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2011年6月

2011年6月30日 (木)

急な暑さで熱中症に気をつけよう

539571 昨日、ほぼ全国的に気温が高くなり、山梨県で38度を超えるなど、東日本と西日本の各地で猛烈な暑さとなった。今日も(30日)この時期としては厳しい暑さが続いた。しかし今日は予報通り、午後から雷雨となって涼しくなった。

ちょうど片倉時田まちのひろばで、草取りが一段落した、タイミングで降り出したので、ゲートボールをやっている連中と雨宿りを一時間したら止んだので帰ってきた。

急に暑さで体の体温の調節できない高齢者は、熱中症に十分注意するように気象庁では呼びかけている。気象庁によると、日本海に延びる前線の影響で、北陸などでは雲が広がったが、このほかは南から高気圧に覆われて強い日ざしが照りつけ、気温が上がった。

なるべく外の仕事は控える・水分の補給をこまめにとる・充分休養をとるなど熱中症対策を考えて行動をとるようにしたい。

日中の最高気温は甲州市で38度5分、甲府市で38度1分、6月としては統計を取り始めてから最も高い気温を観測したという。また、東京の都心で35度1分などと東日本と西日本の74か所の観測点で猛暑日となった。

東京の都心が猛暑日となったのはことし初めてで、6月の猛暑日は平成17年以来、6年ぶりだという。また今日は、西日本と東日本を中心に気温が30度以上となり、この時期としては厳しい暑さとなった。

そして、広い範囲で大気の状態が不安定になって、局地的に雷や突風を伴って非常に激しい雨が降った。気象庁は、熱中症に十分注意するとともに、急な天気の変化や落雷、突風などにも注意するよう呼びかけているそうだ。

1時間ぐらいで雷雨は止んだが、湯殿川は、濁流と化し岸の葦が濁流でなぎ倒されていた。今日の雷雨は北西からであったので梅雨は明けていない。東南東から太平洋高気圧に押されて日本列島を北西に抜けると梅雨明けとなると、むかし、親父が教えてくれたこと思い出した。

シナリオのない国会劇場

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10risiri_senpousi21 8月末まで70日間の延長が決まった国会であるが、延長を決めた22日から、審議は1週間以上も全く進まない状態が続いている。

菅直人首相が自民党参院議員を政務官に引き抜いた人事に自民党などが反発しているためだが、被災地を置き去りにして重要法案の審議を放棄し、国会を空転させる与野党の姿勢に問題ありだ。

以前、米倉弘昌日本経団連会長の「税金を払っている国民のために何もしていない。給料泥棒のようなものだ」の発言が話題になったが、一日3億円かかるという歳費を忘れてしまって、被災の復旧復興のために延長国会を決めてたのだが、一向に始まらない。日本の政治家は三流に成り下がってしまったのか・・・

国会議員は本当に危機感を持っているのだろうか?・・・自分の家が被災の遭い、何とか生き延びるには、給料と預金だけでは間に合わず借金をして、住める家を立て直し生活の基盤を作ろうということで、家族会議が開いたのだが・・・お父さんの浮気が発覚し、それどころではない。何の関係ない子どもたちが、お腹を空かしているのに、夫婦喧嘩で、話し合いができない。と言った茶番劇だ。

その茶番劇のシナリオは、国民新党という亀井静の強い見方?・・・ご主人に「しっぽ」振るス場面が展開し、このことによって、流れが読めなくなった。

そんな筋書きの読めない国会劇場の観衆は、呆れてしまっている。復旧・復興を、口では言っているが・・・横からヤクザのボスのイメージが抜けきれない、小沢一郎前民主党代表は、「なんにも決まっていないじゃないか!」と国会議員の立場を忘れた発言に、与野党の幹部は一斉に顔を向けるシーンが頭をよぎる。

しかし、大金をつぎ込んで、買って茶番劇を見るつもりではないうんざりだ。金返せ!・・・。「東京電力の役員は自分の資産を処分してまで、被災者を助けろ!」と被災者は言っている。もういい加減に、筋書きの見える国会劇場にしてもらいたい。

2011年6月29日 (水)

母親の涙・・・

Img_1553001 私が小学校3年生つまり9歳の時病気で亡くなった。母親の印象に残った言葉は記憶にない。しかし病気療養中、私が少ない小遣いから買った一つの桃で思い出す。昭和24年頃の桃の値段は一個150円位だった。

母親に「母ちゃん桃食べられる?」と聞いた時母親が涙を流していた。その時母親は、なにも食べられなかったのだ。その時が始めて見せた涙だった。9歳の私の行為が嬉しかったのか、食べられないことの悲しかったのか分からなかった。

人間の涙には色々な意味がある。悲しくて流す涙、うれしくて流す涙、くやしくて流す涙、人はさまざまな場面で涙を流す。

人間の涙というのは、水分と少しの塩分?だけだろうか。科学的にいくら分析しても、分析しきれないものが、人間の涙には含まれているのではないだろうか・・・

母親が流す涙、それはいくら科学的に分析したところで、水と塩分に過ぎない。しかしその奥には、愛情という、目には見えないが、尊いものが含まれていた。

愛情の大きさは、計り知れない。よく子供が病気で苦しんでいるのを見て、母親が「できるなら私が身代わりになって上げたい」という。このことは、地球上の生物で人間しかいない。

母親の涙はたった一回しか見ていないが、私の見ていないところで、目が腫れるぐらい泣いたことと思う。人生は、泣いて人間的に成長するといわれるが、多くの涙を流し、涙の数で成長し、新しい未来が拓ける。それは生きるための挑戦している美しい涙となる、そういう涙をこれからも流したいものだ。

お互いさまの心

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1231 私たちの町も、国・都・八王子市・町・の組織で、「安心・安全」の暮らしを守られている。国の法律と都・市の条例などで法律のカバーしている。

昨日、近くの湯殿川に、(由井市民センターの北側に)オートバイがあった。草が生い茂っているが、人が川面に近づけらるように階段状に作られていている場所にあった。捨てられていた状態で、盗難車か?、持ち主が捨てたのか?いづれにしても、警察の連絡を入れた。

場所が分からないと困るので、お巡りさんが行くまで待って欲しいとのことで待った。30分待って、最も近いみなみの交番からお巡りさんが来てくれた。お巡りさんは、ナンバーから届けられている盗難車ではない。

持ち主が分かっているが自宅に不在で連絡がつかない。引き上げるには重すぎて無理であり、そのままにした。私は警察に確認して貰ったので、庶民の責任を果たした思っている。

水が流れている場所では、管理は国土交通省(南多摩西部建設事務所)であるということは承知していたが・・・、お巡りさん、思わず口に出た言葉が、「もう少しで、警察の管轄ではなかったのに・・・」と言った。

このことは放置自転車の処置でも分かる。市の自転車対策課に連絡しても、盗難車であるのか警察に確認してから、連絡して欲しいと言われる。警察に連絡し来て貰い確認してから、再び自転車対策課に連絡し処分してもらう。

その場にいなければならず、その間は2・3時間かかって、そんなこと、忙しく付き合えないと思う人がいる?のではないかと思ってしまう。それなら川に投げ捨てあったほうがいい、何故なら国土交通省に連絡すればそれだけで済むからである。

あぁ、そうかと納得・・・?、近くの市民センターの職員に処置を欲しいとお願いしたいと話したら要領の得ない返事であった。警察の場合その場にいなければならず面倒だからだ。

以前猫が道路上に車にはねられて死んでいた。処置を保健所に依頼したく電話を入れた。保健所では、まだ生きていていれば保健所で、死んでいる場合は、清掃事業所管轄という。

切り通しの国道の歩道が法面の草が伸びて歩くのに支障きたすので、刈って欲しいと申し入れたが、民地といわれて・・・地主に話したら以前から刈っていただいていたので・・・と言う。

家の敷地はきちっと清掃はするが他人?の地所にゴミが合った場合は、関係ないという人?がいる。お隣の地所にあっても、ゴミがあったら処分してあげる位のおおらかさが、住みよい町は、必要条件であると思う。

世の中もっと、オーバーラップしたらもっと快適な生活ができると思うが、お互いの法律だの条令だのではなく、人の生活してゆくには「お互いさまの精神」が大事である。面倒で余計こと、お節介なことをする人が少なくなった。そして見てみぬ振りをする人が多い世の中になった。

2011年6月28日 (火)

多様な判断能力を・・・

05oirase31 私は小さい時に川で遊んで冷えた身体を田んぼの稲の中で泥を身体につけると暖かくなるのでよく田んぼの中で遊んだ。その時、見つかり、叔父さんに捕まってしまった。その時の怖さはいまだに忘れない。家に帰って母親からも小言をいわれスッカリ、しおげてしまった。

今は叱らない大人が多い、私もその一人だが・・・だが、小さい子供だけで喧嘩をしていて、親がその場にいなかったり、の場に合わない行為があった時は他人の子供でも注意する。

中学生の男の子というと、私より身体が多きいし腕力でもかなわない。それが5・6人ともなれば、悪いこと思っていても一人では注意はできない。今日、たまたま会った、交番のお巡りさんに聞いたら、「そういう時は110番してください」と言われた。

しかし、「していいことと」「してはいけないこと」の区別がつけられない子供が多くなったようだ。判断の基準は「善悪」ではなく、「自分の周りにいるみんながしているかどうか」だ。

それは、日本の子供が、家でも学校でも「ああしなさい」「こうしなさい」と言われるままに「受け身」で、自分できちんと考えるゆとりを与えられずに育ってきたためだという、遊びも受け身で、創造性も自分で考えることも必要としないからだ。いわゆる指示待ち症候群?である。

将来子供たちも、自分の考えで行動しなければならない時が来る。そのとき周りを見渡して「善悪」を問うことなく、周りの仲間と同じことをする。「みんながやってるから」と言う理由だけで、悪の道にはいってしまう子供も多い。注意されることで、成長して行くのだ。

社会生活をする上で「善悪」をわきまえる判断能力は不可欠であり、子供の成長過程で躾として親が養うべきものである。人は生きていくあらゆる局面において、この「善悪」をわきまえる判断能力が常に試される。いじめは、この判断能力が養われず、十分に具わっていない土壌に生じる。

グローバル化した世界で、民族や宗教、さまざまな価値観を異にする人々と共に、地球規模で生きていかなければならない、「善悪」の判断については、人類共通の普遍的なことから、価値基準がちがうために、見解の相違が生じるものもあるから、多様な「善悪」についての判断能力を身につけるべきだ

景気対策をやればやるほど将来世代へのつけは減る

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07rose_ame21 景気について、庶民感覚でものを言わせてもらうと、やっと景気が上向きになったかに思えた矢先に、東日本大震災という、とてつもない災害と福島第一原子力発電の放射能漏れ事故のダブルパンチは痛い、しかし立ち直れないノックダゥンは許されない。

経済学者・評論家などの「日本経済は復活の会」の存在を【Internet】で見て、勇気付けられた。景気対策と国の借金の関係が、国民の関心事である。私も、この記事を見て、なるほどと思え、納得したのであるが・・・

「景気対策をやればやるほど将来世代へのつけは減る!!」
多くの人が誤解しているのは、景気対策を行えば国の借金が増えるということだ。確かに借金の絶対値は増えるが、絶対値など何の意味も無い。GDPの少ない国は借金も少なく、GDPの大きい国は借金も大きい。問題なのは国の借金をGDPで割った借金のGDP比だ。借金のGDP比は、景気対策をやればやるほど減ってくる。

内閣府や様々なシンクタンクの様々な試算で、景気対策を行えば行うほど国の借金のGDP比が減ることが示されているが、非常に残念ながら、この事実を知っている人は極めて少ないし、財務省が圧力をかけてこの事実を国民に知らせないようにしている。

もちろん、景気対策をやりすぎるとハイパーインフレになり、国の借金のGDP比は事実上0になるのだが、そこまでやる必要は全くない。適度な景気対策であれば、適度なレベルのところまで借金のGDP比を下げることができる。

橋本内閣、小泉内閣等は、デフレ下での緊縮財政を強行したが、国の借金は減るどころか増えてしまい将来世代へのつけを増やしてしまった。当然だ。景気対策を十分行って、少なくともインフレ率が2~3%程度になるまで景気を回復させなければ、国の借金のGDP比を減らすことは不可能だ。

もしもデフレを脱却し3%のインフレ率(又はデフレーターの上昇率)となり、実質成長率が2%なら名目成長率は5%(=2%+3%)となる。名目成長率が5%増えると国の借金のGDP比は約5%減る。

増税をして借金のGDP比を5%減らそうと思えば借金を50兆円減らすほどの大規模の増税をしなければならず、絶対に実現不可能である。しかし、大規模な景気対策をすれば名目5%成長は可能であり、一度経済が成長を始めそれが維持されるならそれ以後毎年5%ずつ借金のGDP比は減っていくし、税収も激増する。財政の健全化は経済成長以外にあり得ない

「更なる大規模な景気対策の効果」
1.景気がよくなる

2.将来世代へのつけが減る
3.デフレ脱却が可能になる
4.給料が上がる
5.失業率が減る
6.諸外国が行っているように、もっと多くの国債を日銀が買えば、国債市場の混乱は避けられるし、国
の借金に対する利払いも日銀を経由して国に返ってくる
7.円安が進み、輸出企業が息を吹き返す
8.インフレ率も金利も諸外国並に戻れば、経済成長も諸外国に並ぶ程度まで期待できる
9.預金に利子がつかないという異常な事態が終わる

2011年6月27日 (月)

ジャパンシンドローム

108sirakami_mothertree11 私は、私の住む町が意外と何らかの理由で、空き家があったり、独り暮らしが多いのに驚いた。・・・・町シンドロームが進んでいて、日本のマイナス的問題と同じにスパイラル状況にある思える。解決策が、町だけの力ではどうにもならない事だ。

この問題は政治が解決するしかない。しかし、この問題を真正面から取り上げている政治家は見当たらない。東日本大震災で日本は色々な面でつまずいてしまたが、政治力が発揮されていない。被災者の救援は第一だが、日本全体を見て、復旧・復興を真剣に考えて施策をしていかなければならない。

今政治家は何処に力点の置き所が違うように思えてならない。日本を立ちなおさせる様々な角度から解決策を探しだし国民の一丸となって立ち向かわないといけない時期と思うが・・・。

ジャパンシンドローム(Japan Syndrome)とは、NHKの報道局に置かれるあすの日本プロジェクトが、キャンペーンとしてニュースウオッチ9やNHKニュースおはよう日本で報道する、人口減少や少子高齢化がもたらす日本社会の負のスパイラル状況。

少子高齢化に伴う急激な人口減少が原因となり、経済低迷、収入減少、雇用不安、社会保障不安、地域の崩壊など、スパイラル的にさまざまな問題を引き起こしている日本の現状。

ジャパンシンドロームは、特に地方都市に影響を及ぼしている。空き家が増え、高齢化率が高まることで、地域のコミュニティーが維持できなくなる。また、消費者自体が少なくなることで、経済低迷をもたらす。

中心市街地のデパートの撤退や、グローバル化で新興国との競争に負け、企業撤退、雇用減少。税収減による行政サービスの低下がその例。所得の減少は、結婚や出産ができないという連鎖を引き起こし、さらに少子化、人口減少につながるという負のスパイラルに陥る。

人口減少が始まっていない大都市でも、将来的な税収の落ち込みから、水道管の交換ができなかったり、道路整備を中止せざる得なくなったり、行政サービスの見直にまで及んでいる。

スマートコミュニティー

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05detohama11 次世代エネルギー、・・・原子力から自然エネルギーが注目されるが、スマートコミニティー(サイエンス)という、私にとっては(新しい言葉)であるが注目すべきことだ。

スマートコミュニティ-サイエンスとは・・・(新語時事用語辞典Weblio辞書)より
省エネルギーのインフラや次世代送電網(スマートグリッド)などを一括整備する地域。複数のビルを建て替えるなど再開発を行う一定の区画に対して、スマートグリッドなどや太陽光発電装置、電気自動車などの省エネ型のインフラを整備する。

スマートコミュニティのセンターにおいて、風力発電、太陽光パネルなどで作られた電力を蓄電池にため、地域のエネルギーとしてコンピュータで管理される。それらの電力は、省エネ型のビルやマンション、住宅、地域で共有する電気自動車の駐車場などに送られ、それぞれの部分において必要とされる電力が最適に配分される。

ゼネコン大手の鹿島は愛媛県松山市内で地元の不動産業者と組んで、太陽光発電やエネルギー制御用の通信機能のある住宅10戸を分譲し、この地域ではEVとEV向け蓄電池なども共有することにしている。

電力会社からの電気供給に加えて、新設の太陽光・風力発電で必要なエネルギーを確保した上で、コンピュータにより電気の計測器などを監視してエネルギー消費を抑制するスマートグリッドも整備することにしている。この場合は10戸程度なので「スマートコミュニティ」と名付けられるが、これが5000~1万戸の大規模なレベルになると「スマートシティ」とよばれるようになる。

経済産業省の日の丸製造業復活構想(ダイヤモンド・オンライン)を見る・・・
「パナソニックやトヨタ自動車が興味を示しており、日本の製造業復活のきっかけとしたい」と経済産業省幹部は期待をしている動きがある。

東芝が5月に買収することを決めたスイスのランディス・ギア社、この案件に追加出資を決めている産業革新機構の動きだ。ランディスはスマートメーター製造とシステム構築で豊富な実績を持つ。

太陽光や風力発電、蓄電池などを街に配置し、環境負荷の低い省エネルギー都市「スマートコミュニティ」が世界的に注目されているが、スマートメーターはその都市に住む各世帯に必ず設置される。電力やガス、水道などの利用状況のデータを収集し制御する機械で、スマートコミュニティの肝である。

原発インフラ輸出の先行きが震災で見えなくなった今、東芝・ランディス連合は製造業復活の光明でもある。いよいよ、具体的化する次世代エネルギーの日本戦略が見えてきたようだ。

2011年6月26日 (日)

バイパス無料化社会実験終って

12651842511 高速道路無料化社会実験が6月19日に終って、八王子バイパス(打越~相原)の影響からか?主な並行一般道路である国道16号の交通量がまた、増えだした。接続する他の一般道路や周辺の生活道路における交通量も増えた。

しかし、無料化社会実験前の16号の交通量がどうだったのか、データーは勿論、記憶に残っていないので、客観的に判断ができない、だが、昨日25(土)は渋滞状況で、神奈川中央交通(JR橋本駅~JR八王子駅)定期バスは定時運行に大きな支障が出たと思われる。

これでは、私が神奈川中央交通多摩営業部に問い合わせして回答を得た八王子市の16号とJRの踏み切りでの定時運行の乱れと渋滞状況で、要望の八王子市内循環は困難と認識せざるを得ない。

八王子バイパスの社会実験は、一般国道の無料化による地域への影響を見るため、いわゆる高速道路無料化とは違う目的で実施されていた。この区間は、平成27年度には償還期限、無料化を控えている、利用者の混乱を招かないように配慮すべきである。

高速道路の無料化は、利用者が料金を支払うという「受益者負担の原則」に反して公平性を欠き、かつ環境面での影響など、様々な問題がある。

そのため、場当たり的な高速道路原則無料化にむけた社会実験の拡大には反対である。財源確保など、真に必要な道路整備に支障をきたす事につながりかねない。

なお、今回の社会実験にあたっては、事前に都に対し調整がなく決定されたという。都内の国道ネットワークのあり方については、都民に直結した問題であり、今後はこのような事案について、事前に十分な調整・協議を行うべきである。

世界遺産に登録に思う

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800pxkonjikidoooido1 東日本大震災で大きなダメージを受けた岩手県太平洋岸であるが、今回、復旧・復興弾みがつく、平泉中尊寺が世界文化遺産に登録は、達増拓也岩手県知事はじめ県民の大きなの喜びであろう。

また、小笠原諸島(東京都小笠原村)の世界自然遺産登録を決定した。日本では12件の文化遺産と4件の自然遺産、合計16件が登録されている(2011年6月現在)となる。

日本は、工業国であると共に観光立国でもある。東日本大震災と福島第一原子力発電の放射能の飛散で、観光客が激減しているという。そのことからも登録は日本国民にとっても朗報である。

日本文化の歴史は、アメリカなど比べたらはるかに古い、古い歴史の伝統を守り続けきた平泉中尊寺金色堂などは、世界に日本の文化をアピールするには最適なものの一つである。まだまだ、世界遺産候補は沢山あると思うが、その伝統を守ってこられた人たちに敬意を表したい。

生活環境がグローバル化したと言われる現代、ややもすると、忘れ勝ちになる環境や伝統文化の尊さを、もう一度見直すいい機会でもある。私たち住む町も伝統文化がある。そして身の回りを見て、そこに生まれてきた生物は消え去っていく多くの生物がいる。

故郷の歌詞のもあるが、山にウサギ、川にどじょうや、ふなっこ、めだかなどがいなくなってしまった。これは、人間の勝手振る舞いだ。よく考えてみると私たちの先祖は伝統文化を守って現代社会へ繋いで来たのだ。それをまた後世に引き継ぐことは、現代に生きる人間の使命であると思う。

2011年6月25日 (土)

ゴミを捨てる心理

Img_0106 コスモスの手入れをしながら考えてみた。

「湯殿川をきれいにしよう」「私たちの住む町をきれいにしよう」とブログに書いている。一方、散歩に出かけるときはゴミ袋を持って、拾いながら歩く、本当ゴミを捨てる人は減らない。「ゴミを捨てる人の心理」を考えてみたのだが・・・

結論は、「自分さえ良ければいい」「誰かが拾えばいい」という勝手な考えである。その証拠に家の庭にタバコの吸い殻を捨てる人はいないだろう。缶コーヒーの飲みかけを玄関前の道路には捨てないだろう。自分に関係がないところではそこが公園だろうと道路であろうと、近くにゴミ箱があっても関係ない。

しかし、若干の罪の意識がある人がいる。それは、私が面倒見ているコスモスの中にタバコの空き箱・空き缶・ペットボトルが隠すように捨てられている。今日コスモスの中の草取りをし出てきたのでその数十個以上だ。

忙しい。捨てる箱がない。との理由かもしれないが、八王子市は、全市歩行禁煙である。また、物を食べながら、飲みながらは絶対止めて欲しい。

よく私の拾ったゴミの袋を見て、「今の若いものは困ったものだ」と言いながら、タバコはいいのだと言わんばかりに捨てていく、これでは町は、きれいにならない。

小さなゴミならいいだろうと捨ててそのままにしていると次から次えと増えていくものである。いけないと思う心はあるが、私だけではないと思っての行為だ。

町が汚れていることは、防犯・防災の面からも危険度が高まるといわれている。そして今問題となっている地域住民の連携コミニケーションも薄らいてしまう。お互いに笑顔で暮らせる町にしたいものである。

人の痛みを分かる心構え・・・

08adachi_bizyutukan11 戦国時代の武将の直江兼続は「愛」と「義」に生きたとして語り伝えられている。戦乱の世には多くの人々を失い直江兼続は、慈愛の心をもって民をいたわることを第一義として国を治めるべきであると説いた。愛とは、男女の恋愛の情のみならず、おおらかな心をもって、他を思いやる気持ちである。

とかく人は自分中心にものごとをとらえてしまい、自分の思い通りにならないことがあれば、たちまちそれが悩みとなる。自分勝手なものの見方でなく、ものごとを客観的に見ようと思う気持ちがあれば、愛する人との別れの苦しみを越えて、生きる喜びが見いだせるだろう。人は一人では生きられない、だから家庭生活や社会生活をしている。

憎しみあいながら同じ屋根の下で暮らすとなれば、これは悲劇である。また地域や学校、職場で、しっくりいかない人間関係があって、お互いに気まずい思いをしながら、それでも共に生きていかねばならないが、とても辛いことである。

別れたくとも別れられない、離れたくとも離れられない、ままにならないことが多いのも世の常である。顔も見たくない、まして言葉を交わすことも苦痛であり、怨み、憎しみの気持ちが増すばかり、そういう事情のもとで日暮らしをしなければならないとなると、 これはすごいストレスであり、日々が苦しみの連続である。

最近の事件のニュースの背景には、最愛の家族が、いがみあい、憎しみあうようになると、家族の不和や家庭に亀裂が生じてしまう。子や孫の行動に腹を立て、可愛さ余って憎さ百倍に豹変する親や祖父母の姿がある。

大切な人や愛した人が憎しみの人に変わることも、尊敬していた人に裏切られることもある。怨み、憎しみのあまり、冷静な判断ができなっかったり、一線を越えてしまうと、不幸な悲劇さえまねいてしまうことがある。

つらい思いをすることは自分自身の向上につながる。今苦しい思いをしていることは、自分が磨かれ慈悲の心が育まれていく修行をさせていただいていると思えばよいのだろう。苦しい目にあった人は、他人の苦しみも理解できる。心の痛みがわかる人は、何ごとにつけても広い心で接しようとする。なぜならば、怨み、憎しみあって生きるよりずっと楽しいから・・・。

消防団員の犠牲者が多いニュースを見て

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Img_0155 NHKのテレビニュースを見ていて、妻が冗談?で「お父さんもキッとその一人になる」と言った。責任感が人以上に強いこと、気持ちは分かるが体力が劣っていることを指摘したのだ。

町民のことを誰よりも強く感じているからで、昨日は、晴れて33度にもなった。草の伸びるのが早い、昨日ボランティア湯殿川の河川管理通路のコスモスの手入れ(草取り)を一人で行った。そして、上流で、一人でボランティア草取りをしていた。自分の庭は、草が生えているのに・・・と笑って話していた。

テレビのニュースは、東日本大震災では、防災活動にあたっていた消防団員の犠牲者が大変に多かったこと。仲間を失った消防団員の中には、精神的な傷を負った人もいて、国は対策に乗り出すことになったということだ。

岩手県が116人、宮城県が106人、福島県が27人で、東北3県で249人だ。消防団は、ボランティア精神に支えられた組織で、普段は会社に勤めたり、商売をしたり、農業や漁業などをしている一般の市民だ。

多かったのは住民の避難誘導を行っていて津波に巻き込まれた。逃げ遅れた住民を避難所の小学校まで消防団の車でピストン輸送していて津波に流された団員がいた。

また寝たきりの高齢者を避難させようとして津波にのみこまれたり、団員や避難しない住民に避難を勧めていて被害にあった団員もいたという。こうした事例を聞くと、消防団は地域の防災に欠かせない存在で、いかに献身的に活動したかがわかる。

目の前で同僚が津波にのみ込まれていくのを見た団員や活動を命令する立場にあった団員の中には、精神的にケアーが必要になった方が沢山いる。そこで総務省消防庁は、精神科の医師などで構成するサポートチームを、被災地の消防団に派遣することになった。

そのことから、八王子消防署・八王子消防団の組織に守られているのであるが、我が地区の消防団長(八王子消防団 第10分団 第5部)に、聞くところ、団員のなり手がいなく困っているという。地域の仲間意識が薄れているのかと思う。東海・東南海・南海大地震は30年の間に87%起きるといわれている。

住民の命を守っていただく、地域の消防団員の安全確保も大事であるが、住民の防災意識の高揚も大事である。いざという時には、遠い親戚ではない、近くの他人である。自助・共助・公助といわれているが、少子高齢化が一段と進んでいる私たちの町、片倉一丁目町会もマグニチュード9の地震が起きたらと考えると・・・防災訓練が大事だ・・・課題は多い。

2011年6月24日 (金)

行雲流水

15401 ~朝日カルチャー「禅語教室」より~禅語の「行雲流水」を考えてみる。行雲流水とは・・・
雲は悠然として浮かび、しかもとどまることなく、水はまた絶えることなくさらさらとして流れて、また一処にとどまることがない。この無心にして無碍自在のありようが禅の修行にもあい通じることから、この語を禅者は好んで用いた。

「行雲流水」は自然現象である。空を行く雲、川を流れる。水は一時も同じ状態ではない。雲の表情は一瞬一瞬ごとに変わり、湧いては消え、消えてはまた生ずであり、また流れる水も常に変化して様々な表情があるように、この行雲流水の語は世の無常を表わした語でもある。

それはそのままわれわれの人生にも通じることである。雲にはやさしい風ばかりではない。吹きちぎり吹き飛ばす風もある。水の流れにも瀬があり曲がりくねる淵があり一様な流ればかりではない。長い人生もまた然りである。

人生、順風満帆ばかりなんてありえない。どんなに障害があり、喜怒哀楽様々な出来事の連続の中にあっても、常に心はその一処にとどまらず、執着せず、雲の如く無心にして淡々と、さわやかに生きるところにこの「行雲流水」の語が生きる。

雪が降り続く、3月11日東日本大震災は起きた。多くの犠牲者と財産が一瞬のうちに無くしてしまった。それから3ヶ月が経って、落ち着いて考えてみるとこれが、人生なのか、人生楽園ばかりない、自然災害、人は「想定外」という人もいるが、こんな真っ逆さまな坂に遭遇するのも人生などだ。

人の煩悩いわゆる三毒(煩悩)、すなわち貪・瞋・癡(とん・じん・ち)がこの宇宙上にない放射能を作ってその扱いを間違えて多くの人に不安と恐怖に晒している。自然の同化し生きることの基本を忘れては、本当の幸せはない。大きな代償を払わされることになったものだ。

戦争と震災

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108genbikei21 東日本大震災から3ヶ月が経ち瀬戸内寂聴さんが被災地を訪問したニュースを見た。多くの友や家族を失った野田小学校で198人の子供達に「支えあい思いやる気持ちを大事に」と語りかける。

瀬戸内さんは「去年足を悪くして、やっと歩けるようになった。みんなの元気な顔を見て安心した」と声を掛け、紙芝居を読み聞かせるなど約1時間交流した。

同校では、児童約20人が仮設住宅から通っている。瀬戸内さんは「家は必ずまた建つ。みんなが元気に育つことが、町の再興の力になる」と激励。「自分が好きなことを勉強するのがいい。好きなことを一生懸命したら大人になったら幸せになれる」と呼び掛けた。

瀬戸内さんに小学生の女の子が「戦争を見たことがあるのですか」と聞いた。瀬戸内さんは「なぜ聞くのか」と問い返したところ、被災地はテレビでみた戦争に似ているからと答えたので、瀬戸内さんは「あなた偉いのね」と語った。

ある子供の思わぬ発言に胸を撃たれ「震災の現実を戦後の焼け野原と重ね合わせた若い子供達に未来を感じた」という瀬戸内さん。素直な眼には地震津波災害が爆撃と同じ恐怖と捉えられているのだ。

98歳となった瀬戸内さん荒涼とした海岸を、たくさんの思いを抱いてしっかりと歩く。彼女の後ろ姿が印象的だった。

戦争と震災で、敗戦と同じようなもの、一瞬の間に何もかも爆撃で無くなってしまったのと同じである。励ましあって生き延びることに、声を掛け合い、助け合い、分かち合いは終戦当時を思い出す。集団生活・食料・生活必需品の配給、伝染病からの恐怖・消毒の匂い、先の見えない生活・・・

その上、放射能との戦いである。放射能といえば昨日、東京電力福島第一発電所に働く関連会社の作業員は、放射能の心配や、家族や、同僚のことも、気がかりであるが、使命感というものではなく、今までの原発で働いてきた何かが、身体を動かしている、また、他の人もそうだと思うと、テレビのインタビューで話していた。そしてこれからも逃げ出さず最後まで仕事は続けると・・・

戦争中、百姓の親父が戦闘帽・脚絆姿で、空襲警報が鳴り響く村じゅうを、防空壕を出て見回りに出て行った姿と同じだ思ってしまった。

2011年6月23日 (木)

「までい」とはー素敵な言葉

035571 NHKのテレビのリポートで被災地の菅野典雄飯舘村村長のインタビューで、菅野さんは、「までい」という聞き慣れない言葉を説明してくれた。

壁に張られたポスターの中に「までい」と言う文字があり、取材陣も意味が分からない、聞いてみると福島県のこのあたりの方言だそうだ。村長は、「漢字で書くと、『真手い』という字があたるのかなあ」と語る。真心をもって手で大事にくるむような気持ち、くらいの意味だという。私は「素敵な言葉」だと思った。

そして、飯舘村は「までい」な村づくりを合言葉にしてきた。人の絆を大事にし、ゆったりした田舎暮らしを楽しむ村にしようと。しかし、その取り組みが軌道に乗りかけた時、原発事故によって村の暮らしは大きく捻じ曲げられた。

計画的避難区域に指定されたのが4月22日。以後、特別養護老人ホームをはじめ、移転困難な事業所を除き、ほぼ全村民の避難が終了、またはメドがついた。そして6月21日、村は役場の機能を福島市内に移し、飯舘村はこの日をもって、残念ながら自治体ごと流浪の身となった。

この日の夜、番組で菅野村長と中継をつなぎ、話を聞いた。淡々とした表情ながら、端々に悔しさがにじむ。村長の話が最も熱を帯びたのは、散り散りになってしまった村民のきずなを守りたいという願いを語った時だ。

「避難先はバラバラになりますが、新しいコミュニケーションによって、村への思いをつなぐ事業はいっぱい考えていきますよ。敬老会だって協力してくれると言っている。小学6年生を沖縄に派遣するのも続けます。転校しても、また集まってもらってね。夢のある事業を発表していきます」。

アイディア村長として知られた人だ。平成の大合併の時、近隣の市町村といっしょになることを拒み、厳しい財政の中を、独立独歩でやってきた。飯舘牛などの特産品を生み出し、スローライフの勧めに惹かれ、村に遠くから移住する人も少なくなかった。

辞任の土俵際で踏ん張る菅首相の粘り腰に負け、国会は会期という土俵を70日間広げることになった。辞めると言ったはずの首相が居座り、国会は、茶番劇化している。

一方で、自分のふるさとという「土俵」から、不本意ながら追い出され、それでも村の心のつながりを守るのだと踏ん張る人たちがいる。どちらの踏ん張りが尊いか。答えは言うまでもあるまい。(ニュースウォッチ9  http://www.nhk.or.jp/nw9/  )

再来年の大河ドラマ決まる

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09oga_akanegumo11 NHKの看板ドラマは、何といっても大河ドラマである。今年放送中の上野樹里主演の「江~姫たちの戦国~」であるが、視聴率が18パーセント(5月)で低い。

これまでの最高の平均視聴率を記録したのは、1987年放映の渡辺謙主演の「独眼竜政宗」(39.7%)である。最低だったのは、1994年の三田佳子主演、日野富子というどちらかというとマイナーな歴史上の人物を描いた「花の乱」(14.1%)である。

来年(2013年)は、松山ケンイチ演じる清盛の妻、平時子役には深田恭子、清盛の側室で、源義経の母でもある常盤御前役は武井咲に決まった。

そして、再来年(2014年)が昨日は発表された。
「幕末のジャンヌ・ダルク」と呼ばれ、52作目の大河ドラマ「八重の桜」の主人公の新島八重は、幕末の会津藩に生まれ、明治の戊辰戦争では、みずから銃をとって戦い、「幕末のジャンヌ・ダルク」と呼ばれた。

ところで、物事の感受性(受け止め方)は、人それぞれに違う。大きな歴史の流れと、時代に対する感受性を一つの尺度すれば、人間の生きざまは、二つに大別されると思う。

茫然自失の危機に直面したとき、前向きに〈現在-将来〉に新しい人生を切り拓いてゆこうとするか、それとも過去に閉じこもることで自分を守ろうとするか、つまりポジティブかネガティプかである。

ポジティプに生きた人物の時代に対する感受性は、なみはずれて豊かである。〈前時代〉と〈現在-将来〉のはげしいせめぎあいのなかで生きなければならない孤独さに堪えるだけの骨太さを内に秘めている。

会津若松に生まれ育ち、戊辰戦争で洋式銃を執って戦いぬいた娘時代、のちに同志社大学の創始者・新島襄と結婚、洋装のクリスチャン・レディとして生きた時代、襄の死後、篤志看護婦として日清・日露戦争時に救護活動に駈けつけた晩年である。

砲術師範の山本家でうまれ、八重の物おじせず快活な気質は生まれついてのもので、時代ごとに異なる貌を持つ女性として、立ち現われてくるのは、時代をポジティブに生きた故だろう。

ドラマは、新島八重の波乱の生涯を、東日本大震災で被災した福島県などを舞台に描くもので、東北・福島に根づく不屈のプライドと、復興を目指す被災地への力強いメッセージが込められている。八重を演じる綾瀬はるかである。

2011年6月22日 (水)

ひしひしと感じる高齢化

05gihu_hana_festa21 高齢化は、ひしひしと感じる。毎年のように湯殿川の河川管理通路に、コスモスを植えているのだが、6・7年前まで、近所の方たちに声をかけて、大勢で行っていた手入れを行っていた。しかし今は、「腰が痛い」「膝が痛い」などの方ばかりで、呼びかけも出来ない状況である。

昨日、一週間かけて私一人で草取りを終えた。その私も、腱鞘炎?になって、2・3日物を掴むことが出来ず医者に行こうかと思えるほどだった。もうコスモスは最後の年にならざるを得ないか・・・

きれいな花を咲かすには手間ひまがかかるものだ。昔から、私の住む地域は、よく集まって、四方山話ができ、コミニケーションの場が持てとても良かった。今は、噂話になり、近所づきあいが疎くなってしまった。将来、困ったときに頼れる人がいない。など深刻な状況が心配となってきた。

このことは政府の23年年版「高齢社会白書」は、社会的孤立が進む高齢者のそんな実態を浮き上がらせたことでも納得できる。

白書は、その原因を「日本の高齢者は血縁中心に人間関係を構築しており、近所や友人との関係が希薄」と分析している。残念ながら、この分析は現実を言い当てている。

「地縁」が薄らぐこの傾向が続けば、社会的な孤立が一層進み、高齢者の「生きがい」の低下や「孤独死」「犯罪」の増加をもたらす可能性がある。

日本社会はかつての「向こう三軒両隣」的な濃密な近所づきあいは影を潜め、地域のつながりは希薄になった。それが、高齢者の社会的孤立をもたらす一つの要因にもなっている。

今回の東日本大震災は死者の3分の2近くが65歳以上で、高齢者が災害弱者である現実をあらためて見せつけた。現実は深刻である。高齢者の孤立を解消し、孤立がもたらす悲劇を防ぐ。これから加速度的に進む高齢社会で、避けて通れない社会的課題である。

白書によると、65歳以上の高齢者は10年10月時点で日本の総人口の23%を超え、過去最高を更新した。「団塊の世代」がすべて65歳以上になる4年後には、高齢者人口は3千万人を超える。

一人暮らしや身寄りのない高齢者も増えるのだろうが、白書によると、60歳以上の一人暮らしで男性の42%、女性の28%が「2―3日に1回以下」しか会話(電話も含む)をしていないという。

白書は、高齢者が参加しやすいボランティア活動や若者との交流事業などを促進し、地域に高齢者の「出番」と「居場所」をつくることが重要と訴える。そのとおりだと思う。元気な高齢者には地域の「支え手」になってもらいたい。そうすれば地域も元気になる。

問題は、会社や組織に人生の価値観を見いだし、人間関係を築いてきた世代が、地域社会の中で生きがいを見つける人生にシフトできるかどうかである。この白書、実はこれから高齢社会の主役となる「団塊の世代」に、その覚悟を促しているのかも知れない。

まちづくりは、ハード・ソフトの両面を・・・

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Jm077101 最近「まちづくり」とは・・・考えることがあるが、地域住民が安心・安全な暮らしが出来ることが主目的ではあると思うが・・・箱物・道路を作ったり、区画整理をしたりすることがまちづくり、だけではない。

住民の活性化などソフト面を中心から、地域再生という意味でハード面の充実する。いわゆるハード面を充実させることに力を入れていて、ソフト面での地域住民の人と人のふれ合い、信頼間関係を充実することの取り組みが少ないように思える。

ソフト面の充実の両輪が重要なポイントである。地域(まち)が抱えている課題に対して、ハード・ソフト両面から課題の解決を図ることが大事だ。

地域の課題には様々なものがあるが、私は、以下のような問題があると考えている。
1・・商店街が衰退している。
2・・老朽家屋が密集している。
3・・日照など環境が悪化している。
3・・交通ネットワークが不十分である。
4・・住民が高齢化しており活気が乏しい。
5・・防犯上の不安が大きい。

これらの課題で、地域住民の権利及び責任としての参画の必要性を「住民主体」または「協働」、今後も安定的な地域社会の存続を図る必要性があり、「地域活性化」は、将来に向けての目標を立て推進していくことがが大事だと思う。

2011年6月21日 (火)

被災者はゴタゴタ国会より救援を!

Yuu0031009_m1 この頃のニュースは、菅直人首相の退任時期で国会は本来の働きをしていないと有権者は感じている人は多いと思う。未曾有の被害と想定外の放射能の問題で、不安と恐怖に怯えているこの時期に、圧倒的多数で信任得たということで、首相はまだやり残した仕事があるから震災・原発問題が目鼻がつくまでやらせて欲しいと言う。

一刻も早く本格的救済を待っている多くに被災者にとっては、首相が誰であってもいいことだ。首相の手の打ち方が100日経っても、遅い・急所を掴んでいない・人のせいにする・計画性がない・信頼がないなどの理由で自民党・公明党・みんなの党など首相やめろコールが高くなるばかりである。

だが、民主党の誰だったら完璧に出来るのか、自民党の・・・公明党の・・・と考えてみても、思い当たる人は、いないだろう。石原伸晃幹事長は、菅首相が辞めれば、民主党に協力すると言っている。そんなに菅直人首相の信頼が地に落ちてしまったのか?

しかし、菅首相が辞めて民主党の前原さん・野田さんが首相になったら本当に協力してくれるのだろうか?、自民党の執行部は民主党の勢力を弱めるため、大連合の話を出したり、小沢さん・鳩山さんのグループを利用して分裂を狙っていると見ている菅首相の考えているのだろう。

こんな政局のやり取りは、国民はどうでもいい事だ。こんな時期に解散総選挙なんて考えられない。私の推測だが、民主党の岡田幹事長のいう通り、菅首相は10月ぐらいまでは辞めないだろう。

カリスマ性の持った「稲むらの火」の物語で、主人公五兵衛のモデルとなった浜口梧陵(儀兵衛)ような、日本の救世主的人がはいないか?それにしても政治は、信頼・先見性・決断・実行力が必要だ。もうゴタゴタ飽きた。被災者ならずとも、いい加減にして欲しい。

川に溺れて必死で藁をも掴む思いでいる人がいる。救い方を議論している場合か、自殺者も出ているというのに、血の通った人間ではないではないか!国会議員は歳費をいただいている国民の公僕である。自殺まで考えている人がまだまだ沢山いるのだ。国会議員の仕事をして!!

首相を国民投票で・・・

05sikotuko31 菅直人首相が野党はじめや民主党内から声が大きくなったが辞めない。自分が辞めれば、与野党の協議がうまく進むなんてことはあり得ない、菅首相は思っているのだろう。

しかし、日本のリーダー「首相」の寿命は短い、平均寿命は1年半という。これでは何も出来ないで、次に回しで終わりだ。

菅さんの首相にの座にしがみついている?と見ている辞めろコールの人たちは首相は国民投票で決めることは考えたことはないのだろうか?

私は、震災対応は誰がやっても、同じのような気がする。兎に角初めてのことだから、菅首相も一生懸命やっていると思う。首相の寿命が1年半という短いことが気になる。

「日本の首相 国民の投票により直接選ぶべきと大前研一氏提言」(週間ポスト6月3にと号)が目に入り、一考あると思った。

日本大震災は政府のリーダーシップの欠如を露呈したが、そもそもリーダーの選び方は正しいのか? 日本のリーダーをいかに選ぶべきかを大前研一氏が提言す。

議院内閣制の発祥地で日本もお手本にしているイギリスの場合は、いずれも第一党の党首であるジョン・メージャーが7年、トニー・ブレアが10年続き、ゴードン・ブラウンのように不人気な首相でも3年近く務めている。

ちなみに戦後の首相として現在のデービッド・キャメロンは13人目、菅氏は32人目である。同じ議院内閣制でも、いかに日本の首相が猫の目のように代わっているかがわかるだろう。

このように政権が安定している上、必要に応じた制度修正を試みるイギリスの議院内閣制と、極めて不安定であるにもかかわらず問題点を改善しようとしない日本のそれは似て非なるものである。では、日本はどうすべきなのか? 私はここで「政権担当資格」という考え方を提案したい。

そのメカニズムはこうだ。基本的に首相は、総選挙の結果、第一党となった党の党首に限定する。4年間の任期中に首相を代える場合は、その候補者の就任について、国民投票による承認を必要条件とする。そして、その期間内に代えられるのは1人のみとし、3人目にしたら自動的に解散総選挙(スリーアウト・チェンジ)となる。

そうすれば有権者は第一党の党首が首相になることを前提に投票できるから、選んだ覚えのない人が首相になって「なぜ、あの人が?」ということにならない。政治家にとっては、実現したい政策に腰を据えて長期的に取り組めるというメリットがある。

もう一つは、憲法を改正して一気に大統領制のようなシステムに移行し、最初から国民が直接選ぶという方法だ。いわゆる「首相公選制」である。天皇制との矛盾を指摘する学者の意見も聞かれるが、天皇は「国政に関する権能を有しない」(憲法第4条)ため、国民が自分たちの政治的指導者を直接投票で選ぶことは天皇制と矛盾しないだろう。

歯の治療に思う

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Cat031 左上奥歯の治療を行っている。定期的に点検を延ばし延ばし、痛くなってから行き始めた。予約制で、痛くて、食事がうまく出来ないので、最初は2日おきに通い、最近は1週間1回である。早く終りたいものだが・・・

歯が痛くなってから、歯医者に診てもらうのでは遅いということを、つくづく反省した。歯なんか命に関係がない?なんて考えがいけない。今までちょと硬いものでも、へいきで食べていたものが、食べらない、なんとつまらないことだ。

それにしても世間では、歯が抜けたままの人がいる。歯なんて!考えているのか、特に忙しいので歯医者に行けない?しかし食べるのも限られてしまうのだと思うが、昭和24年(1949年)亡くなって母親の前歯なかった。歯医者に行けるお金もなかったのだろうか、また、終戦後の混乱した世の中で、歯なんか命に関係ないから、食べ物は柔らかい物を食べてればいいとでも思っていたのだろうか?

歯がないと老けて見える。老人の代名詞、白髪・歯抜け・腰曲がりだ。何時までも若くありたいものだ。歯は80歳で自分の歯が20本残っていれば最高だと聞いたことがある。歯は28本であるが、私は入れ歯は一本もない。全部自分の歯である。いい加減の歯磨きだったが・・・この分だと20本は残るのかな?

昔は歯医者は、村にはなかったの遠くの歯医者に通うことも億劫だったのか、そして歯磨きといえば歯ブラシは、兄弟使い回し、歯磨き粉は、缶入りの「スモカ」を一家で使っていた、切らせば塩で代用していたことを記憶している。

小さい時乳歯が抜けた時、上の歯が抜けると屋根に投げる下の歯が抜けると縁の下に投げるものだと父親に言われた。上の歯がぶらぶらしていて早く抜けないかなあーと思って、子供どうしで鬼ごっこして遊んでいたら、子供どいしでぶつかって抜けって、早速母親持っていて報告した。母親は屋根投げなさいと、いって投げた。

歯は大事だ、悪くなったら、「早く治療をしたほうがいいよ」と言ってくれた3年前94歳で亡くなった、儀母は50歳で総入れ歯だった。「入れ歯では美味しいものも、シッカリ美味しいと味わって食べれない。情けないぞ」と言っていた事を思い出す。

2011年6月20日 (月)

喫茶去(きっさこ)

06_12801 喫茶去・・・よく目にし、聞く言葉である。その由来と持つ意味は、誰に対しても分け隔てなく、おもてなしをするという。禅の心である。現代社会にも尊い教えであると思う。

朝日カルチャー「禅語教室」より・・・
禅語の中で最もほっとさせられることばが「喫茶去」である。去の字は喫茶の強調の助辞であり、去るという意味はない。「お茶を一服如何ですか」とか「どうぞお茶でも召し上がれ」と云う程度の意味に過ぎないが、「どうぞ、お茶でも召し上がれ」という喫茶去の心を日常に生かせるだろうか。 中国唐時代の有名な禅僧の趙州和尚の話である。

その趙州和尚のもとに修行僧が教えを頂きたいとやって来た。
趙州「曽(か)って此間に到るや」お前さんはかってここに来たことがおありかな?
「曾(か)って到る」はい、以前にも参りました。
趙州「喫茶去」さようか、ならばお茶でも一服おあがりなさい。

またあるとき別の修行僧がやって来た。
趙州「曾(か)って僧「曾(かって到らず」いいえ、ここに来たことはありません。
趙州「喫茶去」さようか、ならばお茶でも一服おあがりなさい。

これを聞いていたこの寺の院主は「和尚は曾ってここに来た者にも、はじめての者に“お茶をどうぞ”と同じことをいわれるがどういうわけなんですか?」とたずねた。
趙州は是れに答えず「院主さん!」と呼ぶ。
院主は思わず「はい」と答えたその瞬間、
趙州はまた「喫茶去」まあ、お茶でも一服召し上がれ、
このとき院主は、はっと悟ったという。
このなぜ悟ったかの追体験がこの禅問答の意図である。

それぞれ立場の違う三人に対し、ただ「喫茶去」と云って接したのは趙州の相対する分別、取捨、過去・現在、あちら・こちらと分かつ一切の意識を断ち切った、絶対の境地のあらわれに他ならない。

そこには、凡聖、貴賎、男女、自他等の分別は無く一切の思量の分別の無い無心の境地からの「喫茶去」なのだ。

この無心の働きからでるところに、茶道家はこの「喫茶去」の語を茶掛けとして尊んで自ら無心に茶を点て、貧富貴賎の客を択ばず無心に施す心を養ってきたことだろう。

私たちはおうおうにして、好きな人や、金持ちや身分の高い人が来れば鄭重にもてなし、嫌いな人や貧しい人にはいい加減な対応をしてしまいがちである。分別を入れず、誰に対しても計らい無く、真心から接して行きたいものである。

万緑の候

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09buna_sinryoku_omitake21_2 昨日は、わが町にある片倉時田まちの広場の草取りをボランティア(公園アドプト)「緑の会」メンバーと行った。

入梅に入ってから草の伸びるのが早い「草木は一雨ごとに伸びる」と言われているが本当に早い。一週間も経つと、アッという間に草が伸びる。12名の参加で1時間草取り作業を行ったのだが、広場の約3分の1ぐらいの面積しか、出来なかった。

広場は湯殿川の淵にあり、川の草刈は南多摩西部建設事務所にお願いし、先月「町の清掃デイ」に合わせて行っていただいたのだが、もう伸びてしまった。

「万緑」という言葉があるが広場から南に500メートル坂を上がったところに、八王子市の「集いの森」公園があるが、将に「万緑」といべきだ。雨に濡れた草木はみずみずしい、昔実家は酪農を営んでいた時期があり、草刈を手伝った経験がある。草刈篭一杯に刈るのが手伝いの日課だったことを思い出した。

広場から湯殿川上流に小比企町に遡ると畑にとうもろこし畑があるが、もう背丈が1メートル50センチぐらいあり、白い花が咲き、しっかり詰まった房から、白いヒゲが伸びていた。田んぼは、植えたばかりの苗が風に揺れている。ホトトギスの鳴き声が聞こえ、いよいと夏本番がまもなく来る。

2011年6月19日 (日)

平常心に繋がる

10ichige_akitakoma11 「平常心」・・・人は、心の迷いをいつも感じることがある。また、恐れを感じることも多い。失敗しないか、これでいいのか、間違っていないのか、なかなか、平常心ではいられないものである。平常心でいられることは、一生かかっても完遂は難しい。修行では煩悩は払拭できないからだ。

しかし、修行で、ある程度は、近づけることは出来ると思う。それは、心を無にすることができ、我慢することでもなく、ありのままの自分、自分の中にある能力、経験、記憶、感性、などを、普通に生活するなかで見出す。しかし、簡単なようで、難しい。

日々の積み重ねが、人生であり、それは平常なことの繰り返し、でも、それも人生である。世の中には、理不尽なこと、自分では、どうしようもないことが沢山ある。一般社会でも、普段の生活においても、理解できないこと、理解してもらえないこと、分かってくれない人、分からない人、仕事でもプライベートでも、きっと多くのそんなことがある。

何があっても受け入れる心の中にスペースを広げて置く余裕を持てるよう努力すことが出来き、その広さで、平常心、つまり、いつも余裕の心でいられることだと思う。ありのままの心、ありのままの姿を認め受け入れるとき、そこに自らが否定し排除しようとした自分の心がなくなり、障りとする緊張感はなく平常の平常心あるのみとなる。

憎しみより哀れみを、誇りより謙虚さを、怒りより微笑みを、許しのこころ、慈愛のこころ、仁のこころ、それが、平常心に繋がるのかも知れない。

何処に行って同じ・・・

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0107ukisima11 人はそれぞれなんらかの悩み苦しみごとを、一つや二つは持っているものである。老後のこと、病気のこと、経済的なこと、人間関係や、家族のことなどさまざまである。

夏至が近いというのに半袖では寒い、天気予報では5月の気温とか?歳をとると骨身に感じ、朝などは暖房が欲しいと思えるほどである。一体どうすれば、暑さ寒さから逃れる方法はないものか考えてしまう。

暑い時には寒い所に行き寒い時には暑い所に行けばいいだろう思うが、それが本当に出来るかと考えたたら、出来る筈がない。暑い時には暑さになりきり、寒い時には寒さになりきる。そこが暑さ寒さの無い所だと言うことだ。

人間関係で、あの人は嫌な人と思えば、何事もうまくいかない。けれども自分を含めて人は皆、長所と欠点があるのだから、その人の欠点ばかりを拾い出すのでなく、長所を見いだすようにすれば、その人と関係改善がはかれることがある。

これは自分に合わないとか、嫌な仕事だとか思っていたけれども、世の中には、そう簡単に役に立たぬものなどない。工夫・改善によって、気づかなかった面白や楽しさを発見することがある。

相対としてとらえずに、目線を同じくしたり、自分のこととしてとらまえたり、世の中のお役に立ちたいという気持を強く持つこと、すなはちすべて発想の転換が大切ということだ。

老いを嘆くより人生経験豊かなことに誇りと自信をもって自己を生かすべきだ。病に負けることなく、生かされている命を どんなかたちででも輝かせる。心配ごとや悩み苦しみごとと、上手につきあうことである。

心配ごと悩み苦しみごとがあるのは、今、生きている証拠である。『心配ごとや、悩み苦しみごとの中に、喜びや楽しみ、また生きる希望の種が、芽がある。』そう思えばこの世は楽しくもあり、希望に満ちあふれている。この種をうまく育てて、花を咲かせることが、悩み苦しみから逃れる方法であると思う。

カール・ブッセ『山のあなた』を思い出す・・・
山のあなたの空遠く、
幸い住むと人のいふ。
ああ、われひとと尋めゆきて、
涙さしぐみ、かへりきぬ。
山のあなたになほ遠く、
幸い人の住むといふ。

そして、この「山のあなた」の詩に続きがあるのなら、『青い鳥』のようであればいいなと思う。幸せを求め続けて、とても大きな幸せを手に入れられれば、こんな素敵な人生はないのだが・・・何処に行っても同じだということだ。

2011年6月18日 (土)

修業と修行

09hirugao31 「修業」・・・奉公に出され、他人の飯をう。親方の家に止宿して師匠と起居を共にし、技術だけではなく、人間的な面も含めて修業をする。いわゆる親もとを離れて、他人の間で苦労を味わい、社会の経験を積む。むかし、大工・左官・理髪・寿司など多くの職人、徒弟教育という伝統的な教育システムで一人前と認めてられる制度があった。

むかしは女の人には花嫁修業というのがあって、お嫁入り前の一定期間、他家の女中となって調理や裁縫などを習ったものだ。また、どんな宗教にも厳しい「修行」というものがある。

修行・修業との違い、いったいこの二つはどのように違うのであろうか。「修業」は、初心者が次第に練習を重ね、最後に免許皆伝ということになる。ちょうど山を登るように、高い目標に向かって進むようなものだ。

これに対して宗教における修行の方向は水平方向であり、行く先は果てしない。修行の「行」には、どこまで続いても交わることのない平行線、というようなニュアンスがあるように思う。

宗教的修行には完成ということがない代わりに、出発点における求道の熱意のなかに、すでに目的は成就されているといえるであろう。

「修行」は、「修業」のように、弟子が練習を重ねてだんだんと師匠に近づいて行くのではなく、「修行」において師匠は、常に弟子と共にあり、弟子は師匠と対等である。

師と弟子のこのような構図は、学校教育における先生と生徒の関係の、理想的なあり方を示していると思う。そして、修行においては終わりはない、死ぬまで修行だ。

政治が変えらる

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386351 国会が、菅首相の退陣コール、震災で喘いでいる人をそっちのけ?一刻も余裕のない大事な救済が、思うようにいっていない。被災者もとより、多くの国民は、ため息をついている人は多いだろう。今日で100日目で亡くなられた方の百箇日だ。

法要のことを「出苦忌(しゅっくき)」または「卒哭忌(そつこくき)」とも言う。百箇日法要は故人を失ったことから、悲しみ泣き明かした日々に一度気持ちの整理をし悲しみから卒業するための法要でもある。・・・そういう時期・・・勇気と望みを持つ政策を早く・・・

今、求められているのは、超党派で一日も早く、復旧・復興の道筋を立てることが第一だ、大連立構想もいいだろうが、「正しい現状把握と適切な処置を!」政治の力で日本を救うことだ。大同小異の心を持って事に当たってほしい。

民間のボランティアが被災者の元気付けているのは力強く、ボランティアなくして、復興はなし遂げられない。そんな中ちょっといい話である。寄付すれば税金が安くなるという法案が成立すようだ。

今日の毎日新聞社説・・・「NPOと寄付税制 これは政治も変える」・・・があった。
自分が支援したいNPO(特定非営利活動法人)に寄付をすれば税金が減額される--。そんな仕組みをより定着させるための改正NPO法が今週、全会一致で成立した。これとセットになる寄付優遇税制の拡大を盛り込んだ税制改正法案も近く成立する見通しだ。

与野党の対立と駆け引きばかりが目立つ「漂流国会」の中、かねてこの問題に取り組んできた与野党議員が党派を超えて後押しし、ここまでこぎつけた。「やればできるではないか」と、まず評価したい。

東日本大震災ではかつてない多くの寄付金が集まり続ける。一方、被災地でのボランティア活動をはじめ被災者支援は各種のNPOを抜きにしては成り立たない状況になっている。今回の法整備は日本社会に寄付文化をより根付かせることになるだろう。それだけではない。政治や行政を大きく変える力を秘めている。

2011年6月17日 (金)

立派な人間とは・・・

08adachi_bizyutukan11 地球上の生物が生き継がれていくことはごく自然の法則である。先祖から引きついたDNAを後世に引き継ぐことはいかなる生物でも自然の姿である。

親が子を育ていくが、その子が自活して生きていくことができて、子孫を残せる能力があればそれでいい。ところが人間の場合は、親は子に「立派な人間になりなさい」とか「世の中に役立つ人になりなさい」などと言う。そして「つまらない人間」であるとか「役に立たない人」になってほしくないと言って育てる。

「世の中に役立つ人」といえば漠然とイメージが描けるが、「立派な人間になりなさい」と言われても、立派な人間とはどういう人なのか、その人物像が親も子もはっきりとしていない。

学力が優れていなければということで、学力の向上のために、しっかりと勉強しなさいと親は子に言う。問題は「世の中に役立つ人」になることを願うのならば、ことの善悪が判断できる能力が必要だが、家庭での子育てで、教える親は少ない。親は子に善悪を教えることより学力の向上を求める。

「立派な人間になりなさい」と言われて、親のすすめで進学校をめざす生徒が多い。ところが選抜されて集まった学力上位の生徒が集まる進学校では、学力の差が生まれてしまう。成績上位のものは有名大学をめざすが、どうしても成績が上向かない生徒は落胆して自信を失ってしまうのだある。人が成長していく過程において、進学の勉強ばかりで「立派な人間」とは何か、生きる意味を学ぶことがない。

人間として成長する上で、子は、何を求めてなんのために学ぶのか、深く考えることもなく、わからないままに「いい子」ぶって親の安心を得るために進学用の学びをしている。親も学校も生きる意味とはの問いかけを子にしないから、子供は「立派な人間像」を画くことなく漠然とした進学用の勉学のみ励むことになる。

「立派な人間になりなさい」と親はいうが、進学時は学力向上のみが関心事となり、生きる意味を家庭でも学校でも教えない。子は精神的にひ弱であり、強靱な生きる力が具わっていないから、ちょっとのつまづきに戸惑ってしまうのである。

自分らしく生きるということは・・・

08yokotesigai_yuukei21 自分らしく生きるということは、自分に正直に生きることだ。悔いのない生き方である。理想は、誰からも信頼され、自分の言いたいことがいえ、人間関係でトラブルのない、家族や仕事や社会とも調和した生き方を想像するが、はたしてそのような生き方はできるだろうか・・・。 

現実は自分らしい生き方は難しい。むしろ現実は自分の思い通りにはならない、自分らしさを発揮するには勇気が必要とされるのではないだろうか・・・。妥協しないで協調することであり、自分の責任範囲を明確にすることだ」と思う。

自分に厳しくする。むしろ自分は考える努力も必要もない、責任をとる必要もない、他人に妥協したり迎合した生き方の方が楽だと言える。言われたことを言われたとおりにしていれば、それでも生きていける。

他人に追従する生き方は、ある意味ではとっても楽な生き方である。今の世の中は、自分の責任を放棄して、他人に追従して生きていく人が後を絶たない。しかし、生きる満足感や充実感は得られない。

自分らしさとは、身銭を切って積極的に勝ち取っていくものである。妥協しないが、協調の心を忘れずに関わっていくことである。犠牲を払って得たものだから、その価値は尊いし、自信につながる。

自分らしさとは、自由気ままに生きることではない。自分らしく生きることは、努力と苦労の結果を見ていうことで、簡単に自分らしく生きたいといったところで、そのようなことでは自分らしく生きられるとは思えない。 

梅肉エキス作り

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Phot0000000000005fb5_500_01 梅雨に入って、雨の日が続いている、特に九州地方では長雨で被害が心配である。梅雨前線も活発となってきている関東地方であるが、昨日、雨の予報であったが、午前中は雨は降っていなかったので、青梅市に吉野梅郷に、身体に良いといわれている梅肉エキスを作るため梅を買いに行ってきた。

6キログラムである。家に帰って来て、わさび下ろしで、一個一個スリ下ろしして、6キロ約4時間かかった。そして、布巾で固く絞って、土鍋で煮詰めること2時間ドロドロになるまで煮詰めた。

利き手左の手の平が、連日の草むしりで腱鞘炎?痛い日が少し和らいだので、取り立てての青くて硬いうちに作業をしないといけないので、必死に行った。終って手にはダメージはそれほどなくホッとした。

出来上がった梅肉エキスは、青梅6キロから、コップ一杯となって、何十分の一となり、貴重なものだ。以前に和歌山の白浜温泉・忘帰洞温泉など旅行した時に梅肉エキスを買ってきたことがあるが、NHKのテレビで効能知って、3年ぐらい前から作っている。

それにしても、もっと楽な方法があるのではないかと思うのであるが・・・効能であるが調べると・・・「梅肉エキス とムメフラール」・・・
梅肉エキスのムメフラールとは、梅肉エキスの中に含まれている成分だが、通常の方法では摂取できない。ムメフラールは青梅や梅干には含まれていないからである。

梅肉エキスの製造過程で絞り汁に含まれたグルコースが酸と熱で変容し、その一部がクエン酸と結合して出来る有機酸がムメフラールになる。ムメフラールは梅肉エキス独自の成分で血液サラサラの効能が期待されているファイトケミカルである。その他、免疫効果を上げる・胃腸の弱い方や癌に効く。

ファイトケミカルとはギリシャ語で「植物」のこと。植物が紫外線の害や虫などから自らを守るために作り出した物質で、おもに植物の色素や香り成分、アクなどに含まれている。

2011年6月16日 (木)

深まる家族の絆

3612 今日のyahoo!のクローズアップ欄にあった記事で「震災後に変化した父親像、深まる家族の絆~父の日アンケート結果」の見出しであった。

「絆」が薄れているのは、平和ボケ?で危機意識がなく、人の頼らなくても生きているという錯覚で、日常生活を送っている人が多くなっていることが原因の一つと思う。

東日本大震災・東京電力福島第一原子力発電の放射能漏れ事故で、「家族の絆」・「地域の絆」の大切さを考えさせられたのだろう。6月19日が父の日を前に、「家族の絆」を家族で考えて見ては・・・ 以下「東京ウォーカー」の記事内容である。

父親との会話・・・今日の出来事38.6パーセント あまり話をしない14.6パーセント 家族の近況12.9パーセント 仕事・勉強10.7パーセント 質問のみ回答9.6パーセント 生き方1.7パーセント 恋愛0.3パーセントなっている。

“家族の絆”が年々弱まっているといわれる中、2011年5月、「父の日アンケート調査」(有効回答数2055)がリユースショップを展開するサンセットコーポレイションによって実施された。結果は“大震災の影響”が大きく反映されたものとなり、家族とのコミュニケーションや絆への意識の高まりとともに“頼りになる父親像”が浮き彫りとなった。

最大の特徴は、3人に1人が「震災後、父親への想いや行動に変化があった」と答え、その中で最も多かったのが「頼もしさが増した」など、ここぞという時に頼りになる“父親の存在感”についてのものとなっている。とくに40代以上の世代は心境の変化を感じる割合が最も高く、女性では実に7割、男性では4割に及んでいる。

また若い年代ほど父親の“威厳復活”を感じる割合が高く、30代以上は逆に「自分が父親を守らなければ」という意識へと変化している。「こまめに連絡を取るようになった」という人や「なるべく一緒にいたい」と思うようになった人も多く、「震災があったことで、家族の絆が以前とは比べ物にならないほどに強まった」といえるようだ。

一方、父親との会話では、男女ともに7割以上の人が「今日の出来事やニュース」「家族の近況」などの日常的なコミュニケーションを図っている。男女別では「自分の仕事や勉強についての相談」を持ちかける男性が多いものの、“恋愛トーク”だけは男女ともに“厳禁”となっているのが面白い。

同社の調査では、間もなくやってくる「父の日」のプレゼントなどを半数以上の人が予定。予算は1000~3000円が3割、5000円以下の人が8割を占めている。家族の絆、父親との絆をより深めるためにも、今年は予算をアップしてプレゼントしてみてはいかが?【東京ウォーカー】

川に魚を取り戻そう

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200903012132141 私は、生まれも育ちも八王子市片倉町に在住している者だが、子供のころ、湯殿川の水で洗濯はもちろん、野菜洗い、食器洗いをしていた。今は、湯殿川が「ドブ化」していくようで仕方がないと思っている一人である。

このままではいけない、昔の川魚を取り戻そうさなくては、強く危機感を持って再生しないと人間も住めなくなる。川に生活を依存していた昔に川を汚すと川の神様から祟りがると教えられていた。

話は変わるが、先進国では初めて、「世界農業遺産」と呼ばれる世界重要農業資産システム(GIAHS)に11日、佐渡市が石川県の能登半島とともに国内で初めて登録された。

同市が進めている、トキとの共生を目指す減農薬の稲作への取り組みが評価された。関係者は「農産物のブランド化に向けた弾みになる」と喜んでいる。

そのことは、昔の伝統農業を維持し絶滅してしまった「トキ」を呼び戻し運動をした、トキを呼び戻すには、トキの餌さとなる魚がいなければトキは生きていけない。それには農薬を減らしたり、汚水を流さない、ゴミを棄てない、など住民の理解・協力がなければ出来ない。

日本では、(GIAHS)に認定をうけた佐渡市・能登半島以外のもまだまだ候補地はあると思っている。そして、「川をきれいにしよう」の運動は、環境からも、未来の人間にも絶対大事なことである。

毎日新聞社説・・・
石川県・能登半島と新潟県佐渡市が、先進国から初めて世界農業遺産に登録された。環境保全型の農業のあり方が国際的な評価を受けたことになる。過疎や後継者不足に悩む地域の産業にとっても朗報だ。

 世界農業遺産の正式名称は世界重要農業資産システム(GIAHS)。国連食糧農業機関(FAO)が02年に創設した。生態系や景観を守ってきた伝統的な農業を資産として認定するもので、これまでにペルーのアンデス地方のジャガイモ農法やフィリピンのイフガオ州の棚田など、8件が認定されている。

 能登半島は、日本海側の斜面に棚田が並ぶ国指定文化財「白米(しろよね)千枚田」(輪島市)をはじめ、集落や農耕地が山や海と連続した景観を保持してきた。そこでさまざまな生物を守りながら、農業をしてきたことが評価された。豊作を願う農耕儀礼「あえのこと」に代表される農村文化、能登大納言(アズキ)や能登野菜など地域在来の農産物を継承していることも、好評のポイントになった。

 佐渡市は、国の特別天然記念物トキの放鳥に伴い、農薬と化学肥料の使用を5割以上抑えた稲作を進めてきた。生物をすみやすくした田んぼでとれたコシヒカリは「トキ米」として知られている。また、佐渡金山で使われていた道具を農業に転用したことや、五穀豊穣(ほうじょう)を願う「鬼太鼓(おんでこ)」などの伝統芸能も評価された。

 

2011年6月15日 (水)

たった一本残った松

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..............以前のような松原を取り戻したものである............ 

一本の 見上げる松に 青嵐

7万本もあったと言われていた松並木が今回の津波で一本の松を残して壊滅的な被害を及ぼした。岩手県陸前高田市の景勝地、高田松原で震災の被害から唯一残った一本の松の木が枯れそうで、心配した地元の人たちが、保存に強い思いがある。

「一本松」は復興シンボルとして注目されているが、根が海水にさらされた影響で、このまま放置すると枯れる危険があるとされる。復興のシンボルでもある、一本松を震災以前の高田松原に復元することは、地元の人のみならず日本中の人たちの願いでもある。関係者の方たちに期待したい。

東日本大震災:岩手・陸前高田の一本松、クローン再生成功・・・毎日新聞・・・独立行政法人・森林総合研究所の東北育種場(岩手県滝沢村)は14日、同県陸前高田市の国指定名勝・高田松原で、大震災による津波で残った「一本松」の“クローン”再生に成功したと発表した。

陸前高田市から増殖を依頼された育種場が一本松から100本の穂木を採取し別の松に接ぎ木したところ、4本で穂木の成長が確認できた。早ければ3年後に約50センチに成長した苗として市に渡されるという。

本来冬に接ぎ木をするが、生育状態が悪化しているため、採取した4月22日に穂木の塩分を真水で洗って除去するなどの作業を始めた。一本松は樹齢約200年と老木で、春原(すのはら)武志場長は「今後は夏や冬を越せるかが課題だ。4本とも育てるのは難しいが、一本松の遺伝子を後世に残したい」と話した。

日本の物づくりに自信を取り戻せ

常々思っていたことだが、日本の物づくりの技術は世界最高と思っていたのだが、最近、振興途上国、特に韓国・台湾など追い上げで日本の地位が危ぶまれる報道が席巻している。私は、そうではない。日本の力はまだ落ちていない。自信を取り戻し胸を張っていいと思う。

自然科学部門のノーベル賞の受賞の数でも、アジアではトップ14人で、アジアではトップである。
NHKの15日午前3時のニュースで、「アメリカの先月の小売業の売上高は、東日本大震災の影響で自動車部品の供給などに支障が出て、自動車関連の売り上げが落ち込んだことなどから、前の月に比べて0.2%減少し、11か月ぶりのマイナスとなった。」とあった。日本の物づくりは、世界に大きな影響を及ぼしているのだと思う。

しかし、安閑としてはいられない、日本は震災から、復旧・復興を急いで、物づくりの技術を更に高め、世界の人々の暮らしの向上に自信を持っていくべきだ。

今日のyahoo!のクローズアップ欄から・・・
「日韓逆転」の勘違いから抜け出せ」ニューズウィーク日本版本誌5月18日号より・・・長年培った技術力はどの国にも負けていない。発想と戦略を変えれば底力で再起できる。知久敏之(本誌記者)

東日本大震災は日本経済、特にその基盤を支える製造業に深刻なダメージを与えた。全国のサプライチェーンが寸断され、電力不足も続いている。問題が解決するまでには、まだ数カ月はかかるとみられている。

しかし、日本の製造業の課題は震災前から明らかだった。韓国をはじめとする新興の工業経済地域の猛追によって、世界のトップを走ってきた日本は製造業における国際競争力を失ったのではないかと危惧されていた。

昨年、日本の音楽チャートを韓国のポップスグループが席巻した。音楽業界に限らず、最近の韓国は元気が良い。昨年のG20首脳会議(金融サミット)では議長国を務め、韓国メーカーの存在感は世界で高まっている。日本の新聞には、対抗心をあおるかのように「日韓逆転」の見出しが躍る。

それが数字にはっきりと表れているのは製造業だ。かつて日本のメーカーが独占した薄型テレビの世界市場は、06年に韓国のサムスン電子がシェアトップを奪い、以来韓国勢が上位を占めている。

だが韓国の人々が勝ち誇っているかというと、そうではない。朝鮮日報は昨年3月、「日本の『韓国に学ぼう』に浮かれてはいけない」という社説を掲載。この中で「日本と韓国の間には簡単には超えられない格差が今も相変わらず存在する」と、冷静な見方を促している。

その格差とは何か。例えば製造業における技術の先進性を示す特許収入で比較してみると、08年の日本の収入は257億ドルで、24億ドルの韓国の10倍以上に達する。また日本では自然科学部門のノーベル賞を14人が受賞しているが、韓国では1人も受賞していない。

さらに今回の震災で、日本の製造業の競争力の高さが図らずも明らかになった。日本から輸出される製造部品の供給が滞ったことで、世界中のメーカーが操業を停止する事態に陥ったからだ。

日本が抱える問題は技術力の低下ではない。底力が失われたわけでもない。その実力をどう生かすかという、戦略や発想に問題があったのだ。「長い伝統に培われた日本の技術はどこにも負けていない。環境の変化に対応できなかったことが日本企業の敗因だ」と、東京大学大学院ものづくり経営研究センターの吉川良三は言う。

吉川は、この10年で製造業をめぐる世界の環境が激変したと指摘する。まずグローバル化によって主要な市場は先進国から新興国に移り、顧客のニーズが変わった。新興国の消費者は高機能より低価格の商品を欲しがる。「いい物を作れば売れる」という日本企業の思い込みは通用しなくなった。

■高い技術力を生かす道
さらに製造工程のデジタル化で、新商品の開発にかかる時間とコストが大幅に削減され、顧客の細かいニーズに対応する豊富な種類の商品展開が可能になった。グローバル化とデジタル化というこの2つの変化に、日本企業はうまく対応できなかった。

吉川の元には今、日本中の経営者から講演依頼が殺到している。それは吉川が、94年にサムスン電子の常務に就任して業務改革の指揮を執り、その後の躍進をつぶさに目撃してきたからだ。

サムスン電子は97年のアジア通貨危機をきっかけに、徹底的な業務改革を行った。新興国のニーズに応える商品展開を進め、例えば使用人に食料品を盗まれる恐れがあるインドで鍵付きの冷蔵庫を大ヒットさせるなど、世界市場でシェアを確実に伸ばしていった。

日本に欠けていたのは、変化する世界の現状と真摯に向き合う姿勢だった。携帯端末の例に見られるように、日本のものづくりは国内と先進国のニーズばかりを先取りしようと「ガラパゴス化」し、低価格で必要最低限の機能を求める新興国のニーズを顧みなかった。

しかし、ガラパゴスと揶揄された日本のやり方は、韓国だけでなく各国をしのぐ高い技術力の裏返しでもある。いま求められているのは世界の現実を知り、新たな発想で底力を生かすことだ。吉川は、「日本企業は必ず再生する」と確信している。日本の経営者の多くが「このままでは生き残れない」という強い危機意識を持ち始めているからだ。

震災後の日本が、変化する世界の現実と真摯に向き合い、底力を発揮できるか。新たな発想で自らの殻を破るという強い覚悟さえあれば、できるはずだ。(ニューズウィーク日本版5月18日号掲載)

2011年6月14日 (火)

腱鞘炎になった?

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こんなように咲くことを願って
どうも、腱鞘炎クサイ?.利き手の左の、手の平が痛い。平手で立ち上がる時に身体を支える時にどうしても両手を使う。その時痛みを出て、気がついた。

ハハーンやっぱりそうだったのか、思い当たることがある。草取りのせいなのだ。コスモスの疎抜きと草取り(主に葉ぐさ)で4~5日行ったことによるものだ。女房には、「夢中でやるからだ!」「ほどほどにしておけばいいのに―」と怒られるの分かっている・・・暫く我慢していたが・・・

湯殿川の河川管理通路にコスモスを育てている。というのは7年前位から地域の方たち10人ぐらいで始めたコスモスを植えて、楽しんでいたのだが、その種がこぼれて、春先に芽が出て、雑草をとるとコスモスが育つ。幅60センチ長さ(距離)230メートルほどの舗装されていないスペースである。

2月頃から石交じりのスペースを耕し冬草取りを始めて、月一回程度の雑草を取っておかないとコスモスは育たない。地域の方も老齢化し思うようにお願い出来ない。いま、二人で行っているが、もう一人の方も80歳を超えて、腰が痛いというので、私一人で頑張ったが・・・そのせいだ。

通路は通勤に通学に、買い物に利用している人が多い。最近スーパーが出来たということで、買い物で利用する人が特に多くなった。そんな人から「ご苦労さん、秋になって綺麗に咲くコスモスが楽しみです」と声をかけられ、つい無理をして長時間作業してしまう。

痛みのほうだが、サロンパスを手の平・手の甲に貼って見たら大分良くなったような気がする。もう無理は出来ないな・・・と思った。

個性・人格について

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Hiland051 最近、人の持つ「個性」が人格と繋がって考え、人づくり、いわゆる教育のあり方、人間形成の大切さ、痛感する。英語でパーソナリティ(personality)を 考えてみた。

司会者 - 番組やイベント等の進行を行う者。特にテレビ番組やラジオ番組において使用される事が多いが、辞書ではその人の持ち味。個性。人柄。・・・人格である。

多種多様な人間と社会生活において「人間関係と健康的なパーソナリティ」について考えてみた。ウキペディアから「人格」とはを見て整理してみるとアメリカの心理学者フロイトの弟のゴードン(心理学者)の解説で理解できる。

人間関係と健康なパーソナリティ(個性)
「パーソナリティとは、人間に特徴的な行動と考えとを決定する精神身体的体系の力動的組織」とするゴードン・オルポート(アメリカの心理学者)の定義である。そしてさらに「性格、気質、興味、態度、価値観などを含む、個人の統合体である」。ゴードン・オールポートは健康なパーソナリティの規準として、次の6つを挙げている。

1)  自己意識の拡大。自己自身だけに集中的に向けられていた関心が、家族・異性・趣味・政治・宗教・仕事へと広がり、これにどれだけ積極的に参加し、自己をどれだけ拡大してゆくか。いわば、他人の幸福を自分の幸福と同一視できるほど重要視し、拡大視できるか。

2) 他人との暖かい人間関係の確立。家族や友人に対して、どれほど深い愛情を伴う親密さと、全ての人の人間的状態に敬意を払い理解するという、共感性を持つことができるか。

3) 情緒的安定。欲求不満の状況でもそれを受容するとともに、これをどれほど適切冷静に処理し、安定した精神状態を保つことができるか。

4) 現実的知覚、技能および課題。歪曲されない正確な現実認識と、真実性への認知の構えをどれほどもっているか。基本的知的能力だけでは不十分で、むしろ高い知的能力をもちながら、情緒的均衡を欠くために、健康なパーソナリティとなれない人も多数存在する。

5) 自己客観化、洞察とユーモア。自分自身とは何か、自分自身が持っているものは何か、他人は自分が何を持っていると思っているのか、といったことを客観的に知り、洞察しているか。この洞察とユーモア感覚は強く関連している。

6) 人生を統一する人生哲学。人生をいかに生きてゆくか、という目標への指向性をどれほど明確にもっているか。そして、人生に統一を与えてくれる哲学、すなわち価値への指向をどれだけもっているか。

2011年6月13日 (月)

湯殿川に魚を戻そう

Img_0104 昨日、湯殿川に鴨の赤チャンが三羽、母親に連れられて・・・chickchickchick、小さいが、かん高いな鳴き声で泳いでいる光景を見た。

どうしても気になる川の汚れ、汚れは、人間の勝手な振る舞いだ。スーパーのカートが落ちていたり、乗り捨てられたオートバイを落ちていたり、ゴミはもちろんであるが、あまりにも酷すぎる。それらのゴミを拾って気がついたのだが、川は流れているのだが水が異様に臭い。

これでは、人は泳げないし、魚も棲めないし、棲めたとしても種類は少ない、当然である。川の水は昔と同じに流れているのだから、ゴミを棄てなければ、時間はかかるが昔のように湯殿川で水遊びができ、泳げて、魚の種類は戻す事は出来る。人間にしか出来ないことである。

湯殿川を魚がいっぱい棲める川に戻しましょう。下のURLをクリックすると、フォト蔵の動画「川の魚たち」が見れます。

http://photozou.jp/bin/vplayer/316444_3291395_47627267_d202d57d0f45c37e585913988f231d8a

人生は「旅」のようなもの

Img_97161 三年前施設で亡くなった私の、義母が「こんなに歳をとってしまった。早くお迎えに来ないかなぁー」と言っていたことを思い出した。

歳をとり自分の事が出来ないで、人の介護を受けなければ生活できないお年よりは、「早くお迎えにきて欲しい」と思っている人は多い・・・と思います。どんなに手厚い介護されていても、人の心には入り込めません。また、感情の起伏までも介護は出来ません。

若いときは、誰だって「死にたくない」と思っています。でも「人生」とは「生」と「死」がセットになっているものです。この世界に生まれて来たからには、いつかはこの世を去って行く日が来ることを、私たちは知っているはずです。否が応でも、その日は来るのです。

「人生」はまるで「旅」のようなものと言われます。私は旅が大好きです。旅をしていると、色々な発見があります。決して楽しいことばかりではなく、思ってもみないアクシデントに見舞われることもあります。出会いがあり、別れがあり・・・。嬉しいことがあって、悲しいことがあって・・・。でもそんな旅のすべてが、何かとてもワクワクする胸おどる楽しい時だと感じるのはどうしてなのでしょう。

もし、この「人生」を「旅」として見ることができたなら、辛く苦しい出来事や嫌なことに対する見方も今までとは少し違ってくるかもしれません。すべては過ぎ去って行く旅の途中の出来事。思いがけない喜びや悲しみでさえも、ふいに訪れそして過ぎ去って行くことでしょう。

私たちはそんな「人生」という「旅」をちゃんと楽しんでいるのでしょうか。人生の旅行者の多くは、せっかくの旅を楽しもうとしないで、不平や不満ばかりをこぼしているように思えます。それでも、「旅」の終わりの地である「死」という「人生」の目的地に、いつかは一人残らず辿り着くのです。

私たちは大切な真実に気付かなくてはなりません。「これは、たった一度きりの限りある人生という私だけの特別な旅なんだ」・・・と。

敢えていう「原子力発電は必要」

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035571 あちこちの工事現場に「安全第一」という大きな看板を目にすることがある。「絶対安全」はない。原子力発電所の事故は、震災が原因であるとしても、技術を過信した人間の行動が引き起こした人災といえる。

低コストで、環境にも悪影響がない夢のエネルギーだというふれこみで原発が国策ですすめられたが、自然界には存在しない不必要な物質を人為的に生み出し、それが死の灰となって環境を破壊し生命に甚大な悪影響を与えている。原発とは要不要の諸刃の剣のようなもので、壊れやすい危ういものである。

原発はほんとうに必要とされるモノでしょうか。人間の技術力の蓄積において作られたモノであるから、技術力を高めていけば弊害はすべて克服できるという考え方もあるようだ。

「それが危険である。根本的に間違った土台に人間の知識能力でものごとを構築しようとしても、いつかは壊れてしまう。また技術力で立て直して改良して技術で問題をクリアすれば、よりすぐれた成果を得ることができるという幻想に陥ってしまうのも、人間の浅はかな性というほかない。」という意見もある。

一方今までの発達した社会構造に必要不可欠な「電気」の存在はますます需要が増してきている。今まで化石燃料で賄ってきたが、資源は有限である。自然エネルギーの利用は、もっと考えるべきと思うがコストから難しい。発達し続ける人間の暮らしには限りがない。とするならば、原子力は、電気を必要とすることは環境・進化し続ける人間の生活上から避けられない。

日本では、原子力発電は3割を賄っている。電気の需要はこれからも、産業経済の発展からも、増すことは予想される。代替で太陽光のエネルギーで屋根に1000万戸をパネル取り付けるとの菅直人首相が表明したが・・・5月25日午後に経済開発協力機構(OECD)での席で行ったが・・・ 問題も多い。

ドイツは原子力発電は行わないとの国に政策を変換した。世界から今後のエネルギー政策が注目されてきた。

私は、人類の進化を考えるならば、環境・資源から総合判断で原子力発電は必要と思う。これからも日本は、地球の歴史からも地震は起こるだろう。それが、何時・何処で・どの位に規模が今の科学では分からない。東海・東南海・南海と30年以内に震度6以上の地震は87パーセントの確率で起こるという予想もある。

夏の消費電力が心配はあるが、計画停電で、町の道路の信号が使えないで事故が多発したり、病院などの緊急対応しなければならないところでは、大変な苦労があったという。

また、電気の代わるエネルギーは人々の暮らしに密接な関係している。そのことから生活レベルを全世界の人類が原子力発電以前に戻すことは不可能である。

 

2011年6月12日 (日)

自転車の事故の代償は高額

Jrmaglevmlx0121 最近、自転車愛用者が増え、駅前の駐輪場には、置き切れないで、歩道にはみ出していたり、乱雑になっている光景を目にする。そして、町を歩いた気がつくが歩道を走っている人が多い。自転車は道路交通法では「軽車両」の扱いで、規則がある。乗るからには、法規則を確認し乗って欲しいものだ。知らなかったでは、済まされない代償があることを忘れないで欲しい。

歩行者には、ヒヤとさせられることが多い。実際に大きな事故となることも多いという。先月近くの小学校で、自転車の乗り方の教室があり、交通指導員でもある私にも出動の要請があって3時間、実技実習で立ち会った。

今朝の読売新聞でも「危ない自転車「車道走行が原則」を忘れずに」という題で社説で取り上げていた。

危険な行為・・・
1 歩行者専用通路を自転車で走行する。
2 二人乗りでスピード出して走る。
3 夜になっても無灯火の自転車に乗る。
4 携帯電話をかけながら、あるいはメールをしながら走る自転車に乗る。
5 雨の日に傘をさして自転車に乗る。
6 車道の右側通行。
7 信号無視。

歩道でスピードを出したり、しきりにベルを鳴らして歩行者をよけさせて自転車に乗る。迷惑至極な「我が物顔」の自転車利用、と言わざるを得ない。

アンケートでは4割もの人が「車道走行の原則」を知らない。法改正の趣旨があまり浸透していない。自転車利用者の信号無視で走る人が多い。

警察庁の交通事故統計では、自転車関連の事故は全体の約2割とこの10年間、高水準のままだ。特に歩行者との事故は、昨年が約2800件、 自転車利用者に忘れないでもらいたいのは、事故を起こせば、代償も高くつくということだ。

自転車には、自動車損害賠償責任保険(自賠責保険)のような制度がない。賠償が巨額だと支払いは困難で、被害者も賠償を受け取れない。深刻な問題となることもある。

健康、環境志向が高まり、自転車利用者が増えた。東日本大震災後は、交通網の混乱などで増加が加速している。だが、自転車は時に「凶器」となる。その自覚を利用者に求めたい。

 

「絆」と「無縁社会」どう向き合うか

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05sikotuko31 東日本大震災・放射能の二重の災害は、天災と人災で多くの犠牲者・被災者は歴史上でも重大で深刻なものだ。被害を受けない地域は勿論、日本人に重くのしかかっている。

そんな避難先で耐えている状況にあり。3ヶ月が経った現在も被災者は9万以上が、苦しんでいる。救援の本格的な国の手立てはメドが立たない。そして義援金は被災者の手に届かない人がいるという。

そんな状況のにほんで、世間で取り立たされている「無縁社会」・「絆」・「限界集落」などの字句がクローズアップされてきた。

「NHKあすの日本|無縁社会|無縁社会 私たちはどう向き合うか」
で、こんなことになっているとは・・・驚いていてしまった。なんとかならないものか、考え手しまった。一部を紹介すると・・・

【結婚式に代理人】
人生の新たな門出となる結婚式にも、無縁社会の影が広がっています。披露宴に代理人が出席するケースが増えているのです。新婦の友人の席に座っていた5人の女性。実はまったくの赤の他人です。結婚式の代理出席サービスの業者から派遣された、いわゆる「サクラ」。依頼したのは新婦です。新郎には隠していました。

女性は、結婚する前、スーパーの店員など、非正規の職場を転々としていていました。このため同僚と深く付き合うことができなかったのです。友人が少ないことを夫に知られたくないと、女性は代理出席サービスの業者に頼んだのです。女性は、「あまり人が集まらないっていうのを彼にいうのも恥ずかしいというのもあったし、友人が少ないとかそういうふうに思ったり、心配するかなと思って。」と話しています。家族、友人、会社の同僚。人間関係を映し出す結婚式という場が変わり始めています。

【わが子を“置き去り”】
わが子を親が、「置き去り」にするケースも相次いでいます。おととし10月。親に捨てられた男の子がきていた服です。厚生労働省によると、親が子どもを
置き去りにするケースは、1年間におよそ150件に上っています。なぜ、親が子を捨てるのか。全国の児童相談所にアンケート調査を行ったところ「生活の困窮」という答えが最も多く、全体の30%に上りました。

一昨年、3歳の娘を施設に預けたまま失踪した40代の母親です。娘を出産してまもなく離婚。夫の残した多額の借金が生活を圧迫しました。親を頼りにしましたが、支援は受けられませんでした。近所付き合いもなく、相談できる人はいませんでした。一人きりで悩んだ末、娘に手紙を残して失踪したのです。手紙には、「悲しい思いをさせてごめんなさい。幸せになってください。ママは、心から祈っています。」と書きました。女性は、「もう、ほんとに気力が全部無くなったんですよ。もう私には、無理無理。もう無理って、思ったんですよね。かなりの罪悪感が…。だけど、食べさせられないのも事実で」と話しています。今、母親は生活保護を受け、施設にいる娘と定期的に面会し、再び一緒に暮らす日を目指しています。孤立しがちなひとり親世帯。その数は20歳未満の子どもを持つ世帯のおよそ10%に及んでいます。

昨日隣の家で(4歳と2歳の子がいる)4歳の男の子が火の付いたような泣き方で、私にしがみ付いてきた、普段閉鎖的な家庭だったので、その光景にビックリした。どうしたんだろうとその子に聞いたところ「ママがいない」という事だった。その子が昼寝をしていたところ、ママが買い物に出かけてしまったようだった。

そのような状況には、普段から地域のコミニテーの重要性を考えさせられた。

2011年6月11日 (土)

大切な命をいただいて生きている

287_field111 「大切な命をいただいて生きられる」
愛犬家には家族同然に犬を可愛がっています。でも、一方で人間は食事で肉を食べます。同じ動物の命でも一方は最後まで可愛がって育て、一方は命を途中で断ち切った動物の肉を食べているわけです。

お店にパックで売られている肉を食べることはできても、今まで可愛がっていた家畜を、自分の手で動物の命を絶たなければならないとしたら、私は肉を食べることを止めてしまうかもしれません。

でも、それは言い方を変えれば自分の手を汚すことが嫌なだけ、きれいごとだけで物事をとらえているに過ぎません。深く考えると難しい問題だと思いますが・・・。

私は動物や植物など多くの命をいただいて生きてきたし、これからも多くの命をいただいて生きていく。だからこそ、動物や植物を含めて自他のすべての命を大切にし、その命をいただくときは感謝の気持ちをもち、無駄にしないように大切にいただく・・・。

昭和35年頃まで、実家の農家では、ニワトリが歩き回り、家畜小屋にヤギ、ウサギやウシを飼っており、これら家畜の世話は子どもの仕事でした。 ウシはコウシを産み、コウシのために出す牛乳を人が絞り、牛乳加工会社に売って生計を立てていた。コウシは少しの母乳を人の手で与え、大きくなったら肉牛として売っていた。

また、庭先で父親がニワトリを捌いて、お客さんの来訪時や暮れのご馳走に振る舞うこともあった。この時代を過ごした人はニワトリには可哀想な思いを残しながら美味しくいただいたものでした。

今では、地方に暮らす子どもたちでさえも、絵本で見るが、生きているウシやブタを見たこともない、触れたこともないという子どもが多く、彼らの命をいただいて出来た食肉は、肉屋さんの冷たいショーケースの中にきれいに並べられて、あるいはスーパーマーケットできれいにパックに盛られて販売されています。

今朝、あるいは数日前まで、私達人間と同じように温かい血が全身を巡って生きていた彼らを想像することは難しいのではないでしょうか。焼肉屋さんではコンロの片隅に黒焦げにされた肉の山を見ることが多く、家畜から直接命をいただく仕事をしている身には大変悲しい思いです。

私たちは家畜の命をいただいて食肉を食べることで命を永らえ、命をつないでいくだけでなく、皮や医薬品の一部など、家畜から多くの恩恵を受けているのです。

長野県職員の熱い想いが、職員自らの手によって作られた「ブタさん命をありがとう」というDVDがあるそうです。

もういい加減にして!

05detohama11 もういい加減にして!政局の駆け引きは止めて!・・・被災者・国民はそんなこと望んではいない。原発事故の収束であり、復旧・復興のめどを早くつけることを望んでいる。なりふりかまず見苦しい責任のなすり合いをしている場合ではない。

菅直人首相の復興に賭ける意気込みは分かるが、一旦辞意を表明した人に協力は出来ないといいうことも分かる。しかし目の前に被災者が9万人を超える人たちが、心身とも苦しんでいる。

そんな被災者を置き去りにした「駆け引き」で政治が止まっていいはずがない。そんな状況を誰が望んでいるというのだろう。

やはり、首相ら与党側が打開に動くのが先だ。一度、退陣を表明した首相にはおのずと限界がある。菅首相は最低限何をしたいのか、何ができるのか、党執行部ともっと具体的にすり合わせをすべきだ。そのうえで野党に協力を要請するほかない。

自民党も政権を追い込み、衆院解散・総選挙を狙うというばかりでなく、復旧・復興対策を前に進めることを優先してもらいたいものだ

今度、首相が代われば民主党政権で3人目である。東北3県などでの選挙が可能になった際には、総選挙を行うべきだ。しかし、今、何より重要なのは原発事故の収束であり、復旧・復興のめどを早くつけることだ。改めて与野党協力体制の確立を切に望みたい。

ここらあたりが、首相も口にした「常識的」な潮時ではないか。財源を賄うための増税をめぐり、難しい調整が予想される2次補正案の編成は、潔く次の首相に委ねればよかろう

自民党の谷垣禎一総裁は不信任案提出に先立つ党首討論で、「あなたがやめれば、党派を超えて団結していく道はいくらだってできる」と首相に迫った。

その言葉を違(たが)えず、被災者支援や復旧・復興に向けた取り組みで「共同責任」を果たさなければいけない。赤字国債発行のための特例公債法案の成立にすぐに協力するのは当然だ。

首相の「居座り」の懸念がなくなれば、22日に会期末を迎える国会の延長に野党が反対する理由はなくなる。与野党は年末まで会期を延長し、切れ目なく震災対策にあたるべきだ。(一部朝日新聞社説)

六月の短歌

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09meigetu_tyusyu11 六月の短歌

湯殿川 我が心にも 水澄みて 変らぬ流れに 昔を偲ばん

匂いつつ 散りにし花が 偲ばれる 夏は緑の 繁りければ

ほととぎす ひと声鳴いて 東雲の 城址の森は 一筋の雨

夕立の 雲まとまらぬ 夏の日の 城址の森に 松蝉の声

水無月の 雨かと思えば ほととぎす 暁の空 何処に行かん

夏の夜の 寝ようと思えば ほととぎす 鳴き一声 月の影

はからずも 短い花の 運命にも 孔雀サボテン 夏の朝開く

匂いつつ 高貴の夢を 忍ばせて 孔雀サボテン 花開く朝

何気なく 誘うように 咲き誇り 孔雀サボテン 魅惑の色は

暮れなずむ 城址の外灯 木々の中 灯りも揺れて 涼を呼ぶなり

心身とも 満足な人 誰もなし 他人を恨んで 幸せ得られず

今日もまた 生きた証を 振り返り 心の中で 両の手合わす

涼を呼ぶ 湯のまち灯りか 山の上 夢見る想いに 黄昏月夜

湯殿川 コガモの姿 いじらしき 鳴いて母呼ぶ 夕暮れ時は

富士の山 遠くに見れば 影となり 入道雲に 夕日輝く

夏に日の 遠い昔を 夢しのび 静かに暮れる 由井の里

大空に 白線を引く 飛行機の 航跡の標し 一服の涼

空の青 海の蒼さに 白波の 夏の太陽 輝きひかる

遠望に 丹沢の山 横たわり 積乱雲が 立ち上るなり

宮ヶ瀬の ダムの岸辺 よく見れば 夏鳥一羽 静かに泳ぐ

住吉の 夏祭りに 想うもの 片倉城 大江広元は 

2011年6月10日 (金)

六月の句

10azisai_sakataiimoriyama41 これまでに書いた「句」をまとめてみた。

紫陽花は 濡れて色づき 楚々となる

紫陽花の 紫(し)と白の 雨の朝

大空に 両手を広げ 他になし

夏草は 燃えるごとき 激しけり

音もなく 白紫陽花の 露一つ

紫を 花弁の色も 露そめて

鐘一つ 紫陽花寺は 暮れてゆく

古寺の あじさいの花 凛として

静けさに 額あじさいや 朝日浴び

富士の山 空の青さに 夏の雲

青い山 背負うがごとく 後を追う

山寺や 小鳥の勤行 初夏の朝

霧深し 不如帰啼く 里の朝

麦藁帽 半袖シャツに 杉木立

江ノ島や 夏の日差しで 影遠く

吹く風に 松の青さも 夏の空

石積みの 苔ひたたりし 城の址

草燃えて 片倉城や 夢誘う

入梅や 降り出す雨に ほっとする

朝早く 挨拶しながら 草の道

朝もやに 片倉城址も 影薄く

夕焼けに 鳴いてからすも 森の中

不如帰 飛び鳴きながら 夏を告げ

時すぎて 山の緑は 盛り上がり

つばめ来て 田人の中を かいくぐり

水ひかり 草木が萌える 城の里

石垣の 割れ目の奥も 夏が来る

薫風は 古城の里を 巡らして

今現在を無駄にしないで生きる

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Shirakaba_b1 色々な過去の出来事に習って未来を見つめ、「今現在を無駄にしないで生きる」ことを「温故知新」から学ぶ。

温故知新とは、歴史・思想・古典などの昔のことをよく調べ、研究し、そこから新しい知識や見解を得ることで、孔子が、師になる条件として先人の思想や学問を研究するように述べて言葉である。

温故知新「子曰く、故きを温ねて、新しきを知れば、以って師と為るべし」と訓読され「温故」は「故きを温ねて(ふるさとをたずねて)」と読まれるなが一般的であるが「故きを温めて(あたため)」とよむべきと解釈もある。

その「温故知新」の四文字熟語から・・・
過去の成功や失敗にいつまでも執着して、今を思い出だけに耽っているか、愚痴と後悔ばかりで不運を嘆き、明日が思った通りの幸せになることを夢見て、今を浮ついて生きているの人がいる。過去に囚われ、明日を夢見て生きているならば、それは本当に今を生きているとは言えない。

時を、過去・未来・現在という順序で表現することがる。過去から現在へ、現在から未来へとつながる順序とは意味合いが違う。過去・未来・現在という順序は、過去も未来も現在に収まるということであって、現在が最も大事な時であるという意味である。

現在の今が明るく開かれるならば、どのような過去であっても大切な意味が見付かり、後悔したことは、「あの辛い失敗があったおかげで、大事なことを知ることができた」と功徳に転じることが出来る。

自分自身の現実と向き合い、全てを現実として受け入れることこそ、今をあるがままに生きられる。さらに、不安と恐れがあるであろう未来のことは、「私にたまわった人生を尽して行きます」と仏に人生を託し、安んじて悠々と生きる身になって生きたいものである。

2011年6月 9日 (木)

笑顔の素敵な宇宙飛行士

800pxsts133_international_space_sta 笑顔の素敵な宇宙飛行士の古川聡さんは、少年の頃からウルトラセブンが好きで仕方がなかったという。夢を12年持ち続け、その夢が叶い昨日、カザフスタンのバイヌコール宇宙基地からロシアのソユーズに乗り込み国際宇宙ステーションを目指して飛び立った。

子供の時は、ウルトラセブンの話ばかりしていたと言う、母親の浩子さんも打ち上げを見守ったという。悪い怪獣をやっつけるという単なる勧善懲悪の物語ではなく、時には「怪獣の言うことにも一理ある。あれは人間が悪い」と、より深くストーリーを味わっていたという。

医師である仕事を続けていたが、少年時代からの夢のウルトラセブンになりたい・・・その思いは諦めきれず宇宙飛行士になった。米航空宇宙局(NASA)が今回の飛行前に作製したポスターには、国際宇宙ステーション(ISS)で一緒に滞在する6人の飛行士がISSから飛び立つ様子が描かれている。

古川さんは「他の仲間は恐らくスーパーマンをイメージしていたと思うが、私はセブンを心の中でイメージして飛んでいた」と明かした。

約半年間の宇宙ステーション暮らしとなるが、その間専門の医学分野での研究が主な仕事になるという。国際宇宙ステーション(ISS)は、地上約400km上空に建設された、人類史上最大の宇宙施設である。その大きさは約108.5m×72.8mとほぼサッカー場ほどの大きさとなり、質量は約420トンにもなる。

12年間夢を諦めないで医師になっても持ち続けたという。「夢は持ち続けるもの」多くの少年達に励ましてくれたことと思う。大きな成果を期待したい。

救国は過去の人に習え

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07akitakoma_sumire11 「絆」が希薄になり、「無縁化時代」と言われてきている昨今。大震災と放射能で、苦しみと不安でおののいている国民は頼るのは政治の力である。その政治が、手をさし伸ばし方が違うといって、お互いに話し合いはまとまらない。

いま歴史を振り返って、国難を生き抜いたリーダーがいる。西郷隆盛もその一人である。西郷南州遺訓がある。現下の日本に、諌める言葉と出会い、 なるほどと思う。多くの人に読んで頂きたいと思う。 

己れを愛するは善からぬことの第一也。修業の出来ぬも、事の成らぬも、過を改むることの出来ぬも、功に伐(ほこ)り驕慢(きょうまん)の生ずるも、皆な自ら愛するが爲(ため)なれば、決して己れを愛せぬもの也。西郷南洲遺訓 西郷隆盛 順受の会 解説・松田優山)

「自分さえ良ければ、人はどうでもいいなどと考えることは、人として一番良くないことである。修業ができないのも、事業が成功しないのも、自分の過失を改めることができないのも、自分の功績を自慢し、驕り高ぶるのも、すべて、人のことは考えない自己愛の強さからくるものであって、決して、自分さえ良ければいいなどと考えて行動してはならないものである。」

何でも物事を成就させるためには、自分ひとりではできない。また、自分ひとりでやり遂げたと思っても、その人の周りにいる人たちが協力してくれたから、やり遂げられたということが世の中すべてであるといっていいであろう。

まず、この世に生を受けるということからして、自分でできることではない。そういうことからしても自分がすべてやったなどということは存在しないのである。だから、自分さえ良ければなどということは、元々、通用しないのが人間社会なのである。

このことを理解できないで、自分の私利私欲だけに捉われている人は、どんなことをやっても反省もせず、人の力を借りることもしないので成功もしない。また、少しの自分の功績を大げさに自慢するものであり、傲慢でもある。このような人間になってはいけないと、西郷南洲は言っているのである。

結局、自己愛が強くて、人を信じることができなくて、せっかく持っていたものまですべてを失うということは、最近、よく見受けることであるが、こういう人は、自己愛が強い割には信念が無く、何事も最終的には人に任せることも無く、自分の都合のいい事に強く反応するという傾向がある。そして、そういう自分に自覚が無い場合が多い。

つまり、客観的に自分を見つめることも無ければ、客観的に見て、自分のことを率直に言ってくれるような人物をも遠ざけるからである。こういうようにならないためには、やはり、人間力を磨くことであろう。また、このことは誰でもが持っている要素であるので充分に気を付けねばならないことでもある。

2011年6月 8日 (水)

他力と自力

09buna_sinryoku_omitake21_2仏法では、“他力本願”というと、「他力」「阿弥陀如来の力のみ」を指し、「他力本願」とは「阿弥陀如来の力によってなされたお約束」ということであり、また他力本願のはたらきによって、強くたくましく生きていける。その他を“自力本願”というそうだが、どう違うのかと言うと、「他力」を“他からの助力をあてにすること、また、「自力」を自分ひとりだけの力と解釈するのは間違いである。

つまり、自力は、自分の修行の力でさとりを得ようとすることなどと考えるのは間違いであり、「自力」を自分の力、己の力と解釈するのではなく、「自ら備わっている力、生まれながらに頂いてている力」と理解すべきものなのである。

生まれたばかりの赤ん坊が、誰も教えたわけでもないのに、母親の乳をのむことを知っている。これは自ら備わった力であり、強いていえば、これが自力である。

人間、自分ひとりの力など、本当に小さなものである。もし、自分ひとりの力で生きていると考えるなら、間違いであり、正しい意味の自力とは、「自分に働きかけている自然の力を自覚させられること」である。

自然は、目に見えない真理が目の前の現象にそのままにあらわれている。たとえば、リンゴが木の枝から落ちる現象に、そのまま万有引力が自力である。仏法に他力と自力の対立があるのではない。自力というのも仏力の名であり、他力と呼ぶも仏力の名である。

ご飯を食べる時、正座し、背筋を伸ばし思わず手を合わせる。また何かいいことがあった時に、「ありがとう」という。誰に向かって言っているか分からないが「ありがとう」を言うように人間はできていると思う。

懺悔という言葉があるが、ひそかに自分の内面の悪い思いを見つめ、正すのが「懺悔」である。今日、自己主張の時代に、一番忘れられている概念ではないだろうか?青葉・若葉の季節である。生かされて生きていることの実感をかみしめたいものである。

自然治癒力が高まった人は、人相がいい

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3612 いまから10~年前の会社の現役時代、仕事の関係で色々な人と出合った。自分の仕事を要領よくスムースに進めるには相手の「顔色」「人相」など気にし、同じような顔をしている人は同じ考えのような傾向にあることが分かり、人相に興味を持つようになった。

初対面の人の印象は、しばしば、顔に左右され、その第一印象によって、性格まで推測する。誰もが無意識のうちに人相判断らしきことをしている。しかし、人相判断は、素人が自分の好みで行うような単純な「顔の良し悪し」ではない。

顔は先天的なもので、そんなもので占われるのは…という意見もあるが、先天的要素は多分にあるが、「30過ぎたら、顔に責任を持て」と言われるように、後天的な要素が年齢に比例して入り込むことも事実だそうだ。

顔の表情から怒った顔・柔和な顔・穏やかな・顔かたちと、肌色・肌の艶などから、その人の健康状態・精神状態などが、推測される。特に「目は口ほど物をいう」諺があるくらい、本心は目を見ればわかる。

歳を重ねて多くの人と出会うと、人間は自然と、顔を見れば性格を判断できるようになる。目のの表情で判断できるようになる。

帯津三敬病院名誉院長の帯津良三先生は、「自然治癒力が高まった人は、人相がいい」いう。

人相っていうのは、顔かたちではなく、これは命が、体の中の命がここ(顔)ににじみ出てきて、人相になるわけです。人相というのは内なる命のエネルギーがにじみ出て、あふれ出てきたもの。ここでも気功をやっているんですが、半年くらい経つと、かたちはものにならないけど、顔が良くなる。

常にそういう意識でいると、ものすごく顔が良くなってくる。久留米大学の横山みつおさんは、NK活性とか見てもあてにならない。人相がいい人は免疫力が高いと言われています。

生命は複雑系というのは一時言われましたが、要するに、要素にわけていくと、割合簡単に考えられる複雑系ではなくて、分けても分けても、相変わらず複雑のままであると。

生命というのはそうですよね。分けていっても、相変わらず複雑で、だから生命は、複雑系として扱ってやらないといけない。そんなに単純に、要素に還元して、1+1は2というわけにはいかない。

2011年6月 7日 (火)

我が分限を知る

07akitakoma_sumire11 「分限」とは、物事の程度や分量、物事を行う能力や限度、あるいは身分の程度や分際(身分)をいう。「ぶげん」とも読み、分限者などと使う。

また、その置かれた立場のようすや経済状態もいい、とくに江戸時代には、財産・資産の程度をいい、その財産や資産を多く有している人、すなわち富豪や資産家をさしていうことばとして用いられる。さらにこの上をゆく富豪を長者と称してこれを区別している。(yahoo!百科事典)法律上で分限とは公務員の地位をさす。

仏教の教えに、我が分限をわきまえば、それ程もがき苦しむことはなくて生きて行ける。現代では日本人が、飢えて死んで行く人は少ないが、美味しい物ばかり食べていて病気になる人沢山いる。これがすなわち分限を忘れた姿であるという。

人間分限を知るということは大切なことである。衣食住生活、金のために使われる金がほしい。好きなものも食べたい。立派なものを身につけ贅沢な生活、衣食のために追い回されることは分限以外に手を出している。

実業家でありながら、金を粗末にしたり、学者でありながら利益問題に走り過ぎることは、いずれも我が分限を忘れていると言うことだ。分限を忘れては円満な人生を渡ることは出来ない。

世の中、思想・信条の自由で、発言の自由でもある。団体組織には分限があって統制されていて一つの目標に向けていくためには必要である。指令は最高権力者からトップダウンで末端まで、如何に徹底されるかで評価される。

最近、家族・会社・公務員などで、個人的に意に反するからと言って悩み苦しんでいる人が多い。そういう人は、辞めて他に生きる道を探していけばいい。幾ら自由の世の中だと言って分限をわきまえて、言動をしないと苦しみの道から逃れられない。

ドコモ携帯のトラブルで思う

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10shiretoko5go_1ko21_2 昨日朝、携帯で電話をかけたが赤字で圏外となって、どうしたのだろう、固定電話自分の携帯にかけたのだが、繋がらない。NHKのテレビニュースでNTTドコモがトラブルが発生し、172万台が通信不能ということで初めて知った。(昨夜9時30分ごろ復旧した)

昨日ドコモショップに行って補助充電器を貰ってきたのだが、日常生活になくてはならない物となっている。兎に角家を出るときは、必ず持っていないと不安である。健康のために、毎日散歩は欠かさないでいる。間違って事故や体調不良などの非情時に連絡する手段のツールだ。

ここまで携帯電話に依存するまで社会構造の変化して、コミニケーションのあり方にいまさながら考えさせられた。

コミニケーションのツールで回覧板が地域の町会・自冶会で使われているが、昭和20年代では、“言継ぎ”があった。また主婦の井戸端会議などで、「何処何処の誰々が亡くなった」「今日は道普請をする」というような内容だった。

それが意外と正確に伝わっていたのだ。それには現在では考えられないほどの地域の人と人のつながり「絆」あった。現在の町会・自冶会の10~15世帯の班長さんが、むかしの長老で(親分と言っていた)しきられていた。

いま、「無縁社会」・「孤独死」など言葉が世間で取りだたされている。「絆」のあり方が社会問題となっているが、情報伝達が発達し、便利になった反面、人と人のコミニケーション、つまり人の顔と顔を付き合せいわゆる対面の話合い・人の温もりを感じるから、顔の見えない会話・メールなどの文章のやり取りとなって「絆」の形が変わった。

隣の人がどんな方か分からないと言うマンション・アパートの住人が多い。プライバシー・個人情報の保護などの問題で、ますます個人主義の傾向が強くなって、人の顔色・肌の温もりなどを感じる事が少なくなった社会構造に問題があるのだと思う。

2011年6月 6日 (月)

相手の立場に立って考える事も・・・

07_10241 最近の主なニュースはほとんどが、東日本大震災に関係と東京電力福島第一発電事故・そして政府・菅直人首相の辞任を迫る野党の動きである。

被災者10万人以上も避難先で、目に見えない放射能で先の展望が見えない中、菅首相を一刻も早く止めさせたい野党と復旧・復興のある程度のメドが立つまで総理で仕事をしたい、菅首相のバトル合戦で毎日、茶の間をわかしている。その中には辛らつな言葉が政治家の間で飛び交い異様な光景である。

相手を攻撃するような記事が多くて、ギスギスした、いやな世の中となっている。私たちの身辺を見ても、自分は悪くないが、相手が悪いのだという愚痴話ばかりで、何だかやるせない気持ちになってしまう。

考えてみると、こういう考え方は、相手を自分の思うようにしたいという勝手な考え方で、結局は自分が腹を立てるばかりで、自分の救いにはならない。

相手の立場に立って考えて見たらまた違う自己主張が出来るのだ思う。自分のことばかり考えないで、相手の立場に立って考えること、それが真実、真ということが、分かるかも知れない。

自分が苦悩していると同じように、相手も苦悩している。自分が精いっぱい善意を持って働こうとしていると同じように、相手もまたそう思っている。

そう考えるとき、自分の考え方の勝手なことにも気付き、必ずしも相手のみが悪いとは思われぬのではないのではないだろうか。そこに、初めて互いに心の通い合う世界が開けてくるのであり、そこにこそ、自他共に悩み、自他共に世界が開かれると思う。

ルールとモラル

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07rose_ame21 人間社会には「ルール(規則)」とは別に「モラル」と言うものがある。モラルとは、倫理観や道徳意識の ことで、世代や状況によって徐々に変化するマナー(行儀作法)よりも普遍的な価値観を含んでいると言う意味だが、この「モラル」を「ルール(規則)」にすり変える人がいる。つまり、「自分事で無いように考える」傾向がある。

人間には、この「モラル 」こそが一番大事な事なのに、「モラル」を持つ事より「ルール」として考えて「出てはてはいけない枠」を越えてる。このような事が世の中で横行してるから、「法律」で「枠」を作って管理しないといけなくなる。

それでも、ルールの解釈の仕方と勝手な価値観ではみ出す人間が多くなれば「ルール」を厳しくする方向へと動いていく。管理されないといけない社会・・・であり、管理されないと考えられない人間を作る方向になってしまう。何とも悲しく味気ないことだ。

今一度考えなければならないのは、人は二つの選択肢がある事だ。一つは「自己の管理」である。自分で自分自身を「モラル」を持って行動する事であり、二つ目は「管理される事」である。「ルール」を作って貰い、それに従う形で行動する事である。

家庭の躾・教えから「モラルとルール」をしっかりと理解させて、自分で分別する事を教えないと、これからの社会はもっと崩壊していくと危惧している。

人は「モラル」で制御し、「モラル」で自己を管理し、「モラル」で考える事が大切でである。「ルール」と言う管理された社会でないと、「生きていけない」では血の通った人付き合いが希薄になり、恐ろしい世の中に・・・ねたみ・怨念など自己の喪失になる。

人として生まれたからには、「モラル」と言う素晴らしい解釈で物事を捉え行動する事こそが「意義」なのではないだろうか。

「ルール」の崩壊で荒んだ世の中になっているのを止めるには「モラル」の力しかない。一人一人が「モラル」を持った行動で次世代に受け継がせる事が「今を生きる人間」の使命だと思う。どうか「モラル」ある行動をお願いしたい。

モラル(道徳)は最近小学校で教育課程に取り込んでいるが、本来は家庭の躾であり、人として生きていくための知恵である。正常な常識学というべきで、何といっても家庭での躾で人格が決まるファクター大きいと思う。

2011年6月 5日 (日)

守ろうよみんなの好きな町だから

Img_0105 湯殿川の浄化対策で、腐心しているが、入梅に入ってから雨が降って水が濁っていて気が付かなかったのだが、今朝、時田橋下を覗いたら、近くの道路の学童通学時の交通規制の立て看板が落ちていた。

毎朝(土・日除く)7時30分~9時車の通行禁止・・・南大沢警察・南大沢交通安全協会・・・
近くの方が当日に出したり、しまったりしていたのだが、いつの間にかなくなって、探していたということだった。

早速拾うとしたのだが、まだ雨の影響があって、水の量が先月(5月)より多い。フェンスの鍵を開け石垣を川面まで降りて進むのであるが、両岸に葦が2メートルぐらい伸びてその落ちているところまでたどり着くまでが50メートルであるが足場が悪く大変であった。

シャツは汚れ、靴は泥だらけになったが拾い上げることができた。「高い橋から棄てるのは簡単だが、拾い上げるのは大変」看板にはヘドロが付いて匂いが酷く、手袋は棄てなければならないほどだった。

私は、ブログでも「湯殿川をきれいにしよう」「私達の町をきれいにしよう」というテーマで書いたが、今回の悪行は犯行二重の罪だ。交通安全の設備の棄る行為・川を汚す行為の二つである。何でそういうことをするのだろう!許せない。

また、中学生が5・6人自転車に乗って通り過ぎた。大声で話し合いながらその後を目で追っていったら、その中の一人がビニール傘の柄が曲がってしまい使えないのだろう。何のためらいもなく、湯殿川に棄てた。その時大声で「ダメだ!」と声を出したが、名に知らぬ顔で自転車のぺタルを早めに漕いで行ってしまった。フェンスを乗り越えて拾ったのだ。

自分達の町、「モラルを守って明るい笑顔の挨拶が出来る町にして行こう。」それには一人ひとりの心がけが大事だ。

自然から学ぶ

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0261 6月に咲く花も、色々ありますが、代表的にはアジサイですが、紗羅・栗などがあります。「花は無心にして蝶を招き 蝶は無心にして花を尋ぬ、花開く時、蝶来り 蝶来る時 花開く」・・・良寛。

人の鼻でも匂いを「いい匂い」と感じるものと、そうでないものもあります。しかし、人間の好みと、違う好みなど関係なく花は、種の保存という目的で花を咲かせて、大自然の法則で、虫の媒介によって種の保存を図っています。

自然の花には蝶を招く心はなさそうです、蝶にも花を尋ねようとする心が働いているようにもみえないが、花が咲くと蝶は飛んでくる、蝶が飛んでくるところに花が咲いている。花につく蝶は無心にして損得勘定がないから、味わいのみ取りて色香を損なうことはありません。

誰もがこの世に必要だから生まれてきた、そしてお互いを必要とするから生きていけるのだが、無縁化時代と言うように、最近は、人と人との絆が弱くなったようです。現代人はプライド、プライバシーの権利、プライベートな問題などと、ことさらに自己主張するけれど、独りでは生きていけません。

人間は、人のみならず、万物の存在に支えられて自己が成りたっているのです。他を生かさずして自己は生きていけない、自分のためにという生き方が、そのままに他のためにということでなければ自己は生きられない。

これは大自然の大原則です。本来は自分も他人の区別などありえない。東日本大震災の被災地の人々の悲しみは日本人もとより、地球上の全ての人の悲しみです。

生かされていることに、思いをよせてみると、野に咲く花、海・川に棲む魚、空を飛ぶ鳥、そして、水・空気・太陽の恵みで生かされているのです。自然から学ぶことが多いと思います。ありがとうございます。

2011年6月 4日 (土)

三つ葉つつじと子孫

108sirakami_mothertree11 花が咲き その木の下に 小さな木

我が家の庭に三つ葉つつじの木がある。三つ葉つつじは中低木であるが40年ぐらいしている、春にはピンクの花をいっぱい咲かしている。

今日その下を良く覗いてみたら、小さな木が出ていたので、親の木の根から繋がっているのかと思ったら、どうも種から芽が出たらしい。

そういえば里山があったころ、三つ葉つつじは、雑木林に転々と存在していた、種は一体どうなっているのか興味がわいてきた。

そして、子孫を残すという自然の法則の大切さを、改めて思い知らされた。

幸せも不幸せも、みんな一人一人の責任

09hirugao31 福島原子力発電事故で見られるように現代では、人間の飽くな欲で生活が進化した。それが便利さとなっているのは確かなことだが、そのリスクが放射能という人間が勝手に作りだした物質で、その恐ろしい物質は人間跳ね返ってくる。

安全・安心は、絶対ということはあり得ないということを忘れてはいけない。このごろは自然をないがしろにするせいか、やたらと開発が進んで山は削り、海は埋め立てられ、川は流れを曲げたりするために、天災地変がよく起こり、便利を生むと同時に危険率も高くなり、公害、水害、交通災害など、次から次へといろいろな事故が起こっている。

さて、ひとたび事故が起こすと、人々は目の色を変えて、直ちに責任の追及に乗り出すが、だれかがその責めを負わなければ、問題の解決はつかめない。

すったもんだの揚げ句、保障とか見舞いとかの美名のもとに、人間の善意が見事、金にすり替えられて一件落着を見るのである。しかし、そこに燃え上がる憎しみの炎は少しも消えることなく、お互いの人生に暗い影を落とすことになる。

これは、逃れることのできない私たちの宿業だとしたら、全くやり切れない。救いようのない修羅場だと思う。地獄とは、自分の責任は棚に上げ、人ばかり責めたて、のろい合う世界なのである。

私たちは幸せも不幸せも、みんな一人一人の責任としてそれを感じ、助け合って生きなければならない。人ばかり責める目を内に向けていたら、だれよりも恐ろしい毒針を持った自分に気付くことだろう。

真実のみ教えを・・・

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Photo2010_91 いま日本は、かってない大きな地震と津波で未曾有の被害をもたらした東日本大震災に見舞われ、被災者はの嘆き、苦しみ計り知れない。自然災害と放射能という人為的災害が加わり、日本中で、その復旧・復興を一刻を考え被災者に暖かい手を差し伸べなければならない。

そんな時に、日本の最高機関である国会が日本丸の船長の足の引っ張り合いをしている。海に溺れれ助けを求めている人がいるが、「あなたには助けることが出来ない、危ないから止めろと周りで言っていっている」かのようだ。が、敢えてやろうとしている。それでは誰がやるのとも言わず、そんな言い合いしている場合ではないだろう、溺れている人沈んでしまう」と言いたい。

こんな法話を目にしたので記してみたが・・・
「苦は欲より出て身を悩まし、名聞は我より出て心をついやす、身の分限を省みれば人にうらみなく、足ることを知るとき世利をむさぼることなし」二百数十年前の法語の一部です。

お法はどれほど歳月を経ても変わらない、大きな心の指針となります。苦しみ悩みの根源は、私の欲望に起因することを見逃してはなりません。我執・我欲が自分だけでなく周囲の方々にまで、大きな影響をもたらします。

自分の身の程を省みれば、なんら人をうらむことはないとさとされています。温かい人間関係も、そこなわれることはないでしょう。同時にお互いの信頼関係も深められてゆけば、争いも影をひそめるでしょう。互いに深いかかわりのある人間関係が自覚されたら、地球上も住みよい所に必ずなるでしょう。

「法の道ただ一すじに歩みなば かりの浮世も住みよかるべし」心静かに私の親を数えてみましょう。わずか千年足らずで、私一人のためになくてはならない親は、四、二九四、九六七、二九六人です。

現在の地球上の人の数、これから考えると、世界は皆兄弟です。信親関係を取り戻して、和みあった世の中を実現することが急務であります。

悪夢のような悲惨な過去の戦いに、犠牲となった方々のねがいにこたえるためにも、聞きましょう。真実のみ教えを、唱えましょう念仏を!
http://www.butudan.co.jp/houwa/index.php?%E6%B3%95%E8%A9%B1%EF%BC%90%EF%BC%92%EF%BC%90

2011年6月 3日 (金)

復旧復興は挙国一致だ

Ota21 日本はマグニチュード6以上の地震は世界の20パーセントだそうだ。「災害は忘れたころにやってくる」というが・・・。東日本大震災で、日本は勿論、世界中の国から支援を受けている。有難いことだと思う。肝心の政府、国会では相変わらずゴタゴタ劇場を繰り広げている・・・

被災された方たちは、財産・尊い家族を失って途方に暮れている。命の尊さを痛感していることだろう。そして真心こもった支援には涙が出るほど嬉しいだろう。

普通の暮らしが送れても、人間は社会的存在であると言われるように、一人立ちでは生きてゆくことは出来ない。まして、財産は何一つ津波に奪われて、誰かの助けがなければ生きていけない。

隣近所の方と励ましあって援助来ることを祈っているしかない。そこで、あらゆる機関で援助の輪が広がっている。人間が、人種、宗教問わず、互いに相助け合い力になり合って出来上がっている。

しかし最大の援助が出来るのは政府であり行政である。そのトップ国会で首相の首を挿げ替え?で汲々としている。被災者には、さぞかし歯がゆいだろう。そんな場合ではないだろう。挙国一致で復旧復興をしなければいけない時に・・・

現代の本社会は個人が優先し、全体が忘れられようとしている。一つの大きな網は、小さな網の目が縦横につながり合って出来ているように、社会という大きな網の中の一個が私であることを自覚する時、個人の気ままな自由は許されないはずである。

貴方があって私がいられる。私の周りに多くの人間がいて私は生きていかれるのである。

親鸞聖人が、真実ということについて、実とは「必ずもののみとなる」と述べられ「み」となるとは、二つ意味が含まれるようで、一つは身となる、もう一つは実となる。身となるとは相手の身になるという心だ。相手の身になって物を言う。相手の身になって行動する。少しは私の身にもなってよ、と要求はするが、相手の身になることを忘れがちである。

仏様は常に私たちの身になり、そして実りある人間に育てて下さる。こうした仏のお育てをいただいている私たちである。せめて今日一日、社会の恩恵の中に生かされる者として、常に相手の立場を考え、全体のために行動することが、社会的存在としての人間のマコトの生き方ではないかと思う。

内閣不信任案が否決されたが・・・

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10kurume_mise_rozi11 信頼できない政治は不安が増すばかりである。余りのも国民を無視した国会劇場で、そのシナリオはあきれるばかりの個人プレーの主張合戦で、永田町と一般国民との乖離は悲しく、日本船は船長不在さえ感じられる。

大きな岩礁に乗り上げてしまった船を船長が舵を取れないから引きずり降ろし誰が良いとも言わず、人として守るべき道義などない国会は何んだったのか、被災者・国民は堪ったものではない。

そもそも今回の不信任案提出に大義があったとは思えない。菅政権の一連の対応に不手際が多いのは確かだが、自民党は誰が首相になり、どんな体制にすれば原発事故が収まって、被災地復興がうまくいくのか、最後まで具体的に示さなかった。

それは無責任であり、結局、政策的には縁遠い民主党の小沢一郎元代表らのグループの造反の動きをあてにして政権を揺さぶるのが目的ではなかったか?

もっと批判されるべきは小沢元代表のグループだ。小沢元代表は「危機の時にこそ強力な政権と指導者が必要だ」と語ったが、こちらもどんな政権を作りたいのか示すことなく造反に突き進んだ。矛の収め方を見ても、民主党内の主導権を奪い返したいというのが動機だったとみるほかない。

仮に不信任案が可決され、菅首相が総辞職を選択した場合には新内閣作りは難航し、政治空白が生まれていたはずだ。一方、菅首相側からは「不信任案が可決されれば解散・総選挙」との声が出ていたが、被災地で今、選挙をするのは極めて困難だったと思われる。

それでも首相が解散を選ぶとすれば被災者無視のそしりは免れなかったろう。いずれにしても戦後最悪といってもいい政治危機に陥っていた可能性は大きい。

「民主党に政権担当能力があるのか」「政権与党の自覚はあるのか」という疑問をさらに増幅させた点も含め菅首相と民主党の責任は計り知れない。しかも今回の収拾は一種の弥縫(びほう)策であり、今後、政治の混乱が回避される保証もないのだ。

いずれ解散・総選挙を
菅首相が次の代表は「若い世代に」というのは当然だ。しかし、民主党の病理というべき「反小沢対親小沢」の対立は解消されたわけではなく、新代表=新首相選びではまた抗争が始まるかもしれない。

加えて誰が首相になっても国会の衆参ねじれ状況は変わらない。 たちまち新首相は行き詰まり、何も決められない国会が続く可能性がある。http://raicho.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1307037701/

2011年6月 2日 (木)

不信任案は否決される

Natsu1 今日午後1時30分からのNHKテレビ国会中継を観た。菅内閣に対する不信任決議案は、衆院本会議で採決され、賛成152、反対293(投票総数445、過半数223)で否決された。結果は大差で否決された。

菅直人首相が民主党代議士会で自発的な退陣を表明したことを受けて、小沢一郎元代表が「首相から今までなかった発言を引き出したのだから自主的判断でいい」と支持派議員に不信任案に賛成しないよう呼びかけたため、民主党内からの大量造反はなかった。ただ松木謙公元農水政務官が賛成票を投じ、小沢氏は本会議を欠席した。

結果を、被災者はどう受け止めたのだろうか?私は被災者の立場は国会議員が足の引っ張り合いをしている場合ではない。国会議員も被災者の立場に立って考え一致団結して国難を打破しなければならないと思う。

今朝の新聞各紙の社説は・・・

朝日は・・・「不信任案提出―無責任にもほどがある」
いま、国会の使命は東日本大震災の復旧・復興に向けた予算や法律づくりだ。それなのに露骨な権力ゲームにふける国会議員たちに強い憤りを覚える。こんな不信任騒動をしなければ、政治は進化できないのか。政治全体が不信任を突きつけられる事態を憂う。

読売・・・「菅内閣不信任案 救国連立なら理解できる」
今、最も重要なのは、震災復興などの課題に迅速かつ果敢に取り組める政治体制を作ることだ。

谷垣総裁は党首討論で、「菅首相が辞めれば、新しい体制を作れる」と述べ、首相退陣が与野党協調や「救国連立」政権作りを可能にすると指摘した。より具体的な道筋を示してもらいたい。

今回の不信任案では、与党・民主党内で、執行部と対立する小沢一郎・元代表の支持グループなどから相当数の造反が確実視されている。極めて異例の事態だ。国家の危機に際して、政治は本来、与野党の垣根を越えて、時の首相の下に結束し、その対応に協力するのが望ましい。しかし、菅内閣の震災対応にはあまりに問題が多く、そうした空気にほど遠い。

毎日・・・「不信任決議案提出 やはり大義は見えない」
今なお10万を超す避難者や、生活再建に取り組む人たちの目にこの攻防はどう映っているだろう。

衆院本会議でに行われた採決で民主党議員の31人の造反があった。党の分裂含みで状況は緊迫してきた。東日本大震災の復旧のさなか、自民党はあえて倒閣へ勝負に出たが、納得するに足る大義名分が掲げられたとは言い難い。

苦の娑婆・・・

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1231 はるかに遠いイメージがあった「古希」その古希を過ぎて、最近、生きることって大変辛いことだと感じる事が多くなった。

心身ともに弱くなったと言うことだろう。自分の生活イメージと人間社会の流れが隔たりが大きくなったのかも知れない。

そもそも、そんなことを考えること事態なんだろう?極力、日常生活に変化に気をつけて焦らず、慌てず、余裕を持つように心がけているのだが・・・

毎日を生きているこの現実社会は、どこへ行ってもガマンすることばかりである。自分の思いのままになるところなど一つもないということか・・・

小林一茶の苦を思い出す。大無量寿経に「田が有れば田に憂い、宅が有れば宅で憂う」と説かれている言葉の意味と全く同一の心境だろう。

「苦の娑婆や桜が咲けば咲いたとて」

一茶の人生は暗い。まま母にいじめられ、十四歳ででっち奉公に出され、弟と財産相続で争い、五十を過ぎて妻をめとり、生まれた子供はつぎつぎと死に、妻にも先立たれ、家は焼け、中風を患い、後添えとは離婚し、三度目の妻は妊娠したが、その児の誕生を待たずに自らも帰らぬ人となった。

門人・西原文虎は「一声の念仏を期として大乗妙典のうてなに隠る」と「一茶翁終焉記」の中で記している。一茶が「苦の娑婆や」というとき、本当に実感のこもった響きをもって聞こえてくる。

ところが人間というものは愚かなもので、花鳥風月の楽しみまでも苦の種にしているという嘆息が「桜が咲けば咲いたとて」という表現になったのだろう。

人間の世界における幸福や不幸は、結局のところ自分の主観の感情がつくりだしたもので、幸とか不幸という実態があるものではないのだから、楽しみまでも苦の種にしないようこころがけたいものだ。http://www.butudan.co.jp/houwa/index.php?FrontPage ・・・より

ウキペディア・・・娑婆(しゃば)は、サンスクリット語(梵語)sahāの音訳で、我々が住む仏国土(三千大千世界)の名前。sahāには「大地」という意味がある。漢訳では「堪忍」という訳語が充てられることから、この世は、生老病死(しょうろうびょうし)や人間関係、さまざまな欲望など、煩悩に耐えていかなければならない世界であるという解釈もある。そうしたことから娑婆と名付けられ、また、「忍土」ともいう。

2011年6月 1日 (水)

この世に不要なものはいない

Galleryplayer6_cosmos 2011年5月27日 読売新聞によると、直径0・1ミリ・メートル前後のイトカワの微粒子を詳しく調べた結果、この微粒子には、太陽系が生まれた45億6800万年前に存在したアルミニウムの同位体がわずかしか含まれていないことが判明。

こうした理由から、イトカワは太陽系の誕生から、少なくとも約600万年たってから誕生したと推定した。 46億6800万年という長い地球の歴史は人間が理解できる時間ではないが、エベレストが海底にあったということから、地震や津波をともなう地殻変動がくりかえされて現在の地形ができてきたことが分かる。

そして1億年前の隕石の衝突が生命誕生の起源だとする説もあるが、地球上のいろいろな出来事によって、さまざまな生きものが生まれ、氷河期を2回も経て、多様な生物が失われ、また生き残りや進化し現在に存在している。

さまざまな生きものの命は親から子につながらなければ途絶えてしまうから、生命が連続するためには、それぞれの命が受け継がれていかなければならない。親の存在は子が生まれる原因として必要であり、その結果として子が生まれる。

どんな命もこの世に必要だから受け継がれていく、その存在が不要であれば、自ずと消滅していくのである。

すべての生きものが、この世に必要だから生まれ、必要だからこそ今、生きている、他の何かにとって必要だから生かされている。どんな苦難に直面しても、生まれてきたからには生きぬかねばならない。

この世の中に存在するもので、単独で存在できるものはない。不要であるとしても、それがどこかで、何かのために必要であるということもある。

エリートとは志を持ち続ける人

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07akitakoma_2 東日本大震災は,想像を絶する被害が出ました。今回の大震災から思うことは、「隠忍自重」・「他者への思いやり」です。

『立志は万事の根源なり』これは明治維新で新政府にかかわる人材を数多く輩出した「松下村塾」の吉田松陰の言葉です。今、日本は東日本大震災という未曾有の大惨事に遭遇しています。

志は人が行動するための基盤です。「自分はこういう人生を歩みたい」・「自分の生き方はこうありたい」という心の持ち方こそ「志」であり、志のある人は生き生きと生活しています。人は志を持ち、その実現に向けて努力する過程において、感動的な体験をしたとき、生きがいを強く感じるものです。

将来への方向性が定まれば、それを実現させるために、今、何を、どの様な方法でやらなければならないかという、自分の課題とそれらに取り組む手立てが見えてきます。つまり、夢を持ち目標を立てることからすべてが始まるということです。

東京マラソンで総合第3位、日本人トップでゴールした「川内優輝」選手は、埼玉県在住の県立高校の職員です。2月28日の「東京マラソン」での快挙に関して自らを「日本型エリート育成システムからの落ちこぼれ」と呼ぶように、決して潤沢な資金と時間の中で練習してきた訳ではないのです。

昨夜のNHKラジオ深夜便で落合恵子さんのトーク番組で「エリートとは志を持ち続ける人」という。人間は「夢」を持ち続けることが生きている証でもあり、人間としての存在価値が生まれてくるのだと思います。

エリートとは、ウィキペディア 検索すると・・・エリートは、社会に役立てることを期待されて、選抜と訓練とを受けた存在である。日本語では選良という言葉が示すとおり、社会に必要とされる能力を持つ、人材の一種である。

社会においてエリートは指導的な影響力を持っている。社会科学的には社会システムの上位を占める集団であり、高い権力、戦力、財産のいずれかを保有している。そしてそれらを用いて社会の各分野や職業集団でその構成員の態度や行動を主導することができる

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