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2007年10月14日 (日)

今日の名言

人間という者は、少しやさし過ぎるくらいでなくちゃあ、十分やさしくあり得ないのだ。

マリヴォー『愛と偶然との戯れ

21

昨夜は、夢を見た。広い何処までも続く浜辺を歩いている。もう秋で海には誰もいない、唯一人で歩いているのだが、振り返ってみたら、自分の足跡が続いていた。そして、海は北風を岸に向かって、波しぶきとなって打ち上げられていた。と思ったら寒さで目が覚めた。時計は2時丁度だった。布団を剥いでしまったようだ。

ラジオを聞きながら、ブログを記しているのだが、3:07分地震情報があった。島根県地方だという。震度3だ。地震はいつ何処でおこるか分らない。備えておかなければと思うのだが・・・

神応寺の和尚の講話より

夢路を出で、夢路に至る人生の旅
 徳川三代将軍家光の時代に生きた沢庵禅師は「夢」の一字で一喝して73歳にして逝ったと伝えられています。この沢庵禅師は、辞世の偈である「夢」の一字をもって、千言万語をもってしても、とうてい説きつくせない真理を説いています。

 「百年三万六千日、弥勒・観音是非をみる、是もまた夢、非もまた夢、弥勒もまた夢、観音もまた夢、仏云く、まさに是くの如き観をなすべし」 と添え書きして、沢庵禅師は「夢」の一字を辞世の偈として遷化されたそうです。
 「まさに是くの如き観をなすべし」とは金剛経の 「一切の有為の法は、夢・幻・泡・影の如く、露の如くまた電の如し、応に是くの如き観をなすべし」 という偈からでている言葉だといわれています。

戦乱の世に生きた武将たちも、人生は夢の如しと、辞世の句をよんでいます。
 織田信長  「人間五十年 下天のうちに比ぶれば 夢幻の如くなり、一たび生を得て  滅せぬもののあるべきか」

 明智光秀  「逆順無二の門 大道は心源に徹す、五十五年の夢 覚来めて一元に帰す」
 

上杉謙信   「四十九年 一睡の夢 一期の栄華 一杯の酒」

 豊臣秀吉  「露とをち露と消えにしわが身かな 浪速のことは夢のまた夢」  

 百年三万六千日を生きたとしても、過ぎてみれば夢の如し、夢のような人生です。人は生前のことは知らない、夢の世界から生まれてきて、物心ついて自分という存在に気づく。人と夢と書いて儚いというが、人生は短くて、あっという間に過ぎ去っていく、そして人はまた夢の彼方に去っていく、夢路を出で、夢路に至るのが人生の旅です。
 そんな儚い一瞬の人生を、居眠りしていては生まれてきた甲斐がない、目覚めよと、沢庵禅師は「夢」の一字で一喝されたのです。

夢と言えば、ヨーロッパでは、フロイトやユングを思い出す。日本では、あまり知られていないが、今から830年ほど前に生まれ、60歳で没した人で、京都高山寺の明恵房高弁上人に、師こそ、ご自身の見た夢を克明に記した人であり、『夢記』という著述がある。

時代によって持つ意味は変わるものの、≪夢≫も大きく意味合いが変った言葉だ。古来より、禅宗では、人が亡くなると、床の間や枕もとに、「夢」という字を掲げたものだった。
人生の軌跡を夢として把握した。人の生そのものが、≪夢≫であったなら、生そのものの≪事実≫は何処にあるのだろうか?

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