郷土のこと(2)
神奈川県南多摩郡片倉と言われたのは明治四年4月1日(廃藩置県)の事、その後東京都と、なり、八王子町、恩方、川口、浅川町、加住、横山、由井、堺、柚木、町田町、南、忠生、七生、等の町村があった。
その以前片倉村呼ばれた頃は、原、新道、日向、川久保、釜貫、車石、台、只沼、時田の部落があった。鎌倉時代の道は、絹の道(鎌倉街道)から、横浜街道となり、戦後は、産業街道と呼ばれ、国道16号となって現在に至る。
鉄道は、甲武鉄道(後横浜線で八王子から相原~橋本から横浜まで)と、片倉駅は信号所で当時単線だったので列車の交換だけで止まったが乗り降り出来なかった。
汽車の(貨物)と電車(人)の通行で電車は郵便車が付いていた。汽車は(D51、C11とか)で止まらず通過した汽車があった。また、近所で野良仕事をしているお百姓に、汽笛で、時間を教えてくれる存在でもあった。(もう二時半の汽車が通ったとか)であった。また、信号所で必ず交換輪を取り交わして、子供達の興味持った(どうしてそんな事をするのだろうとか、交換輪作って遊んだりした)。
やがてジーゼル機関車、電気機関車に変わって、貨物の搬送は終った。京王線は、御陵線で北野から片倉、山田、狭間、の駅があり、多摩御陵まで現在の高尾線と狭間まで同じ路線だった。北野街道は昭和30年前半に出来たものだ?。
また、その当時は16号も今の半分の道幅しかなく、ガードレールも無く、現在の京王線のガードから住吉橋まで、ローラー(板に戸車を付けた)で乗って遊んでも車の、通行には、問題なかった。(最も、一日4,5台?位)
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