高齢者の「生きがい」を持つこと

「生きがい」を持っているか、「やりがい」を持って活動できているかは、「老後の健康状態」や「認知症の発症率」に関係しているようです。
社会参加や地域とのつながりを持つこと、趣味や余暇を楽しむ余裕を持った生活をすることが大切であり、いろいろなことに興味を持って経験し、自分が価値を見出せるものに出会うことです。
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今年は「新型コロナウイルス」騒ぎで過ぎようとしています。こんな時にも、フラットな気持ちでいられたら、どんなに毎日が平和だろうか?
しかし、安定した気持ち続けたいと思っていても、周りの人からの言葉や態度、自分の内からくる不安感や孤独感などによって、どうしても気持ちをフラットな状態で保つのは難しいときもあります。
周りの人にも、冷静に思いやりをも持った行動をすることです。そして自分の気持ちに素直になるのはとても大事なことです。マイナスの感情に毎回振り回されてしまうと周りの人も、自分自身もしんどくなってしまいます。
心を落ち着かせると、疲れたカラダもホットする
体の疲れのサインに気づきやすいけれど、心の疲れにはなかなか気づきにくいものです。まずは、心が疲れていることに気づくことです、そして心が疲れていることに気づいたら、しっかりと心の休養をとることです。
自分にとってマイナスに思えることでも、「こういう時期だからこそ成長のチャンス!だ」と思って、行動を心がけると、心が落ち着いてくるものです。
地球は悲鳴を発しています。このままの暮らし方では住めなくなります。
世界の平均気温を産業革命以前に比べて1.5度に抑えるように努力するパリ協定の目標を実現するには、2050年までに世界全体の温室効果ガス排出量を森林や海洋などの吸収分を差し引いて実質ゼロにする必要があります。
しかし、日本はこれまで2030年度に2013年度比26%削減し、2050年までに80%削減という目標を掲げるのみに留まっており、海外からは「パリ協定の精神に反する」と大きな批判を受けていました。
政府は2050年までは温室効果ガス“0”を掲げましたが地球温暖化や海洋汚染、環境破壊する開発、私たちが暮らす地球は、たくさんの環境問題に直面しています。
環境問題の多くは、人為的な要因によって引き起こされているということを認識しなくてはなりません。現在、それぞれの環境問題に対して、私たち一人ひとりに何ができるのかを真剣に考える必要があるのです。
まずは、私たちの住む地域の環境を守るには、毎日排出されるゴミの的確な処理です。そして「ゴミのポイ捨て」をしないことです。「私一人ぐらい・・・小さいゴミだから・・・人が見ていないから・・・」では、温暖化は、防げません。自分たちが住む町の美化を守ることで、地球の温暖化の抑制に寄与することになるのです。
自分を戒めるとは、自分を律することです。
自分を律するとは「自分の衝動や欲望を意志で抑えること」や「欲求などを自らの意志で抑えること」を意味します。言いかえれば、自分に勝つことで自分を克服することです。「己をコントロールする」です。
とかく人は、怠惰で、一人でいればサボる・・・甘えられる相手だと思えば甘える・・・他人を下にみて支配欲むきだしにしたりしがちです。
人の輪の中に人は生きていて、人の「和」をつくりだすことで居場所を見出だすものです。一人勝ちして君臨しても、孤高は孤独に過ぎません。
社会人として自分がどうあらねばならないか、自分のことだけを見つめて生きることは、人生のごくわずかな時期だけです。輪の中に居続けるためには、他人を笑顔にする役割を果たせなければいけません。
そもそも、自分の世話を自分でできなければ、そんなこともできません。 自分を律する、とは、社会における自分の小ささを認めたうえで、じゃあどう生きるかを考えることに他なりません。
稲盛和夫さんの言葉・・・
私たちが生きていられることことは、自分を取り巻くあらゆるものに支えられて生きているのです。
そう考えれば、自然に感謝の心が出てくるはずです。不幸続きであったり、不健康であったりする場合は「感謝をしなさい」と言われても、無理かもしれません。それでも生きていることに対して感謝することが大切です。
感謝の心が生まれてくれば、自然と幸せが感じられるようになってきます。生かされていることに感謝し、幸せを感じる心によって、人生を豊かで潤いのあるものに変えていくことができるのです。
宗教は信じること、哲学は疑うことが大切
宗教⇒「信じる」ことが基本姿勢
哲学⇒「疑う」ことが基本姿勢
何でもいいので救いを求めたい、信じられるものが欲しい場合は、哲学よりむしろ宗教に頼る方が良いでしょう。どこまでも真実を追求し、成長し続けるには哲学を身に付けることが役立ちます。
宗教は精神安定やコミュニティの形成に役立ちます。
何も信じることができなければ、精神的に不安定なままです。それが正解との保証はどこにもありませんが、宗教は人生の様々な悩みに対し、「正解」を用意してくれています。
色々な宗教の考え方を身に付け、自分が納得する答えを身に付けている人は、何も持たない人より強いメンタルを持てるでしょう。また同じ世界観を共有している人たちで集まることで、コミュニティを形成できます。
一方、哲学は真実を探求することに役立ちます。信じることが重要(疑うことを罪とする)宗教と違い、探求に終わりはありませんので、つらい道ではあります。実際、過去には人生問題をどこまでも探求しても、一向に答えてくれない哲学に絶望し、自殺した人間も・・・。
哲学と折り合いをつけるために宗教があるのかも知れません。明確な「正解」は誰も与えてくれませんが、探求し続ける姿勢が科学の基本姿勢となり、先人たちの知恵を繋いで、今の文明社会が築かれました。「信じること」と「疑うこと」は正反対の動きですが、どちらも他方にとって欠かせないものなのです。
「自らを見つめ直す」とは、良いことも悪いことも、すべて含めて自分自身を知るということです。
良いことについて振り返ることは容易なことですが、逆に悪いことについて振り返ることほど勇気のいることはないかと思います。どうしても、自分自身にとって都合の良いように、物事を考えてしまいがちです。
自らに尺度を設け、その基準の中で善悪を決め、行動に移します。果たして、その基準は誰にとってのものであり、その基準は正しいのでしょうか。言うまでもなく、誰でも嫌な思いをした経験を思い出したくないのは当然のことです。
このことは、プライベートでもビジネスでも同じことが言えるのではないでしょうか。しかし、自分にとって都合の悪いことを振り返り、見つめ直すことこそが自分自身を成長させ、そして、はじめて他者に対して思いやりのある気持ちや接し方ができるのだと思います。
夜寝るとき、今日の一日の振り返みて、自分の行動や、他人に接し方を思い出して反省し、日記などに記してみることです。
簡単なようで非常に難しいことです。しかし、このことの実践により、自らの利点や欠点を知ることができ、自身の成長にも繋がり、同時に一日一日の生活が当たり前でないことに、気付くことができると思います。
「行き先不透明な時代」
グローバルの流れに目を向けても、様々な国の政治の先行きが不透明であり、今までやってきたことやスタンダードだと思われてきたことが、ここにきて崩れていっているような気さえします。
さらに、新型コロナウイルスの流行や、地球温暖化に伴う気候変動や異常気象、台風や自身といった災害など、予測が困難な事象が次々と起こっています。
また、日本や先進国では、少子高齢化が深刻な問題として取り上げられています。働き方においても、従来の日本の企業では当たり前だった終身雇用や年功序列といった制度もなくなり、人材の流動性も高まっています。これらの事象が今後、世界や日本社会、個人にどう影響を及ぼしていくか、すべてを見通すことは難しいでしょう。
世を救う政治家の力に期待
政治には政治家個人から滲(にじ)み出る哲学、思想、政策、構想が不可欠だと信じています。それがない政治は、堤防のない河川のように氾濫が常態化し、収拾がつかない。別の言い方をすれば、政治には現実と対照できる目標、構想が常に必要なのです。
私たちは、いま先行きの見えない「不安な時代」に生きています。
このような不安に覆われた閉塞的状況になったのは、多くの人が、従来の経済的、物質的な価値観に捉われすぎていて、生きることの本当の意味や価値に気付いていないからではないかと思います。
生きていくうえで大切なことは、「信頼し合い・信じ合う」ことです。人が信じるのは「何を言うか」より「何をするか」です。言っていることと、実際にやっていることが違う人は、信用がおけず、一緒にいたいとは思えません。
言行一致の大切さ
自分がそうなってしまわないように、発言には責任を持つことです。人間関係において、相手に信頼してもらいたいのなら、何よりも、言動を一致させることが大切です。なぜなら、言っていることと、行動が異なる場合は、ウソを言っているのと同じことであり、あっと言う間に信頼を失くしてしまうからです。
自分がそうなってしまわないように、発言には責任を持つことです。
人間関係において、相手に信頼してもらいたいのなら、何よりも、言動を一致させることが大切です。なぜなら、言っていることと、行動が異なる場合は、ウソを言っているのと同じことであり、あっと言う間に信頼を失くしてしまうからです。
人には愛するもの、かけがいのないものが必ずあります。
その大切なものが、自分の思いどおりにいつまでも存在して欲しいと願います。しかし、すべてのものは必ず移り変わります。どんなに想いを込めても、自分の思いどおりになりません。だから苦しむのです。
「苦」とは、「思いどうりにならないこと」です。
まだまだ収まらないコロナは、いつになったら収まるのでしょうか、今までと同じ行動をしていても、よりストレスを感じることが多く、しんどいなぁーと思います。
でもよく考えたら、「思い通りにならないこと」って、大きなことから小さなことまで、どうしても避けられないことから自分のわがまままで、ありとあらゆることにあると気づきました。
ずっと若くて元気なままでいたいのに、最近、だんだんと細かいものが見えにくくなり、散歩していても、体力の劣化を感じます。そして痴呆症の前ぶれ・・???忘れたりしてしまうことが多くなりました。
でも私は「何をやってもうまくいかない」は口にしないようにいたいと思っています。「なにをやってもうまくいかない」は「夢も希望もない」と同じです。努力したのにと大したことをしてもいないのに・・・明日に何の期待もしない言葉であり、何を伝える意味がどこにあるのでしょうか。
「人生100年時代」
健康、お金、生きがいのほかに、孤独を感じないためにも、周りの人との人間関係も大切にしていくことが大切と思います。
「健康」「お金」「家族」の不安を少なくするには、どうしたらいいのだろう?
「寝たきりにならない体をつくる」「老後の収支を考えて、不足時に備える策を・・・」が必要だと、急かされるような気分になります。なるほどと思うことがある一方で、今からじゃ間に合わないと不安を駆り立てられもします。
「今」を一生懸命に生きる・・・『心の平穏があってこその「健康」』です。
明日の予防より、今の元気な生活を!明日のことより今日の一日。あるかないかわからない、そんな不確かな将来より、今この瞬間をご機嫌で過ごすことのほうが大切だと思います。
今の自分はかつての自分ではない・・・『変わりゆく自分らしさ』を受け入れよう・・・ 明日のことを煩うより、今このときを楽しもう、今、生きていることの幸せをかみしめようと思う。
『「今」を一生懸命に生きる。』には、やるべきたくさんの課題に、瞬間、瞬間に対処していれば、先々のことなどを考えている暇はない。。。楽しいことを考えていると気持ちに張りができ、なんだか 元気になってきます。
人生は本当に色々です。。。
そして突然の出会いなどでガラッと方向が変わってしまうこともあります。でも何をするにしても、今自分がやろうとしていること、または、今やっていることが心地よく、これからも情熱を持っていけるか?と言う所が大事じゃないでしょうか?
つまり、やっている事に苦痛がなく、思わず時間を忘れて夢中になってしまう、これまでの経験や子供の頃を思い出してみれば一つや二つ何方でも思い当たるんじゃないでしょうか?それがいったい何なのか?そこがポイントです。
若ければ若いほど、目先の事に気を捕らわれ、今過ごしている人生はたった一度きりという事を忘れてしまったりします。そう、私たちは必ずいつか死にます。この世から物質的な存在が消えてなくなってしまうんです。どんなにお金を掛けて健康に気をつけてもいつか必ず死ぬのです。
これは絶対に避けられない事実です。そしてそれがいつかは誰にも分かりませんし遅かれ早かれいつか必ず来ます。今している事が何であろうと、どんな人であろうと運命は平等にやってきます。今こうして過ごしている間にも刻々と私達の残された時間は短くなっています。
そして年を重ねるごとにその時間の速さを実感しているのは、私だけじゃないでしょう。又最後の日、死が突然やってくる事もあります。何をやっていたとしても死ねばそこで現世の活動は終了です。
加齢による衰えは自然の摂理
もちろん、年とともに、体力も衰えていくでしょう。足腰も弱くなり、歩くのも大変な方も増えていくでしょう。それは、自然の摂理です。恥じることではありませんし、無理をする必要もありません。ただ、どうなろうとも、自分を見失わないことです。
人生の総仕上げとは
それぞれが、幸福の実証を示していく時であるということです。“私は最高に幸せだ。こんなに楽しい、すばらしい人生はない”と、胸を張って言える日々を送っていくことです。
心の財を積む
本当の幸福は、時代の激変にも、時の流れにも左右されることない、「心の財」を積んでいくなかにこそあるのです。欲望に振り回されることのない、少欲知足の心豊かな境涯が確立されてこそ、至る境地といえる。つまり、「心の財」のなかにこそあるのです。
何気ない一言が、相手の心を癒したり、励ましたり、勇気付けたりすることがあります。
新型コロナウイルスの流行により、疲れやストレスが溜まっている今だからこそ、相手の心を”ほっと”あたたかくする「あったかい言葉」が大切です。そして「さわやかな言葉がけ」を・・・
さ・・・さわやかな笑顔のあいさつ
わ・・・わかりやすく丁寧な言葉遣い
や・・・さしい心、素早い対応
か・・・かんじが良く清潔な身だしなみ
あいさつはコミュニケーションの第一歩です。あなたが笑顔であいさつさ れた時、温かな気持ちになりませんか? さわやかな笑顔のあいさつは、相 手の気持ちを心地よくさせます。 仲間意識が生まれ、お互いに元気になれます。
『私・・・がんばっている。きょうも・・・ん・・・がんばろう』
「自他一如」
他を生かさずして自己は生きていけない。自分のためにという生き方が、そのままに他のためにということでなければ自己は生きられません。これは自然の大道であり大原則です。
誰しれもがこの世に必要だから生まれてきた、そしてお互いを必要とするから生きていけるのです。しかし最近は、人と人との絆が弱くなったようです。
現代人はプライド、プライバシーの権利、プライベートな問題などと、ことさらに自己主張するけれど、自分が生きるためには他が必要です。他というのは一つや二つでなく、さまざまというべきか、すべてというべきか、人のみならず、万物の存在に支えられて自己が成りたっています。
自他にこだわらな生き方
自他にこだわらない生き方とは、うばいとり、つかみとる手を、与えようささげようの手に変えていこうと心がけ、行動することで、そうすれば「自他一如」の世界で生きられるのです。
良寛さんの言葉「私は他の人を知らない、他の人も私を知らない、知らずとも自然の大道に従って生きて行く」・・・無心に生きられれば、それほど楽しい生き方はないでしょう。
環境の保全は、私たちの身近な環境保全から始まるものと思います。通勤・通学の途上に、タバコの吸殻・ゴミのポイ捨てが多い・・・町が汚れることで不快な気持ちになり、多くの人に迷惑をかけているのです。
地球環境が気象変動 に大きく影響していることは、誰もが知っていることではありますが、多くの人が日常生活における 環境保全活動には必ずしも積極的であるとは思われません。通勤・通学の途上に、タバコの吸殻・ゴミのポイ捨てが多いと、思っている人は私だけではないと思います。
環境の保全に関する更なる啓蒙活動 が望まれます。
もったいない精神や、ゴミをなるべく出さないなどの初歩的な事を小学校から教えることが大切だと思います。そして住みやすい環境を守っていきたいと思います。
環境を保全することは、将来にわたって私たちの生活を守ることにつながります。そのために必要な ことは、第一に教育と思います。そして、今後の環境学習にとって最も大切なことは、幼児期や小学 生のころから環境教育を充実させることだと思うのです。
環境問題について、個々人の認識の甘さが、現在の地球環境の悪化につながっていると思い ます。私一人ぐらい・・・誰かがやってくれる・・・他人任せの人が 多すぎます。 余りにも無関心なような気がします。一人ひとりが声を上げるときではないで しょうか。
道元禅師からの言葉にこんな素敵な言葉があります。
「人生に定年はない」
「人生に定年はありません。老後も、余生もないのです。死を迎えるその一瞬までは、人生の現役です。人生の現役とは、自らの人生を、悔いなく生ききる人のことです。」
「まさに、悔いなく生ききりたいものです!」
今、次の瞬間死ぬかどうか分からないいのちを私たちは生きているのです。ですからいつでも臨終となりうるのです。そのようないつ終わらんとも限らない臨終のいのちを、私は最期の最期まで満足して生きることができるのか。。。
私を生きる…生きがい
そこでは「生きがい」というのは何かをすることではなく、私を生きることが「生きがい」になるかという問題なのです。なぜなら臨終はもう何もできないからです。そこから何かをして良くなろうということはもうできないのが臨終です。
私たちは、ああなれば、こうなれば、あの人みたにと言いながら、現在の、自分の「生きがい」を見失っていくのです。ああなれば、こうなればというのは必ず未来です。
満足するかもしれない未来に向かって、一生懸命現在の時を消費しているのです。そこに人生を生きる空しさがあるのではないでしょうか。どんな生き方であろうとも、どんな状態でも「私でよかった」と言えないというのは悲しいことです。
老病死に代表されるように、生きることの困難さは様々にあります。しかし、その事実を通して私たちが生まれたこと、私があること、私であることに悔いや苦しさを感じていくとするならば、どこまでも空しく過ぎていくしかないでしょう。
それに対し、その私の生を受け止める・・・私が私として生まれたということを受け止める・・・「煩悩や誤った認識ではなく、正しく私を認識するということが、大事なことです。
私の毎日は、ほとんど平凡に過ぎています。
毎日飲み続けなければいけない薬を飲み、運動不足に気をつけて毎日7000歩を目標に、新型コロナウイルスに気をつけて、マスクを付けて歩いています。いつになったら、安心できる来るのだろうかと憂いながら・・・
いつもと同じように朝が来て、いつもと同じように日が暮れます。喜びもあれば、悲しみも憂いもまたあります。社会に対して、環境美化に気を使い(ゴミ拾いをする)ぐらいで、これ以上たいした貢献を行うことも、出来そうもないです。
しかしだからといって、私の人生に意味がないということではありません。・・・平凡であるということの中にどれほど、豊かなものが含まれているのか・・・今生きているというそのことの中に、すでに大きな意味があると思います。
たったひとつだけ必要なものがあるとすれば、それは他の人と、つながっているということでしょう。人間関係が豊かに結ばれていること・・・そのことさえあれば大丈夫。。。
あとは日々の生活の中に立ち現れてくる出来ごと、私の前に現れる人との間に起こることを味わうだけです。そしてもし私たちが平凡と思われる生活から、切り離されてしまったとしても(たとえば病を得るというようなこと)、そこにもまた平凡は隠されているはずなのです。
一日一日を味わいながら過ごすこと、そのことが今の私にはうれしいことです。そして過ぎていく平凡な一日一日が、私にとっては、かけがえのないものです。
世の中は、何が正しいのか、何が正しくないか、分からないことが多いものです。昨日正しかったことは、明日には正しくないとされる可能性もあります。
「自分はそれを好きかどうか」「やりたいかどうか」を基準に、シンプルに物事を考えてみることです。それが、自分を楽にする何よりの方法だと思います。
国家、思想、宗教、年代、企業、立場などによって、正しいの基準は違います。 それでは、何を正しいと思えばいいのか?別に正しさなんてそんなに重要ではないのです。 正義をかかげれば人は戦争もします、テロ行為も、虐殺も、差別もします。
中にはいじめ、犯罪だって「俺は間違ってない、俺が正しいんだ。」と、する人間もいます。 だから、人は本能的には正しさをそんなに追い求めない、社会的に正しくない人やものが好きだったりするのです。
それは人間の本能からくるものであり、本質的な倫理観だからであり、温かみのある人を見ていいなと思います。 自分もこうあるべきだなと感じ方でいいと思う、そういう感受性は人それぞれです。人間の行動原理はそれでいいと思います。
正しいとか、正しくないに沿うと虚無感にとらわれます。何かに与えられた倫理観だからです。 好き嫌いは選べます、それは与えられるというより、選ぶもの…見つけるもの…こうありたいというのは、いくらでも自分自身の力で変えられます。
超高齢となっても迷う人生・・・
即天去私(そくてんきょし)
《天に則 (のっと) り私を去るの意》夏目漱石が晩年に文学・人生の理想とした境地。自我の超克を自然の道理に従って生きることに求めようとしたもの。漱石自身の造語。
「利己心を捨て去り、自然の道理に従って生きること」を意味します。利己心を完全に捨て去ることはできませんが、利己心を抑えることはできるはずです。
「貪ぼれば憂いが増え、分かち合えば幸せ増える」
「少欲知足」 自分が十分に足りている事を知り、むやみに求めないことです。欲望とは際限なく湧いてくるものです。この気持ちに素直にしたがって行けば得られない事への苦しみ、失う事への恐怖、怒りによる奪い合いになりす。
自分自身を苦しめる事ばかりになります。
相田みつをさんの詩に「奪い合えば足らぬ 分け合えばあまる」という言葉があるように、奪い合い憎しみ合うよりも、分け合い互いに感謝の心を持った生き方の方が、幸せな生き方です。
人間は、社会生活を営む動物です。人と関わることではじめて生活を営むことができます。人の役に立つということで、広い意味で社会の役に立つことです。
社会の役に立つこととは、単に 奉仕をするだけでなく、社会に参画して社会の一員として貢献し必要とされるということで、誰でも何らかの職業に就きます。この職業とは、自分ではできないことを、代わり に誰かにやってもらうことで、社会生活を分担していくことです。
その対価として報酬をもらい、そ の報酬によって生活を営むことになるのです。その報酬の中か ら税金という、形で国に納めることで社会が円滑に進むような、インフラなどの公共性の高い事業が提 供されるのです。
社会の役に立つということは、この人間の社会で生活するうえで、とても重要なこと で、奉仕の精神を持っていることがとても大切になります。
奉仕の精神とは、とにかく 無理をしてボランティアをするといった意味合いのものではなく、人に役に立ち、社会の役に立 ちたいと思う心です。
人の役に立ちたいと思い、社会の役に立つために働くことで、仕事に対する重みも変わってきます。そ うなると、その仕事は自分のやりたいことから、自分のやらなければならないことになり、やがて使 命となります。
ここに、やりがいや誇りを持ち、人生が充実していき大きな幸福感につながるのです。 それは、これをすれば儲けられるとかということから始まるのではなく、これをすれば他の人々に喜 んでもらえるといった、奉仕の精神から生まれるものなのです。
損をしたと感じるのは、人の価値観によって異なりますが、物事に対する自分の姿勢が一番重要です。人に認められる為には、自分が常に謙虚な心を持ち、努力を重ねていくことです。
徳を重ねると、「あなただから任せたい」と思ってもらえるようになります。徳を重ねると、きっと豊かな人生が歩めるはずです。頼まれ事やボランティアなどは、自分の時間や体力、金銭的なことを優先して考えてしまいます。しかし、何事も信頼が大切ですので、得より徳を優先しようと思います。世の中には、損得を考えずに周囲に尽くす人がいます。その人には損得勘定抜きで支えてくれる人が集まっています。そう人を見習って、人に尽くしていきたいものです。
誰でも人生において、誘惑に遭ったことはあると思います。
私は、その結果に我に返り、ショックを受け後悔し反省を繰り返すことが多いので、この年になってまだまだ、人間としての生き方が出来ていなかったと、思うことがあります。
人生行路に最も気をつけなければいけない三つこと。
「異性関係」「金銭欲」「権力欲」です。この三つの失敗は決して赦されないことです。
人間誰しも、誘惑に負けそうになるのですが、有名人の薬物問題、不倫問題なんて見ていると誘惑に陥り、すべてが破滅に向かっていくなんてことを、よく見聞きするわけですが、それは決して他人ごとではありません。
分かっているんだけれど、止められない状態があるのです。
そんなときに思う。誘惑に打ち勝つことは容易ではないことです。むしろ誘惑に打ち勝つことができると思っているんだとしたら、その時はまだその問題の深みに気付いていない状態だと思うのです。
誘惑に打ち勝つのは、自分では無理なのだと理解することから始まります。そして自分が誘惑される状況に身を置かないこと。逃げることが大切です。
でもそのようにはできないのが人間です。
まさに旧約聖書のエデンの園のエバは象徴しています。その手に取った果実に魅惑され、決して食べてはいけないと言われた、その神の言葉を自分流に解釈し直してしまうのです。
ですから私たちは、まさにイエス・キリストが言われたように「天の神様に誘惑に遭わせないように、悪より救い出してください」と祈るしかないのだと感じます。
「12月1日」になって思う「川浸り」の日
辞書では・・・陰暦12月1日に行う水神祭。川の水に尻を浸し、また、餅 (もち) をついて水神に供え、水難よけと豊漁を祈る。川浸りの朔日 (ついたち) 。
私の子供の頃の記憶
昭和17.8年頃の子供のころは、私は5・6歳でした。12月1日は、朝、母親が作ってくれた、牡丹餅を食べ、子供たちで、すぐ近くの兵衛川に、尻を浸けに行きました。「風邪をひかないで寒い冬を過ごすことが出来る」教えられました。
温暖化
今現在は、兵衛川・湯殿川は氷は張りませんが、その頃は、氷が張り、乗って遊んだのです。川岸に、氷が薄くなっている所があって、氷が割れて腰下がずぶ濡れになり、母親に叱られた記憶が鮮明に残っていて、温暖化が、進んでいることを実感しています。
自然が豊かで川にいた魚の種類が多かった
そのころの川には、今では見られないいろいろな魚がいました。ウナギ・ナマズ・ハヤ・ギバチ・八目ウナギ・ドジョウなどなどです。
・・・12月1日は懐かしく思いだします。