瞽女(ごぜ)小林ハルの事に、以前ラジオで聞いた事があり、調べてみた。
辞書には、《盲御前(めくらごぜ)の略》鼓を打ったり、三味線を弾いたりなどして、歌をうたい門付(かどづ)けをする盲目の女芸人。民謡、俗謡のほか説経系の語り物を弾き語りする。と書かれていた。[門付け(人家の門前に立って、音曲を奏するなどの芸をして、金品を貰い受ける事、また貰う人)]
彼女は明治33年(19001年)に生まれたハルさんは、生後間もなく白内障のかかり、両目を失った。ハルさんに厳しく裁縫を仕込む母、外聞が悪いと幼いハルさんを奥の間に閉じ込める祖父・・・
「おかなくてあんまりきつい母親だから本当のおっかさんだろうかと思った。」
そして母になった真実の母の思い・・・
「おらの生み親は、目の見えない子供を持ってどんなに苦しみしをしたかと、ようやく解かった。自分は母に愛されていたんだ。」
そして、引き取った幼い子供をわずか2年で失った哀しみ・・・彼女は言う。
「おらは本当に涙がこぼれるような事があっても、涙隠してきた。泣いてしまったら、唄にならねえから・・・」
すべての技巧を捨てて唄い続けるハルさん、その唄は、時を越えて人々の心を捉え続ける。
生きてる限り、全部修行だと思ってきましたが、今後生まれてくるときは、たとえ虫になってもいい、目だけは、明るい目を貰いたいもんだ・・・」。
戦後まだ日本各地に残っていた旅芝居や、大道芸。その中でひときは異彩を放つなが、三味線音楽を疲労しながら村々を巡っていた「瞽女」たちだ。
その多くは、目の不自由な女性たちであり、彼女達は、3~4人で、一組となり、山や谷を越えて村人に民謡や、流行歌、そして他所の土地の情報を運んでいった。
ハルさんを、不憫に思った父親は、人目を盗んでハルさんを抱いたりしてくれたが、彼女が2歳のとき病でこの世を去った。
母は、口癖のようにハルさんにこう言った。
「ハル、おらが死んだら、お前は一人生きていかんならねえ。辛い事があっても、辛いと言うな。腹が減っても、ひもじいと泣いちゃならねえ。」
そんな5歳のとき、村にやって来た瞽女の親方に祖父は、ハルを弟子にするように依頼。20年の年季奉公が決定したのだ。そして7歳の時から、三味線の稽古が始まりハルさんの血のにじむような修行の日々が始まった。
三味線を弾くハルさんの細い指を親方が押さえ込み、道を辿らせる。ハルさんの手はいつも血にまみれた。
そして「寒声」と呼ばれる真冬の稽古は、毎日早朝や夜、川の土手に薄着姿で立ち、唄い声をつぶす。
そんな修行に明け暮れるハルさんが、初めて親方に連れられて旅に出たのが9歳の時、小さな体に自分の分と親方の分の荷物を背負って旅立つ娘を見ながら、母親が何時までも身をよじって泣いていたことをハルさんが、知ったのは後半のこと。
瞽女としての旅はラクではない。足の豆が痛かろうが、辛かろうが、ひたすら山を、谷を歩いて行く。新入りは、ご飯にもろくにありつけず、やっと見つけた宿にも泊めて貰えない事が幾度もあった。
1年の300日を旅から旅へ、ハルさんの10代は瞬く間に過ぎていった。少女から娘へと、女性へと成長したハルさん19歳の時事件は起きた。若く芸達者になったハルさんに嫉妬した姉弟弟子が、些細の事で逆上。ハルさんを、突き飛ばし、そして体中を力任せに突いたのだ。!!
治療をした医師はハルさんに、「子供を産めない体になった」事を伝えた。悲しみも喜びも、女性ととしても、情念も、旅の空に棄てていくしかなかった。・・・
26歳になり、年季奉公が明けたハルさんは、晴れて独立。そんな時、思いがけない話が舞い込んだ。
母親と死別した2歳の女の子を養子に貰って欲しいと言う話だ。ハルさんは、喜んでその子を引き取った。
「母ちゃん」・・・そう呼ばれる時の何とも言えない甘い思い・・・初めて味あう母としての幸せ。その時ハルさんの記憶が蘇った。これが、実の母かと思うほど厳しかった母、しかし、自分の死後、全盲の娘が一人で生きて行けるようにと、心を鬼にした母の本当の気持ちが、理解した瞬間だった。「自分は、母に愛されていたんだ・・・」
ハルさんが、養母となって2年後、風邪をこじらせた養女は、4歳の幼い命を閉じた。「本当に涙がこぼれるような事があっても、涙隠して来た。泣いてしまったら、唄になんねいから・・・。」30代40代のハルさんは、人に求められるままに、唄い、どんな者でも拒まず、弟子を引き取った。
目が見えない者が、生きるには、人に与えつくせと言う祖父と母の教えを信じるハルさんは、苦労を自分で買ってしまうのだ。「良い人と歩けば祭り、悪い人と一緒は、修行。難儀な時やるのが仕事」
終戦後、高度経済成長の時代を迎えた日本には、農村の隅々まで車が普及。昭和48年のある朝、ハルさんは、近所の神社にお参りをし、一曲奉納。そして、こう言って手を合わせた。「瞽女は、今日でさよなら」
そんなハルさんが向かった先は、老人ホームだった。人に迷惑をかけず、居住まいを何時も正し、ひっそり生きるハルさん。
しかし、最後はの門付けをしているハルさんの様子をテレビで放映した時のこと、研究者達は、未だに瞽女文化が死んでいない事と、ハルさんが、克明に昔の喋りを記憶している事に驚いた。そして、昭和53年ハルさんは、瞽女文化継承者として国の重要無形文化財、いわゆる「人間国宝」に選ばれた。
「生きてみなけりゃわかねえ、ほんに思いがけないことばかり・・・」これをきっかけにハルさんは、再び三味線を取る事になる。求められれば、精力的に唄いに行き、人々に喜ばれる。
そんな昭和57年、ハルさんは、周囲の勧めで、家を出て以来戻る事もなかった、自分の実家に里帰りし、母の墓前に始めて立った。「おらの中に、母は二人いる。」
「死んだ本当の母と、おらの中の生きている母と・・・」全盲の闇の中から放たれる光、ハルさんの人生は決して一人のものでなく、亡き父母や、祖父と一緒に巡ってきた旅だったのかも知れない。そして、平成17年(2005年)4月25日105歳で亡くなった。
天気の方は、予報通り、久しぶりの雨となる。ぱさぱさだった砂利道の道路が一息ついたようだ。何か春一番という事でもあるとの事だ。そうして春は一歩一歩近づいて来るのだ。そして、春雷かな?
枯れ草に 付いた雫も 春めきて
春めきて ものの果てなる 空の色 (蛇芴)
春の雨 生なるものが 蘇える