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2007年2月15日 (木)

片倉城関連の歴史上の人物

鎌倉時代寿永4年(1185)~の平家滅亡~明徳3年(1393)の南北朝の合一までを鎌倉時代という。

社会の大変動による激動期になると貴族に代わって武士が大頭し一般民衆の意識も高まるにつれ無常観に基づく、末法思想が流行、浄土信仰が、一段と高まっていった。古代からの土地制度が崩壊し、武士、豪族の進出によって、国家的仏教は、無力化し、民衆は目まぐるしい変動に生き抜く基準や、法則、倫理が必要になって来た。

新しい価値観、新しい人生観、新しい世界観を求める時代的背景が渦巻き、古い観念や倫理、体系を捨てた新しい思想が求められる真っ只中で、鎌倉幕府は開かれ、仏教が新しい時代を迎えるのである。

先ず片倉城は、鎌倉時代の有名な人物で大江広元に関係する子孫が城主となっていたとの事で大江広元について調べた。

歴史上の超有名な大江と言えば、歴史の教科書に出てくる大江は、この人をおいていない。大江匡房と大江広元。広元(1148-1225)は、匡房の子、恇光の子で教科書には、おじいさんと孫で一緒に出ているわけで、父の死後母が広元を連れて明法博士、中原氏に再婚したたため、その養子となって一時期に中原姓を継ぐのであるが、再び大江姓に戻っている。大江の文章道、中原の明法道をマスターした広元は、京で冷静で明哲な実務容寮として頭角を表したが、寿永3年に源頼朝に招かれて鎌倉へ下り幕府の要職に着く事になる。

平氏討伐に際しては、京都方との交渉、御家人の論功行賞、関東武士の所領の裁定などの実務家としての才能をいかんなく発揮した。頼朝と義経の兄弟喧嘩(と言うにはかなり深刻)の時に義経から、腰越状を預かったり、義経亡命後は、天下の安定を図るには、地方を収めねばなら無かった。(腰越状=(大辞林)では、文治元年(1185年)平家討伐後、源義経が、兄頼朝の命に反したという理由で鎌倉に入る事を許されず、無実を訴えて越越から、大江広元あてに、頼朝へとりなし依頼して出したと言う書状)

そのための手法として、「守護地頭」の策を頼朝に勧め、採用されている。ところが、地頭の苛斂誅求=[かれんちゅうきゅう《「誅」は責める意》情け容赦もなく税金など取り立てること]。年貢の横領が頻発して、その対策にも頭を痛め、合わせて京都の朝廷の不満を収めるのにも奔走している。奥州藤原氏の征伐も広元の提案と言われ、後には梶原景時滅亡にも手を貸したりして、かなり陰謀上手だったと言った評価もある

頼朝の死後は、あんまり、頼りにならないので北条氏と組んで比企能員(武蔵国比企郡の豪族で、実朝の乳母比企禅尼の養子となる)と、頼家を廃して実朝を立てる。実朝を指導し、武芸を推奨して幕府の権力維持に(北条独裁体制)にも尽力し和田合戦(横山党=八王子)が滅ぶ原因となった1213年5月2日に鎌倉幕府有力御家人、三浦氏の一族和田氏(三浦半島)が横山党と結び、執権北条義時を打倒するために起こした反乱)を乗り切ったが、実朝は広元の中止進言にもかかわらず、鶴岡八幡宮に赴いて、大銀杏の陰にひそんで待っていた公暁(くぎょう)=(頼家の子・八幡宮の別当になる)に斬殺された。(後逃れて頼った三浦義村の部下に殺される)

後羽上皇が荘園の地頭問題で幕府に迫った時は、箱根、足柄に篭って迎え撃つという大勢にあった。幕議をリードして、先制攻撃を主張し、北条義時とともに自ら出撃し承久の乱[承久3年(1221年)後鳥羽上皇幕府勝利の基を作ったとされ、その戦後処理も鮮やかであった。義経没するとその子泰時に執権職を継がせるなど78歳で亡くなるまで鎌倉幕府の大江広元ありと言わしめる大活躍をした。

昨夜の雷を伴う雨もすっかり今朝は止んで、雲ひとつ無い晴天となった。但し、北風が強く、冷たい。

昨夜、紀子から、美空の件で電話があった。内容はどうも、下腹部がおかしいと言う事で医者に見てもらったが、脱腸であり、そのまま放置しても、自然治癒は5%であり、手術した方が良いだろうとの診察であった。2/27入院28日手術する予約をしたとの事である。旨くいけば、3/2に退院出来るのではという事である。

生活費と入院見舞い金(100,000円)と妻の検査(2/21医療センター心臓検査)35,000円ぐらい掛かるという。美波の入学祝い(50,000円)で計200,000円を引き落とす。+昌子宅に2/24に行くため20,000円も含む。

朝から、パソコンで大江広元の事を書き写しで午前中やりっぱなしだった。午後より歩きで、会館チェックし、塚本議員の事務所に寄る後三ツ星に行き、野菜を買って、また事務所に寄って来る(風が冷たかった)。篠崎さん、石田さん、染谷さんと話家に4時半になった。

確定申告の税金の還付金が計算通り振り込まれていた。(通知も来た)

  雨降って  冬の殻取る    春一番

  春雨に   化粧直して    白き富士    

  東風吹いて 梅花に露の   光揺れ 

  東風吹くや 山一ぱいの    雲の影(漱石)  

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