶ(1)

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今日の名言

人間のすることでなにひとつえらいことが ありうるものか。
人間そのものがすでにえらくも たっとくも ないのだ。

『啄木・ローマ字日記』

これで良いんだ・普通だ・何時も通りだ・変わった事はないなど、日常自覚しないで過ぎてしまう。

社会情勢はもとより、人間も、全ての生きている生物・万物は、一秒たりとも元の姿はないのである。過去は戻らない、いわゆる諸行無常である。

認識有る・無しで人生を楽しく過ごせるのと、苦しんで過ごす違いがでる。だから、今現在を大事に、悔いのない生き方をしなければならないと思う。

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無我なる生き方とは仏神の願いをそのまま素直に生き切る生き方であります。そのためには諸行無常を人生の規範にしていなければ、粘着質の人生、執着だらけの人生になってしまい、とても仏の理想を生き抜くことは出来ません。諸行無常とはいかなる教えなのかを、「分かった」と思うまで、しっかりと探求・吟味しておく必要があります。

 諸行無常とは、全て、この世のものは、変化するということです。岩盤の如く固定的、恒常的に見えていても、何一つとして変化せざるものはないということです。あのダイヤモンドにさえ、誕生の時、活躍の時、使命を終えて消滅する時があるのです。人間の肉体も、必ず老いを迎え、死を迎えます。しかし、これはまことに有り難い仏の慈悲なのです。この地上に何千年も縛りつけられていたら、たまったものではないでしょう。老人介護を受けている方々のお気の毒な姿を見てください、あの姿で百才、二百才と生きねばならないとしたら、それは苦しみです、地獄です。したがって、死は仏の慈悲であることが判るのです。家族も同じ、会社も同じ、常に構成員が変化し、組織の形態が変化していくのです。千年も続く、組織、会社はないのです。この地上には、常なるものは何もないのです。ゆえにこの世のものに執着してはならないのです。この世のものに執着する心は偽物の自分なのです。

 天上界にいた時の心を思い出し、その心で地上生活を生き抜くために、物差しを持っておく必要があるのです。その物差しの一つが、諸行無常です。それは、変化するものこそが、全ての本質であるということです。これを知らずに生きるとき、多くの苦しみに捕らわれてしまいます。まるでハエとり紙にくっついて、もがいているハエのような姿を演じてしまいます。

 たとえばこの大地からして永遠のものではありません。自分の土地だ、高いお金を出して購入した、私の不動産だと思っているかもしれませんが、何万年か前は海の底であったのですし、何万年か後には、また海の底になってしまうかもしれません。少なくとも、この世を去れば、他人の所有になってしまいます。いつまでも後生大事に自分の所有物だと思っている、その心が地縛霊となってしまうのです。

 人の心も変化していくのです。たとえば、こんな人がありました。ご主人がお金にルーズなために借金をつくり、田舎から逃げるようにして、子供二人を抱えて東京に出てきたというのです。主人がお金にルーズだという固定した観念を離そうとしないのです。そして子供にもそれを吹き込むものですから、子供達もお父さんに冷たい視線を投げかけて、家の中が真っ暗だ、子供も可哀相だ、私はどうしてこんなに不幸なのだろう、と嘆いておられるのです。主人の所為で私も子供も全く暗い人生を歩まされているのだ、と主張して譲りません。自分の人生は、諸行が冷たく恒常的で、どうしても変わらないというわけです。つまり、その方は、諸行が無常で、主人も環境も自分の心を変えることによって、変わっていくのだという物差し、あるいは自己責任の原則という物差しを持っておられなかったのです。そこで、その方に、アルジェリアの猿のお話をいたしました。

2008年1月21日 (月)

幸福とは

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今日は、一年で一番寒いとされる大寒入りである。雪の降りそうな雲は朝から低く垂れ込めて、風が冷たい。大陸の寒気が日本列島を被い尽くしているようだ。今日は改めて「幸福とは何か」を書いてみる。

Galleryplayer4_flower 幸福とは何か?そんなことを何年も考えていたが。そして得られたことは、”感謝”と”知足”の心をもつこと。

仏教の考えでは人が幸福になれない理由として、執着心と虚栄心をあげているようですが、”感謝”と”知足”の心はその対義語といえると思います。簡単にいえば、”現在”の自分を能動的・主体的に受け入れている状態を言うのではないだろうか。

また、もう一つの大事な心の持ちようとして、”利他の精神”もあげられるのではないかと思います。人の喜びをも自分の喜びとする精神。もし、そういう心をもてたとするならば、執着心や虚栄心は出てこないのではないでだろうか。

幸福とは、辞書は

 満ち足りていること。不平や不満がなく、たのしいこと。また、そのさま。

などとでできます。また、ちがった観点で幸福という字を分解すると、

 幸とは外からもたらされるもの。福とは自分や家庭の内から湧き出るもの。

そういった説明もあります。他力的な部分と、自力的な部分のバランス。心の安定や調和の取れた状態と言えるのではないだろうか。

また、幸福や喜びには三段階あるとも言われる。

 1.もらう喜び・受け取る幸福

 2 できる喜び・達成する幸福

 3.あげる喜び・与える幸福

倫理説では幸福主義というものがある。幸福が人生の目的であり、善であるとする。

快楽主義が感覚的な快楽を求めるのに対し、幸福主義は持続的な、精神的な喜びをもとめるもの。幸福と快楽、改めて確認してみるとその違いに気がつくが、普段は無意識に混同してしまっているような気がする。

ひとりの「いのち」が、他の一切の「いのち」と深いところでつながっていることに気づいたとき、人は自他の「いのち」の尊厳を自覚できる。その尊い「いのち」を自他の自己現実に向けて燃焼させること、これが「自利利他」の意味だと思う。この背後には、自己の「しあわせ(いたみ)」と他者の「しあわせ(いたみ)」はその根本において別々のものではないとする考え方がある。

『恕』(じょ)について

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今日の名言
一の世代は、その法律に将来の世代を服属させる権利をもつものでなく、かつ職務におけるあらゆる世襲は、愚劣かつ暴圧的である。
『人権宣言集』ジロンド憲法草案における権利宣言(フランス)

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大寒
21日。小寒から節分前の真ん中で1年でもっとも寒いとされる日。この前後に行われるのが寒まいり。寒稽古、寒中水泳、寒念仏、寒行など。

天気予報では、関東地方も雪で、平野部でも積もる恐れがあるというが、昨夜は何だかとても疲れて、早く寝てしまった。そのために、今朝は2時に目が覚めてしまい、もう寝れない。

仕方がない、起きてパソコンでも動かして見よう。しかし、年を重ねて気がつく事が多い。

「恕」じょ)辞書では、己れの欲せざる所を人に施す勿れとは…之を―の道と云ふ/福翁百話(諭吉)」

犬養 毅(いぬかい つよし、(1855年)6月4日 -(1932年)5月15日)明治~昭和の政治家。第29代内閣総理大臣。)が、以前に新聞で紹介されていたのを思い出した。

『恕』の一字が書かれており、なんと読み、どういう意味かと辞書をみて、「人を思いやる心、自分がされて嫌なことは人にもするな。」と理解し、それ以来、特に心がけてきたこと。

犬養さんが生きておられて(俗っぽい考えで恐縮だが)、今の日本を見て、何と?。 そんな思いと、自分自身が年を重ねたこともあってか、改めてこの言葉の意味、この”一文字”を書き残された人柄を思った。 

『ウィキペディア(Wikipedia)』

養の毒舌は有名だった。親友の古島一雄は、犬養の毒舌がやたらに政敵を増やすのを見て「ご主人の出掛けに口を慎めと必ず言ってくれ」と夫人に頼んだほどである。これも、意志が強固で悪や卑劣を憎む性格からくるものからであった。

しかしながら私生活では全く無欲の人だった。嫌いな食べ物が出ても小言を言うこともなく、着せられる着物を黙って着るなど無頓着だった。

議会事務局で働く少年が病気になると、自宅に引き取って学校に通わせるなど、困った人を見ると援助の手を差し伸べずにはおれないところがあった。宮崎滔天ら革命派の大陸浪人を援助し、宮崎に頼まれて、中国大陸ではお尋ね者となっている孫文をかくまったこともあった。宮崎は当初、犬養が大隈重信寄りだったため警戒していたが、自宅で会ってみると、煙草盆片手にヒョロヒョロと出てきて、あぐらをかいて煙草を吸い全く気取らない。宮崎は直感的に「好きな人」と判断したという。

2008年1月20日 (日)

何のために勉強するの

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今日の名言

事態が明らかに畏怖すべき時に当って、これを恐れぬということは、明智に乏しいか、これを欠いているかの徴(しるし)ともなるわけだな。

ラブレー『ラブレー 第四之書 パンタグリュエル物語』

539571 学生の頃、勉強していて、時々何んのために勉強するのだろう?と悩んだ事がある。そして、自分の子供にも質問されたりしたが、いい言葉で答えを出せなかった。そんな事を思い出した。

勉強」には3種類ある、「学ぶ」、「覚える」、「悟る」ということだとか。人の一生は、いいお手本から学び、何度も練習して覚え、どんな問題も知恵を絞って解決することが大切と。

「何のために勉強するの?」と聞かれれば、こんな答えかな。そして、付け加えるなら、「教える」ということを勉強する、「人に教えることもなかなか難しい」、人に教えてこそ、自分に何が出来て何が出来ないかが初めて分かる…。」(「父親がわが子に必ずやっておくべき30のこと」幸福の科学出版より

生きていく中で、充実感や幸福を感じられる生き方が出来るように…と、人は勉強をするのではないだろうか。

いくつになっても、それぞれに思うことがあれば学び、努力する中でこそ出会う、「充実感や幸せ感」の存在を知り、また、達成感の価値も、自らが経験しなければ理解できないものと知り、なお、人の世に学ぶことの多きも………。

トーマス・リコーナの言葉に、こんなのがある。

「人生の目的は、自分自身の熟成、そういう自分と他との愛ある関係を結びそれによって社会に貢献すること。」というのがある。

2008年1月19日 (土)

国会開幕どうなるガソリン税

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今日の名言

男性は知っていることを言うが、女性は人を喜ばせることを言う。

ルソー『エミール』(下)

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毎日新聞より 昭和48年のオイルショックのような事態にならなければ良いが・・・

18日召集された通常国会の最大の焦点は揮 発油税(ガソリン税)の暫定税率の維持問題だ。関連法案に反対し今春の衆院解散に照準を合わせる民主党と、新テロ対策特措法と同様に、衆院での再可決による乗り切りを図る与党。3月末の期限切れ後は一定期間の「25円値下げ」実施も予想される中、世論がどちらの主張に耳を傾けるか。「生活重視」を共に掲げる与野党の次期衆院選に向けた攻防の火ぶたが切られる。

 道路特定財源のうち3月末に期限が切れる暫定税率は▽ガソリンにかかる揮発油税・地方道路税(上乗せ分は1リットルあたり計25.1円)▽軽油にかかる軽油引取税(同17.1円)▽自動車を購入する際にかかる自動車取得税(同購入価格の2%)だ。

 ただ、仮に期限切れとなっても、ガソリンスタンドのガソリン価格が4月1日からすぐに1リットル25円下がるとは限らない。ガソリンの場合、スタンドで給油した際に課税されるのではなく、石油元売り会社が製油所から出荷した段階で課税されるため、スタンドが3月末までに仕入れたガソリンの価格は4月に入っても下がらない。一方、軽油は給油の際に課税されるため、同じスタンドで「ガソリン価格は据え置き、軽油は値下げ」という事態も起こりそうだ。

 また、暫定税率を延長する租税特別措置法改正案など予算関連法案は2月中旬に衆院で可決され、参院に送られる見通し。参院送付後60日を過ぎれば、憲法の規定で否決されたとみなされ、4月中旬には衆院で与党が3分の2以上の賛成により再可決できる。

 そうなれば短期間で暫定税率が復活するが、その前に買っておこうという駆け込み需要が発生するため「石油業界がパニックになる」(元売り大手)と見られる。業界や経済産業省の対応も決まっておらず、73年の石油ショックのような混乱が起こる可能性が高い。

 一方、期限切れによる税収減の規模を予測するのは難しいが、財務省は値下がり前の買い控えと再値上がり前の駆け込み購入が影響すると見る。

 

2008年1月18日 (金)

ある馬の一生

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今日の名言

不幸のうちに初めて人は、自分が何者であるかを本当に知る。

ツワイク『マリー・アントワネット』(上

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他人や組織に操られるだけの人生でなく、人として自分自身が納得出来る生き方が大切なのだが、今日はwebでこんなものを見つけたので記してみた。

昔は、馬は米俵を運ぶのに、背中に2俵ふり分けて運びました。
馬方にひかれて峠を越えると、明日の馬力を養うために人参が10本与えられました。

馬車が発明されて、馬車には米俵が2俵ではなく、20俵積まれたので、平地を歩くにも精一杯でした。
坂道になると背中に鞍が喰い入り、馬方のムチが容赦なくあてられました。米俵は10倍運ばれましたが、人参はやはり10本でした。

タイヤが発明され、鉄の輪より摩擦が少ないので楽になると思われました。しかし、30俵積み込まれたので相変わらずの労働苦がつづきました。

馬を楽にするためでなく、米俵をたくさん積むためにタイヤに取り替えられたのです。
道路が舗装になり、8時間の道程が4時間で行けるようになりました。馬は半日で休めるかと期待しましたが、馬方は一日に2往復させました。

生産は最初の時の30倍になりましたが、与えられた人参はやはり10本でした。
そして、自動車が購入されました。馬は馬車もろとも捨てられたのです。

(この記事は○○県職労新聞より抜粋)

人に使われ、それなりの俸給を得る。労使の話し合い(契約)で双方の目的を満足させ、生きていかれるのである。これで世の中平和になる。このことから多くのヒントがあると思う。また、異論もあると思う。

2008年1月17日 (木)

天は二物を与えず

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心に残る言葉

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ツノある牛は歩むが遅い            ツノない馬は走るが早い

器量の良い人 愛想が悪い       愛想の良い人 器量がもう一つ

愛想も器量もどちらもよけりゃ     これまた体が弱くて病院通い

金のある時 暇がない             暇のある時 金がない    

お金お金と無理してためた         たまった途端に 生命がもたぬ 

家も新築 お金も出来たが           肝心要の子が出来ぬ    

出来た出来たとちやほやしたら    ためたお金を湯水と使う   

お金も子供も言うことないが      もらった嫁が 気に入らん  
 

生んだ我が子も親にたてつく        世の中だ

他家で生まれた人じゃもの         辛抱するのが当前               

二つ揃って良いこと無いと         悟るまでには月日がかかる

わかりかけたらこの身の終わり    ほんに浮き世はままならぬ

死の前に考える

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最近、私の終焉と死の先は?とか、後世に残さなければいけない物は?とか考える事がある。そこで石川達三(1905-1985・明治38年-昭和60年・80歳没)の死を前にしての日記がある。この人の最後の日記を見ると、ここまで人間は、考える事が出来るのかと驚いてしまった。以下最後の日記である。死の1日前との事だそうだ。

私の死はもう眼の前に迫っているが、私は死について何も考えて居ない。考えることの興味がない。多くの人が死について色々書いているがすべて無駄だと私は思っている。

死後の生活は何もないと思う。人類の死者は何千万或いは何億。それが皆消えてしまって何ものも残っていない。死後の世界は空白である。私に宗教が無いように、死後についても全く何も無い。何か有るように考える人にとっては何かが有る。有ると考えればいろいろな美も考えられる。霊も考えられる。それはそれで宣い。私は何も無いと信じている。

知友の心に何か美しいものを残して死ぬ事ができれば、それで充分である。死後について何か有ると考えたがるのは人間の弱さである。他の動物を人間は無数に殺しているが、相互に殺して喰うのが自然であり、そのあとには何も残りはしない。残らないから助かって居るので、何かが残るとすれば大変な事になる。

人間も動物の本能であることを、甦えさせらるのだと思う。大宇宙に順化するのだ。

群れをなして移動する人間の集団は、野牛のように肥沃で豊かな大地を求め走り続ける。明日を生きる為に、当然年老いたり、病気・怪我をして落ちこぼれ命を絶ってしまう者もいる。集団は、そうは助けてくれない。自分達の求める大地に移動し、生きて子孫を残す使命を果すのである。全く自然であり、この法則は破る事は出来ない。

2008年1月16日 (水)

大豆の効能

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今日の名言

名誉の悪用やこの世の虚妄について最も多く呼号する者は、最も多く名誉に飢えているのである。

スピノザ『スピノザ エチカ』(下)

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最近どうも気になる、腹の膨らみ目立てきた。人に言われてしまい、何とかしなきゃと思っているところであったが、ZAKZAK(15日)の記事にこんなのが載っていたので、記して見た。

中性脂肪をエネルギーに…メタボに効く健食の大豆

 メタボ退治に大いに期待できる健康素材を検証する第2弾はおなじみ「大豆」だ。

 今や大豆がカラダに良いのは世界の常識だ。さらに近年研究が進み、大豆たんぱくの成分のひとつ「β-コングリシニン」はメタボ退治の急先鋒(せんぽう)としても注目を集めている。

 大豆たんぱくについて研究する不二製油フードサイエンス研究所では、動物由来のタンパク質(カゼイン等)と「β-コングリシニン」を比較した実験を行っている。マウスを使った実験では、(1)体内の脂質の体外への排出を増やす(2)肝臓で中性脂肪が再合成されるのを抑制(3)中性脂肪がエネルギーになるのを促す、ことが明らかに。また、人間に対して、通常の食事に1日5グラムの「β-コングリシニン」を加えた実験を行ったところ、開始から4週間後に血中の中性脂肪が減少。20週以降、内臓脂肪は、実験前の平均107.5センチ平方メートルが、102.5センチ平方メートルに減ったという。

 「β-コングリシニンは、豆類などに含まれていますが、大豆の含有量が最も多い。食生活の中で、豆腐や豆乳、枝豆など、大豆製品を取り入れることを考えていただきたいと思います」と同研究所の廣塚元彦所長。

 一方、米国FDA(食品医薬品局)では、「1日25グラムの大豆たんぱくが心臓病リスクを大幅に下げる」といったお墨付きを与えている。ちなみにFDAが推奨する1日大豆たんぱく25グラムは、豆腐なら2丁半、豆乳では1リットル。大豆好きな人でないとかなり難しい。「βーコングリシニン」含有の食品などを上手に取り入れ、メタボ退治だ!

果たしてどうかな、大豆を採るように心がける事にしてみるか・・・・

2008年1月15日 (火)

成人になった人の意識調査

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今日の名言

人間の意識がその存在を規定するのではなくて、逆に、人間の社会的存在がその意識を規定するのである。

マルクス『マルクス 経済学批判』

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4割超が「将来は悲観的」…新成人の意識調査

昨日成人を迎えた135万人の方おめでとうございます。大変気になる記事が目に付いたので記して見た。(ZAKZAK 2008/01/12)

年成人式を迎えた若者たちの4割を超える人が「親の世代に比べ、自分たちの生活は悪くなる」と将来を悲観的に考えていることが12日、東京の結婚情報サービス会社「オーネット」による意識調査で分かった。

 調査は1987年4月から88年4月にかけて生まれた全国の男女計800人を対象に実施。生活や結婚、仕事に対する考えを選択肢で答えてもらった。

 親の世代の暮らしぶりとの比較では、43%が「悪くなる」と回答。「自分たちの子どもの世代では生活はさらに悪くなる」と答えた人も44%に上った。

 将来希望する生き方を「経済的な豊かさ」とした人は18%だったのに対し、過半数の51%が「家族や友人を大切にする暮らし」を選んだ。

 「フリーターになるかもしれない」との不安を抱える人は2年前の調査と比べると半減し4人に1人の26%。しかし「自分の求める仕事が見つかるまではあきらめない」とした人は18%にとどまり、職種にこだわらず就職先を決めようと考えている傾向も示した。

 「仕事に燃えている人はすてきだと思う」は49%、「自分のしたい仕事に就けるように今、努力している」は39%と2年前から大幅に減り、仕事に熱い思い入れを抱かない若者像が浮かび上がった。

となっている。これで将来の日本は?ちょっと心配すのは、私だけではないだろう。

2008年1月14日 (月)

成人式こと

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今日の名言

理性のある動物、人間とは、まことに都合のいいものである。したいと思うことなら、何にだって理由を見つけることも、理窟をつけることもできるのだから。

『フランクリン自伝』

0107ukisima11 今日は成人の日

私の成人式は50年前、半世紀が、経ってしまった。

その頃の夢があった、生活の苦しさから、何とか抜け出して、一日でも早く独立したいと考えていた。

まあ実際は28歳で独立したが、生活は、大変であった。4時に起きて牛乳配達のアルバイトして出勤した時もあった。

それも自分で資金をためマイホームを建てた、無理があったからだ。

今日の成人になられる人は、1987年生まれの新成人は約135万人だ。今年は平成も20年目だ。新成人の歩みは、平成という時代とほぼ軌を一にしていると言っていい。

 新成人が生まれた年は、民営化して間もないNTTが株を上場し、市場を沸かせた。大都市の地価も高騰した。いわゆるバブル経済に差し掛かったころだ。

 バブル経済はその後崩壊し、景気の低迷が長く続いた。阪神大震災やオウム真理教による事件が起きた。凶悪事件は低年齢化している。携帯電話やインターネットが普及して便利になったが、それらを利用した犯罪も増えている。

 新成人が育ったのは、先行きが不透明な時代だったと言えるだろう。

 新成人の5割は大学・短大生だ。大学生の就職率は昨春の卒業者で過去最高の96・3%に達したが、離職率も高い。04年春の卒業者でみると、3年以内に離職したのは過去最高の36・6%に上る。3人に1人以上である。

 就職は人生の大きな分岐点だ。自分の希望に合っているか。性格に向いているか。やりがいが感じられそうか。職業選択にあたって、しっかり見極めたい。

 2025年には、15~64歳の世代のほぼ2人で高齢者1人を支えていかなければならない。そのころには新成人は30歳代後半になっている。超高齢社会を担う中核だ。そうした自覚も必要だろう。

今、若者の独立心が問題となっている、ニート・フリーターなどどう見ても、将来の夢など到底持っていないだろう。そんな中で読売新聞記事で、南極の7大陸最高峰の単独登頂に挑戦し、昨年12月29日、6番目の南極大陸・ビンソンマシフ(4897メートル)を制覇した登山家・栗城史多さんの様子が載っていた。

何だか、両極端な事象であるが、成人約135万人の人は夢を持ってもらいたいと思う。今の社会をどう見るかも大事だが、まず、独立してみることを志て欲しい。

2008年1月13日 (日)

何か大事なものを忘れたようでならない

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今日の名言

「これが最悪」などと言える間は、まだ実際のどん底なのではない。

シェイクスピア『リア王』

                                                                                Photo     

       (11日三浦三崎港にドライブで寄った天気はよく暖かかった)

昨年は、汚職・食品の不正表示・宙に浮いた年金・テロ特措法などで、政治もマスコミも国民の目は偏ってしまったようだ。

何か大事なものを忘れたようでならない。

上坂冬子氏が言っていた北方領土の問題を取り上げていた。赤福餅や料亭吉兆などの失態と防衛省前事務次官をめぐる詳細が日替わりで報じられたころ、日本はいつから井戸端会議国家になったのかと呆然(ぼうぜん)としたのは私だけではあるまい。

 報道はスキャンダルレベルに終始し、特に防衛省の問題はこれが国家的大局とどうかかわるのかという展開が一向になされなかった。大局に優先して、あれほど丹念に夫婦の失態を報じる必要があったろうか。

昨年の12月2日に根室市の4町の方が銀座で北方4島のの返還要求のデモを行った。この記事をいたく感激したとの内容が、産経新聞の「正論」に載っていた。

世界は動いている。正しい見方・大所高所で見る事の大事さは言うまでもないが、報道にも大いに問題がある。実際、世界の動きを捉えられないと取り返しのつかない事になるのではないだろうか。大国ロシアは今どういう動き・またインド・ブラジル・オーストラリア・カナダ・イギリス・などの欧州などの動きなどと、日本の対応はこれでいいのかと思う。

外交の重要性をしっかり認識されて国益重視の政治をして、これにマスコミはやはり同調することだと。付和雷同に注意することだ。(一定の主義・主張がなく、安易に他の説に賛成すること)

今朝はこんな事を頭をよぎったので記してみた。

2008年1月12日 (土)

離婚と離職

今日の名言

知ることがむつかしいのではない。いかにその知っていることに身を処するかがむつかしいのだ。

司馬遷『史記列伝』

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2007年の厚生労働省の推計で婚姻・離婚の統計は下の通りである。また、就職して、辞める若者のは、覆いといわれている。一体理由は何故なのか、人生観の違い、戦後からの学校教育、などからこんな数字になるのかと思う。

厚生労働省白書

婚姻件数は71万4000組で、婚姻率(人口千対)は5.7となる。(推計)

また、離婚件数は25万5000組で、離婚率(人口千対)は2.02となる。(推計)

結婚した人と離婚した割合は2.8組に1組のようだ。

離婚の数でも分るように離職する人も増えているという。基本的には、離婚と関係があると思われる、心理はどうも同じなところもあると思う。ZAKZAKの記事(11日)を参考に考えた。

若者の早期離職が加速している。原因は、超売り手市場の就職事情や若者たちの踏ん張りのきかなさばかりではないようだ。「企業の育成力に問題あり」というのは人材育成会社「シェイク」の森田英一社長(35)同社では「辞めたい若手」を診断する「5分間チェックシート」を作成し、育成力再生のきっかけを-と呼びかけている。

『「3年目社員」が辞める会社 辞めない会社』(東洋経済新報社)の著書もある森田さん。自身も経営者だけに、暗澹(あんたん)たる面持ちで現状を語る。そして背景として、今の25歳前後は、思春期に山一ショックやリストラ時代を迎え、「会社には頼れない、守ってくれない」というイメージが強いことや、“成功者ブーム”で若手でもベンチャーで活躍する人が増えて焦りを感じていることなどを挙げる。

 「非常に短期志向で、視野が狭く、表面的なキャリアにとらわれたりする。自分が変われる部分に気づかない。私たちの研修でシミュレーションをやると気づいたりするのですが、本来それは上司がやるべきこと。上司が機能していないことも大きい」

 バブル崩壊後、育成よりリストラ-という状況下で、企業の育成力は右肩下がりに。「自分が育てられなかったので、育て方がわからない」という人もいるという。また「成果主義で、評価の項目に育成がほとんど入っていない。人材育成するのは損という感覚もあるようです」とも。

 今問題となっている、『我慢が出来ない』『自分さえ良ければの個人主義』などの教育の欠陥が指摘があるように、この社会現象化している事は看過出来ない。

2008年1月11日 (金)

どこまで恵まれば気が済むの?

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産経新聞「正論」新しい年へ作家曽野綾子さんの言葉である。(抜粋)

「稲作りで肥料の与えすぎで稲は倒れてしまい実はつかない」。ちょっと少なめにすることで、自力で力強くなり、成長し実をつける。

「引き算」人生で落ち込む日本人

≪欠落部分に耐えられず≫

 戦争もなく、食料危機もなく、学校へ行けない物理的な理由もないというのに、そして、今日食べるものがないというのでもなく、雨に濡れて寝るという家に住んでいるのでもなく、お風呂に入れず病気にかかってもお金がなければ完全に放置される途上国暮らしでもないのに、読売新聞が昨年12月行った全国世論調査では、30、40代では、自分の心の健康に不安がある、と答えた人が40%にも達したという。

 しかも多くの人たちが、不安の原因を仕事上のストレスと感じているという。ストレスは、自我が未完成で、すぐに単純に他人の生活と自分の生活を比べたり、深く影響されるところに起きるものと言われる。康で、すべてが十分に与えられて当然と思っている人は、少しでもそこに欠落した部分ができるともう許せず耐えられなくなる。私が勝手に名付けたのだが、これを引き算型人生という。それに反して私は欠落と不遇を人生の出発点であり原型だと思っているから、何でもそれよりよければありがたい。

 ≪完全な平等だけを評価≫

 食べるもの、寝る所、水道、清潔なトイレ、安全正確な輸送機関、職業があること、困った時相談する場所、ただで本が読める図書館、健康保険、重症であれば意識がなくても手持ちの金が一円もなくてもとにかく医療機関に運んでくれる救急車、電車やバスの高齢者パス。

 何よりも日常生活の中に爆発音がしない。それだけでも天国と感じている。これが足し算型の人生の実感だ。これだけよくできた社会に生まれた幸運を感謝しないのは不思議だと思う。

 しかし人間は、教育し鍛えられなければ、このように思えない。子供は幼い時から悲しみと辛さに耐えるしつけが必要だ。平等は願わしいものだが、現実として社会はまず平等であり得ない。しかし不平等な才能があちこちで開花している。それなのに完全な平等しか評価しない人間の欲求は、深く心を蝕(むしば)む。

 叱(しか)る先生は父兄に文句を言われるから「生徒さま方をお預かりする営業的塾の教師」のようなことなかれ主義になった。何か事件があると、マスコミは校長や教師を非難するが、子供の成長に誰よりも大きな責任を有するのは、他ならぬ親と本人なのである。生活を別にしている教師など、子供の生活のほんの一部を見ているに過ぎない。

 ≪人のためを考えること≫ 

 躾(しつ)ける親も少ない。子供たちは叱られたことも、家事を分担させられたこともない家庭が多いという。親たちも享楽的になっていて、来る日も来る日も家庭で食事の用意をするという人間生活の基本を見せてやる親も減ったというから、人格を作る努力や忍耐の継続が生活の中で身につかない。だからいつまで経っても、自分は一人前の生活をできる存在だという自信もつかない。この自信のなさが、荒れた人間性を生むのである。

2008年1月10日 (木)

期待外れの党首討論

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株安・年金・公務員の汚職・殺人・道徳低下など政治不信で、国民はフラストレーションが溜まっている。新年早々の党首会談で期待をしていたが、これでは拍子抜けである。

産経新聞の10日の主張の記事を参考に記してみた。

ねじれ現象を背景に行方が見えない新年の政局、国会攻防に、どう道筋を示すのか。そう思って福田康夫首相と民主党の小沢一郎代表による初の党首討論に注目したが、拍子抜けしてしまった。

時間の大半は、年金記録問題に割かれた。それも大事だが、聞きたいことはほかにもあった。年金制度を含む社会保障政策と消費税の関係はどうなる。来年度予算案や予算関連法案が審議される通常国会にどう臨む。これらはテーマにさえならなかった。

当面はこの二大政党のトップが国政の指揮を執り、責任を分担するしかない。討論の終盤、自衛隊の海外派遣原則をめぐる議論が交わされた点には期待が持てたが、重要課題をめぐり突っ込んだ議論を重ねてほしかった。

昨年秋に「大連立論」をめぐり党首会談を重ねた2人であり、初の党首討論といっても気心は知れていた。

「国民生活重視」という同じ土俵に後から乗ってきた首相に対し、小沢氏が辛辣(しんらつ)な言葉を浴びせてやりこめようとする場面もなかった。話のできそうな党首同士という印象は示した。

ただ、年金記録問題への政治姿勢に30分も費やしたのはいかがなものか。首相は、今月発足させる社会保障国民会議に言及すべきだった。

年頭会見で首相は、年金制度を含む社会保障政策の全体像を秋までに示す考えを表明した。民主党を議論に巻き込むことが不可欠なのに、なぜ小沢氏に直接、参加を呼びかけないのか。

一方、小沢氏は最近の主張の主眼である揮発油税(ガソリン税)の暫定税率廃止について首相に直接、ぶつけはしなかった。

予算関連法案の成立阻止を宣言するほど、民主党の国会戦術はまだ固まっていないということか。国民生活を重視し、与党との協議に応じる余地があるなら、歓迎したい。

新テロ特措法案への対応では、最後まで両氏の立場は平行線だったが、小沢氏は自衛隊派遣の基本原則について首相の見解をただした。

首相は直接答えなかったが、民主党の対案を「たいへん意欲的」と評価し、今後の議論につなげる姿勢もにじませた。恒久法制定に向け、政府・与党と民主党の間で本格的な議論に発展することを期待したい。

何だかお互いに、立場を気にし過ぎて本音のところを出さないで、争点を鋭俊に切り裂くことがなかったようだ。考えている時間が少ない、行動に移す時が来ていると思う。

もう後がない中国・インドなどのアジアの国に支えられて、何とか欧米と日本は、少しだが成長を成し遂げている。このまま行けば遠からず、日本は後進に甘んじなければならない。もう一度、再生して、世界の日本の地位と役割を果せる政治がリーダーシップを取ってもらいたい。大多数の日本人悲願だと思う。

それには、大連立もあり得るのかな・・・とにかく力が分散して弱くなっては太刀打ちできない。毛利元就の「三本の矢」ではないが、いいたい事を言っては駄目だ。

この窮状を協力して乗り切らないと、日本は見放される。

和田中学校の新しい取り組み

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今日の名言

民衆というものはいつも政変を待ち望みながら、しかもそれを恐れているのだ。

タキトゥス『タキトゥス 年代記』(下)

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教育とは、学校で習ったすべてを忘れたあとに残るものをいう。』

アインシュタインの言葉だ。

学校教育の「頼りがい」は常に問われてきた。

教師は不本意だろうが、答えの一つが教育産業の隆盛である。東京の杉並区内の和田中学校で、夜間学習熟を開く計画があるそうだ。普通の熟より半値で(週3回で18000円)塾の先生を呼んで参加希望はある二年生の20人ぐらい。

一般の熟に行かせる家庭ばかりではない。少しでも安い熟に行かせたいのは山々だが、ちょっと待ったとのこと、きょう予定されていた初の授業は、東京都教育委員会の指導で先延ばしされる。生徒全員が出られない・特定業者に教室を供する・教材づくりに教員がかかわる――の3点に疑義があるという。

少子化に悩む塾にはそれなりの商魂があるはずで、教室で営業されるという心配も分かる。だが教師の過労が言われる中、公教育の建前を並べるだけでは、学力をめぐる保護者の焦りは消えない。お金のかかる私立校や塾が現にあるのだから、ここは塾に行けない子への福音と考えたい。

杉並区教委と学校側は「疑義を晴らして始めたい」としている。国の将来がかかる人づくりで、公と私をことさら分断しても無益だ。官民の知恵を合わせ、教育現場にようやく顔を出した試行錯誤の芽である。どう伸びるか、全国が見ている。

だから、始めてみればいい、全国の中学校で注目すべきことだ。

2008年1月 9日 (水)

この国をどうする(3)

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今日の名言

(いま)だ生を知らず、焉(いずく)んぞ死を知らん。

『論語』

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読売新聞web 新春インタビュー

政治学者・大山礼子さんに聞く 

衆議院の権限強化が必要』

全面対立

日本のような2院制の議会で、上院と下院の多数派が異なることは、外国ではそれほど珍しくはありません。それが常態の国もあります。

衆参両院の「ねじれ」は、これから頻繁に起こると思います。2大政党制は常に選挙で勝つ政党が入れ替わる可能性があります。米国の中間選挙のように、参院選の時は現政権に対する批判や不満が有権者から出る可能性が高いので、参院では野党が有利になるかもしれません。

 憲法制定当時は、衆院と参院の全面対立というのは想定外だったのではないでしょうか。国会の議事手続きには制度的にいろいろと問題がありますが、戦後60年余、あまりきちんと改革をしていません。そのツケが回ってきたような気がします。

 日本の参院は、議院内閣制の国の上院としてはかなり権限が強い方です。

 憲法は、予算や条約については、国政を運営するために決定しなければいけない事項なので、衆院の優越を強く定めています。一方、法律案は、現状を変えようとするものですから、衆参両院でゆっくり議論してもいい、という考えなのだろうと思います。

 ただ、予算関連法案は実質的には予算の一部のような法案ですから、衆院の意思をもう少し尊重するような合意を与野党がどこかでしないと、なかなかたいへんだと思います。どちらが与党になっても、ねじれが起きる可能性はあるのですから、合意できる余地はあるのではないでしょうか。

 国会同意人事は、かつては法律で「両院が一致しない場合には衆院の議決による」と定めているものが多かったのに、参院自民党の要望などで法改正が行われ、すべて両院の一致が必要になりました。今から思えば、先のことを考えなかったという感じです。同意人事も予算と同様、決まらないと困るものですから、衆院の意思を尊重してもいいのではないでしょうか。

 憲法59条は、参院で否決した法律案を衆院で出席議員の3分の2以上の多数で再可決できる、と定めています。軽々に使うべきではないという議論があることは承知しています。ただ、両院で審議を尽くし、両院協議会で議論したうえで、最終的に決裂する場合、どうしても決めなければいけないことであれば、いわば危険回避の手段として使ってもいいと思います。

参院の存在意義

 参院の権限については、私は前からもう少し縮小してもいいと思っています。権限が大きいから存在感がある、というのは情けない話です。もう少し議論の中身で存在感を示すべきです。衆院で与党が3分の2以上の多数を持っていてもこれだけ大変なのだから、(再可決に必要な議員数を)2分の1以上に引き下げても直ちに参院の存在意義がなくなるとは思えません。

 今は与党が衆院で3分の2以上の議席を持っていますが、次の衆院選でおそらく割り込むでしょう。そのとき、いったいどうするのか。最終的には憲法改正になりますが、衆院の優越を強めないと将来はやっていけないでしょう。

 1院制や、2院制でも英国のように下院の力が圧倒的に強い国の場合は、野党は、次の選挙に向けてどれくらい国民にアピールできるか、を考えていればいい。でも、片方の院で多数を握り、かなり自分の意見が通るようになった野党は、どこを妥協し、どこを押していくか、の見極めが難しくなるでしょう。

合意形成

 これまでの国会は、政府法案が提出される前に自民党内の事前審査で大方が決着してしまい、野党との論戦は一応するけれども、法案はあまり修正しないで成立させるのが慣例でした。でも、ねじれ状態では、法案提出後に国会でいろいろなやりとりをして合意を形成しなくてはなりません。

 この臨時国会でも、話し合いで成立した法案はありました。ただ、残念なことに、話し合いは国会審議の外で行われ、与野党がどんな主張をし、どの辺りで妥協したのか国民に十分に説明されていません。裏で交渉してもいいが、同時に、国民の前で政策決定のプロセスを演じてみせて記録に残す、ということも民主主義では大切です。与野党が参考人を呼んで公聴会を開いてもいい。国民への説得力も増します。

 今の国会の手続きは、与党と野党ですべてを決めることになっていて、内閣が介入できません。国会審議の場で内閣が直接、野党と法案修正を議論し、実行できるように変えていくことも、合意形成の促進、内閣のリーダーシップのためには必要です。(聞き手 柴田岳)

2008年1月 8日 (火)

この国をどうする(2)

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今日の名言

金の無心というものは、恋をおそう疾風(はやて)のうちで一番冷たく、根こぎにする力も一番強い。

フローベール『ボヴァリー夫人』(下)

読売新聞シリーズ『どうする日本』で興味があり,記述を記しよく勉強したい。

作家・マークス寿子さんに聞く 

“政治家にこそ競争主義を”

二大政党制

ねじれ国会は決して悪いばかりではないと私は思っています。どうしたらいいのか、政治家も、国民も学んでいくことが民主政治を学んでいく基本なんですね。連立の試みがあってもいいし、政界大再編という試みも出てくると思うが、簡単に直そうと思っても無理。時間がかかると思います。

 うやむやに連立してしまうと、なれあいになってしまいます。「危機の状態だから一致してやろう」と国民の前に全部さらさないといけないと思います。もし連立するならば、その時期が終わったら、次の選挙では別々に戦える状況でなければいけません。

 イギリスでは、大連立は危機的な状況の時だけです。戦争とか。大連立の前提には、与党と野党が共に力をもっていて、共通点もあって、いつでも野党が与党に代われるということがある。

 2大政党制は大変難しい。イギリスでは1960年代から70年代終わりまで、労働党と保守党が政権を取り合ったけれど、労働党が「左」に行って、保守党との差が大きくなりすぎて、政権を取るたびに政策が大転換してしまった。国民が混乱すると同時に非常にお金の無駄になりました。いわゆる英国病の原因の一つになったのですね。これを繰り返し、有権者が我慢できなくなって、サッチャーの保守党政権が続くようになったわけでしょう。そこから労働党はいやというほど学んでいます。

日本は「(衆院中選挙区制当時)同じ選挙区で同じ党の人間が争うのは、お金がかかる」という理由で2大政党(になりやすい選挙制度)に変えたわけですからね。2大政党制が本当に必要なのかどうか。中選挙区制だってあるわけです。そういう国はいつでも連立ができる。それをやるというのも一つの手なんですよね。

 日本で今まで不足していたのは与党が野党を育てなかったこと。自民党は「野党が何言ったって関係ないよ」という感じだった。今、民主党が反対したら(法案が)通らなくなって、自民党はいや応なしに真剣に議論しなくてはいけなくなった。真剣に議論することが野党を育てることになると思います。不一致点を探し、どうするか話し合う。民主主義の基本をやっていく以外にない。

 切磋琢磨

日本の政治家は切磋琢磨(せっさたくま)することもなくなっている。一番、競争主義が必要なのは政治家じゃないかと思います。イギリスで見ていると、若い人が政治家になりたいと思ったら、自分の意見が一番近い政党の集まりに出て、自分の意見を訴える。候補者になるには、自分がいかに勉強しているかをみせなければいけないわけです。アメリカの(大統領選における民主、共和両党の予備)選挙は自分の党の中で必死に競い合う。そうやって、強く、賢いリーダーができる。日本では、二世、三世の政治家が勉強もしないで世襲でなれる。二世、三世が全部いけないのではなくて、安易に「あの人のお父さんがこうだったから、息子もこうしよう」としてきた有権者が反省しなければいけないですよね。

へこたれない

これからいろいろなことが待っていますよ。60年間の戦後の問題がすべて出てきている。そういうものを改めることによって、日本全体の回復がある。あわてないことでしょうね。私は「イギリスは英国病でひどい状態があって、どうやって立ち直ったのか」と聞かれるたびに言うのは「英国病で大変だと言ったのは日本の人たちで、イギリス人はそう思っていなかった」ということです。良くなったり、悪くなったりすることもあるのだから、大あわてしなかったことがイギリスの特徴じゃないかと思いますね。日本も悲観論がありますが、先進国の中だってそうだし、まして途上国からみれば、日本くらい良いところはない。へこたれないことですよ。

 イギリス人が当時、大変だと思っていなかったもう一つの理由は、「駄目だったら若者は海外に出ればいい」という気分があったからですね。(日本の)若い人たちに外に出て行くことを教えてやりたいんですね。自分の国にいたら、駄目なことばかり見ていますから、非常にネガティブになります。閉塞(へいそく)的になります。外に出れば、日本の立場は良いのだとわかるし、もっと良くするにはどうすればいいかとか、力で日本が強い国になる必要があるかどうか、家族をもっと大事にした生活をすべきじゃないかとか、さまざまな見方が出てくると思います。マイナスをプラスに転じていけることがたくさんあります。(聞き手 田中隆之)

2008年1月 7日 (月)

この国をどうする(1)

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今日の名言

知と愛とは同一の精神作用である。それで物を知るにはこれを愛せねばならず、物を愛するのはこれを知らねばならぬ。

西田幾多郎『善の研究』

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『個人と』『社会』の調和

今朝は読売新聞のシリーズ『この国をどうする』で、憲法学者・棟居快行さんの話に興味があり記してみた。

現在の日本社会の状況をどう見るかと言えば、やはり「受け身」ですよね。東西冷戦が終わり1990年代以降、日本は世界の中で独自に「自分は何なんだ、一体何をするんだ」「近隣のアジアとどういうつきあいをしていくのか」ということを選ばなければいけなかった。だけど結局、状況に流されるという形でしか対応できていない。それがいつの間にかもう当たり前になってしまっていて、今はもう流されているという感覚もないかもしれない。

 内政を見ても、現在の衆参両院の「ねじれ」は、いわば作られた現状です。小泉元首相が郵政解散をやった時に、国民の公務員に対する反発を巧みに利用した。本来、行政の長である首相が役所を敵にまわして、それを叩(たた)いて点数稼ぐというのは奇妙な現象です。議院内閣制をとる憲法では想定されていない。

 ところが、彼は意図的に演出して、国民の拍手喝采(かっさい)をさらい、それで与党は衆院3分の2となった。参議院では年金問題で、やはり「役人けしからんじゃないか」と国民の側の反発が今度は野党に流れた。その都度、国民が政治家のあおりに乗って、衆議院では与党が3分の2、参議院では野党が過半数という結果が出ているわけで、これは小泉的手法がいわば表に出るか裏に出るかという話だ。

政治の貧困

 普通に、自民党、民主党、あるいは公明党がマニフェストや全体的な根幹の政策をきちんと国民に示して、「あなたは、いったいどちらのメニュー選びますか」ということをやっていれば1、2年で衆議院と参議院の勢力がころっと変わるはずがない。国民は本当にピンポイントの争点に反応している。政治家が大局的な選択肢を国民に示していないからです。これは受け身の反応で政治の貧困です。

 それでも日本社会が「個の時代」とかいって米国のようになったら、日本の今までの良いところ、組織力とかグループ力というのがなくなってしまう。サッカーだってブラジルみたいにやれと言ったって、これではかえって勝てない。個人レベルの技が弱いわけだから、「組織力、チーム力というのは我々個人にとってもメリットだ」。そういう風に再認識してやはり、個人の能力を解放することと今まで通りの組織的な強みを残していくという、両方を社会全体としてやらなければいけない。

別の言葉で

 自由と平等は憲法の基本的価値ですが、今日的には別の言葉に置き換えた方がいいかなと最近思っているんですよ。

 つまり自由とか平等とかを全部あわせた「個人の尊重」というキーワードが一方で必要で、他方で「社会の公正」というのも独立した価値としてある。個人は大事にされなければいけないけど、社会の安全とか、あるいは自分の才覚でいくらお金を儲(もう)けたといっても貧しい人にそれを再分配していくということ。これは「社会の公正」に入るわけです。「個人の尊重」と「社会の公正」の調和をどこに見いだしていくかということで憲法秩序を語った方がいいかもしれない。

 例えば、自民党が「自由だ」という。ホリエモン的な自由だと。実際にはそこまで彼らは踏み切れないし、踏み切ったらよいというものでもない。民主党だって格差是正と言ってるけど、自由を否定して平等だけを追求するのかといえば、社会が停滞して悪平等に行きかねず、そのようなことは望んでいません。

 つまり自由と平等という二つのカードで2大政党をやろうとしても無理だ。だけど、「個人の尊重」に重きを置くのと「社会の公正」に重きを置くのと、どちらを政策の切り口にしているか。例えば、「個人の尊重」にとってインド洋で海上自衛隊の給油を継続するのがいいのかそうじゃないのか。「社会の公正」にとってはどうなのか。個別の政策について、「個人の尊重」と「社会の公正」のどちらのカードを使って国民を説得していくか。そういう風に「自由と平等」というフランス革命的なカードではなくて、もう少し現代の日本にあわせたカードで政策を切り分けたほうが、結局2大政党にうまく移行できる。

 宇宙がビッグバンで最初にふきとんで、ガスが固まって星が出来ていく。今はそういう時期で、自民というガスも民主というガスも実は形が見えていない。これからお互いの距離感というか位置関係ができあがって、国民がどちらを選ぶのかという風にうまく回り出す、それを期待しています。(聞き手 高木雅信)

2008年1月 6日 (日)

アメリカの大統領選挙

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今日の名言

しばしば言われてきたように、「シーザーを理解するためには、シーザーである必要はない」。そうでなければ、あらゆる歴史記述は無意味であろう。

ウェーバー『理解社会学のカテゴリー』

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今、超大国アメリカの動きに変化が起きて世界の時計の針が狂って来たようだ。ブッシュ政権も、イラク・始めテロとの戦いで、冷静さを欠いた傍若無人さが、全世界から批判され来た。中国・ロシアの力も侮れなくなったのも一因だ。また、ブッシュ政権をアメリカの民衆からも批判が高まって来た。

世界の潮流は変わりつつある中で最も注目しなければならないアメリカの大統領選挙である。今年の11月に最終的に決まるまで、目が離せない。

予備選挙は始まった。過去には黒人との多くのトラブルがあった歴史がある。そういう経緯ある大統領選挙について、今朝は、ZAKZAKの記事を参照に考えてみたい。

アイオワ州の党員集会に勝利した民主党のバラク・オバマ上院議員(46)。圧倒的な強さを誇るといわれたヒラリー・クリントン上院議員(60)を窮地に追いやり、米国史上初の黒人大統領の誕生も夢ではなくなってきた。だが、米国と黒人の歴史には、「暗殺」という暗い過去がある。昨年5月には、シークレット・サービスの護衛がついたオバマ氏。アイオワ大会で優位に立ったことで、ますます暗殺の危険度が増してきた。

勝利の歓喜もそこそこに、次の決戦場となるニューハンプシャー州(8日に予備選)に移動したオバマ氏は、「もし、ここで勝てれば、私は次の米国大統領だ」と力強く宣言した。 ニューハンプシャーは、しばしばアイオワと違った結果をもたらしてきた。だが、8日の決戦でもオバマ氏が勝利すれば、関係者の間でも「流れは一気にオバマ氏に傾く」との見方が強い。

作家のロバート・ホワイティング氏は「黒人がわずか3%のアイオワでオバマ氏が勝ったことはすごいことだ。アメリカの人種差別意識が薄くなった証拠だ」といい、オバマ氏の一連の言動に対し、「あのジョン・F・ケネディを彷彿させる」と語った。 だが、オバマ氏への期待が増せば増すほど、暗殺の危惧も高まる。

米政治史を語るうえで、「黒人」と「暗殺」は切り離せない暗い関係があるからだ。 奴隷解放のリンカーン大統領、公民権運動に理解を示したケネディ大統領。黒人問題に深く関わった歴代大統領はいずれも非業の死をとげている。やはり解放運動を推進した黒人指導者、マーティン・ルーサー・キング、マルコムXの両氏も暗殺されている。

大統領を目指すオバマ氏にも、おぞましい死の影が忍び寄っている。 昨年5月には、悪名高い白人至上主義者KKK(クークラックスクラン)のメンバーがオバマ暗殺を計画しているとの情報が浮上し、直後にシークレット・サービスの護衛がついた。

ヤフーの「ANSWERS」(ユーザーからの質問にユーザーが答える掲示板サイト)にはズバリ、「もしオバマ氏がアメリカの大統領になったら、暗殺されるだろうか」との露骨な質問が書きまれた。 これには、「ナンセンス」「おまえはヒラリーを大統領にしたいのか」などの反論が寄せられるなど議論が沸騰した。

また、動画サイトにはオバマ氏が頭に銃口を突きつけられ、卑猥な言葉を投げかけられている写真が流され、削除と掲載が何度も繰り返された。 こうした暗殺情報は、いわゆる無責任な書き込みだけではない。

ニューヨーク・タイムズ紙は昨年10月、黒人の有権者が多いサウスカロライナで、美容院の黒人経営者を取材し、「米史上初の黒人大統領と初の女性大統領のどちらが、彼女たち黒人女性を魅了しているのか」と質問した。当地はオバマ陣営が重点的に“戸別訪問”してきた場所でもある。

61歳のクララさんという女性の黒人美容師は、こう答えている。 「黒人候補が大統領になるというのは素晴らしいことだけど、私はオバマ氏には投票しない。なぜなら、彼が大統領になったら暗殺される。なら、当選させず、彼の命を助けたほうが賢明でしょう」

こうした懸念は、黒人の間に根強くあるのか。CNNテレビによると、米国の白人の65%が「アメリカは黒人大統領を受け入れる用意ができてる」と答えたのに対して、黒人は54%だった。白人にくらべ、黒人大統領の誕生にはまだまだ懐疑的のようだ。

ホワイティング氏は「一般紙やテレビでは暗殺に関した記事はまだない。あえて記事にすることで批判の矢面に立ちたくにないのだろうが、アメリカ人の多くがそれを心配しているのは事実だ」と話している。

2008年1月 5日 (土)

やばいぞ日本経済

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今日の名言

人は、青春のあやまちを老年に持ちこんではならない。老年には老年自身の欠点があるのだから。

エッカーマン『ゲーテとの対話』(上)
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いきなり冷や水をかけられる

4日時事通信

2008年の日本経済は、年明け早々から株安・円高・原油高に見舞われる波乱の幕開けとなった。2日の米市場で原油の先物価格が1バレル=100ドルの史上最高値を記録。これを受け、東京株式市場では年明け最初の取引となった4日、日経平均株価は一時765円の大幅下落となった。また、外国為替市場では1ドル=108円台と円高が進行。株安・円高・原油高のトリプルパンチは、緩やかながらも回復基調をたどっている国内景気にいきなり冷や水を浴びせた格好だ。
昨年6月の改正建築基準法施行に伴う建築着工低迷や、米国の低所得者向け高金利型(サブプライム)住宅ローン問題の影響で、国内景気は不透明感が強まっている。こうした中、円高進行でけん引役である輸出が減速すれば、景気が足踏みしかねない。
 また、原油高が家計に与える影響は、ガソリンや暖房用の灯油の値上がりなどの負担増だけではない。中小企業などではコスト増加を、人件費の抑制で相殺。これが、景気回復の恩恵が「企業から家計に波及する」という日銀のシナリオに狂いを生じさせる結果となっている。
福井俊彦日銀総裁は4日、金融業界の新年パーティーに出席、株価下落に関し「日本経済は先行き厳しいと見る人が多い」と指摘した。その上で、今後の金融政策運営について「中小企業の努力が着実に実を結ぶような政策環境を用意していきたい」と述べ、苦境が続く中小企業にも配慮する姿勢を示した。

年明け早々の冷や水を浴びた日本の経済は、政治が手当てをしないと、大きな禍根を残すこと事になり、福田康夫総理大臣の力量が問われる所だ。防衛省問題・年金問題・21年度予算などもだいじであるが、この問題は瀬戸際に追いやられている多くの中小企業にとって重大な局面にきているので、何とか乗り切らないと日本は沈没してしまう。

経団連の御手洗会長の談話(2日)

① 国際競争力を欠く危機感・消費税値上げと年金新制度。

② 世界の経済成長率平均で5.0パーセント・日本は実質2.0パーセントで日本は激し  い国際競争から、取り残される。  

③ 政治の停滞・環境・イノベーションの日本の更なる促進 

2008年1月 4日 (金)

川の流れと自分の人生

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今日の名言

愛情というものは義理の鎖でもっている、ところで人間の根性は悪であるから、そんなものは自分の都合でいつでもたち切ってしまう。

マキアヴェッリ『君主論』

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今朝NHKのラジオ深夜便を聞いていたら、美空ひばりの『川の流れのように』が流れていた。美空ひばりと言えば、昭和28年ごろ兄が買ってきたレコードに「越後獅子の歌」を何回も何回もかけて子供ながらに覚えてしまった、思い出がある。昭和53年の新宿こま劇場で会社の家族慰安会で、“美空ひばりショー”を借りきり五ステージ(2日半)を行い、係りで、準備したことがある。サインをももらっていまも大事にと額に入れてある。29年前になる。

        秋元康作詞・見岳章作曲

      知らず知らず 歩いてきた
     
細く長い この道
       振り返れば 遥か遠く
       故郷(ふるさと)
が見える
       でこぼこ道や 曲がりくねった道
       地図さえない それもまた人生
       ああ 川の流れのように ゆるやかに
       いくつも 時代は過ぎて
       ああ 川の流れのように とめどなく
       空が黄昏(たそがれ)に 染まるだけ

       
生きることは 旅すること
       終わりのない この道
       愛する人 そばに連れて
       夢 探しながら
       雨に降られて ぬかるんだ道でも
       いつかは また 晴れる日が来るから
       ああ 川の流れのように おだやかに
       この身を まかせていたい
       ああ 川の流れのように 移り行く
       季節 雪どけを待ちながら


       
ああ 川の流れのように おだやかに
       この身を まかせていたい
       ああ 川の流れのように いつまでも
       青いせせらぎを 聞きながら

この歌を聞いていて、詩の素晴らしいことと自の過去を振り返り、人生を見つめ直してみたい、と思った。感動した。

2008年1月 3日 (木)

一日一生

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今日の名言

ある考えに支配されると、どこへ行ってもその考えが表わされているのに遭う。風の中にまでその匂いが入っている。

トオマス・マン『トニオ・クレエゲル』

一日一生

今朝NHKの深夜便心の時代で松原泰道(南無の会会長)の『日々是好日』のテーマで放送があった。満100歳の松原泰道先生御自坊、龍源寺である。

『人間としての生き方』より、過去はもう過ぎてしまいました。明日以降のことはどうなるか誰にも分らない。だからこそ、何よりも今日“ただいま”を大事にし、今日一日を自分の一生と思って、充実させて生きていく。それが、満足できる生を送る唯一の条件、すなわち、満足できる死を迎える唯一の方法である。実際に生きられるのは今だけで。幸せを感じられるのも今だけである。

幸せになるためには、「今を大切に」できるようになることが肝心である。

 そのためには、まず、小さいことに“くよくよ”“イライラ”しない。まだ先のことで不安に怯えない過ぎたことでくよくよしないことが大事である。

さらに、「今日一日を一生」と思い、一日一日を大切に生きられるようになれたらいいのではないだろうか。
朝起きた時に、「きょうも生きていて幸せ」「きょうはこれを頑張ろう」「きょうはこれを楽しもう」などと考える。
一日の終わりに、「きょうもよくやった」と充実感を感じる。
 寝る前に、「きょう一日無事に生きられた」「幸せだなぁ」などと、幸せの気分で眠りにつく、こんなふうに一日一日を過ごすことができたらいい。

一日を悔いなく充実して生きることが、満足な生、満足な死にもつながるのではないだろうか

今朝は、こんな事をよく、かみ締めてこれからの人生の糧して生きていこうと考えたみた。

2008年1月 2日 (水)

エネルギーの問題

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今日の名言

子曰(いわ)く、書は言を尽くさず、言は意を尽くさずと。

『易経』(下)

3E

3つのEについて考える。これからの日本のは、経済・エネルギー・環境の3つの問題をクリアーしていかないと先が見えない。Economy・Energy・Environmentは夫々関連がある問題である。

日本は、エネルギー資源がない。エネルギーを原子力でカバーすればいいじゃないかと言うことで、原子力発電を推奨して来た電力会社であるが、確かに火力発電に比べるとはるかにCO2の排出は少ないが、使い済み放射性廃棄物の処理の問題・原子力発電の地震対策の問題などがあり、コストは高く環境にも未解決の問題がある。

いま世界の石油の供給国で国情が不安定である上に中国・インドなどの大国の使用料が急増している。そのために、石油の価格が暴騰している。そのため、関連産業は勿論、生活物資が値上げが始まっている。

一方環境は、日本は京都議定書は、守れない。昨年のオーストラリアでの会議では、数値目標を出すのを、アメリカと並んで日本はボイッコットした。今地球規模で温暖化が問題である。

色々考えたが、日本は、Economy Energy Environmentの3っつが絡む問題を解決するには政治決断で、対応し、世界のリーダーであることを実証しなければならない。

どうも、アメリカに賛同しているようでならない。日本は独自のリーダーシップを発揮し特に、将来の温暖化防止対策で、技術をビジネスすることであると思う。今年は、道爺湖サミットがある。北京オリンピック、アメリカの大統領選もあり、今年は国内外に大きなうねりが来る。いまこそ政治のリーダーを発揮する大きなチャンスである。

 

 

2008年1月 1日 (火)

平成20年(2008年)元旦

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今日の名言

偉大な人物が化石になり、人々がかれを偉人と称するときが来れば、かれはすでに傀儡(かいらい)に変じているのだ。

『魯迅評論集』

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明けましておめでとうございます。

2008年(平成20年)東京地方晴れの天気に恵まれたが、全国的には、猛烈な低気圧で、日本海側は大荒れのようだ。北アルプスの登山しているグループが雪崩で4人が遭難したと5時のNHKのラジオのニュースが流れた。今年も前途多難?の年になるのかな・・・

普段の生活が(良くても悪くても)長く続くとこれが何にも感じなくなるから不思議だ。環境が悪くなって、いたたまれない所でも、慣れてきてしまうと普通に暮らしてしまう。

『慣れは怖い』あるサラリーマンが、最初はきれいな花のある街に住みたいと言って長く住んでしまうと、だんだん花がきれいに思えなくなり、「花をきれいに思えなくなっては、おれはもうおしまいだ」と勤め先を辞めて、他の仕事を始めた。するとまた、花がきれいに思えるようになったという。

心にゆとりがあると、自然の美しさに目がいきやすいと思う。サラリーマンはいつしか大事な人間の心の豊かさ、幸せ感を失ってしまっていた。例えば金もうけに脇目も振らずでは、自然の美しさに限らず、大事なものを見落としてしまうかもしれない。正月の休みは生きる速度を落として、周りの景色を楽しんでみる心の余裕を持って過ごすことだ。発見があるだろう。

このことが、とても大切であり、今年は心のゆとり、花を美しいと感じ、犯罪があれば悲しみ、北京オリンピックで優勝すれば喜ぶ、『感性』を心持ち続ていきたい。

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