少年時代の(トロッコ)の思い出
今、なんのためらいもなく、暮らしのなか浸っている生活環境は、そこに住んでいる人々が、便利にしたいとの思いで、山を削り、川に橋をかけ、トンネルを掘り、道路を作って来た。そして生活向上に努力してきた、歴史があり、思いある。
そんな道路を作る時期のことの思い出を記してみたいと思う。
国道が(16号)南北に伸びて八王子方面から横浜に続くつ、通称横浜街道(その昔はシルクロード)と言われていた。その国道を十字に東から西に横断して作られた都道(川崎街道または、北野街道とも言われている)の作られた時のことを、芥川龍之介のトロッコを読んで思い出した。
確か昭和20年後半だと思うがそこは、関東大震災があって雑木林の山があって崩れたままで少し土を取り除き畑や、田んぼを作っていたが全部取り除いたわけでもないまだ大きな土の塊や赤土の中に石が出ていたようなところを平らにし道路を造ろうと言うわけである。
今のような、トラクターやブルトウザーの建設機械がなくもっぱら人力しか便りにならないモッコや、ヨイトマケなどの時代のこと、道路作りの人策は、北国の出稼ぎ労働者の落ちこぼれ?(1年中いたから)工事現場に飯場があり、そこには飯炊き女がいて、そこに働く人夫の世話をやいたりしていた。
そこの工事現場の唯一の大型起動力というか、道具というかそれは「トロッコ」だった。レールを轢き少しずつ伸ばしていき土や、石をを埋めて平らにして固めるという作業だ。だから、芥川龍之介の小説「トロッコ」と同じなんだと思う。(小説の方は小田原から熱海)
工事は、半年近く掛かったと記憶しているが、工事は朝から夕方まで行って「トロッコ」の枠板に土砂を載せ4.5人で後を押したり、走らせて低いところに、「おんまける」作業である。仕事が早めに終ると、近所の我鬼どものもってこいの遊びばとなった。皆で高いところまで押して上がり、乗って走るのである。赤土のついた台車は重い、またみず気があり「べとべと」であるが、遊びが面白くズボンやシャツが泥だらけになってもお構いなしだ。とても楽しかった記憶がある。
今だったら、危ない、服が汚れる、そこまでの知恵はないので遊べない。しかし、その「トロッコ」遊びは4・5人いないと出来ない遊びである、まして、レールから車輪が外れた時には復旧するのには、全員でしないとレールに乗せられないし乗せるのが、大変だった。
遠い昔の思い出と、芥川龍之介の「トロッコ」を深夜便の番組で孫の芥川麻美子さんの思い出に話が出てきた。
今朝は、3時に起きて記してみた。
突然だが、生あるものいつか死ぬ、形あるものいつか壊れるとお釈迦様が言った。という事だが、10年一昔で我が家の色々な設備、家の傷みが来て悩みの種が出てきた。
先ずは、●トイレ(水が漏れてきてマットが濡れてしまう。
●お勝手の床がたわみがでてきて、不安。
●テレビがどうも操作が旨くいかない。
●お勝手の証明のコードを取り替えないといけない。
●車庫の物入れ戸棚の腐食して、交換しないと。
ざっとこんなところだが、悩んだってしょうがない。行動に移さないとね。
今朝は時雨れそうで寒い。
短日や 冬日残して 月登る
賀状のみ 交わし再び 逢い得ざる
枯れ葉積み 尾ひれを見せて 水静か
名も知らぬ 鳥の声降る 枯れ野かな
霜の橋 佇む人や 着信音
春知るや 花一輪の 軒の下
小春日や あくびと涙に 皺の顔
冬畑に 鳥に残せし 青菜かな
思い出の けもの道なる 枯れ葉踏む
午前中会館チェックし、午後から散歩打越~北野~淺川~大和田橋~淺川大橋~JR八王子駅~百合子宅~自宅ちょうど2時間かける。途中都饅頭を買い百合子の所にあげる。
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