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2019年9月

2019年9月30日 (月)

後期高齢者なって思う

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後期高齢ー82歳。

辛いか?楽か?と考えてみると、どっちでもないである。。。しかしまぁー「今を大事にする」ことだと思う。どうしても80歳を過ぎると一日一日の過ごし方がかなり辛くなることもある。

人にはなかなか言えないけど。。。食事、排せつ、睡眠すべてに、健康を保つ努力が必要になり、目も耳も遠くなる。そして「五感の機能が落ちたなぁー」と、情けなく感じることもある。

自然現象を察知して感動を得ることも少なくなる

例えば鳥や秋に虫が鳴くのも、昔ほど鋭敏に感じ取れない。何とか今日という日を越えて明日を迎えて、またその日を越えて・・・「長生きはいいね」とはとても単純には言い切れない。

昔は認知症という言葉もなく、老人病といっても60代までの話。80、90まで生きた人間がどうなるかは未知の世界だった。今では、医学が進歩して、100歳を超えた人間を生かしておくすべを持った。良いとも悪いとも言えない。

科学をとにかく進歩させようと、皆でそっちへ努力してきたんだから・・・

あらゆる手段で延命を希望しますか?と聞かれたら・・・むりやり生き永らえるのは反対なので、いよいよの場合、延命しなくていいと回答しますが・・・。

今、ぼやーっと生きるわけにはいかない。

人生観も変わったが、苦虫かみつぶしているより楽しい、面白い、と思っていた方がいい。長く生きていて、前向きな方が楽だし幸せだ。子供・孫達も元気だし。。。そして今、自分に出来る社会奉仕で、喜びを感じている。。。

2019年9月29日 (日)

生かされていること

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生かされていることに「ありがとう」

いろいろ不満のことはあるでしょうが、生かされていることに感謝すべきです。

今は医学も進歩し、昔より人の寿命が二倍近く長くなっています。しかし、ただ単に長くなった命を喜ぶのではなく、むしろ長くなった命を、いかに充実した日々とするのか、いかに生きるかという事に「こころ」を置くべきです。

一瞬一瞬を大切に・・・

言い換えれば、時間の「量」から「質」へ転換することが大切なのです。「一瞬一瞬が大切」なのです。とは言うものの時間の質を高めることは、正に「言うは易く行うは難し」です。ではどのようにして「質」を高めるのでしょうか。

ほとんど人は、一日の生活サイクルが決まっています。

その生活サイクルの中で、無意識のうちに過ごしている多くの時間に、いかに意義を与え、見つけてゆくかを考えるのも一つではないでしょうか。

このように時間の「質」を高めることは、案外「何でもない」または「つまらないこと」に意味を与えていくことになりますが、生かされていることに「ありがとう」の感謝の気持ちを持つことで、はじめて充実した意義のある生き方が見えてくるのではないでしょうか。

つまり、ただ単に流れていく時間を「自分らしく」有意義に過ごすことなのです。

今ここにこうして自分がいるのは、自分だけの力ではありません。友人・知人・兄弟に支えられ、そして両親をはじめとする御先祖様の色々な思いを託されて生かされているのです。その事に「ありがとう」と素直に言えるようになりたいものです。

2019年9月28日 (土)

義理と人情に厚い人

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懐メロで村田英雄の【人生劇場】に「義理がすたればこの世は闇だ」「義理と人情のこの世界」があります。

昔は、会話の中でよく使われていた・・・あの人は「義理・人情に厚い」人・・・と言われたりしましたが、現代ではあまり使われなくなったように思います。

「義理人情」とは他人を思いやり、情けをかけてあげられる人のことを言います。人が守るべき道徳とも言えるもので、情のある人が持つ性質、もしくはそういう人を表現するときに使われる言葉です。

道徳上の筋道を守り他者への情け・思いやりがあること

義理人情は、道徳上の筋道を守り、人としてどう行動すべきなのか、その模範とも言えるものです。赤の他人に対しても、自分の行いを正し、模範的な行動ができるかどうかが、義理人情においては重要になります。自分に甘く他人に厳しい人は、義理人情があるとは言えないでしょう。

義理は人が守るべき道徳上の筋道

義理というのは人が守るべき道徳、もしくはその筋道とも言えるものです。また義理は他人に対しての恩となり、その恩は再び義理となって自分に戻ってくるとも言われています。他者と関わり合いながら生きていく以上は、義理堅くありたいものです。

人情は人らしい情や他者への思いやり

人情というのは人が人らしくあるための情、もしくは思いやりと言えるものです。これは人だからこそできることにも起因しており、動物や植物ではなかなかできないこととも言えます。「人として」持っておきたいもの、それが人情と言えます。

2019年9月27日 (金)

町の美化に思う

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一般的に環境美化というと、ごみを拾うこと、家の周りを掃除すること、空き地の除草や、不法投棄の防止などが思い浮かぶことと思います。

環境美化活動は、美しいまちを将来の世代へ引き継ぐための取り組みであり、広い意味では、地球の温暖化防止や自然環境の保護等にもつながる身近で幅広い取り組みといえます。

また、美しい環境を保つことは、一人だけでは難しいものです。一人で清掃や除草などを行ったとしても、周りの人がまたごみを捨てたというのでは意味がありません。

市内の道路などに地域外の人によるポイ捨て等によって、地域内での注意だけでは解決できないマナーの悪さも課題になっています。何よりも大切なのは一人ひとりが関心を持つことです。そして、地域の環境に対して関心を持って行動することが重要と思います。

自分の家の周りは、自分で掃除を

家の周りの道路に、落ち葉・ゴミ・などの掃除し、いつもきれいにすることを一人ひとり心がけ実践することで、町全体の環境美化に繋がると思います。

落ち葉が、近所からも飛んできますが、一緒に掃く・・・ 愚痴をこぼすよりも、一緒に掃いてしまった方が、私自信も気持ち良いです。 落ち葉は家の場合、お互い様です。

2019年9月26日 (木)

幸せを感じるとき

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「ふとした瞬間に感じる幸せが、一番幸せなことかもしれない」

日常生活を過ごしていく中で、普通や当たり前のような感覚で既にできていることが誰にでもあると思います。幸せはどこか遠くにあるのではなくて、実はとってもすぐ側にあるのかもしれません。

「それに気づくことができるか、できないのかで、大きく変わるのかも」と思います。

私は、辛くて辛くてたまらない時ほど、自然の美しさにハッとすることが多いです。長いこと同じ町に住み、自然の山・川の四季を見ていますが、その川の流れ、山の木々を見て私は幸せを感じるときがあります。

それはきっと、自然からのメッセージなんだと思います。「そんなことで思い詰めるんじゃないよ」「ほら、世界はこんなに美しいよ」って・・・そう言っているかのように、私を大きく包み込むような安心感を持たせてくれます。

この風景を忘れたくない、目に焼き付けて心のアルバムに入れて、いつも思い出せるようにずっと持ち歩いていたい。そうすることができたら、心が潰れそうな時も「こんなの、なんでもないや」って笑い飛ばせる気がします。

そんなことはできないんだけれど、でも忘れた頃にまた新しい顔を見せてくれるのが自然の面白さで、だから私はいつも飽きずにいられるのです。

次はどんな顔で私の心を震わせてくれるんだろうか・・・。そんなことを考えていたら、明日も少しだけ頑張れそうな気がします。

2019年9月25日 (水)

「共に生きる」とは・・・

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思いやりの精神は、生きる原点です。

私たちの人生は、常に、どこかで誰かに支えられています。この人生を喜びの多いものにしていくためには、そうした人たちと互いに心のつながりを深め、自ら進んで思いやりの心を働かせいくことです。

「相手の人格を尊重し、受け入れていく心」や、「相手の喜びや悲しみに共感する心」が欠かせません。日常の人間関係の中でも、自分自身の心を開き、相手の心に寄り添い、これを無条件に受け入れてこそ、はじめて相手の言葉の裏にある「本当の思い」に触れることができるのではないでしょうか。

また、苦悩を背負った人に、寄り添う心で共に歩もうとするとき、自分自身(ケアをする側)も多くのことを学びます。人生には喜びがあるだけでなく、悲しみや苦悩も避けられないことを悟ったなら、その重みに耐えて生きる心が養われていくことでしょう。

自分が特別に困っているときでなくても、「多くの人たちから支えられている」という事実を自覚することの大切さは、言うまでもありません。

支えてくれている人たちへの感謝の思いから、“この人たちに恩返しをしたい“自分も誰かを支えることができるようになりたい”という気持ちが生まれたとき、人と人との絆はいっそう深まることでしょう。そして、ときに重くふさぎがちになる気持ちも、少しずつ前向きな心へと変わっていくのではないでしょうか。

2019年9月24日 (火)

私たちの町は私たちで守る

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町に住む人が安心・安全に暮らせる町にするには「町の美化」で基本です。

家の中は、掃除をしなければ汚れます。町も同じで、掃除をしなければ汚れます。そして汚れていれば「割れ窓理論」にあるように犯罪にもつながるのです。

町に住んでいる人は、町の美意識・価値観が違います。私は、「清掃を行う目的は、きれいにすることではなく、捨てないようにする」ことだと思っています。

ごみを捨てる人に、直接注意するのではなく、自分達が率先して拾い、それを見てもらうことで、公共の場にごみを捨てない気持ちを育てていきたいです。

ポイ捨ては、癖なので仕方ない?本人には悪いことをしているという認識がないのかもしれないです。ごみを捨てる人に、直接注意するのではなく、自分達が率先して拾い、それを見てもらうことで、公共の場にごみを捨てない気持ちを育てていきたいです。

清掃は小さい時から習慣化することが大切です。自分の子に躾の三原則を・・・しっかり教えることです。

哲学者で教育者でもあった  森信三 先生の 「しつけの三原則」 があります。

  ◎ 朝、必ず親に挨拶をする子にすること。

  ◎ 親に呼ばれたら必ず、「ハイ」 とハッキリ返事のできる子にすること。

  ◎ ハキモノを脱いだら、必ずそろえ、席を立ったら必ずイスを入れる子にすること。

若い人に日ごろから掃除してもらうことです。おじいさんみたいな人が掃除しているのを見ても、当たり前という認識かもしれません。清掃は小さい時から習慣化することが大切なので、活動に若い世代の人がもっと参加してほしいと思います。

「ごみがある所にごみは集まる」・・・きれいにすることで「ごみゼロ」の環境にしていきたいものです。

2019年9月23日 (月)

人生の満足度

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「人生の80%の満足度は、人間関係が締めている」と言われているほどです。残りの20%で、経済、環境、時間を締め、全てをクリアすると100%の幸せになるということです。

地域社会にあって、隔絶した生活をしょうとしても、それは出来ません。人は他の人との関係において、生かし合い生かされ合いしながら生きていけるのです。

生きていくことは、他人とのつながりの関係が前提となります。

この世に悩み苦しみのない人などいません。だれでも何らかの、悩み苦しみをもちながら生きています。その悩みで最も多いのが人間関係の悩みと思います。

人間関係は親子、兄弟姉妹、夫婦など家族であったり、親戚、ご近所、職場、学校、取引先、友達、グループなどさまざまです。そして利害関係があるとか・・・ないとか・・・少数か多数であるか、いろいろです。いずれにしても人は他人と関係しながら生活しています。

人間関係がよかれと願うけれど、人はだれでも自分が大事だから、自分を大切に思い行動しょうとするので、人と人の間でさまざまな摩擦が生じてしまいます。

人間関係の悩みは人が生きていく上で生じることですから、生きているかぎり消えて無くなることはありません。また、人間関係での悩みがない生き方ができれば、自分にとっても、また関係する人にとっても幸せなことですから、人間関係を良くしておきたいものです。

それにはどうすべきか、それは個々人の考え方や行動によるところということになりますが、基本的には、「助け合いの精神」と「思いやり」「感謝の心」を持つことです。

2019年9月22日 (日)

時は秋

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わが町八王子市片倉町の、片倉城跡公園は静かに秋に移り変わりつつあります。

「一瞬の 静けさの中に 虫の音」

「爽やかに 夕日に遊ぶ 赤とんぼ」

「吹く風に 甘さを乗せて 金木犀」

「落ち葉散る 色とりどりの 想いまで」

「公園は 静かに染まる 秋の色」

2019年9月21日 (土)

人生と言うものは

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道了堂の階段

『人生に到達点はなく、仕上げはなく成熟はあり得ない。人間はどれほど加齢しようと、その段階で常に新参であり未経験である。』

人生はあっという間

人生はあっという間です。いつのまにかいたずらに時間だけが過ぎていく。時間は巻き戻せません。だからこそ、その時間をどう生きるかが大切です。

私たちが思うよりも時間はずっと早く過ぎていく。心のどこかで人生はまだまだ続く錯覚してしまいます。人生とは有限・・・二度と取り戻すことができないものです。

ただなんとなく過ごしていても有意義に過ごしでも、同じだけ時間は流れていく・・・その当たり前のことになかなか・・・失ってからでは手遅れです。だからこそ後悔のないように生きることです。

「今」を大切に

気がつけば漠然と毎日を繰り返している・・・知らぬ間に年月が経ち、歳を重ねていく・・・時の流れは残酷です。

「自分の人生は何だったのか」・「今までいったい何をしていたのか」過ぎ去った時間の長さに愕然となる。だからといって特別なことをするのではありません。

今のままではダメだと否定しているのでもない、いたずらに時間を浪費するのではないということです。未来のために今を犠牲にするのではないといことです。どんなときも「今ここ」を大切に生きるのです。

精一杯に生きる

後悔のないよう、毎日を精一杯に生きることです。私たちは近くにあるものほど見えにくい・・・失うまで大切なもの気がつかない・・・繰り返しのような日々も、同じ一日の繰り返しではありません。

平凡で退屈な毎日も、目を凝らせば新しい発見に満ちているのです。淡々と進む毎日だからこそ、かけがえのない時間を大切にすることです。

「いつか」ではなく「今」から行動する・・・今日は我慢ではなく、今日も楽しむ・・・つまらない時間なんてありません。自分で楽しくしてしまえばいいのです。意味のない時間なんてありません。そこから学び経験に変えてしまえばいいのです。

今日という一日を目一杯、満喫する・・・今という瞬間を精一杯に生きる・・・ことです。

2019年9月20日 (金)

老いを考える

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「秋彼岸」・・・私は「先祖を敬う日」と、捉えています。

人間の一生は「生・老・病・死」で、生まれた時に、死に向けて歩んでいます。

現代は、長生きするようになり「人生100年時代」といわれ、人生が終わるという感覚が薄れ、彼岸を思うことも少なくなってきました。しかし、人間は、永遠に生きられるわけではありません。

人生は、いずれは終わる

そのことを忘れて、「寿命が延びた、また延びた」と浮かれていると、いずれは、「こんなはずではなかった」ということになります。

現代は、いわば、「長寿のバブル」に浮かれている時代ですが、バブルは、いずれ弾けます。

人間が生きるとは、「生き物としての活動」すること

たとえば、食べものを手に入れる・・・住む場所を作る・・・連れ合いを求める・・・子供を育てる・・・地位を争うとか・・・です。

人間だけではなくて、生き物なら、みんなすることです。生活というのは、生き物が、生きながらえよう・・・生き延びようとしてする活動のことですから、生活の基本は、困難な状況を越えて生き残ることなのです。

老いの現実を知る

老いの現実に寄り添い、老いた自分を直視してこそ、これまでとは違う人生の局面が見えてくる。また、残された時間が充実すると思います。

若いあいだは、ほとんど生活に忙しくて、なかなか気づけないですが、ひと山越して、中年を過ぎますと、それまで見えていなかった、峠の向こうが見えてきます。

峠の向こうを見れば、老いの坂道が、死の断崖に続いているのです。寿命が延びたといっても、老いの坂道が長くなっただけで、行き着くところは「死」なのです。

そのことに気づいても、なお、「死ぬことなんか考えない、生きることだけを考えている」というのなら、それは、死への不安を、ごまかしているだけだと思います。

2019年9月19日 (木)

地域に生きる役割りと責任

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「地域に生きる」には、そこに役割りと責任があることを意識することが重要になってきています。自らの住む地域の環境を「良好な環境」の維持に努める責任と役割りがあります。

現在、地球の環境はかつてないスピードで変化しています。これが好転しているのなら喜ばしいのですが、残念ながら悪化の一途をたどっています。環境をよくするために、私たち一人ひとりが、行動しなければなりません。

まず、自分の住む地域の自然環境を守ることです。

「自然が豊かなところは環境を重んじている」「都市生活者は環境について無頓着である。」本当にそうなのでしょうか。

「うわ、何これ。うそでしょ。」
歩道に、区分けしていないごみが入った大きなレジ袋捨てられていて、散乱していることが三日続いて起きました。カラスの仕業と思われます。野菜くず・何か食べもの残り・プラスチックゴミ・ペットボトル・空き缶などを仕分けして処分をしました。

近くの家(知り合い)に何か心当たりの人はいないかと、伺いましたが・・・当然のことですが・・・「分からない」です。通りがかりの人?

ゴミ出しお願いです。
◎ マナー・ルールを守って下さい。
◎ 地域で決められた収集所に出して下さい。
◎ 「ゴミ」その管理は皆さん個人です。
◎ 収集日以外はごみを出さないでください。

「私たちの町は、私たちで守る」・・・私はこの精神が、安心・安全な町づくりと思います。


2019年9月18日 (水)

今の世の中で足りないもの

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他人への心底からの尊敬、感謝、思い遣り、激励、気遣い・・・「慈悲の心」です。

他人を本当に思い遣る心・・・仏教用語の「慈悲の心」・・・欠けている人が今の世の中多いと思います。

自分をかえりみず他者に思いやりを持ち手を差し伸べる人のことを「慈悲深い人」というのではないでしょうか・・・人の苦しみを我がことのように感じ、人の喜びを我がことのように受け止められる、そんな人が沢山あつまった社会ができれば皆が幸せになれると思います。

乳幼児を虐待し育児を面倒臭がり・・・介護を辛いと愚痴り・・・他人の為に何でも無報酬で謙虚にさせて戴きますとの喜びは介護士にすら無いのでは?

また、自分の事だけに捉われず、誰かに何かをしてあげたい、手を差し伸べてあげたいと常に考え、行動している人は、心も体も知らずと元気になるものです。

身の回りに困っている人がいたら手を差し伸べられる勇気を誰もが持ちたいものです。「自己中心」 社会全体が他人を批判的にしか見ない風潮が蔓延してるから子供も見習うから、こんな言葉が出て来ます。

他者を敬い大切に理解し感謝や思い遣りが誰れもが、あれば争いは無くなり、平和な社会になるのではないでしょうか。

2019年9月17日 (火)

地球の環境が危機的です

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は、私たちの住む地域のごみ拾いをしています。

最近気づくのですが、生ゴミ・ガラス・空きビン・プラスチック容器・空き缶などの危険物と生ゴミと一緒に、レジ袋に入れて捨てられていることです。市の回収指定の日に、ゴミの種類に別にして出して欲しいのですが、最近同じ袋に一緒くたに入れて捨てられていることが多いです。

道路や河川管理通路に捨てあると、カラスなどの野鳥に散らかされます。また公園・広場のゴミ・ベンチの周りや、植え込みに、食べ物の容器・空き缶・ペットボトル・タバコの吸殻などが落ちています。

危機意識を持って欲しい
今を生きる私たちは、美しいまちに住み、美しいまちを後世に引き継ぐ使命があります。いま地球上に、生きる動植物の種の減少・・・大雨・高温・記録的・異常気象が出ています。これは人間によるわがままによるものです。

忘れされている大事なこと

① 親の教育
マナーやエチケットは、成長する段階で親からしっかりと学びましょう。大人でも平気でゴミを捨てる人がいますが、このポイ捨ての心理で考えられるのは親からきちんと教えてもらっていないことです。

② 自己中心的な考え
公共の場所をゴミで汚す人は、基本的に自己中心的な性格が原因になります。自分の行いでその先どのような展開があるか考えず、一時的な発想や思いつきで自分に有利なことをするのです。

③ マナー・モラルの意識低下
ポイ捨てがいけないのは、なぜなのでしょうか・・・。ゴミの被害まではわからなくても、マナーやモラルとしてやってはいけないことだと理解できない人がいます。
マナーは人のためにすることで、一番大切なのは、自分自身にとってもマナーを意識することです。社会生活を送るには、自分一人では暮らせません。あらゆる人との関わりがあり、マナーやモラルは人間関係にも影響を与える大切なことです。

◎ 私たちの町の環境は私たちで守る

ポイ捨てをしたら、最終的に誰かがゴミを拾い処分しなければなりません。ポイ捨てする人には誰かに迷惑をかけている意識がなく、自分さえよければよいという考えなのでしょう。ゴミを拾う手間だけでなく、ポイ捨ては周囲の人を不快にさせる行為です。他の人の立場になり、よく考えて行動して欲しいです。

幸せの見つけ方

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本当に幸せを感じているのは「自分の心」です。

自分の中にあるものだとしても、見つけるにはとても大変です。ちょっと考えたらすぐに見つかるというものではありません。自分の心を知り、いろいろな気付きから、自分自身が心で感じて想うものです。

生きる意味というのは苦痛の中にあるわけではありません。苦痛を乗り越えてその先に幸せがあって、その幸せを手に入れた時に初めて、「自分の生きる意味はこれだったんだ」と気付くことです。

幸せ=生きる意味

幸せを見つけること・・・それは「心が穏やかな状態でいられる」ことを言うのでしょう。別の言い方をすれば悩みがない状態とも言えるでしょう。

どんなにお金があっても将来が不安であれば幸せではないし、どんなに恵まれた生活ても、心に落ち着きがなければ幸せではありません。心が穏やかで曇りもなく、不安も心配もない状態というのは幸福感に包まれていて幸せな状態と言えるでしょう。

人間は自分の心が穏やかな状態であれば、幸せというものを掴むことが出来るということです。大金持ち、良い家に住む、良い車に乗りたい・・・いろんな欲求がありそれを求めて人間は生きています。

それはもちろんよいことですし、その欲求が満たされることによって、平穏な生活を手に入れることが出来るのであれば、一生懸命目指していくべきです。

2019年9月16日 (月)

人生の下山の心得

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人生を「山登り」に例えることってよくあります。

人生は、困難なことに、立ち向かいながら、何度も坂道を登っていく、「山登り」のようなものです。「確かに、生きていると困難なことに直面することもあって、それでも前に進み続けなければならない。」そんな風に考えることもできます。しかし、下山を考えなければなりません。

人生の下山の心得

永遠に続く登山というものはありません。この下山こそが本当は登山のもっとも大事な局面です。登山のときと、下山では、姿勢が違う。気持ちが違う。めざすのは山頂ではなくて、新たなスタート地点です。

登山が山頂を征服する、挑戦する行為だとする考え方は、すでに変わりつつあり、そしていま、下山の方に登山よりもさらに大きな関心が深まる時代に入ったように思います。

安全に、しかも確実に下山する、というだけのことではありません。下山のなかに、登山の本質を見いだそうということです。下山の途中で、登山者は登山の努力と労苦を再評価する・・・下界を眺める余裕も生まれてくる・・・自分の一生の来し方、行く末を思う余裕もでてくるだろうと思います。

2019年9月15日 (日)

永久不変のものは無い

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「諸行無常」・・・無常とは常が無いと書きますが、世の中の一切のものは常に変化し生滅して、永久不変なものは、無いということです。

草木はじめ、あらゆる生きものの躍動するありさまは、季節とともに変わっていきます。

私たちの住むまちの山も川も刻々とその姿は変わり続けています。人の思いとは気ままなもので、変わってほしいと思うこともあれば、変わらないでいつまでも現状のままであってほしいと願うこともあります。

ところが天候が変化するように、晴れの日が続いてほしいと思っても雨が降る・・・一雨ほしいと願っても降らなかったり・・・降れば豪雨であったり、先の読めないのがこの世であり、ことごとくが変わりゆくものばかりです。

変わりゆくとは、時の流れでもあり、ものの存在もそうです。

一昨日、私の生まれ育った実家の近くの大先輩に会ったのですが、昔を語って頂きました。私が覚えている・・・いま此処に立っている場所(八王子市片倉町の一角)も、「あぁーそうだったの・・・」そういう歴史があったことに驚きさえ覚えたのです。歴史を学び今を生きることは、大事なことだと思いました。

歴史を学んで未来を想い現在を生きる

光陰は矢の如しで、人の一生などあっという間です。のんべんだらりと日々を過ごしていたら、一月や一年はすぐに経ってしまいます。いつまでも若くありたいと願っても、老いはさけられません。

世の中の出来事はいずれは終わり、無くなり、滅んでいきます。しかし逆に言えばまた新たなものが生まれ、物事は進化していくとも言えます。なくなっていくこと、離れていくことは悲しいことですが、それは終わりではなく新しい始まりの一つなのです。

2019年9月14日 (土)

地域の連帯感

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最近、地域社会の構造の変化で、地域の連帯感のあり方を考えさせられることが多くなっています。

少子高齢化の進行、核家族化や単身世帯の増加の中で、「ご近所」の人間関係が形成されず、地域の連帯感が希薄化し、地域社会の支え合いの脆弱化が見られます。個人が主体的に地域や社会のために活動することが少なくなっています。

個人と社会との関わりが薄らぐ中で、青少年の健全育成、地域の医療・福祉、環境保全など社会が直面する様々な課題に適切に対応することが難しくなっています。

私は、このような社会状況の中にあって、個人や団体が地域社会で行うボランティア活動に参加活動の重要性を再認識をすべきと考えています。

互いに支え合う互恵の精神に基づき、利潤追求を目的とせず、社会的課題の解決に貢献する活動が、従来の「官」と「民」という二分法では捉えきれない、新しい「公共」のための活動とも言うべきものとして評価されるようになってきていると思います。

このような、互恵の精神に基づき、個人が経験や能力を生かし、個人や団体が支え合う、新たな「公共」を創り出すことに寄与する活動を幅広く「奉仕活動」として捉え、このような「奉仕活動」を社会全体として推進する必要があると考えます。
 

2019年9月13日 (金)

人間の価値

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『人間の価値はお金や学歴ではなく、どれだけ人に価値を与えたかで決まる』

人間の価値は、大きい小さいは別にして、どれだけ周りの人を幸せにできるか・・・周りに不幸をもたらす人がいたとしたら、その人は価値が低い人です。人間の価値は哲学でも、仏教でもその他宗教で測ろうとしても難しい・・・何故なら、どこにでも、善い人・悪い人がいるからです。

人間の価値は頭がいいから、学歴があるからというのも関係ありません。高学歴でもくだらないことばかり考えて、人に害する人もいるからです。

仏の様になる必要ありませんが、人はどんな時も、自分のことだけを考えるのではなく、周りの人に対し慈しみの気持ちや優しい気持ちが持てたとしたら、その人は価値が高い人だと私は考えます。

自己中心的な人は人間の価値は低い

現代は、自己中心的な人が多くなっています。「人様」に迷惑をかけない、とか「人の道」に生きると言った概念はまるでなくなって死んでしまったかのようです。

その自己中心性はどこからくかですが、十分な愛情や保護が不足したまま、大人になった人々のことが多いことだと思います。人格障害に象徴される、まるで子供のように振る舞う大人が増えているというのが、ここ10年程の精神科医の体感だそうです。

子供時代を引きずる人々は、自分を大切にする能力である「自己愛」に問題があり、自己中心的になり、他人と信頼関係を築くのが困難になるのです。

気持ちを切り替える

その人が出来ないことを責めても、結果は変わりません。それなら寛大な心で許した方が自分だって楽なはずです。できない部分は補えばよいのです。

足りない部分は、その分自分が動けばよいのです。そうやって優しい心を持って接すれば、おのずと悪い心が消え去り、穏やかな気持ちで日々過ごせるようになると思います。

2019年9月12日 (木)

泥臭い人間

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私は泥臭い人間でありたい。

清らかそうな聖人であるよりも、むしろ泥臭い正直な人間でありたいと思っています。

上から人を導いたり教えたりする人よりも、いつでも人と同じ目の高さに立ち、サポートを必要とする人のそばにただ寄り添う人でありたいです。

私は、そういう人間のほうが好きだし、正直な人のほうが信用できるし、そういう人の方が一緒にいて安心できます。カッコいい人生を生きている人は、確かに聞こえはものすごくよく感じます。周りから見ると羨ましささえ覚えます。

泥臭く生きるということ

世間で使われる「泥くさい」という言葉は、辞書的な意味以外に、定形的、形式的なものを感じさせない、もっと「心情的なニュアンス」を含みます。

たとえば、人の悩みを聞く場面でも、「知性にものを言わせて理路整然と説明する」のではなく、「人の心情を汲み、ともに悲しみ、ともに喜ぶ」というような、形にならない重さを持つ人間性があるのを指します。

形にならない重さであるがゆえに「泥」なのです。

そんな、型にはまらない人情味があるのが長所でもありますが、「効率重視」を忘れてしまうところが短所です。また、書類主義で「書類に書かれたことをすべての根拠とする」のではなく、「たとえ口約束でもそれを大切にする」気質を持つことです。

2019年9月11日 (水)

かけがいのない人

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人はみんな色んな誰かから助けられ支えられて生きられるのです。

親や兄弟、近所人たち、友達・学校の先生など、私たちのまわりには、いろんな人がいます。みんな誰かと一緒に生きてきただろうし、それらの人々は、みんなかけがえのない(この上なく大切な)存在であったはずです。

でも、ただ単に誰かと一緒にいるだけでは、かけがえのない存在とはならないと思います。

長い時間を共に過ごしたとしても時間だけでは、助けられたり助けたりの関係を築けはしないのです。当たり障りのない会話をし、楽しくみんなで群れているだけであったとしたなら関係は深まらないのだろうと思います。

必要があれば言うべきことをはっきり言ったり、駄目なことを駄目だ!と叱ってくれるようなことがなければならないと思います。

かけがいのない人は、いうなれば、その人の人生に踏みこんでいくようなこともあって・・・はじめて“かけがえのない”存在となり、お互いがお互いに対して真剣に向き合ってこそできてくるのです。

「親に泣かれて親のありがたみがわかった」・・・その人には真剣に向き合って、その人のことを思い泣いてくれる親がいる・・・さらに、親の泣く姿を見て心が大きく動く・・・お互いの反応があって変化が起こるのです。

その人の生き方を変えてその人を良い方向へと導いてくれるのです。それが助けられるとか、支えられるとかいうのはそういうことだと思います。共に生きるということは、そのようなことです。

2019年9月10日 (火)

秋の訪れに異変?

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9日(月)午前5時前、強い台風15号は、千葉市付近に上陸しました。千葉市で観測史上1位となる最大瞬間風速57.5メートルを観測するなど各地で記録的な暴風を観測しました。

昨日の暑さは、36℃ 真夏日にはなかった暑さとなりました。やはり地球の温暖化の現れと思わずにはいられません。

「台風の 過ぎ去った後に 酷暑くる」
「夕暮れに 散りゆく木の葉 やはり秋」
「コスモスは 咲き出してきた 彼岸まえ」
「朝夕が 風で感じる 残暑かな」
「キリギリス  秋を偲ばせ 草のなか」

 

あいさつ・声かけのこと

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「あいさつ・声かけしよう」

悪気はないのに、ときどきどうしてか億劫になる?

子供時代よりもマナー・礼儀を重んじる社会人生活を送る今のほうが、あいさつが“適当”になっている方が多いように思えます。

あいさつは相手の存在を認め、私はあなたとコミュニケーションが取りたいという意思表示を行動として表わしたものです。また「あなたは私がコミュニケーションを取るに値する人ですよ」と認める意思表示とも言えます

気持ちのよいあいさつは、人と人との心のつながりを深め、毎日をさわやかに過ごすためにとても大切なものです。また、地域の連帯感を高め、子どもたちがのびのび育つ、安全で安心な住みよい社会を築くためにも、とても重要なことです。

子どもたちにとって、地域で声をかけ、あいさつをしてくれる大人がいる環境は、大人から見守られ、大切にされているという安心感を与えていきます。そして、こうした安心感や大人たちの姿は子どもたちに勇気を与え、新たな一歩を踏み出す原動力を生み出していきます。

子どもは地域の宝です。子どもたちの健やかな成長を願って、地域ぐるみで大人から粘り強くあいさつ・声かけを続けていきましょう。

 







 






 

2019年9月 9日 (月)

ボランティア活動で思う

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「ボランティア」

ボランティアを続けていくとたくさんの発見や喜び、充実感が味わえるものです。

ボランティアとは、慈愛の心で奉仕をおこなう活動であって、決して結果や報酬を求めてはいけない。また、活動そのものを他言せず、ある意味、自己満足で行うものです。

私は、今住んでいる町に生まれ、育ち、今も暮らして82年経ちます。

今まで私を育て頂いた、親をはじめ兄弟・親戚・隣近所の人たちや、山・川など自然に育てられ今があります。もちろん、自然環境・生活環境も、回りの人たちも、大きく変わっています。

人の生きるための必須条件は、自然環境が守られて、良好な人間関係であると思っています。人は一人では生きていけません。豊かな自然環境で成長していけるのです。

私たちの町で安心して暮らせる環境を守り、維持していくことが私のミッション(使命)と考えています。また、それは自分のためで、ボランティアで、町の清掃活動を続けています。年々歳を増すごとに、心身の衰えは否めません。

「今出来ることをする」

私の行為を人はいろいろ評価していることでしょうが、それに耳を傾けないで、継続していくこと、それは「自分のため」であり、出来ることが幸せと思っています。

人は、ボランティアをすること自体が悪いとはいいません。ただしそれを行う時に、自分が「善いことをしているのだと勘違いしてはいけない」・・・実際には全て自分のためであるからです。無理をせず、自分のペースで長く続けることです。

2019年9月 8日 (日)

幸せとは・・・心の豊かさ

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どうすれば幸せになれるのでしょうか?

誰しも「幸せになりたい」と思っています。たとえ、生活が豊かになり、人がうらやむぜいたくな暮しが出来たとしても、人は幸せにはなれません。一つの望みが叶えたとしても、人間の欲望は際限がなく、きりがなく求める心を持っているからです。

望みを満たせばそれぞれの満足感は得られますが、次から次へと望み(欲望)は果てしなくきりがありません。幸せとは物の豊かさではなく、心の豊かさなのです。どの位置で・どの辺で幸せを実感するのかということです。

たとえば、生活は豊かではないが食べ物を分かち合い、家族みんなが助け合い一生懸命に努力して、明るく暮らしている人々が幸せを実感しています。

私の人生経験でも・・・物が豊かで自由であり繁栄した現代よりも、みんなが仲良く助け合って・・・むかし、終戦直後の時代は、配給制度があり、限られた物資を分け合ったのですが、みんな現代より幸せを実感じていたと思います。

たった、一つの卵を兄弟3人で分け合いたべたり、兄が着ていた学生服を弟が着る。。。学校の教科書も兄の使ったもを使ったりしたのですが、もちろん当たり前のことだと思っていました。

現代は、幸せは生活が豊かになり、いろんな欲望を満たしただけでは、やってこないということです。余りにも欲望が多すぎるから満足しきれないのです。

2019年9月 7日 (土)

生きることの意味

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南の大橋の上から

生きることの難しさ、虚しさが如実に現れるのが、年老いてからです。

改めて思う、生きることの意味は「幸せになること」です。

年老いてくると、未来への希望や可能性が狭まってきます。新しいことをするためには、気力も体力も残されていません。同じ事を同じようにしようとすれば、若い人間には、太刀打ちできません。二十代の若者と同じ条件で、七十代、八十代の人間が競わせようとするのは残酷な行為でしかありません。

年寄りには年寄りの生き方ある

人は、生きてきた時間だけ多くの経験や知識があります。その経験や知識を上手に活用することが年寄りの特権です。そのためには、その人その人が生きてきた、軌跡の延長線上に生活の基盤を求めることだ思います。

年寄りにも、活躍する場所があります。人に役に立てるからこそ生きる喜びがあります。生きてきた証のような事まで愚弄されれば、生きる気力まで奪われます。

年寄りは、社会の厄介者だけではない

人はただ生きているわけではありません。生きようとして、生きる希望を持つから生きるのです。生きるということは、生き生きと生きることです。世間の世話になり、邪魔者扱いを受けることではありません。年をとっても幸せになる権利はあるのです。

私は、年寄りになっても、「社会のために、今できることをする」ことで喜びを感じています、つまり、奉仕の心を持ち、実行できる「幸せ感」・「充実感」を味わっています。

「誰の世話にもなりたくない」そんなことを年寄りに言わせるような社会は、本当に豊かな社会なのでしょうか・・・人は支え合って生きられるのです。人生の終局に「私は何のために生きてきたのだろう」なんて年寄りが呟くような社会は貧しいと思います。最後まで、しっかり生きることが大切です。

2019年9月 6日 (金)

高齢者の散歩

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絹の道

高齢者の散歩は、たくさんの良い効果があると言われています。 外出をすると運動効果のほかに心もリフレッシュされて、毎日に刺激を与えてくれます。

認知症やうつ病の予防

外出頻度の高さが認知症と深く関係があると言われています。 外に出ると四季の景色、風や香り、音や歩く感触など、五感すべてが刺激されます。

身体を鍛えると強くなるのと同じように、脳もいろいろな刺激を受けることで活性化します。 また、一人でいると様々なことを考える時間が増えるため、悩みを抱えてうつ状態になってしまいがちに・・・外出は良い気分転換にもなります。

体力の維持

身体を動かすことは運動不足の解消になり、寝たきりを予防します。体の活動量が多い人は、心疾患や高血圧、糖尿病や骨粗しょう症など高齢者に多い病気が少なくなる傾向にあり、長寿にもつながると言われています。

身体を動かすことで精神的にも元気になる効果があり、心身ともにいきいきと毎日を送れます。

孤独感を解消

散歩をすることだけでも、近所の方へ挨拶をして顔見知りになるなどコミュニケーションが増えます。 今はシニアクラブで、いろいろな活動する場があり、参加することで、仲間が増えることで生きがいにもつながります。

2019年9月 5日 (木)

人間の価値

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人間の価値と評価とは・・・
自分以外の人にどれだけ役に立ったかです。
・幸せにしたか? 
・喜ばせたか? 
・役に立ったか?
の度合いです。
他人を幸せにすることで、他人が“価値”するものです。「世のため人のために尽くしたい」人は、世のため人のために生まれてきます。

「人に感謝されるととっても嬉しい」ものです。人間の脳に潜在的にインプットされています。いわば本能のようなものです。でも「私は人なんてどうでもいい。自分さえよければ~」どう感じるかは人それぞれでしょう。そしてどう感じるのも自由です。

ただひとつだけ言えることは、強運な人というのは間違いなく、世のため人のために自分自身を捧げています。なぜならそうすることが、自分自身の魂の歓びであると知っているからです。

感謝されたいから、人に良く思われたいから、人に何かをしてあげるのではなく、そうすることが、自分自身にとっての真の歓びであるから、世のため人のために尽くします。

ここで気をつけたいのは「自己満足」です。世のため人のために尽くす自分に酔ってしまうのです。「自己満足」になってしまうと、成長が止まってしまいます。常に謙虚になることを忘れないことです。

私はいつもいつも自分に質問しています。「この行為は自己満足じゃないよね?本当に相手の方の為を思っている?」を・・・

2019年9月 4日 (水)

心を磨くこと

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人間の心は、「知、情、意」という三要素の相互関係から生じる、精神作用です。このどれが欠けても、本当の“心”は生まれません。もともとは哲学者カントが提唱した言葉です。 

・ 『知』とは「知性」のことです。「知性」を高めることで、総合的に物事を判断して処理する能力の「理性」が得られるのです。

・ 『情』は、「感性」と言うこともできます。人としてのあり方を決める感覚的な部分であり、人間を動かす原動力です。自己を磨くことによって身につき、人格をつくり上げます。

・ 『意』は、「意志」のことで、行動の基本となります。自らの考え方や社会的な価値を実現しようとする欲求です。

人間関係における「感性」は、「気遣い」に現われます。気遣いができるようになれば、他人が見えてきます。そして、世の中を動かしているものが見えてきます。

私は、「努力」「苦労」「経験」の積み重ねでいくことで、心は磨かれると思っています。

感性を高める

道端に咲く花を見て「根っこがあるから咲いている」と気づき、そこから「私も人生にきれいな花を咲かせるために、人として根を張っておこう」と思うことができれば、自分を支える心の杖は太く、しなやかになっていきます。

2019年9月 3日 (火)

歳を取って思うこと

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歳をとるとは時間を重ねることです。

◎ まずは今を懸命に生き、さらに楽しむこと

歳をとっても、やることはたくさんあります。時には嫌になって放り出したいと思うことも・・・でも、完璧を求めずに今できることを懸命にやることです。多くの喜びや幸せはもちろん、悩んだり立ち止まることも、生きていればこそです。その時々にしか味わえない貴重な時間を大切にしたいものです。

◎ 新しく学ぶこと

どんどん変化していく世の中・・・常に新しいことを学びながら良いものは取り入れる・・・そんな気持ちの柔軟さを持っていたいものです。それには、多くのことにアンテナを張って置くことです。

◎ 歳相応の思い込みを捨てること

いくつになっても、新しいことを知ろうとする好奇心や、行動力は失いたくないものです。その思いを叶えるために継続的な運動をし、食生活を整えておくことです。そして定期的に、身体のメンテナンス(健康診断)をすることです。

「歳をとる」というと、若さを失い健康や生き方への、不安要素ばかりをイメージさせますが、誰しも突然歳をとるわけではありません。平凡にも思える毎日の積み重ねによって歳をとるのです。

◎ もう歳だから。。。人生はいつだって今から。。。

「もう◯◯歳だから」が口ぐせになってる人は、100年生き抜いてきた方々の人生の一端を知る本でも読んでみれば、「私なんて、まだまだ」と思えるかもしれません。何歳からでも自分次第で生き方は変えられます。人生も運命も、いつだって今からなんです。

 

 

 

 

 

2019年9月 2日 (月)

善き人生を送る

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「サクセスフル・エイジング」 (Successful  Aging )

「日本語で正確に言い表す和訳はない」とされています。サクセスフル・エイジングの持つ意味とは「良い人生を送り、天寿を全うすること」とされており、日本に元々ある言葉では「生きがい」や「幸福な老い」がその意味に最も近いものではないかと考えられています。

年を取ったから衰えるのではない。「まだ若い」と頑張るのでなく、「今だからできること」を選び、良い仲間を持ち、心を込めて今できることを行い、社会や友とかかわり、人の悪口や足の引っ張り合いをしない、うわさ話で時を無駄に使わない、というのがサクセスフルエイジングのポイントと思います。

今は核家族化・地域の連帯感の弱まりで、いわゆる「絆」が衰退しつつありますが、私は「人間愛」を信じます。

『人間愛』
人間愛とは、すべての人間を信じ、尊重し、あたたかく慈しみ優しく思いやり育むことです。 人間愛の精神は、互いの存在を強さも弱さ、も持ち合わせた生身の人間として、丸ごと肯定的に受け止めようとする思いが普遍化されたものです。

 

2019年9月 1日 (日)

四つの幸せ

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幸せには四つあると思います。

私は、人が生まれて心身の成長に合わせて『人のためにする行為』が基本であると思います。

一つ目の幸せは、「 してもらう幸せ 」・・・周りの方々にも励ましていただいたとき、私たちは元気になります。

二つ目の幸せは、「自分でできる幸せ 」・・・自分が好きなことができるようになると、とても嬉しくなります。

三つ目の幸せは、「人のお役に立つ幸せ 」・・・人の役に立つ何かをして上げると、相手の喜びをわが喜びとすることです。

四つ目の幸せは、「人に必要とされる幸せ」・・・多くの人に信頼されて、必要とされることで、喜びを感じることです。

四つのうち三つが受け身であるのに対し、3番だけは主体的です。しかも「役に立つ」という行為には、必ず努力が伴います。

人は、努力なく褒められ、必要とされるよりも、努力した行為がそのような報酬をもたらす方が、より幸せを感じます。そして意識するかしないかに拘らず、人は誰しも「役に立ちたい」という思いを潜在的に持っているものです。

内に秘めたるその思いが、見送られることなく「表現できる場」が身近にあるか・・・「場」をきちんと提供できるか、さらに大小のそれらの思いを、「リーダー」となって、一つに束ねて大きな推進力とすることができるかどうか・・・と思います。

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