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2007年2月 1日 (木)

絶不調と言うとき

今日は、絶不調の日だ。未明から、トイレに行きお腹の調子が悪い。まあ・・・そういう時もあるだろうと思いたい。

だから、何時ものパソコンいじりも、全くしたくない。少し寝るかの心境だ。ゴミ拾いを済ませ、市役所にちょこっと共済を依頼してきて、帰りに会館の寄り、チェックして来る。多摩信に行き、記帳しながら10,000円を預金する。(残額合計19,000円位ないと)

奈良さんに、会館地主のお寺の今治さんに、老人会で挨拶に行くので、お酒一升もって行くとのことで、旭やで買い渡しておく。午後から寝巻きに着替えて5時までベットで寝る。その結果大分良くなった。

「罪意識の欠如」(ある記事から、感銘を受けて記した)

最近のニュースで、仕切りなしで伝えている事は、また同じ事を繰り返している事故や犯罪だ。

少しもなくらない、飲酒運転の事故。学校給食費を払わない親と、その言い訳。不正が次々と発覚する政治家・・・。

日本人のモラルの低さ、罪意識の欠如、日本人の良心鈍さが問題になって来ている。

この「良心の責め」「罪責任の開放」は、「心の癒し」にも大きく関わっているが、日本社会では、取り上げられない。日本では、「良心」について書かれている本が殆ど無い。動物は、「良心」を持っていない。犬や猫は罪意識はない。

誰でも、経験はあると思うが、悪いことをしたとき、心の奥でドキドキ「いけない」という別の声が聞こえる。これが、「良心」で、動物にはない。人間だけのものだ。

それなのに、「良心」が、何かを知らない、それは、おかしい。

人は、自己防衛するために、他を攻撃し迫害する。人間はみな「良心」を持っている、無いのは動物である。良心を無視し罪を認めないで、罪を隠し自己を正当化し、更に責め攻撃し合う、それが混乱した今の社会の姿だ。

「良心」を大辞林で引くと、善悪・正邪を判断し、正しく行動しようとする心の働き。

良心に恥じない自分であろうとする時、良心は自我に負けないようにする理性でもあり、善悪の相対する心に対する抑制真理である。また純粋に優しさや、思いやりとして働く心も良心となる。そのように良心と一口に言っても、色々な心の働きがそのまま含まれ、では良心と本心は一緒ではないのか、と言う事になるが、勿論それが重なって働くもの、根本的な所で、少し違う意味がある。良心が主に肉体生活を基準にして理性と共にある。のに対し、本心は生命の根源と繋がっている。内奥の響きで内奥のいのちの泉のようなところのひとつの心と言える。

今日ゴミ拾いをして、中年のご婦人に云った。自分の家の前だけでも、誰もが掃除をしてくれると、町は綺麗になるのだが、と、これからは、「自分のいえのまわりを掃除しよう」をテーマに進めて行こうと考えた。

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