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2015年10月19日 (月)

我は草なり

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『我は草なり』 高見順

われは草なり 伸びんとす
伸びられるとき 伸びんとす
伸びられぬ日は 伸びぬなり
伸びられる日は 伸びるなり

われは草なり 緑なり
全身すべて 緑なり 
毎年かはらず 緑なり
緑のおのれに あきぬなり 
われは草なり 緑なり
緑の深きを 願ふなり 

ああ 生きる日の 美しき 
ああ 生きる日の 楽しさよ
われは草なり 生きんとす 
草のいのちを 生きんとす

自分は縁あって今がある…生きとし生けるものすべてが、縁があって今があるのです。

人間というものは、自分は個別の「存在」だと思っています。「私は、私です」 と思っているのです。「私は…」と思った瞬間で、私たちはこの世界の全体的 な生命のエネルギーから自分を別なものだと、ある個体的な存在だと思ってしまい自分と他とを区別します。

区別することによって、自分がとても小さなものになってしまい、色々な問題が生じてきます。人間が人生で出遭う様々な苦悩は、この「私」というその個体があるんだ……と思ったところから生まれて来るのです。

簡単に言えば、この「私」という実感さえ無ければ、問題は何も無いのです。しかし、これはなかなか消えるものではないのです。誰かが体に触ったら「私に触りました」と感じるし、冷たい空気が体に触れたら「私は寒い」というように、簡単に「私」という主語は出て来ますが、しかしそのことは大問題なのです。

私」が居るから「他人」が居て、だから人間関係が悪くなったりする。「私」が居るから、他の人間と競争するためにいろんな才能を身につけなくてはならなくなる。例えばこのように、問題が生じて来ます。

そこで、何故「慈しみの心」が必要かというと、いくら「私が私が…」と言っていても実際には、ここに私が生きていられるのは他の生命が有るからなのです。私達が生きるために必要な栄養素にしても、他の生命を経由して体内に採り入れ るものが大部分ですし、例えば鉄分が必要だといっても、鉄の塊をガリガリとかじるわけにはいかないのです。 

また、私達の体内には無数の微生物が住んでいて、なにかしら有用な活動をしています。それらの生命に「これは私の体ですから、出て行って下さい」と言って追い出してしまったら、「私」も死んでしまいます。ひとつの体の中にも、多くの生命体が入り込みお互い助け合って共存しているの です。

ですから、「私」を発見する以前に、生命に対する「やさしい心」というのは、 大変必要な条件になります。どんな宗教でも共通して説いているのは、この「やさしさ」ということで、生命はお互いに助け合って生きている……ということは重要なポイントなのです。 

「慈悲の心」を育て上げられれば、自分は諸々の宗教に共通している真髄を実践しているのだと理解しても過言にはなりません。(慈悲の瞑想)…http://www.j-theravada.net/3-jihi.html

草という、定められた人生だけれども、それに不平不満言う事無く、一生懸命生きている。そして来年はもっと豊かな深き緑になれるよう、根を地下深くまで張り、たくさんの栄養を吸収して、一生懸命に生きる。その草が、また他の生き物の生きる糧になるように…

 
 

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