独り暮らしを思う
今日の名言 人間はおのおのものの見方をもっている。そして同じ一人の人間でも、時が変われば同じ対象に対して違った見方をする。 |
ベッカリーア『犯罪と刑罰』 |
一人暮らし、ちょっと慣れれば何とかなるかな・・・という心境である。
しかし、昔から
一人(ひとり)口(ぐち)は食えぬが二人口(ふたりぐち)は食える。 |
ということだが、長くは生活は自信がない。悲しんだり、怒ったり、喜んだり、楽しんだりしながらの夫婦である。いわゆる喜怒哀楽を共にすることで人間として成長するのだと思う。このところ何時まで一人暮らしが続くのか分らないが、2・3日続いている独り暮らしで考えてしまった。まあ・・・何とかなるとおもうが・・・ いづれ将来そうなるかもしれないが、以下独り暮らしをしている人の日記を見てなるほどと納得した。
この方、民生委員なのか、ボランテアで独り暮らしの面倒見ている方なのか?
自分を語ることって、そして語れることって、更に語れる相手を持つって、人を助けるって続くと思いました。独り暮らしのお年寄りの家に訪ねる機会があります。
身体を気遣って、「どうですか?」「いかがですか?」「体調は?」などと訪ねると、思った以上のことが返ってくる場合があります。老人性鬱病の持病があり、精神科に通っているのですと、ケロッと言われると、思わず、「本当ですか?」と、今、話す相手がそんな症状を持っていたことなど想像が付かないほど、ビックリするときがあります。
本人も、「私は、何の隠すことも嫌だからと、どんどん話してしまうんです」と言う。その話の内容は、自分に降りかかってくればゾッとする内容の怖い話しだ。
家の中で、独り閉じこもって、自分が自分を外部と閉ざしてしまうことに、抵抗できずに、その家の中も、自分が居る場所すら我慢ができない場所と変わって、ひたすら震えながら気分が過ぎ去るまで、閉じこもることしか選択肢がない気持ち。
その時の自分が何をしでかすかわからない恐怖。それこそ、刃物を持ち出し自分を傷つけるか、一歩外に飛び出し、他人に抱きついて世間の避難を浴びてしまうかも知れないことを、高らかに話してくれたりする。
七十才近くのお年寄りの言葉にしては物騒な話しを、開けっぴろげに話されることに、この人の生命力を思います。それはうかがい知れない過ごしてきた苦しい時間に、耐えて変わってきた自分を、「隠してもしょうがない」「敢えて、話せる相手には、話してしまうんだ」の言葉が表しています。
そうなんです。こうして自分のことを、誇張しながら?話ができることに、いや、できるようになったからこそ、鬱病という怖い病気と付き合うことの姿勢がうかがえて、この人を、たくましく感じるのです。
とある女性は、「何でも聞いて下さい」と、言う。亡くなられた夫の話をし、こうして上がり口で対話していたことを思い出しながら、話していると、急に涙を見せながら、「ご免なさいね。涙もろくなりまして」と、時間を忘れて話し出す。
「そうなんです、そうなんです」と、何度でも話す。話すことによって、独りぼっちになってしまった今の自分の、後戻りできない自分の、どう過ごして行けばよいものか、前に進めない揺れる心を表している。これが、独りになることの苦労、試練なのだろうと、辞して思います。
お年寄りの、と言っても、六十五才を過ぎての独り暮らしが、多くなったと実感する、今日この頃なのです。
近所にも、独り暮らしの老人4・5人はいる。これから増えてくるだろう。自分も市から委託された、「独り暮らし見回り隊」の一人である。防災・防犯・非常時の備えなどのサポートである。独り暮らしの問題は大きな社会問題で、政治的な配慮が必要と痛感する。
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