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2015年10月24日 (土)

集団より個人を優先する時代を考える

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公徳とは、社会生活の中で私たちが守るべき道。

この世の中で生きていくうえで、他者への配慮や思いやりを大切にして、社会の中の自分の在り方、生き方を考えることは当然のことです。

でもいま、の世の中、自分だけがよければいいという人が多すぎると思いませんか…電車やバスの車内での悪いマナー、空き缶やたばこを無頓着にポイ捨てする人、平気で割り込みしてくる人…こういう人たちが「公徳心のない人」と呼ばれるのです。

公共の利益のために進んで奉仕することは、公徳心の表れと言えます。これらのことは、社会生活上のルールや基本的なモラルなどの倫理観並びに遵法の精神につながり、規範意識の育成には欠かせない要素です。

集団よりも個人を優先する現代社会においては、自己抑制力や忍耐力を培う場が減少し、公の場を意識して行動しようとする心が、十分に育っていないという状況にあると思えます。

今や、個人の未熟と放埒(ほうらつ…勝手気まま状態)の結果を社会が引き受けなければならないのに、社会にも、教育にも個人の放埒を抑制する「力」が付与されていません。

己の私益を優先する日本人が自己増殖を続けました。過疎が進み、少子化が止まらず、家族が総出で稼がなければ生きられない時代状況が到来した時、人々はもはや自由意志も自己責任も全う出来なくなりつつあるのです。

相互支援システムなしに、過疎も、少子高齢化も乗り切れないという状況が出現しているのです。少子高齢化時代は子育て支援でも、高齢者の支援でも、遠い専門集団よりは近い地域集団の助けが必要になります。

地域集団は壊滅の危機にある。

「主体性」の名の下に野放しにされた個人の欲望は、自己責任を伴わない多くの未熟で放埒な人間を「反社会的な存在」に転落させました。親不孝も、虐待も、青少年非行も、犯罪も、規範の崩壊も、不登校も、引き蘢りも、多くの場合が個人の未熟と不覚と放埒の結果と思います

社会の迷惑の多くは、未熟な主体の解放の関数です。今や、社会は個人の欲望に対する抑止力を失いつつあるのです。教育界は「個人の主体性」と「自己決定権」の前に無力なのです。

ですから、教育の抑止力を回復し、他方で、個人に分解された人々をボランティアとして再組織化し、従来の地域集団と目的・機能上の結合を果たすことが不可欠になりました。

過去の共同体や地域集団とは異なりますが、ふたたび共同体や地域集団が脚光を浴びる時代が来ているのです。これからのまちづくりの焦点は地域と機能の結合になります。婦人会の立て直しも、子ども会の機能強化もこの一点に集中すべきと思います。

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