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2015年12月

2015年12月31日 (木)

2015年の大晦日に想う

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出来立ての 町の湯で越す 大晦日

今年も日本の内外に大きな出来事がありましたが…今日で2015年は終わりです。

私の住む町(八王子市片倉町)の今年の大きな、出来事は、町に大きな日帰り温泉施設が出来たことです。それも12月29日が、オープンというものです。

振り返ってみても、わが町に、日帰り温泉が出来るなんて、想像も出来なかったことです。

昭和の20年代のむかし、住吉(片倉城跡)のお祭り(8月29日)に階段を上って、大きな杉の木の間から見る、湯殿川から田園風景が広がっていたのを覚えています。

毎年台風の時期には、湯殿川の氾濫が心配され、たしか、下河原とよんでいた田園地帯(現在のJA片倉支店あたりからゴルフ練習場)が土砂を被ったことが記憶にあります。今では湯殿川が整備され、全く台風での川の被害は、心配なくなりました。

現在では開発が進んで片倉町には田んぼは完全になくなりました。そして、湯殿川にいた魚(ふな・どじょう・かじか・うなぎ・なまずなど)がいません。そのうえ10年ぐらいまでいて、夏にはうるさいほどのカエルの鳴き声が聞けなくなりました。

人間は自然と共生しなければ生きていけません。人間のエゴだけで、他の生物を犠牲にすることは、許せない行為です、人間自身を破滅することになるのだと思います。

夢にまでみるむかし…子供ころ走りまわって遊んだ野・山…泳ぎ、魚を捕った湯殿川…自然の豊かでした。少しでも、自然を復元し未来に引き継ぐことが、現代人の責務であろうと思うのです。

2015年12月30日 (水)

当たり前のことを当たり前にする

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幸せになるためにには…

当たり前のことを当たり前にするだけでいいのです。特別に難しいことをしなくてもいいのです。複雑に、難しく、ややこしく考えるほど、幸せは遠ざかってしまいます。

人は一人では生きて行けません。多くの人(社会)の支えがあって生きられるのです。それには、挨拶する・約束を守る・人のために働く・それには無理をしない・自分の好きなことをする・飲食をする・健康ため適度な運動をする・家族を大切にする・隣近所と仲良くする。

どれもこれも、誰もが知っている当たり前のことです。しかし、きちんとできている人は少ないのです。(モラル・マナーを自分勝手に解釈している)

目先のことは軽く考え、幸せになるためにもっと複雑で難しくややこしいことをしています。プライド・見栄・世間の体裁…幸せになれない人は、こうしたことを求めている傾向が強いのです。

だから余計に幸せから遠ざかる…これらが自分を幸せにさせてくれると思っているからです。当たり前のことを、当たり前にするだけでいいのです。

あたりまえの事を当たり前にできることに感謝する心が大事なことなのです。

2015年12月29日 (火)

ふるさとの想い

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ふるさととは…

あなたにとっては、ふるさととは何ですか…正月に、ふるさとに帰省するのですか、世界にはふるさとに帰りたくても、帰れない人々がいっぱいいます。

ふるさととは、私にとっては、生まれ育ち遊んだ場所です。75年前の記憶では、農村で山があり川があって、山にはうさぎがいたり、川にはコブナいました。

あの童謡の「ふるさと」の歌詞の通りです。

♪ うさぎ追いし かの山
            こぶな釣りし かの川 
                           
夢は今も めぐりて
                                   忘れがたき ふるさと♪

むかし、泳いだり、魚を捕ったりした…川は今では汚れて泳ぐことは出来ません。カエルまで姿を消してしまいました。山は開発され、うさぎ・きつねなどはもちろん、昆虫なども姿も見られません。

ふるさとの姿はすっかり変り、もはやふるさとは記憶の中で懐かしむしかありません。今でも夢に出てくるのは、現在住んでいる家ではなく、すでに無くなってしまった生家です。

ふるさととは、いつまで経っても夢に出てくる場所であり、心が休まる重要な場所なのです。しかし私の場合、引っ越したといっても同じ町です。色々な事情で生家なくなりました。

父母の働く姿…友達と遊んでいる光景が夢に出てきます。ふるさとは、頭に残っているものしかありません。ふるさとは、暖かく、優しくそっと包んでくれる母親の懐のようなものです。

遠く離れたところで暮している父母が、元気な人は、正月やお盆には、帰りたいものでしょう、無条件に受け入れてくれるふるさとは、母親の胎内のようなもだからです。

いま世界では、遠く離れた場所へ追われた難民、何百万人もいるそうです。その方たちが、故郷に対する想いは計り知れません。

2015年12月28日 (月)

老化を防ぐ

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「加齢」と「老化」は違います。

「加齢」とは、生まれた瞬間から人生が終わるまでの時間の経過、いわゆる暦年齢をさします。

一方、「老化」は成長期以降、加齢に伴って生体機能の低下…心臓を動かす・息をする・体温を保つなど、私たちが生きていくうえで欠かせない働きで、はっきりと区別できます。

老化を防ぐには、抗酸化物質を多く含む食べ物で、言われています。そして、もう一つは、メンタルヘルス…精神衛生のことで、心身とも健康であり続けたいものです。

いくつになっても新しいことに挑戦する意欲を持ち続けることです。若いときの一歩幅より狭くなったが、新た事に挑戦続けることが大事です。

そして、納得できる人生を送りたいものです…

納得できる人生を送るためには、人生を良い習慣をづけることです。習慣は、特に意識しなくてもストレス無く勝手にやっている状態でなければいけません。そのためには、まず、自分が納得出来ることが必要です。

習慣とは、すなわち「続けること」です。つまり、続けられることでなければ習慣にはならないということです。できるだけシンプルで分かりやすい習慣…できれば楽しいことです。

習慣づくり

健康…心と体、両方の健康を保つ習慣を身につけることです。

目標…目標を持って生きることはとても大事なことで、ポジティブ思考を持ち…自分に感動が得られるようなことです。

柔軟…一つの物事に執着せずに、世の中を広く見渡して、思い込みを洗い流す…依存しない生き方は、柔軟性があり自由で力強いのです。

簡素…シンプルな考え、自分は一生「自分」と付き合っていかなければなりません。自分が置かれている状況、つまり身の回りのことが複雑になってきたと感じたら整理する必要があります。絶ちがたい関係(しがらみ)で、何かが起こったときに自分の手に負えない状況になってしまいます。自分の手に負えないものを持ち歩いているから失敗が起こるのです。シンプルは成功の秘訣でもあります。

変化…変化することを恐れてはいけません。私たちは何も持たずに生まれてきました。歩けるようになったのも、言葉を話せるようになったのも、自ら新しいことに取り組み、変化を起こしたからです。

新しいことに興味を持ち、実際に始めてみることは、何よりも価値のあることです。何があっても、これまでの経験を失うことはありません。沢山の経験は、何かを始めることで得られます。

2015年12月27日 (日)

当たり前のことを「ありがたい」と思うこと

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当たり前のことを「ありがたい」と思うこと…

「毎日三食のご飯を食べる、それも自分が好きな物を腹一杯食べることができる。」

今日、大半の日本人には当たり前のことです。住む家もあります。着る服にも不自由しません。これも当たり前のことになっています。

基本的に人間は当たり前のことをありたがいとは思いません。しかし、今の日本人が享受している豊かな生活は、せいぜいここ50、60年くらいで得られたものであり、昔はそうではありませんでした。また、現在の世界でも貧しい国ではまだ衣食住に困っている人もたくさんいます。

そう考えてみると、私たちが当たり前と思っていることは実は当たり前ではないのかもしれない、ということに気がつきます。さらに、東日本大震災でよくわかったことですが、現代文明というのは非常に繊細な基盤の上に成り立っています。

石油と電力がなくなったら、衣食住、現在のすべての生活がまったく維持できません。そんなもろいものであり、いつ何時そのような状態になるかもしれないのです。

そこで大切なのは、「当たり前のことをありがたく思おう」ということです。毎回ご飯を食べる時に「ありがたい」、車に乗ってどこかに行く時も「ありがたい」…と何をするにもありがたいと思ってみることです。

重要なのは無いことになるべく不満を持たないということです。

人間の体で考えてみると、赤ん坊で生まれて、だんだん成長していきます。そして、青年期を過ぎると、人間は失うばかりです。体力は落ちる。髪の毛は抜ける、目は悪くなります。耳は遠くなります。歯は抜けていきます。年を取るのは仕方のないことです。しかし、なくなっていくものを嘆くよりも、今まだ残っているものをありがたく思うべきではないでしょうか…

人間関係でも同じです。人間関係の中でもっとも大切なものが夫婦です。しかし、好きで結婚したとはいえ、他人だった二人が同居するわけですから、ずっと見ていると相手のアラや嫌なところが見えてきて、そこばかりが気になってしまいます。

しかし、相手の良いところは当たり前のことですから、なかなかありがたいとは思わなくなります。何から何まで酷い人もいるかもしれませんが、良いところもあり、だから一緒になったのではないでしょうか…

相手の足りないところが腹立たしくなりますが、それはなるべく気にせず、反対に当たり前に良いところをありがたく思う方が楽になります。「当たり前のことをありがたく思う」、これを意識的にやってみましょう。幸せになる近道であることは間違いありません。

2015年12月26日 (土)

日帰り温泉に入る

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年の暮れ わが町風景 湯舟より

わが町(八王子市片倉町)に日帰り温泉施設ができました。

集いの森(八王子市の公園)北側の傾斜地で、近くに片倉城址公園があります。直ぐ北側にスーパー(フードワン)があり、私たちの町会(片倉町一丁目町会)を見渡せる場所です。

この場所は、もともとは雑木林の山から、畑になった場所でした。子供のころ、ターザンごっこして遊んだ覚えがあります。

早速きのう、町内券で入ってきました。施設内には、マッサージ・食堂・床屋など、ゆっくりくつろげるスペースもありご家族で楽しめます。

2015年12月25日 (金)

ふるさとの想い

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山や川 一緒に年越す 我もまた

ふるさとの山に向かひて 言うことなし ふるさとの山はありがたきかな……石川啄木

人には誰でも「生まれ故郷」がある…

故郷は誰でも、一人ひとりが持っている根元的なよりどころなのです。そういう意味で、故郷を持たない人は、いないはずなのですが、たまにはこんなこと を言う人もいます。

「私には故郷がないんです。だって東京生まれの東京育ち、一度も地方で暮らしたこ とがないんですから…」

こういう人は、故郷というものを、地方や田舎のことだと勘違いしているのです。一般 的にも、都会から見た田舎を故郷だと解釈する場合もありますが、私はあまり好 きではありません。都会に暮らす人達のエゴイズム、身勝手を感じるからです。

現代ではこうした身勝手なものの考え方が、社会や人間関係の中で図々しく顔をだす のが当り前になってしまった…

生まれ育った土地になんの未練もなく、さっさと都会 へ出て来たような人ほど、傷ついた時、困った折りにすぐ故郷にすがりつく…どんな わがままでも、抱き取って許してくれる母親のように、馴染んだ自然や人間関係には、安心 して甘えられるからでしょう。

都会で暮らす人の心が荒廃していくのは、集まって来る人々の心に、本当に愛した故 郷がないからです。無責任に、気軽く、楽しい生活だけを求めてやって来た人間は、や がて自分自身に仕返しされるしかないのです。

故郷を愛するということは、今住んでいる場所や、日常と深くかかわって生きることで はないでしょうか…

一鉢の花に水をやり、陽を当てることでいいです。アパートの隣人と笑顔を交 わすことや、通勤途中の草花に目を止めること、なにごとも心に彫みながら、一日一 刻を生きる…それが愛する行為だと思います。

自然を大事(愛して)する…地方も都市もふくめて、そういう人達 の残していく生活が故郷を育て、文化や歴史となって社会を守ってくれるのではないでしょうか…

2015年12月24日 (木)

おかげさま

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「おかげさま」という言葉は、昔から日常会話に使われています。しかし、最近、消えつつあるようで、心寂しい思いがします。

大きな木があれば、その下に陰が出来、この陰があることで雨や暑さをしのぐことが出来るので、お陰様で雨がしのげましたという感謝の気持ちがわいてくるのです。

世の中のものはすべて単独で存在するものはなく、お互いに関わりあって存在します。「俺は一人で生きている。」と…どうがんばってみても、それは単なるエゴ(利己主義)でしかありません。朝起きて夜寝るまで、いや寝てる間も、わたしのためにはたらき続けています。

お陰様という言葉は今こうして、おいしい食事をいただいているのは、野菜を作って下さった人、お米をつくって下さった人、そして料理をつくって下さった人への感謝の気持ちにつながるのです。

「おかげさま」、「ありがとう」、「すみません」、「もったいない」・・・・・・

私たちのまわりには、仏教思想の影響をうけて、生活の中でながい時間をかけてうまれたすばらしい言葉がたくさんあります。「隣は何をする人ぞ」などと、マンションの隣には誰がすんでいるのかも知らないような現代…しかし、私たちが生きているしくみは昔と少しも変っていないように思います。

人の悪口やうわさばなしに多くの言葉を使うより、心のこもった一つの言葉をおしまないでおきましょう。「おかげさま」…この言葉に私たちの気持ちを込めて、若い世代に伝えていきたいものです。

「おかげさま」とは、「語源由来辞典」ではこのように説明されています。

他人から受ける利益や恩恵を意味する「お陰」に「様」をつけて丁寧にした言葉である。古くから「陰」は神仏などの偉大なものの陰で、その庇護(ひご)を受ける意味として使われている。これは「御影(みかげ」「神霊」や「みたま」「死んだ人の姿や肖像」を意味することにも通ずる。

接頭語に「お」がついて「おかげ」となったのは室町時代末頃からで、悪い影響をこうむった時にも「おかげさま」が使われようになったのは江戸時代からでる。

2015年12月23日 (水)

個人主義と利己主義

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個人主義と利己主義は、意味が違います。

現代社会の人々の生き方を見ていると、近頃の日本人はその意味の違いを理解していないように思われます。あるいは、これらの二つの言葉を、各人が自分の都合のよいように勝手に解釈しているのかもしれません。

個人主義は、個々の人間の主体性を重んじて、一人一人の個人が自由に生きることの権利が保障されている代わりに、個々の人間が集合して成立する社会に対して個人としての自覚と責任を負うものだと思います。

一方、利己主義は、自分が益することだけを行為の基準として、他者のことや個々の人間で成り立つ社会の利益を全く考慮することなしに、自己本位な生き方を推し進める考え方です。

個人主義と利己主義という、これら二つの言葉に対するおおまかな定義からも、その違いが明らかだろうと思います。

この定義に当てはめて、近頃の日本人が個人主義というよりも非常に利己的であることが理解できるのではないでしょうか…日本人は個人主義と利己主義をはき違えてしまっているように私には思えます。

2015年12月22日 (火)

湯殿川のカワセミ

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枯れ枝に かわせみ一羽 湯殿川

今日は、一年で一番昼の時間が短い日…冬至です。

私の家の近くを流れる、湯殿川に、色鮮やかな鳥…カワセミがいます。その姿をカメラに収めようと、カメラマンが毎日のように来ています。

水面を直線飛行する青緑の宝石…メスのくちばしは赤い口紅を塗ったようです。羽色が鮮やかで、翡翠(ひすい)のような体色から、飛ぶ宝石ともいわれ、その美しさは古代から注目されていました。また、昨今、現代人にもこれほど人気のある鳥も少ないでしょう。

形態の美しさもさることながら、昭和40年以降の自然環境破壊で「ほろびゆく自然のシンボル」として扱われているためでしょうか…カワセミは自分たちの生活を変えて新・カワセミとしての存在をアピールしているのかも知れません。

カワセミは昔から湯殿川に棲んでいましたが、一時見えなかったのですが、環境が改善されたのか、最近見かけるようになったのです。餌となる魚の種類は、むかしと違うのではと思います。

2015年12月21日 (月)

人と自然が共生する豊かな町・・・

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人と自然が共生する豊かな地域社会

私は、生まれも育ちも同じ、八王子市片倉町です。

私たちの住む、八王子市片倉町の文化は、先人たちによって長い年月をかけた、歴史があります。片倉町の四季折々の豊かな自然やその恵みの中でこそはぐくまれてきたものといえます。

私たちの住む町のすばらしい文化を継承するとともに、その根底にある、自然と共生し自然の恩恵を受けて生きているという思いをこれまで以上に大切にする必要があります。

自然というものは、私たちの生活の基盤であるばかりではなく、心を暖かく包み込み癒いやしてくれたりします。また、自然の驚異や摂理は、私たちに畏敬の念を抱かせたり、ものごとをありのままに見る心や科学的探究心をはぐくんでくれたりもします。

今、地球規模の様々な環境破壊により、自然は深刻な状況に陥っていますが、近年、環境保護の意識の高揚もあり、国レベルばかりではなく、世界各地で民間団体や個人による積極的な環境保護活動が展開されています。

そこで、自然は今生きている私たちだけのものではなく、子孫に伝えるべき貴重な財産であることを理解し、自然を守り、自然の中で心豊かに暮らす社会を想定します。

基本的理念

安心・安全…災害や、犯罪に対して、不安なく暮せるまち。

生きがい…世代・性別・障害にかかわらず、生き生き暮せるまち。

快適…豊かな自然環境が保全され、心地よく暮せるまち。

2015年12月20日 (日)

この世は…雑感

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この世は、集団生活で成り立っています。

人が集まることは良いことも有れば悪いこともあります。先ずは他と比べ合って差を付けたがる…比較競争差別意識が出てきます。また大勢の人が集まることでの安心感や信頼感からして(油断して)その心に隙間が出来てそこへ邪な意識が入り込むことがあります。

それがいつの間にやら思い込み洗脳されていたり自己陶酔していたりして指導者の思うがままに操られているのにその是非の分別が付かなくなって盲信状態に陥ることがあります。一人の邪な行為をしていても、仲間意識が起きて、いつの間にか正当化?してしまうことになることがあります。(赤信号みんなで渡れば怖くない)

また似たような者が同じような格好をして大勢集まっているのを外部の者が見ると異様な感じに見えたり、また洗脳集団に見えますから、その見掛けだけで否定反発・排除したがる警戒心・敵対心まで待たれることがあります。

例えそこまで行かなくても、多数が同意しているので断りづらかったりして寄付や奉仕や布教活動することになったり、その反対に自分が率先するもまだ同意していない者を白い目で見ている自分が居たりします。

またそれが、あり難い物品だったりお布施だったり御札だったりもします。とにかく最初は不信感を持っていたのにいつの間にやら盲信・洗脳状態になるのが精神世界の人が集まるその集合意識の危ないところです。

何らかの「欲」を持っているから集まるのです。

その欲の中にプライドを保つことや人格を高めるための欲も含まれますが、まず(思惑期待理想目的)(他力依存願望)(安心安全を得たい)欲の無い人が人様の集まる所に行くはずがありません。

人類有史以来の宗教や精神世界で人が大勢集まったことで(裏の無い)良かったことが一つでもありません。欲張り無理し無駄にして余計なことをした結末で終わっているのと、まだ途中結果であっても同じ結末になるはずです。

また人気集めの誇示拡大主張や人集め金集めの勢力拡大や仲間同士の争い派閥抗争や侵略・略奪・人殺し・集団殺人・集団自殺・闘争・戦闘・戦争になっています。

それ以外にも自然環境や人間関係・家族関係の破壊崩壊につながっています。矛盾する不完全からして、薬にもなるが毒にもなるし、その毒が薬になってもその薬がまた毒になるその矛盾の繰り返しがあるのがこの世です。

だからその宗教思想や真理が如何に優れものであっても、それを学び教える不完全意識の人間界に「絶対・完全」が無いのですから、そこで人様を巻き込まないためにも、また反対に巻き込まれないためにも、切磋琢磨して、自分自身の判断(独立独歩)で歩むことが基本になるのです。

2015年12月19日 (土)

のどかで、平和でいいじゃない

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老人は 位置を変えて 日向ぼっこ

冬至は22日、お年寄り達は、よく、マンションの石塀のある湯殿川の、河川管理通路や、片倉時田まちの広場で、日向ぼこして話をしています。時間が経つに連れ、陽射しの位置が変ります。

長い話合いで、陽射しの位置を変えて話しています。「毎日話す話題があるのかなー」「家に帰っても話す相手がいないのかなー」…と思ってしまいます。

でもその風景を見ていますと、子供のころの郷愁を感じさせられます。私もそろそろ仲間入り?のどかで、平和でいいじゃないでしょうか…

2015年12月18日 (金)

モノの豊かさと心のバランス

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最近、暮らしは豊かになったが…「モノの豊かさと心の不調和」を感じます。

戦争直後の暮らしを振り返ってみますと、夕飯の食卓は裸電球の下で、卵一個と沢庵のお新香と、豆の入った麦ご飯…卵は兄弟三人で一個を分けて食べた…それでもみんな文句を言うわけでもなく、笑い声さえ出る…一つの物を分け合う…子供ながらに、幸せさえ感じていました。

それから70年後の今…モノは溢れ暮らしは、豊かになったが、深いところで重大な問題に直面していると思います。向こう三軒両となり社会から、欧米型の自由主義・個人主義の時代へ、新たな倫理をどう構築していくかなど、ほとんど考えてこなかったと思います。

自由主義・個人主義は、それには倫理が不可欠で、キリスト教の倫理が働いている限り、個人主義は利己主義にならない。

日本では「家」を第一としてみんなでやっていこうという考え方が、倫理の基底にありました。「家」を取っ払ったところに個人主義が広がったものだから、旧来の倫理などどこかへ行ってしまったのです。

日本の家庭教育はモノがないことを前提に、実にうまくできていました。背後にあったのは仏教的教えです。いろいろ言わなくても『もったいない』の一言で通じた。モノがなく貧しくても生きていくシステムができていたのです。豊かになりシステムが壊れたのです。

「モノと心の両立」…

多くの人が気づきながら、国民的な議論になっていないません。親が、子供のちょっとした反論にさえ戸惑っています。「何が善で何が悪か」の規範が分からなくなってしまったから、大人として振る舞えないのです。もはや個別の問題というより、日本全体として取り組むべき大変大きな課題の一つだと思います。

生きていくということは、心の中に矛盾するものを抱えていることでもあります。集団の中にあって他人の気持ちを察するといった古来の日本的特質もあります。一方で、グローバル化に対応して個人ががんばることも必要と思います。

んな相反するような状況をどうやって調和させていくかが問題で、よほど真剣に考えていかないと、子供は旨く育てられないのではないでしょうか…

物質的な豊かさと精神の豊かさが釣り合っていないということです。心が貧しくなったとは思いませんが、モノが豊かになったほどに心は豊かになっていないのではないでしょうか…つまり、「モノと心のバランス」の問題だと思います。

2015年12月17日 (木)

公共心の欠如…ポイ捨てする人

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ゴミを拾いながら考えました…

公共心

公共心とは、ひとつの社会を構成している人々と円滑に接し、協力しあうために必要となるものです。しかし最近では、このもっとも重要であるべきものが、人々から失われてきているという指摘がたびたびなされています。

私たちが暮らす社会は、公共性によって支えられて成立しています。

街中や路上、会社や学校、身近なところでは家族が集まるリビング、住居の周辺に住む隣人との関係など…。複数の人々が集まる場所に、一人ひとりの公共に対する心「公共心」が求められるのです。

なぜ、いま公共心は失われつつあるのでしょうか? 公共心が失われる原因とは、一体何なのでしょう?子供の家庭での躾け・地域の人の注意・学校の道徳教育…など不足・不備が考えられます。

「公共心の欠如」

そのひとつに、ポイ捨て行為があります。ポイ捨てとは…

手もとの要らないものを、所構わず捨てること。ポイ捨てとは指定されていない場に、ゴミを捨てること、また路上に(故意・無意識)ゴミを落とすことです。

ポイ捨てする人

いっぱい落ちてるし、今更一つ二つ増えたところでかまわないじゃなん!…みたいな感覚?なのでしょう。

歩き煙草、くわえ煙草、ポイ捨ては結構日常的な光景だったのであまり罪悪感は持っていない?そして八王子市では全市内歩行禁煙はご存知ないのでしょうか…
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信号待ちの車から灰皿の吸殻を交差点にぶちまけたり、公共のトイレの便器に流したり、空き缶や空き瓶まで、なんの躊躇もなくポイポイその辺りに、ゴミを捨ててます。道路のあちこちゴミだらけ…

一度、誰かがポイ捨てすると、その場所にはその後ポイ捨てが増える傾向にあるようです。ゴミが落ちていると、自分がゴミを捨てることに当たり前のごとく捨ててしまうようです。

そして、「ゴミがゴミを呼び、そのゴミがポイ捨てする人を呼んでしまう」

ゴミが要らないものであるとしたら、そのゴミだらけの中で暮らしたいでしょうか…?紙とかビニール袋程度ならそれほど気にせず過ごせる人も、悪臭を放つ生ゴミの中で平気でいられるのでしょうか…

そのあたりにポイ捨ての問題があるような気が気がします。自分にとって有益であることが、他人にとって不利益であることを考えられないのでしょうか…要は、自然に、人に思いやりのない、自己中心主義の人だと思います。

 

 

みんな昔話になった?

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みんな昔話になってしまったのでしょうか…

かっては、どこの家庭にも神棚と仏壇があって、日常の明け暮れに神仏に祈り朝日に手を合わせ、夕日に感謝する、親や祖父母の後ろ姿がありました。

一粒でもご飯を食べ残したり、好き嫌いを言うと「もったいない!」と、親は子供を叱りました。食べ物や、ものに対して「いただきもの」「さずかりもの」と天地自然への感謝の気持ちをいつも忘れませんでした。

「ご先祖さまに顔向けできないようなことを、してはいけないよ」親の言葉が頭のどこかにあるから、自制心がはたらき、悪いことをしょうと思ってもできません。「ちゃんとお天道さまが見ているよ」おじいさん・おばあさんの口癖で、いつも心の片隅にあります。

親や祖父母の教えが、「生き方の規範」になって、より良き行いをしようと心掛けます。かって人々は「人の道」という、歩むべき方向を持ちあわせていました。 ご飯を食べ残したり好き嫌いを言っても、最近の親達は「もったいない」と叱らなくなりました。

子供は食べ物があふれているのに、自分好みの品をもとめてコンビニに行きます。精神の不安定な時期にある青少年の自暴自棄の行動、大人達の自分勝手な独りよがりの行い、失望と絶望、人々はさまざまな心の不安を抱きながら、日々明け暮れしています。 

現代人は老いも若きも「生き方の規範・人の道」という、心のよりどころを持たないから、ストレスで心身を病み、自信を喪失し、ささいなことにつまずいてしまいます。 「もったいない」という言葉をつぶやきながら、天地自然に手を合わせても、いいのではないでしょうか…

経済や政治・社会情勢に押し流されるようでは、潤いのある生活はできません。昨今のように混迷する社会情勢のもとでは、人々は目先のことばかりに心うばわれます。そんなご時世であればこそ、なにか大きな恐れるもの、畏敬の念を抱くものがあれば、かえって安心するのではと思います。

神仏や、天地自然に手を合わせる、積極的な行動によって、子供達は健やかに成長し、大人達は希望と自信をとりもどし、安らぎを得ることができるでしょう。

高度に発達した文明の中に生活する現代人は、自己中心のこころでものを見、聞き、思い、行動しています。山河大地を相対としてとらえ、自分の思い描く観念でイメージしたものとして認識しているから、大自然との関わりなしに生きられないと、自己中心的に理解しているにすぎないのです。

2015年12月16日 (水)

住んで良かった町づくり・・・を考える

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住んで良かった“町”…

地域で暮らす人々が、協力しながら自然や文化と折り合いをつけ、よりよい暮らしができる町へと発展させていくことです。

健康で明るい町…「健康なくらし」を実現できる町というのは、いったいどういった町のことをいうのものでしょうか…住む人が一人一人抱くイメージは、同じなのか、それとも異なっているものでしょうか…

健康な街…(東京医科歯科大学 高野教授 研究レポート(2007年)によると…
 

http://www.tmd.ac.jp/med/hlth/depHP/tph/www/htdocs/report/post_21/

「スポーツ施設や遊歩道に恵まれ、運動を楽しむことができる」…44.2%

「高齢者や障害を持つ人、子どもたちが気軽に外出できる」…42.2%、 

「豊かな緑、きれいな川など自然に恵まれている」…33.1%、

大気汚染や騒音などの公害がない」…31.9%…です。

この結果を、人々が持つ視点ごとに分類すると、次の3つに分けられます。

・ 人と人の交流や情報交換、支え合いなど。
・ 日常生活や社会のルール、マナー等、サービスへのアクセス。
・ 生活環境や自然環境に関連する健康のまち。

一口に「健康な町」といっても、視点の幅はとても広いのです。「健康な町」に必要な条件を、非常に多角的な視点で意識していることが明らかです。

健康で住みやすい町は、国や地方自冶体の組織だけが作るものではありません。実際には、住んでいる人々の生活や、そこから生まれる意思によって生み出されるべきものであると思います。

より住みやすく、人の人生を豊かにする“町”を作るために存在しているのが、行政や国、地方自治体などの組織であるはずです。

健康で明るい町づくりは、他ならぬ住民一人一人です。「こんな“町”にしていきたい」という理想像を、まずは住民と行政・公共団体が共有することで、実現への強い行動力が生まれるのではないでしょうか…

そして、住んで良かった“町”になるのです。

2015年12月15日 (火)

心の豊かな人・貧しい人

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心の豊かな人・貧しい人

心が豊かであるか、貧しいかは、財や地位や名誉や年齢や健康などとは関係ありません。財があって心も豊かな人がいれば、財はふんだんにあるのに心の貧しい人もいます。財はなくとも心が豊かな人がいれば、財がなく心まで貧しい人もいます。

モノがなくとも、やれる心がどんどんあふれ出る人がいる一方、モノを求めて忙しいばかりに、やれる心の枯れる人もいます。

心の豊かな人は…

思いやりのある人です。

誰かに〈やれる〉温かな〈思い〉のある人です。

話せばすぐに分かります。

瞳を見ればすぐに分かります。

話をよく聞いてくれます。

またよく話しかけます。

表情も豊かで笑顔が素敵です。

瞳は好奇心旺盛な透き通った綺麗な目をしているものです。

心の貧しい人は…

思いやりのない人です。

誰かにやれる温かな心のない人です。

知恵袋でも人を不快にする言葉しか出てきません。

その人は人の話をまず聞くことができません。

口を開けば愚痴ばかり。

表情も暗い。

常に他人の粗捜しばかりするような人です。

2015年12月14日 (月)

地球温暖化が危惧されます

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強風は 雲を引き込み 雨降らせ 雨戸を叩く 十二月

地球温暖化・・・異常な出来ごと

12月11日…東京都の練馬や府中では24度6分と、夏日一歩手前まで上がりました。過去約140年間でもこの2回しかなく、珍しいことです。

低気圧が発達しながら本州を通過した影響で、関東地方では南部を中心に強い雨が降りました。東京は午前7時頃から雨が強まり、11時までの24時間降水量は69.5ミリに達しました。12月としては記録的な大雨です。

ひとむかし前には、12月にはいれば、霜が降り、氷が張るというのに…地球温暖化と思います。私が子供のころは、近くの湯殿川に氷が張り乗って遊んだのです。

地球温暖化対策を話し合う国連の会議COP21は、京都議定書に代わり、すべての国が参加して温室効果ガスの削減に取り組む新たな枠組み「パリ協定」を採択しました。

これからは、実行あるのみです。

机上の空論に終わらぬようにしていかなければ…と思います。

道徳の実行の勇気が、心豊かな人生を切り拓く・・・

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道徳…人々が、善悪をわきまえて正しい行為をなすために、守り従わねばならない規範の総体です。(辞書)

道徳とは本来、見返りを期待しないものです。

例えば、誰かに対して親切にする場合、ひたすら相手の幸せを願って行い、または贈り物をするときでも、日ごろお世話になっていることに感謝するなど、相手を思う真心を添えて贈るのです。

その結果が自然に報われたときは、素直にこれを受け入れればよいでしょう。しかし、たとえ感謝されることがなかったとしても、決して相手を責めることはありません。

私たちは日々、さまざまな支えの中で生活しています。そこには、誰のおかげかが明確で本人にお礼を言うことができる恩もあれば、自分ではそれと気づかないところで誰かのお世話になっている場合もあるはずです。

まずはそうした事実に気づいたうえで「自分がこれまでに受けてきた恩恵に感謝して、お返しをする気持ち」を培っていったなら、謙虚な気持ちで道徳の実践に踏み出すことができるのではないでしょうか。

そうした心からの実践が、私たちを人間的に成長させ、自分自身の幸せを生み出していくのです。

認めてほしいを越えて…

他者や集団のために何かをしようとするとき、心に何を思うでしょうか――

「よいことをしたい」・「誰かの役に立てばうれしい」といった純粋な気持ちから始めたことであったとしても、心のどこかに「相手の感謝」や「周囲の評価」を期待する気持ちが潜んでいることもあるかもしれません。

道徳の実行には、他人に率先して行うだけの勇気が必要です。道徳というと、「自分一人だけが行っては損だ」とか「照れくさい」といった思いから、敬遠したくなることもあるでしょう。

しかし見返りを求めることなく、純粋に他者のために尽くそうとする人は、周囲から信頼され、温かい人間関係が築かれていきます。また「よいこと」を「よい心」で行って、誰かの役に立てたとき、何よりも自分自身の心に大きな喜びが生じるのではないでしょうか。

道徳の実行の勇気が、心豊かな人生を切り拓くのです。(ニューモラル No.550)

2015年12月13日 (日)

良知とは・・・

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人間は、良くないと分かっていても、やってしまう…度々やるうちに…まあいいか、ちょっとくらいとなる…感覚がマヒをするようになるのです。

「良知」とは…人が生まれながらにもっている、是非・善悪を誤らない正しい知恵。また、周りの状況などをよく考えることを「良知」といいます。また、慮(おもんぱか)る…(周囲の状況などをよくよく考える・思いめぐらす)

これが正しいか正しくないかを、いちいち考えてみたり、人に聞いてみたりしなくても、常識でわかる、これが「良知」だということです。そして、人として正しいことなのか、正しくないことなのか実は、人間はパッと一瞬でわかっているだと思います。

むかしの日本人は、お天道さまがみているといいました。しかし、現代は「あっ、こっちのほうが得だ」と損得で判断するようになりました。

王陽明は…

「心中の賊を破るは難し」と、人間の心の中に巣くう「賊(私欲)」を克服することは大変難しいと言われたのです。

人間は誰でも生まれたときから、天から与えられた美しい心(良知)を持っています。しかし私欲によってすぐに曇らせてしまうので、絶えず磨きつづけ、良知を鏡のように輝かせておく努力が必要であると…

「良知」が明らかになれば、天と一体になることが可能になり、人生は安らかに幸福になれる。では、私たち普通の人間が、日常生活においてどのようにすれば「良知に致る」ことができるのでしょうか?

こからが一番大切なところでしょう。

それには、第一に…自分の心の中にも「良知」という美しい鏡があるという事実を知り、実感(実際には想像)する、ことが重要だと思います。

そして第二位に…日常生活のなかで「五事を正す」ことが重要です。

1.貌(ぼう)・なごやかな顔つきで、人と接すること。
2.言(げん)・やさしい思いやりのある言葉で話しかけること。
3.視( し )・ やさしい澄んだまなざしで相手を見つめること。
4.聴(ちょう)・人の話に耳を傾けてきちんと聞くこと。
5.思( し )・人を思いやり正直であること。

中江藤樹は、「良知」にいたるには、日常生活においてこの五つのことを心がけなさいと言われました。「五事を正すことによって、「良知」を常に明らかにすることができる」ということです。

確かに自分の心に私欲を持ったままだと、上記の五事を真に実践することは難しいように思います。こうして、日常生活において五事を正し、「良知」にいたる努力を日々続けていれば、何かに迷ったときにも、素直に自分の心に問いかけてみればよいと思います。

(一隅を照らす寺小屋 http://blogs.yahoo.co.jp/komoto1123/27367989.html

2015年12月12日 (土)

潮どき

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潮どき・・・

「人に千日の好(よしみ)なく、花に百日の紅(くれない)なし

人は長いあいだ幸運や幸福にめぐられ続けるということはなく、花もいつまでも咲き続けるということはない…

人生は、常に順風満帆ではない、挫折や失敗に遭遇するのは当たり前のことであり、たとえ失敗したとしても悲観的になることはない…失敗や挫折に対して、その原因を解析し・反省し、速やかに次の一歩を踏み出すことが大切です。

「老子」に、「功遂げ、身を退くは、天の道なり」…があります。

成功したらいつまでもその地位に留まらず、さっさと引退するのが天の道にかなった生き方である。つまり全盛期は、長く続くことはない。頂点を極めたその瞬間に、早くも引退の準備にかからなければならないという事です。

退き易きように後継者を育てることの大切さを説いていると思います。そして、絶頂期は長く続かないことも知っておくことが大事なことと思います。

平家の絶頂期が長く続かなったことを語った「驕れるものも久しからず…」にも表れています。「初心に返れ」、「引き際を誤るな」は、事業を行う者として、決して忘れてはいけない教訓と思います。

私は、老化を感じる今日この頃です。ダグラス・マッカーサーの、「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」…の言葉を思い出します。

2015年12月11日 (金)

心の豊かさとは…

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心の豊かさとは…

何気ない風景からも精神的充足感を得られるような精神性のことです。

ふだん見過ごしている何気ない風景…夜明けであったり、日が暮れる夕方であったり、その風景を見て、意識しなければ簡単に意識の中をすり抜けていくような、毎日目にしている日常風景のことです。

自然は、私達の五感を通して、私達の心にさまざまな感情を呼び起こしています。

感性が豊かであれば、それだけ、自然の醸し出すさまざまな刺激に対して、素直な感激を生み出します。そして、その感性の豊かさ、心の豊かさとは、密接な係わりを持っているようにに思えます。

感性豊かな子供達は、自然の発する、さまざまな刺激に反応し、そこに感激を覚えたり、不思議さを感じたりしながら、自然と対峙します。そこには、時を意識しない時が流れています。心の豊かさと余裕とは、密接な係わりがありそうです。

時間を気にせず、何もすることもなく、ぼんやりと一時を過ごしているとき、豊かな心を感じる…自我を忘れ、自我の底にある無意識の世界を解き放したとき、人は、幸福感を覚えるようです。

自我を意識するとき、そこには、一分一秒の時が流れるが、自我を忘れ、無意識の世界を解き放するとき、そこには時を意識することのない悠久な時が漂っていることを感じることが出来きます。私達が心豊かに感じるその一つには、この悠久なる時の世界に身を置くことが出来た時ではないでしょうか…

物の豊かさや利便性は、確かに私達の生活を豊かにしてきましたが、その豊かさとは反対に、いつでもどこでも欲しいものが手にはいるという環境の中で、私達の心は、いつしか、一分一秒を争う時間に支配されてしまったようです。

子供達にしても、塾や学校との係わりで、ゆったりとした自由な時間を過ごすことができにくくなっていいます。働く大人達にしても、競争という世の中の動きによって、時の流れを益々意識するようになってきています。

物の豊かさや利便性の向上は、私達の日常生活の中に流れる時を益々意識させるような環境を作り出してしまったのではないでしょうか…

2015年12月10日 (木)

人生って言うものは…

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80歳近い爺さんのひとり言

人生っていうものは・・・

良い事も、悪いことも 合わせ持つものだ

だから、毎日が素晴らしい日が続くわけはない

辛い日もある、それを含めて良い人生を送ることだ

辛い日があるからこそ、良い日が沢山出来るのだ

なんて事のない日々が実は、ものすごく貴重で大事な時間となっていく…

あの時があるから 今がある

そう考えると、何でもやっていくことだ

やる前から無理なんて言っているようでは良い事やってこない

待っていても何も始まらない

さあ今日も元気で一日を楽しもう

 

2015年12月 9日 (水)

短日や

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短日や こころ忙しく 今日も暮れ

むかし、親父が冬至十日前が一番日が、短いと感じる言っていた事を思い出します。

気になるニュース「COP21」・「イスラム国の動き」・「軽減税率」・「あかつき」金星周回軌道投入へなどなど、2015年の暮れも、慌しい過ぎていきそうです。

私的でも、これもしよう、あれもしなければいけないと気ばかり…

 

2015年12月 8日 (火)

中庸の徳

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「中庸の徳」とは…

辞書では「過不足なく丁度良い加減にバランスをとって行動できるのが人徳として最高である。という意味です。

中国の儒教の四書(「大学」「論語」「孟子」「中庸」)のうちで、「中庸」は最後に学ぶべき書と言われていたそうで、中庸はそれだけ奥が深いということでしょう。

孔子は、「不足でもなく、余分のところもなく、丁度適当にバランスよく行動できるということは、人の徳としては最高のものです。しかし、それができている人を見ることは少ない。」と言われたそうです。

いつも偏った考え方や、極端な行動をとる人は、心のどこかに変なこだわりや無理を生じやすい傾向があります。そういう状態は中庸とは言えません。心が落ち着く中心が何もない感じでしょうか。だから、そういう人は精神的にもつらくなりやすく、何事にも長続きしない傾向があるように思います。

一方で、中庸とは「足して二で割って平均をとる」といった単純な話でもありません。中庸は、心が何かにとらわれたり、何かにこだわることなく、「素直な心で実践する」ことによって得られてきます。すなわち、中庸とは「平均点」というよりは、「バランスの取れた状態」という意味に近いように思います。左右にもどんどん動くものです。

素直な心と無心

武者小路実篤は、「幸福を感じるには童心とか、無心とか、素直さとか言うものが必要である」と名言を残しています。幸せを感じるのに理屈は入りません。ただ素直に感じればいいのです。余計なことを考えると、幸福感は目減りしてしまいます。

素直な心を持って判断を行えば、ある時期に大きく右に振れようが、上下に振れようが、最後は中心点に向かって自然にバランスが取れていく…そして、利己心やこだわりを捨てて素直な心になれば、何が極端で、何が自然なのかがすぐに判断できるようになると思います。

アリストテレスは、「何事も行き過ぎてはいけないし、また不足であってもならない。幸福な状態はその中間、つまり中庸にある。快楽については、耽溺と鈍感との中間が節度と呼ばれる。徳とは、我々にとって中庸である行為を選択する態度である。」と言っています。

さらに、お釈迦様も、厳しい修行を重ねた結果、極端であることは幸福につながらないことを悟られたそうです。
「過度を排すること。過度になれば、その先には苦しみが待ち受けている。調和点を見極めながら、何ごとにおいても極端に陥らないことが大切である。」

これを仏教では、苦行主義と快楽主義のいずれにも片寄らない「不苦不楽の中道」と言うそうです。いずれにしても、孔子、釈迦、アリストテレスといった東西の賢人・聖人が、いずれも中庸(中道)の重要性を指摘していることは、大変に興味深いことだと思います。

我々のような凡人であっても、心のなかの極端なこだわりやわだかまりを無くし、素直な心で中庸を実践することによって、誰もが幸福になれるはずです。
  

2015年12月 7日 (月)

声なき声を聴く

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近年、人口減少や少子・高齢化、核家族化、個人主義・プライバシー重視の社会の進展といった、社会環境の変化に伴い、地域における人のつながりや連帯感、支え合いの意識が希薄化し、それらを基盤に成り立つ地域コミュニティの機能が低下しています。

一方で、これまで地域のつながりで対応していた子育て、介護、環境、防犯・防災などの課題や、一人暮らし高齢者の増加などの新たに生じてきた課題が社会問題化しています。

「声なき声を聴く」…

地域の中には、高齢者の一人暮らしで、買い物などの悩み(買い物難民)、将来の不安を相談する人(身寄り)がいない…悩みを抱えている老夫婦などに、話を聴いてあげることが大事なことです。

むかしは、近所のだれかに困りごとがあったら、地域の共同体の中で相談し合い、解決していました。 しかし核家族化が進み、地域とのつながりを持たない家が増えた今、相談し合う機能が地域からなくなってしまいました。

「近所で子どもが遊べる場所を教えてください」と、隣近所に聞けばすむことを、わざわざ役所に聞きにくるそうです。こうした状況は「個性尊重・核家族化」です。

また、個性は尊重されますが、住民はそれぞれ孤立しているのです。そのため、本来「自助」や「互助」で解決していたニーズや困りごとが、直接役所に持ち込まれるようになり、それゆえに行政サービスは難しい時代をむかえたと言えます。

では、そうした住民ニーズに対して、サービスを提供する側としては、どのように対応していけばよいのか… さまざまな相談窓口を見ていて残念に思うのは、窓口が単なる情報提供機関で終わってしまっていることです。

「声なき声」とは、言葉や形にできない住民の気持ちのこと…それを聴くには、話しての言葉や表情の裏側に隠されている気持ち(真実、本音)を推し量ろうと察する姿勢で聴くことです。声なき声を誰が聴き役になるのか、町会(自冶会)の方でしょうか?実際には出来ないと思います。

声なき声」は、一歩関係が深まらなければ聴くことはできません。また、 住民が発した声をただ「聴く」のではなく、本音を推察し、気配り・思いやりで…信頼に繋がり『信頼関係』が生まれるのだと思います。

2015年12月 6日 (日)

冬陽射しを楽しむ

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冬陽射し 老夫婦の 影二つ

今日の東京地方は、風はなく、晴れて陽射しが暖かく感じれます。

最近お年よりが散歩する光景を良く見かけます。

散歩の途中に必ず腰を掛け休む場所があります。

そこは北側は、塀で囲まれ、北風をさえぎり、暖かい陽射しを一杯受ける場所です。

背中を丸めて老夫婦が休んで、特別会話もなく…影だけが印象に残りました。

冬の陽射しを楽しんでいるようです

2015年12月 5日 (土)

知識・知恵と忍耐力のある人

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人生は、苦あり楽ありです。「忍耐」も、人間に必要な道徳のひとつであると思います。

世の中は、一瞬たりとも、止まることがないのだから、失敗することもあれば、褒められることもあり、楽しいこともあれば苦しいこともあります。

無知な人は、楽だけ、得だけが止まって欲しいと思っていますが、そんなことはあり得ないのですから、幸福なときにも不幸なときにも落ち着いて対処できる「忍耐」が必要なのです。

忍耐とは…苦しさ、辛さ、悲しさなどを耐え忍ぶことです。例えば、自分に不都合なことなどをひとにされても、暴力的な仕返しをしたり、現実逃避したりしないなどです。

そして、知識のある人だけでなく、知恵のある人が大切にされる世の中になってほしいものです。

知識 → ある事項について知っていること。また、その内容
知恵 → ものごとの理を悟り、適切に処理する能力

いまの社会では知識が過大に評価され、知恵が軽視されていると感じるのは私だけでしょうか…

知識は「あることについて知っている」ということであり、そのことに適切に対処できることとは違うのです。知恵は「あることに関して、その知っていることを適切に応用できる。」ということなのです。

どんなに知識があっても、それに比例して知恵があるとは言い切れないのです。

両者の違いをよく理解していないから、社会で知識が偏重されてしまうのではないでしょうか…学校や塾でどんなに知識を身につけても、その知識で現実を適切に判断することは危険が伴いすぎるのです。知識を応用できないから、さまざまな起きなくてもいいような問題が起こるのだと思います。

知識の豊富な人がいろいろなことを決定する過程において、現実をよく理解していないと(机上の論理だけで判断してしまうから)、よく考えればあり得ないようなことも頻繁に起きてしまうのだと思います。

知識は重要なものですが、それは理詰めの考え方ですから、想定外の事態が起きれば適切な対応ができなくなって当然なのです。

知識・知恵と忍耐力を持った人間が、必要な(時代)ではないでしょうか…

 

 

 

 

 

 

2015年12月 4日 (金)

「向こう三軒両隣」の精神

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「向こう三軒両隣」

人間は一人では生きていけません。何らかの形で、他人に依存しています。ある時は助け、またある時は助けられる…この助け合い人の社会の基盤ともなっています。

少子高齢化・核家族化・自己中主義・個人主義が、私は問題になっていると感じています。なぜ、こんなに「コミュニティー形成が大事」と、あえて叫ばなければならなくなったのでしょうか?

晩婚化・未婚化・一人暮らし・老老介護・老人認知症・買い物難民・最後は孤独死…の問題があり、将来が不安を抱えている人が多いからです。政府・地方自冶体でも、それなりの対策は、とっていますが、十分ではないのです。

一言で、時代がそうしたと片付けていいものでしょうか…

日本には昔、「向う三軒両隣」といって、最低近所付き合いは当然としてお互いが何かと助け合ってきた良き習慣があったのです。そこには、信頼と安心によって結ばれたコミュニティー存在していました。

みそが無くなったといっては隣に駆け込み分けてもらい、子供をちょっとあずかってくれと頼まれれば快く自分の子供同様にかわいがるといった風情があったのです。

それが、戦後の教育だけが悪いとは言えませんが、アメリカ的思想や習慣を闇雲に導入し、今や個人主義花盛りです。日本の習慣、風習は野暮で時代遅れと言わんばかりに捨て去ってきました。

自己中心主義・個人主義的な考えで良いはずはないわけで、昨今のいろんな事件をみてもこの考え方に起因しているのではと思ってしまうほどです。

まずは、自分ありきが先で、他人はどうでもよいという傾向の強い個人主義から方向転換をしないといけないのではないでしょうか…

そこで、「向う三軒両隣」の助け合い精神を思い出してもらいたいのです。人間も動物です、動物の本能で、集団に帰属して群れを成して生活するのが普通です。

一般個人は帰属するグループも複数になりますが、拘束時間がある集団での関係を如何に健康に保つかということが大事です。一方、集団として考えてみればその集団が維持しつづけられる様な活動が必要となります。

この辺りのバランスをどのように図るかがとても大事になります。ともすれば、個人的な世界に走りがちな風潮ですが、それだけでは世の中成り立たないのです。

「人は、助け合う動物である」とは、よく言われることです。このことをもっと正確に言うと、「人は、あるときには他人を助け、あるときは助けられるという、お互いに依存しあう関係である」ということになるのでしょうか…

では、あるときに、人を助けようとするときに、後にその人に助けられることがあるだろうと思って助けるのでしょうか…もしかして、その期待はあるかもしれませんが、その期待は裏切られるかもしれませんし、助けられる場面に遭遇することはないかもしれません。

しかし、それが向こう三軒両隣の精神で、ある時は我慢し、ある時は議論し合う…その合意点(バランス)お互いに、を見出していくというものです。

まずは、自分ありきが先で、他人はどうでもよいという傾向の強い個人主義から方向転換をしないといけないのではないでしょうか…そこで、「向う三軒両隣」の助け合い精神を思い出してもらいたいのです。

2015年12月 3日 (木)

持続可能な社会という理念

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「持続可能な社会」という理念

地球上では、多様な生物や大気、水、土壌などが有機的に結びついて物質循環を支えており、人類もまたその中でしか存在しえないこと、そして、特に近年の人類の営みは、大気や水、土壌などを汚染し、生態系とその基盤である生物多様性に対して大きな打撃となっています。

地球環境が無尽蔵で無限なものではないという認識も、多くの人々に広まりつつあります。地球の物質循環や生態系の破壊、ひいては人類社会の破綻を回避するために、私たちは、地球という有限な器の中で「持続可能な社会」を築いていかねばなりません。

地球上の資源は有限である中で、持続可能な社会を構築するには、私たち国民一人一人が常に持続可能性に配慮して行動をしていくことが必要です。

取り戻しに困難な自然環境

自然は壊すのは簡単だけれど、取り戻すのは本当に難しいと思います。子ども達に、是非きれいな山や川、海の自然を、未来を残していっ てあげてほしいと思います。

また薄れてしまった自然との関わりを見直して、自然とはどういうものかを再認識して いくのも大切だと思うので、自然にやさしく、小さなことでも実行できればと思っています。

直すのは難しくても、壊すのは簡単 です。 まちに、公園、広場にゴミを捨てない…ゴミがあったら拾う…そして美しい町に行動で示そう!「継続は力なり」、本当にその通りです。

つくしい 山や川・海を汚すのは簡単だけれど、綺麗な状態に戻すのは簡単ではないのです。むかしいた、多くの種の生き物が絶滅しています。今も絶滅危惧種で、貴重な生物が風前の“ともしび”となっています。

人間の欲で自然を破壊し、生物を絶滅してしまうことは許されません。そして気が付いたら、人間は自然と従来からいた生物と、共生しなければいけない…共生しなければ人の生命も維持できなくなるのです。

自然のあり難さ・大事さを、未来につなぐ子供たちに教えていくことが必須のことだと思います。

美しい町を後世に引き継ごう!

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私たち町は(八王子市片倉町)美しい自然のなかに歴史や文化の息づく、かおり高いまちです。この美しい郷土を大切に守り、後世へ引き継いでいくことは私たちの使命であります。

終戦から…世の激動で、私たちの町並みの風景も大きく変りました。片倉城跡公園はじめ、町の先人たちで作っていただいた、時田公園・片倉時田まち広場があります。

町民のみならず、多くの人が訪れる城跡公園…まちの広場は、子供たちの遊び場・お年よりのゲートボール・グランドゴルフや町会主催の盆踊りなどに使われています。

先人たちの作り、住民のコミニケーション場の公園や広場はじめ、湯殿川の道路などが、一部の心ない人の行為のゴミのポイ捨てが見られます。「人が集まるところ…ゴミあり」です。

「ゴミの持ち帰り」そして「タバコの吸い殻など、ポイ捨てはしない」を徹底していかねば、美しいまちの将来が危惧されます。

特に思うのですが、タバコの吸い殻の多さです、道路・公園・広場は灰皿ではありません。そして子供たちのゴミ捨てにも注意ができません。絶対やめて欲しいものです。また、犬の散歩で糞の始末です。

美しいまちを守り後世に残すのは一人ひとりの心がけです。「守ろうよ、みんなの好きな町だから」…美しい片倉の町を後世に引き継ごう!

2015年12月 2日 (水)

郷愁の想い

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冬の訪れは突然です。木々の紅葉が始まったかと思うと、ああ今年も師走を迎えるのだと感慨深く思うのは歳のせいかな?

師走…12月になって、時の経つのは早いものです。一年の総決算…わが人生を振り返る12月でもあります。そして、私は、郷愁に想いを巡らすのです。

誰でも、胸に“郷愁”の想いをかきたてる歌があります。人は、誰でもいくつになっても心のふるさとがあります。心のふるさとを、しのぶとき、童謡があります。

山であり、川であり、海であり…また、母であり、父であり、兄弟の想いです。その中の風景を画にしたり、詩にして、いつまでも心に(残したい)…残っています。

その一つに、童謡の『夕焼け小焼け』があります。日本の代表する童謡・歌唱です。

作詞:中村雨紅(本名高井宮吉)・作曲:草川信による日本の童謡・唱歌。1919年に作詞、1923年に作曲されたものです。

中村雨紅(なかむら・うこう/1897-1972)は、八王子市出身の詩人・童謡作家です。 中村氏の「雨紅」という名は、彼が師事していた野口雨情の「雨」の一字をもらったものとされています。

♪夕焼け   小焼けで   日が暮れて
山のお寺の   鐘がなる
おててつないで   みなかえろう
からすと   いっしょに   かえりましょ

♪子供が かえった   あとからは
まるい大きな   お月さま
小鳥が夢を   見るころは
空には   きらきら   金の星

人間は年を重ねるごとにふるさとを恋しがるものです。また子供にかえると言われています。

2015年12月 1日 (火)

川浸りに思う

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       兵衛川と湯殿川の合流地点

川浸り むかしの奇習 懐かしむ

今日12月1日(朔日)は、むかし昭和20年ごろまで、“川浸り”という奇習がありました。家のまえの川(兵衛川)でお尻を冷たい水に浸ける…風を引かないで冬をすごせる?ということで、母親は、4時起きで、”ぼたもち”を作ってくれました。

そのころは、兵衛川は、氷が張って乗れたのです…ですから氷を割ってお尻を浸けたのです・・・

地球温暖化で、いまでは川は真冬でも凍りは張りません。今フランスでCOP21が開かれています。地球の危機が叫ばれています。地球環境に、全世界の人が関心を持って欲しいものです。

現代社会と私の過去から思う

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今の世…

情報化・価値観の多様化の時代です…情報処理能力とコミニティ、そしてスピードが求められる社会です。今日の情報の処理は明日では遅いのです。

この時代に、乗り遅れた人の負の産物?…心身の疲れを旨く取れず、ストレスが高じて、うつ病を発症しているといわれ、発症した経験があるという人は100人いる中で6人~7人ほどいるといわれています。

心身が疲れてくると、不平不満もつのり、愚痴が出てきます。そして一人で考えて…うつ状態になるのです。

高校・大学を出で就職…「こんなはずではなかった」・「条件が違う」・「違う会社を選べば良かった」・「ここよりいい会社はいくらでもある」など、転職や退職を考えている人もいると思います。

転職、あるいは脱サラをして成功している人もたくさんいます。あまりうまくいかず「この仕事は俺に合わないから」と次の仕事を求めても、同じことの繰り返しとなり、又、不平不満から辞めてしまいます。

ことわざに「石の上にも三年」という言葉があります。今はつらくても、ある程度の時期がくれば体が馴染んできます。もう少し頑張ってみることです。嫌だ嫌だと思ったら、自分を鍛える修行だと思ってもう少し我慢してみることです。やがて今とは違う考え方も出てきます。

私の過去…

振り返って見ますと、人生においてさまざまな岐路に差し掛かり、自分が一番良かれと思う方向に進んできました。

例えば進学であり、就職であり、結婚であり、あるいは新たに何かをやろうとした時など、右にしようか左にしようか、止めようか、進もうかと色々悩んで進路を決めてきました。

自分でとことん考えたあげくの結果であれ、人の意見による結果であれ、成り行きの結果であれ、その時その時は自分の置かれている立場や状況の中で、一番良かれと思って進んできたのです。

そして、いざ進んでみると山あり谷あり、いろいろな困難にぶつかったりすると、「これでいいのだろうか」「あの時の判断は正しかったのだろうか」など、心細くなったり後悔をしてしまったりします。

しかし進路を決めた時には、自分の出し得る限りの知恵と経験、あるいは大勢の人達の助言を聞き、あらゆる状況を判断してその時は最善の決断をしたのです。

たとえ自分の意志でなかったり、成り行きであったり、親の決めたことであったり、しかたなく進んだ道であっても、自分が認めた以上それは自分で選んだ道なのです。

そのように考えると、今歩いている道は自分にとって最善の道であり、自分にあたわった道なのです。もし違う道を選んでいたならば今よりも不安で、自分に正直になれない、あるいは、無謀で危険な道となっていたかもしれません。

いま思うこと…

「今が最高、今が最善」と信じてどんな苦しみにも立ち向かったならば、必ず乗り切れる力が湧いてきます。

くよくよ過去を振り返ったり、迷ったり、後悔していたのでは、前向きの力は発揮されません。やり直しのできることはやり直せばいいのです。人生いつでもやり直しはできます。しかし、やり直しが無理だなぁーと思った時には突き進むしかありません。

自分の運命として切り開いて行かなければならないのです。他人のことはなんでも良く見えるものですが、中に入ってみればそれぞれに苦労があるものです。

自分が乗り切らなければならない苦労をさておいて、他人をうらやんだり、自分の境遇を嘆いたり、ましてや他に良いことがあるのではないかと現状から逃げたのでは、何も人生は良くなっていきません。

なぜなら、現在歩んでいる道は、自分が良いと思って選んだ道の延長だからです。他に良い道などあるはずがないのです。

人生には、苦労があるから喜びがあるのです。我慢があるから楽しみがあるのです。不幸があるから幸せを感じられるのです。

悩むことがあるから知恵が出てくるのです。困ることがあるから工夫が生まれてくるのです。ですから、良いことばかりを望んでも苦しいことを体験しなければ本当の良さは分からないのです。

どんなにつらくとも苦しくとも人生の最善の道を今、歩んでいるのです。他に逃げ道はないのです。「今が最高、今が最善」と信じて、自信を持って自分の運命を切り開いてください。必ず明るい日がやってきます。

 

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