« 新しい道徳教育への提言(2) | トップページ | 新しい道徳教育への提言(4) »

2007年12月19日 (水)

新しい道徳教育への提言(3)

今日の名言

自分のつらが曲がっているに、鏡を責めて何になろ。

ゴーゴリ『検察官』

041

いま、道徳教育の必要性が大きく取り上げ、問題視されてきつつある。そこで、下記資料を基に勉強してみたい(シリーズ)

3、宗教心を尊重し、宗教の意義などについての教育を行う。

監修/上寺久雄(元兵庫教育大学学長)

編集/山口彦之(東京大学名誉教授)

発行/世界平和教授アカデミー (2007-1-20刊行)

宗教は、人間生活にとって重要な意味を持っており広い意味での宗教心は人間の本性に基づくもので、人が生きていく上での不可欠のものと言える。この「宗教心」にかかわる教育なくて、「心の教育」は成り立ち得ない。また、冷戦終結後、「文明の衝突」時代といわれるように、国際社会において、これまで以上に宗教の持つ意味が大きくなっている。しかるに、我が国では宗教に関する教育が全くなされていない。このことが、オウム真理教事件を生んだ原因の一つともなった。宗教に関する教育の不在は、個人が生きる上でも、国際社会においても、さまざまな歪みを生むと考えられる。 日本国憲法及び教育基本法は、ともに宗教の価値を認め、これを重視している。しかし、「政教分離」が過度に強調されてきた結果、禁止事項ばかりの行政となり、教師たちは宗教関係の教育を避けるようになった。それは、宗教心だけでなく教育そのものをも窒息させた。宗教心の教育とは、生命は偶然の存在ではなく、人間は人間を超えた存在によって生かされているという畏敬の念、感謝の心、愛、尊敬心、善く生きようとする心などを教えるもので、一つの宗派に偏らない普遍的なものである。これは、「心の教育」の重要な柱の一つであり、憲法はこのような意味での宗教心の教育まで否定しているものではない。 宗教の意義や、既存の宗教に関する基本的知識の教育は可能である。韓国では、教科の一つとして小学校から高校まで「宗教」があり、宗教全般についての知識教育を行っている。我が国も教科の一つとして、「宗教科」を設けるべきである。 人間は、大自然に触れることによって、何か偉大な存在を感じる心を持っている。これを大事に伝えていくことが、日本の伝統文化でもある。例えば、自然環境問題もこのような立場から考える必要があり、宗教教育の基本の一つとなり得る。

4、「制度的教員養成」を「全人的教員養成制度」に改め、教師の力量の向上を図る。

「教育は人なり」と言われるが、教育改革の柱は、公共に奉仕する心を持ち、適切な資質を備えた教師の養成に尽きると言っても過言ではない。教師は、まず人格、人間性などの適格性が第一に問われるべきである。即ち、教師は、教育学・教育心理学・教科などの職業的専門家であるとともに、何より人格者でなければならず、道徳性についての深い造詣を持つべきである。このような教師を「全人的教師」と呼び、新しい時代の教師像としたい。

・戦後、教師の力量が著しく低下したことは否めない事実であり、その背景には教員養成制度の問題がある。現在の教員養成制度は、大学で単位さえ取れば教師になることができる開放型の、いわば「制度的教員養成」である。この制度は、理念は素晴らしいが、実際にはいわゆる「でもしか教師」しか生まない。単に偏差値が高く、採用試験に合格しただけの教師をつくる現行制度を改め、「全人的教員養成制度」にしなければ、ふさわしい資質を備えた教師を養成することは困難である。また、教師でなかった人も教師に登用する道を開くなど、教師の資格を柔軟に考えることも、検討すべきである。かつて、臨教審などでそれらのことが謳われたとき、私立大学や国立大学の反対で実現できなかった。しかし、蛮勇をふるって実行する必要がある。 教師に対する適正な勤務評価方法が確立していないために、制度の上に安住している者もいる。しっかりと教育している教師が、正当に評価されるシステムを導入すべきである。

« 新しい道徳教育への提言(2) | トップページ | 新しい道徳教育への提言(4) »

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 新しい道徳教育への提言(3):

« 新しい道徳教育への提言(2) | トップページ | 新しい道徳教育への提言(4) »