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2006年9月 1日 (金)

郷土のこと(1)

明治の初期には、由井村は小比企、宇津貫、片倉、打越、北野、長沼の六つの部落で構成されていた。それ以前は夫々の部落が村であった。そして、神奈川県に所在していて、住所は「神奈川県南多摩郡片倉村×××番地」であった。

由井二小は明治二十年七月に只沼3013に私立由協尋常小学校創立し、明治36年由井村立第二尋常小学校となる。只沼2812に学校移転(四年制)それまでは、六つの部落は村であった。

そして、宇津貫は下谷戸、菖蒲谷戸、君田谷戸、閑道谷戸、和田内谷戸、中村谷戸の六つの谷戸で構成されていた。そこで明治期に宇津貫村で流行った俳句作りがあった。その中心として活躍したのが下谷戸に住む、[一知(いっち)]こと城定宇右衛門で明治30年に没。辞世の句に「ちるもあり さくらもあり  世は花の人」が残っている。

七国峠と言う所があった。七国峠とは、海抜約200メートル位(御殿峠183メートル)の山で相模(神奈川)、甲斐(山梨)、伊豆(伊豆)、駿河(静岡)、信濃(長野)上野(群馬)、下野(栃木)の七つの国が良く見晴らせた所だった。

山とは言いがたい丘陵の尾根に、第二次世界戦争で日本の陸軍の陸軍戦車の試行道路が作られた。地元の人達は、戦車道と呼んで親しまれていた。広くて真っ直ぐな、道路で、春には山つつじ、山桜、秋には、山栗、茸がとれ、終戦直後は隠れたハイキングコースでもあった。

宇津貫地区は農家の副業として、めかい(目籠)作りの発祥の地と言われていた。嘉永年間(1848~1853)ぺりー来航の頃に「宇津貫から~由木方面に、伝播したのは田口久兵衛という人が習い伝えたというもの」だ。そして、南多摩の各村ではめかい作りが盛んとなる。

大正5年(1916)には、今の由井、由木、多摩、鶴川、七生で、従事戸数982で、中でも由木地区380戸、多摩地区480戸で、全従事戸数88㌫を占め由木地区、多摩地区の7割が、竹細工に従事している事になる。(ぽんぽこ瓦版より)

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