守破離の心得
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「守」「破」「離」とは、日本古来の芸道や武道の世界でよく使われる言葉です。師を敬い、型をしっかりと身に付けることは、理解を深め、応用法を見つけて新しい物を造りだす力になります。私は、人の成長にも同じと思っています。
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世界一長寿国日本
医学の勝利とも云われる長寿は、すばらしいことと思います。人生80年と云われたのが昔のようになり、人生100年時代と言われるようになりました。
「一病息災 “爺さん元気に病院通い”」
今や、「長くなった人生をいかに上手に老いるか」大事なテーマとなってきたと思います。人は誰しも無病息災を願わない人はありません。しかし、無病という人は、ほとんどいません。一病、二病息災で元気に暮らして居られます。これは、病気と共生して居られることになります。
高齢者は、誰しもが何らかの、お薬を飲んでおられること思います。お薬でなくても、限りなくお薬に近いサプリメントや健康食品を食べて、おられることと思います。
人生は「健康第一」、長くなった人生を有意義に暮らしてこそ、本当の健康の意義があるのです。
健康であると云うことは、身体を思うように動かせることを意味します。今や75才以上を新老人と云う時代です。社会経済の発展のカギは、活動的な高齢者にあると言っても過言ではありません。
高齢者の方々が健康を保つ為には、運動と共に病気の予防、早期発見、早期治療が必要です。又、真の健康は、精神面でも健康でなければなりません。ボケないためには、社会との関係を保つことです。地域活動やボランティア活動をするのがよいとされて居ります。すぐれた技をお持ちの方は、職場で指導して頂くことが、最良の健康を保つことにつながります。
社会の経験を積み、生活の知恵もある元気な高齢者の方々が、積極的に活動に参加する。そして、積極的に「3つのかく」・・・ことで、「汗をかく」・「ものをかく」・「恥をかく」です。運動をすれば汗をかく、絵をかく、字をかく、音楽を聞けば右脳に入って気分爽快となり、人と会えば恥もかくことです。人生アンチエイジングではなくて、ウィズエイジングでよいのではないでしょうか。
「不言実行」とは「文句や理屈を言わずに、黙ってなすべきことを実行すること」を言います。
良いことは声高らかに主張せず、黙って行うのが良いとされる日本の風潮をよく表す言葉です。見えないところで静かに他者のために力を尽くす「縁の下の力持ち」が称賛されるのと同じ考え方が根底にあります。
周りにやりたいこと、やろうと思っていることを堂々と宣言し、言ったからには実践する…『有言実行』がベストな行動パターンと思います。
人間は宣言することに対して躊躇しがちになります。なぜなら宣言したのにも関わらず、結果出来なかったり、あるいはしようとしなかった自分に対して正当性、つまり言い訳を主張したがる生き物であり、そのためできないことは、逆に言わないほうがいいと思う癖があるからです。
出来なかった時は真摯に反省し『ごめんなさい』と心から謝ればいいだけなのです。「不言実行」は、古くから日本人の美徳ともされたそれらの精神です。
成功している人、輝いている人は必ず、どこかで努力してきています。自分の目標を決めて、それを確実に実行することが、信頼を得ることに繋がると信じています。
歳を重ねて、「心身ともに辛くなる」を、実感している毎日です。
大事な心構え・・・
長生きも大切ですが、人生は日々の積み重ねですから、「日々が穏やか」であることが幸せなの秘訣だと、思います。そのために必要なことは「感謝」の気持ちを忘れないことです。
例えば私たちは毎日、何かを食べています。命をいただいているわけですから・・・せめて「いただきます」くらいのことは言わないといけないと思います。
同じようにたくさんの人に支えられて生きています。そのことをかみしめたら「ありがとうございます」の言葉は自然とでてくるのではないでしょうか。
そして感謝し、自分は恵まれていることに気付くはずです。見守ってくれている人がいて、お手伝いしてくれる人がいて、声をかけてくれる人がいて・・・だから、毎日がとても幸せになってきます。
それを忘れて、不満ばかり感じるようになったら、本当に不幸な人生になってしまいます。自分で幸せなことを体感し、感謝の気持ちを忘れなければ、毎日は数倍幸せになります。
人は独りで生きていけません。他の人と関わり合って生きられるのです。
自分と最も身近な他の人は、妻あるいは夫であり、親または子です。そして人は社会生活をいとなむ上で、それ以外に多くの人々とも関わり合いをもちます。
人との関わり合いは、さまざまな悩みを生みます。人生の伴侶として巡り合い、共に歩むことを誓ったけれど、破綻してしまった夫婦、親と子の間に亀裂が生じてしまった家族など、これは身近な間柄の悩みです。
夫婦・親子は命の絆で結ばれた間柄なのに、思いやる心が冷たくなると、すきま風が吹く。自分に一番近い夫婦や親子といえども、考え方、生き方が異なって当然です。
お互いが共生きのために理解と努力をするか、背を向け反目する行動をとるかによって、その展開が大きく異なってしまいます。
多様性を認め合うこと
個性ある人間が共に生きていく上で、価値観をすべて共有することは、不可能に近いですから、部分的に共有するとか、「多様性を相互が認め合う」という努力を必要とし、お互いが理解する努力をしないかぎり、人間関係は破綻してしまいます。
「住んで良かった町」
いま私たちの住むまち(八王子市片倉町)は、自然豊かな地域で、先祖伝来のもので、この「伝来の地域の自然を守り、次世代に繋げる・・・」ことは私たちの使命と思っています。
私たち人間は、どんなに進化発展をしても、生物であることに変わりなく、自然の恵みを受けながら、一方では自然と闘いながら、生きてゆくしかありません。だからこそ、私たちは環境のことを真剣に考えなければならないと思います。
そして自然保護は地域にくらす一人ひとりが、「自然環境を大切にする」という気持ちと、行動を起こさないと実現できません。ですから、『ゴミを町の道路・河川に捨てない、捨ててあったら、拾い所定の場所に置く・・・』それが安心・安全で、「住んで良かった町にする」基本と思います。
人間は、地球生態系の一員として地球の歴史を他の生物と共有しつつ、その生存を続けています。地球に生存している生き物すべてが、空気中の酸素を身体に取り込んで、炭酸ガスを戻します。
その炭酸ガスを植物は太陽の光と水とで光合成をして、栄養分をつくります。その過程で生み出されるものが酸素で、それを人は頂いていますから、人と植物とは深いつながり関係にあります。
植物は根から養分を取り込みますが、土中には微生物やミミズなどがいるから、植物の栄養分が生まれます。花を咲かせれば蝶や蜂が受粉を助けるので実がなります。ことごとくがつながっているのが、地球の生態系です。
この世のすべてのものが互いに関係し合って存在しているということですから、存在しているすべてのものが、互いに他の存在を存在させています。
生きものならば互いに生かし合っているということです。生きているということは、他を生かし、他に生かされているということで・・・自然を大切にしたいものです。
「人間愛の精神」とは、人間を尊重し、生命に対する畏敬の念に基づいて、お互いを理解し合うなど、人間として生き ていくうえでの根本的なものです。
「思いやりの心」は、基本的に人間に対して、向けられる心です。さらに自分自身と比 べて、温かく相手を推量、想像し、思慮を働かせる心の動きです。
また、根底には「人間愛の精神」に基づく人間に 対する深い理解と共感がなければならず、単に同情やあわれみのように、考えられるものではありません。
若い人でも、他人とかかわりをもつことの、大切さを理解できるようになりますが、自己中心的な判断で他を省みない 言動をすることも多い現代社会です。今、自己中心的な、いわゆる「自分さえ良ければ・・・」の考えの人が多いように思われます。
「人間愛の精神」と「思いやりの心」の大切さを理解し、自他ともに、かけがえのない存在であ ることを若い人たちに、自覚することは大切なことで、とくに、中学生の道徳教育の大切さを痛感します。
私が清掃(ゴミ拾い)していると・・・通勤・通学路に、タバコの吸殻・コンビニの弁当の容器・空き缶・ペットボトルなど、たまに家庭での猫のトイレなど、捨ててゆく輩がいます。
八王子市は、条例で、全市内「歩行禁煙」です。全く無視した行為は、末恐ろしいことで、そのまま放置すれば、ゴミ捨て場になってしまいそうです。私たちの町が、ゴミだらけ・・・そして、その末は自然環境悪化・は犯罪につながります。
むかしは、私たちの“まち”は自然が豊かで、自然を大切に、人々が気配りしていたと思います。何かと忙しい、現代社会では自然環境破壊が進み、私たちの生活様式が、大きく変わってしまいました。
私たちが「この町で暮らす」・・・を考えた場合、やはり「自然豊かな、美しいまち、町に住む」人に・・・自然に「思いやり町」が大切です。
道徳・モラル教育は、子供にはもちろんですが、大人意識改革が大事です。いま私たちが住む「まち」は、今住んでいる責任で、将来・・・いやいや未来永劫・・・引き継ぐ責任があります。タバコの吸いがら一本ぐらい・・・人が見ていないから・・・は、無責任すぎます。
もう一度、自分のそういった行為を、考えて欲しいものです。子供たちは大人の行為を「よく見ていますょ」
「歳を取ると月日の流れが早い」と言われますが、最近私は、特に感じます。そして、最近思うことは「善いことと、悪いことが交互にやってくる」ことです。
善いときは、何事もうまくいくのですが、悪くなったときに、どれだけ頑張れるかがその人の、真価が問われるといわれますが、歳を取って、その感覚も以前違ってきています。
いい時は、たいていのことがスムーズに進むし、自分自身の気持ちも乗っているので、物事が単純にうまくいくっていうのもあるし、頑張れます。
逆に、悪い時はなかなか厳しい。だからこそ、その時どれだけがんばれるかで、その先が拓けるかどうかも決まる。それを「その人の真価」だと言われると納得できるし、いつもそう思っていれば、頑張る力も湧いてくる気がします。
もし、今、自分のまわりで悪い事が起こっているなら、そう遠くない未来に、「自分にはきっといい事が起こるんだ!!」と思っていれば頑張る元気も湧いてくると思います。
「なんでそんな事が言えるのかって?」だって、「自分のこれまでの人生を振り返って考えてみたら、ちゃんとそうなっているので・・・。」だから、そうなるって信じているし、そう信じています。
発達した文化生活の今、核家族化が当たり前になって、人はともすれば「自分は一人でこの世に、生きている」・・・このような錯覚に陥りがちです。けっこう、そういう人は多いように思います。
ところが実は、そうした人ほど、様々な悩みを抱え続けたままなのです。そして、不平不満やストレスがたまり、「精神的の疲れは、心身をむしばむ」という悪循環の中に自らを置いている、人が多いのではないでしょうか。
自分の存在を考える
自分がいま存在していことは、それぞれに父と母があり、そしてその父母にも…また父母があり…そのまた父母があり・・・すべての人は、はかり知れない過去から現在に至るまで、繋がっているのです。
これは肉親の縁であり、その一人ひとりの宿命です。決して、一人で存在しているのでありません。連綿と続く、血のつながりの中に在るのです。
この事実に思いをはせ、「今の自分を生み出してくれた御先祖に、まず感謝の念と、恩に報いるという気持つこと」が大事なことと思います。
お盆に墓参り
恩に報いたいと思えば、この気持を表わす行為の一つが、「お盆」の先祖供養です。先祖供養は、この功徳は、祈る人、つまり現在生きている人に、大きく及んでくるのです。
私は、先祖に感謝の念で供養(善行)を行えば、それは巡り巡って、善い結果として現われてくると信じています。日々の感謝の気持と、その恩に報いる供養、という行為が、その人を豊かにし「周囲の人望を集める」ことに…なるでしょう。
「自分でやりたいことやる」・・・ことは、確かに最初は勇気がいるし大変です。しかし、自分の気持ちに正直になって「自分が正しいと思ったらそれは絶対に貫く」・・・それが「後悔しない生き方」です。
自分の気持ちを押し殺して生きることは、生きてないのと同じで、「時間がない」「お金がない」「能力がない」など自分が持ってないものばかりに、目を向けて・・・自分の人生を生きるのに、“ある”とか“ない”など関係ないのです。
「自分で作ること」・・・自分で気づいていないだけで、目の前にあります。だから大事にするのは、一日でも早く自分の気持ちに正直になって、実現させるかどうかということです。
後悔しない生き方
他者の承認を得ることをやめ、自分の思いに耳を傾け、一番大切なことを優先することです。そして、それを実行することです。
歳を取ってきますと、物事に反応が鈍くなります。
頑張りは利くが後がひどい…疲れてもその時はわからず…後で来る・・・素早い動きは出来ない・・・若い時には想像も出来ないことです。また、「思い出せない…すぐに忘れる」記憶力の減退はハッキリに認識できます。これが、老化、ボケという事でしょうか。
これに対処しようと努力をしても、どうしようもないものです。人間の本性の限界ですから、逆らってもろくな事はありません。早い状況変化には、対応出来ないので、戦術的実務からは引退すべきです。
でなければ、世に「老害」を与えることになります。歳を取るに従い、肝に銘じておくべき事だと、自戒します。一方、努力を続けると、ゆっくりしたものは良くわかることもあります。即ち、歳を取っても、低周波に対する感度は落ちないようです。
経験の集積から、状況の中に於ける現在位置は良くわかるようになっている面もあります。恐らく、良い歳の取り方とは、我を張らないで、意見をつぶやくことかなと思っています。
しかし、ボケた人は、言っていることが正しいか否かも分からないので、老人の話を聞いたとき、現役には、自分の頭で判断できる聡明さが必要です。役に立つ事があればうまく取り込むのは、直接利害に関わる若い世代の人で、年寄りは関係なく消えて行くのが摂理です。
今は、誰も他人のことを思いやらなくなってしまった・・・そして、思いやるゆとりさえなくしてしまった。また、他人と関わり合うのさえ“いや”になってしまったり、親は子の世話をしなくなり、子は、老いた親の面倒を見なくなった世の中です。
それで足りなくなったところを教育制度や介護制度、福祉制度に求めるようになった。国に、国民は、要求だけをして国に尽くす事を忘れてしまった。
誰の助けもいらぬという社会は、社会としての本質的機能、相互互助の精神を失ってしまう。そうなってしまったら、社会など不必要なのです。
人と人との関わり合いの中で、社会は形成され、また必要とされます。人と人との関わりそのものを否定し、喪失したら、社会なんて無意味なものになってしまいます。
何が、私たちに必要なのか。何を、依って立つべきなのか。昔の人たちは、もっと単純明快に理解し、助け合って生きてきたのです。
大事なことは、単純明快さです。今の時代は、複雑怪奇になりすぎて、自分たちが依って立つ基盤をも見失いつつあるようです。
政治や経済とは、本来私たちの身近な生活の延長線上で捉えるべき事柄なのです。子供たちの教育も生活に必要な事も、根本は、私たちの住む地域をどの様な社会にするのかという構想です。だからこそ、環境も大切にすることができるのです。大切なのは地域社会を大切にすることです。
その上にたって、その土地に生きていく人たち、地元で決めていくべき事なのです。つまり、日常生活の一環なのです。それがなければ、いかに土地が荒廃してしまいます。
ほんの少し前の時代では、私たちの生活は、もっとシンプル、単純で素朴でした。生活に必要な物を自分達の手で作り、助け合って暮らしてきました。現代社会は、そのころの生活に比べて複雑です。私たちの子供の頃と比べても格段に違います。
考えてみれば、単純な社会でも生活はできたのです。テレビがなくても、携帯電話がなくても、飛行機や自動車がなくても、石油や電気がなくても、それなりの生活はできたのです。ところが、現代社会では、それらが不足すると生活が成り立たなくなっています。それを進歩というのでしょうか。
「幸福とは何か・幸せとは何か」
「幸福」とは・・・「不満などを抱いておらず、心が満ち足りている状態のこと」自分でその状況を感じ取ることができる場合です。
「幸せ」とは・・・運が良いこと
自分でその状況を判断できるだけではなく、周りから見てもそのような状態に見えるという意味合いが含まれており、主観ではなく、客観点において判断されやすい言葉です。
「幸福」が何かを知らなければ、どうすれば幸福になれるかも分かりません。だが問題なのは、幸福については定義することができません。
「幸福」は空気のようなもの
空気がある時には誰もその存在には気づきません。なくなった時に初めて、空気があればこそ生きることができていたことに気づき・・・幸福も、失われた時、初めてその幸福を経験するものです。
だから、幸福が失われるのはどんな時なのか、その時どう感じるかを見ることが、幸福が何であるかを知ろうとするための、きっかけになるのです。
幸福は他人が判断するのではなく、自分で判断する感覚と言えます。一方で、幸せというのは自分で感じても良いし、他人に対して抱く、または他人から抱かれるということでも問題ない感覚のことなので、そこが違いになります。