« 治自体の組織運営(ガバナンス)評価 | トップページ | 美しさ日本 »

2006年10月21日 (土)

枯れ毬栗の或る風景

冨士の見える湯殿川を毎日散歩して気が付くと、何時しか栗林の栗の実は無くなり、落ち葉と一緒に栗の毬(いが)大きく弾き飛ばした抜け殻の枯れた針を残したまま、あちこちに散乱している。もうゆさゆさとした青い葉は無い、短い夏を一生懸命闘って、十分満足して役目を果たした栗の木の畑に、それが、夕日を浴びきらきら輝き、何者も寄せ付けない毬栗の残骸の、いやに感傷的に目に残った。

「年年歳歳花相似たり(同じに巡り見えるが)、歳歳年年人同じからず」で同じ風景に見えるが、今年は本当に年の経つのが早く感じられて仕方がない。

季節は巡りまわってくるが、人は中々そうはいかない。小学校の56年前の卒業した同窓会を幹事で行った。元気でいる人、病気で入院している人、1週間前に病気で入院してしまった人、通院している人がいる。それが現実で「いやあ、何と言う速さで時は転回っている事よなあ・・・」

栗の枝  富士の見ゆる  秋の空

毬栗の  落ちて実を投げ 藪の中

« 治自体の組織運営(ガバナンス)評価 | トップページ | 美しさ日本 »

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 枯れ毬栗の或る風景:

« 治自体の組織運営(ガバナンス)評価 | トップページ | 美しさ日本 »