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2010年2月

2010年2月28日 (日)

ゴールデンチェリーを飼って

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Goldenchery1 ゴールデンチェリーという鳥を昨年小鳥やからつがいを買ってきた。2ヶ月ぐらい経った7月に卵を5個産んで一羽が孵った。その後親鳥は、一生懸命雛に餌をやっていて育てた。一方残った卵4個は何時の間にか、なくなってしまった。跡形もなく、多分親鳥が食べてしまったのだろう。大きく育った雛は自分で餌を食べるようになり、親鳥と同じ大きさになった。

一つの籠に3羽となって狭く、巣箱は窮屈なようで、雛が邪魔になってしまったようだ。そして、とうとう雛を苛めるような行動が見られるようになった。それでも時々、親鳥から餌を口移しでもらっていたりしていたので、しばらく様子を見ることにしていたのだが、今年に入って雛を苛めることが激しくなった。

巣箱を覗いて見たら、卵が4個あって、親鳥が暖めている様子であった。それで雛が苛められる訳がわかった。ある朝、雛の羽の付け根、足から、血が滲んでいて痛そうだった。これでは雛は死んでしまう。

早速、古い鳥籠を探して雛を親鳥から引き離した。それでも、血を流すまで苛められた雛は、親鳥を探すかのように「ピーピー」と鳴いていたが、1週間ぐらいして元気を取り戻し、傷も癒えてきたようだった。

妻は餌やり・掃除を毎日行っていたが、鳥かご二つでは大変その上親鳥がまた卵を孵化したらまた大変だというので、雛の傷が完全に癒えた昨日、親鳥を買った小鳥屋に引き取って貰った。今朝は、雛鳥がいなくなってちょっと寂しい思いがする。

最近、親離れしない子供と、ゴールデンチェリーの小鳥の生態を見て、人間にも共通するものがあると思ってしまった。自然の摂理は絶対である。文化・文明が発達したとしても人間も生き物である。小鳥に限らず、他の生き物をよく観察し、その生態をを知ることで、人間にも共通するところがあると思った。

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2010年2月27日 (土)

落ち椿

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08tubaki_takegaki11 豆腐屋の 足元近く 落ち椿

昨日散歩していたら、リャーカーで豆腐を売っていた若者と出合った。最近、リャーカーで、引き売りをする若者が多くなったようだが、パン・納豆・豆腐屋さんなどである。「ピープー・ピープー美味しい豆腐いかがですかー」路地裏をリャーカーを引きながら売り歩いていた。

近くにスーパーがないこともあって、結構売れるらしい。大きな家の近くに藪椿の木があって、花が通路まで落ちていた。

年寄りだけのご家庭が多くなったこともあって、引き売りが、商売になるらしい。そして20代の若者が多いのは、単にもの珍しいだけではないと思う。不況で就職が出来ないこともあるのではないかと・・・。今年の中学・高校卒業生就職希望者の就職内定者は60パーセントという。この人たちの就職が心配である。

一部企業の景況感は、良くなっていると言うが、今年の春闘はどうなるのかこちらも心配である。トヨタの問題・韓国・中国などの東南アジア諸国の追い上げが激しいなか、日本の産業構造が大きな転換点を向かえるのではないかと思う。

若い豆腐屋さんを見て、こんなことを連想してしまった。雨は、夕方から本降りとなった。

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2010年2月26日 (金)

オリピックと困難な国政

06oga_toga11 政界では、「政治と金」で鳩山由紀夫首相・小沢一郎民主党幹事長のお金の問題で国内外で大きな話題となっている。そして、本土の人は、切実に迫った問題ではないと受け止めている人は多いと思うが「沖縄普天間移設問題」で国会は紛糾している。

そして、トヨタの公聴会にトヨタの豊田章男社長の出席で、世界中から注目されている。この問題は日本の一企業だけでなく、日本の威信にかかわる重大な問題である。

日本の将来を占う大きな問題が起きているのであるが、今日2月26日午前10時40分であるが、政治・トヨタ自動車問題を払拭するくらい、浅田真央ちゃんに期待がかかっている。

のしかかるプレシャーは、計り知れない。テレビは朝からオリンピック関連の放送である。カナダバンクーバーのオリンピックの生映像は各局激しい競争!日本は期待したほど成績が上がっていないように見かける。

日本は94名の選手団でメダル獲得数現在の所3個で(金をフイギアの浅田真央ちゃんに期待する)お隣の韓国では、選手団は45人で日本の半分であり10個獲得している。

国のおリンピックに対する取り組みが違うといえばそれまでだが、ちょっと残念で仕方がない。そして、これもおかしいが日本は、選手より役員の方が数が上回っているそうだ。

もっと選手自信が楽しんで競技してきてもらいたいと思う事と、オリンピックに対する選手強化並び、費用など、選手・役員の派遣などを見直しすべきだと思う。

どこかネジが緩んできた日本、残念でしかたがない。産業が低迷している日本産業界そうだ、追い上が急な韓国産業構造を参考に見直そうという動きが経済産業省にあるそうだ。

そして政治の問題・トヨタ自動車信頼回復を国民の納得いくように、国民一人一人問題として考えて解決しなければならない問題である。

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環境問題から禁煙対策も

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07rose_ame21 他人のたばこの煙を吸い込む「受動喫煙」は、心筋こうそくや肺がんなどを引き起こす原因になるとされていることから、厚生労働省は、不特定多数の人が利用する公共施設などでは、禁煙場所と喫煙場所を設ける分煙などの対策をとるよう求めてきた。

しかし、喫煙場所の煙がほかの場所に流れ出すなど、受動喫煙を防ぐ対策は不十分だとして、厚生労働省は25日付けで、全国の都道府県や保健所のある自治体などに対し、官公庁やデパート、学校など屋内の公共施設では、原則としてすべて禁煙にするよう求める通知を出した。

今回の通知では、屋外であっても子どもが利用すると想定される公園や通学路などでは、受動喫煙を防ぐための対策をとるよう呼びかける内容となっている。

タバコの火で手の甲に火傷をする恐れがある。道路などで歩行喫煙が、問題である。そして、吸殻を捨ててゆく人間が多い。これはマナーのもんだかも知れないが、十路地などの信号機のある横断歩道などは、吸殻が散乱している。環境問題で、環境省からも何かメッセージを出してもらいたい。

たかが、タバコの吸殻一本ぐらいとその一本が、どんどん増えてゆき、あっ!と言う間に辺り吸殻だらけで、一面となってしまう。そのまま時間が経つにつれ、紙くず・空き缶・ペットボトル何でも捨てて行き、ゴミの山となってしまう。ポスターなど掲示しているのだが、なかなか守れていない。

環境問題を気にしている厄介じじいですが、歩行喫煙を止めてください。

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2010年2月25日 (木)

春一番

08gozo_beachl_11 今日は、[春一番」で、日本列島全域に南よりの強い風が吹いた。全国的に気温も上がり、2月として過去最も高い気温を観測したそうだ。日本付近は南から暖かい空気が流れ込み、関東などの沿岸部では、午前中に濃い霧が発生した。ニュースで、羽田空港は、飛行機が飛び立つことが出来ないで混乱が続いたという。

富山市では22度5分と昭和29年以来56年ぶりに2月の最高気温の記録を更新した。また、大阪・堺市と奈良市で23度9分、秋田市で19度8分、青森市で17度1分、北海道函館市でも13度1分などと、2月として過去最も高い気温を観測したという。

これから26日にかけて、前線や低気圧の影響でほぼ全国的に雨が降り、風が強まる見込みで、気象庁は強風や雪崩、それに川の増水などに注意するよう呼びかけている。

春一番その狼藉を宥すべし 林  翔

「宥す」を調べてみた。「許す」ではない、「宥す(ゆるす)」という言葉を初めて知りました。大目にみること、この言葉には深い意味がある事を知り、まさに目から鱗である。

春一番の語は、もともと長崎県壱岐地方の漁師の間で使われた安政6年2月に同郡郷ノ浦町の漁民が出漁中、おりからの強風によって船が転覆し、53人の死者を出した。この事故以来、全国に広まったという。(WIKPEDIAより)

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老人介護と現実

282_field111 昨日、散歩して帰宅しようと思ったら、近所に住むご婦人が、車を押し歩いていた。大変そうな感じだったので、「如何しましたか?」尋ねたところ、「近くの薬局に薬を買いに行きたいのだが、足が痛くていけそうもない」という。

「では、私が行ってきてあげるから、休んでいなさい」と。行って来てあげた。独り暮らしで、体調の具合が悪い事を、誰にも相談できず、独りで悩んでいたようである。

週2回の訪問介護とデイサービスを受けているようだが、家族は遠く離れ、当てには出来ないという。

今日の朝日新聞の社説に「お年寄りを、難民にするな」という見出しで載っていた。低所得で身寄りがなく、体の弱ったお年寄りが見捨てられていると言う。

確かに昨日のご婦人の方は、70代であったが、病気などで半年ぐらい入院治療を受けえて間もないので、体調復帰がまだまだ。病院の都合で、退院させられた感じである。

誰がみても、独り暮らしは無理と思えるのだ。お茶を沸かすのも火災が心配であり、ゴミだしなども、倒れれ独りで起き上がれないという。

社説の主旨は、鳩山政権はこの事態を放置せず、お年寄りが安心してケアを受けられる場の確保に全力で取り組むべきだ。 まず必要なのは、特養やグループホームなどの増設とケアの改善だろう。施設整備や人材配置への補助金を大胆に増やすことだ。

ムダの削減はもちろん、将来の増税で財源を確保してでも実行する姿勢を示してほしい。都市部では、特養の参入事業者に関する規制を改革するなどして、不足を補いたい。児童数の減少で閉校した小学校の建物を、特養やデイサービスなどの介護拠点として活用する手もあろう。

自治体や専門家によるチェックと指導で、施設の安全とサービスの質を向上させる努力も必要だ。こうした工夫は雇用の創出にも役立つし、介護のために会社を辞めたり休んだりすることが減るので、経済全体にとってもプラスになる。施政方針演説で「いのち」を連発した鳩山由紀夫首相。奮起してほしい。

こういった現実を見て益々何とかならないものか考えてしまった。

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どう迎える終焉

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06oga_toga11 高齢者とは65歳以上を言う。今は男女とも、平均寿命は80歳以上で日本は世界でも最高である。「老人力」などと言われるようになったが、周りを見ても、老いを楽しみ、老いの喜びを感受している人はどれだけいるだろうか・・・。「早くお迎えにこないかなあぁー」何時も施設のベット呟いていた、義母が家族にも看取られず独り94歳で亡くなった。

最近、生きる希望を失い孤独に悩み失望している人が多いように思える。私もその一人であるが、老人人口は確実に増え続けている。私は日頃考えていることだが、いかに上手に年を重ねていき、如何に死を迎えればいいのかと・・・。老と病は人間の成熟過程と捉えて、死はその成熟のはて、にやってくると考えている。

現代人は、老いや死を自然なものとして受けとめようとしないから、老いを嫌い、死をけがれたものと受けとめてしまう。老と病は人間の成熟過程で、死はその成熟のはてにやってくる。

核家族が進んで、老後は、昔のように家族に看取られて亡くなるということは殆んどない。老人施設でお世話になり、最終的には病院で最後の死を迎えることが普通になってしまったが、何時の時点で老人施設に行くかが問題で最近は、元気に動けるうちにお世話になる方が多くなって、それらのニーズに応えた施設が多く出来ているようだ。

問題は、今まで長い間、慣れ親しんだ自分の家の処分とご近所の方との別れが難しいく踏ん切りがつかない、また、躊躇していて時期が遅れてしまったら、寝たきりのまま、全てを人任せになってしまう心配がある。しかし、誰も助けはしてくれない、自分のことは自分で決めるしかない?ことは事実である。

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2010年2月24日 (水)

風情と梅の花

500ko412l1 梅の香に 寝返り打つ 子猫かな

梅の香や さとの目覚めを 包みをり

“風情”というつかみどころのないものをを表現するのは難しいものである。そこに生きる人の日常の生活を通してその感情や美意識、生き様といったものが表現されて、生きた風情として感じとれる。

風情とは、日本古来存在する美意識の1つ。一般的に、長い時間を経て大自然によりもたらされる物体の劣化や、本来あるべき日本の四季が造り出す、儚いもの、質素なもの、空虚なものの中にある美しさや趣や情緒を見つけ、心で感じるということ。またそれを感じ、心を平常に、時には揺さぶらせ豊かにするということだ。

だが、「風情」とは個々人の生い立ちや教養や美意識の問題でもあり、一概にこれであると定義することはできない曖昧な言葉である。

風情心は、個人の個性が違うように、捉え方は価値観によってしまう。当然生まれも育ちも違う人は風情の捉え方が違う、また年代でも違ってくることは言うまでもない。そして時代によっても代わってくるだろう。

梅の花を見て、風情を感じる年代の人とまったく、梅の花を見てなんとも感じない、若者達もいると思うが、梅の花をみて、夫々春を感じ、“美しい”と感じる心のゆとりが欲しいものだ。

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堪え忍んでみよう

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23581 そっと耳を澄ますと、ひゅうひゅうと乾いた北風が、変わり始めている。

心を落ちつかせ今の自分を認めて、あと少し、もう少し、

堪え忍んでみよう。

そして山の木々が緑に燃える時きっとくる。その時まで、

堪え忍んでみよう。

そして浜辺の砂が潮で輝きを増して、風が光るその時まで、

堪え忍んでみよう。

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2010年2月23日 (火)

ゴミ拾いを続けながら

08omitake_buna_aki11 私は、毎日ゴミ拾いしているのだが、拾っても拾ってもゴミは減らない。タバコの吸殻・ペットボトル・空き缶などは直ぐに袋一杯になってしまう。「汚いねー・最近の子供はしょうがないねー」と言いながら、タバコの吸殻を捨ててゆくサラリーマンがいる。「タバコぐらい、いいじゃないか」という気だろう。これでは、環境は良くならない。

ゴミ拾いは、最初は勇気がいるものだ。他人に「馬鹿じゃないの?」と言われたことは、ショックであったが、それでも何とか乗り切った。

最近の日本人の考えが憂いべきことである。「一人一人の責任を果たすこと出来ていない」「権利ばかり要求し義務を果たさない」人が多いと思う。そのことは、家庭で・学校で・地域で・職場でこの問題を考えないと、将来取り返しのつかない大変なことになる。

ユダヤの格言に日頃の私達の「行い」を的確に皮肉った言葉である。問題が起こると、他人のせいにしてしまい自分は責任逃れして真正面から問題を取組もうとしない。それでは、問題は解決しない。

自分自身が難局に立ち向かわないで、政治が悪い・世の中が不景気のせいにしている間は、生活は改善されないし、将来が心配となってくるだろう。

  「人は転ぶと  坂のせいにする
      坂がなければ  石のせいにする
        石がなければ  靴のせいにする
人はなかなか  自分のせいにはしたがらない」

人と交わる時、口にしてはいけないのは、「愚痴る」「言い訳をする」「人の悪口を言う」の三つ。この三つのどれかを言いそうになったら、ユダヤのこの格言を思い出すことである。

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春の訪れ

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Yudono11  ~~~湯殿川八王子市片倉町から富士を望む~~~~

     菜の花や 尊く咲いて 川の淵

このところ寒い日が続いている。風邪を引いてしまい、散歩は休んでいたが、昨日は体調が回復してきたので、何時もの通りの生活に戻した。散歩しながら、ちょっと湯殿川をのぞいたら、黄色に咲いた菜の花を見つけた。多分昨年も咲いて、その種がこぼれたのだろう。

枯れ草の中でひときわ目立つ存在である。我が家の福寿草も芽が出たばかりというのに、なんだか春の先取りのようだ。大いに結構のことだ。

人が入れない川の淵に咲いているので、思い切って早春の空気を吸っているかのようだ。その川底に鯉の群れが見える。確実に一日々と日は延びて太陽の位置が変わってきたのが感じられるようになった。

桜の枝先にも膨らんできた。そして、近くの幼稚園から、元気な声で歌が聞こえきた。

今朝の天気予報で今日は、日中の最高気温は16度で3月中旬位になるという。

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2010年2月22日 (月)

予算審議と国民の生活

Natsu1_2 国会は、自民党が、鳩山由紀夫首相・小沢一郎民主党幹事長のお金の不透明は、納得いく説明がなされていない。証人喚問をしなければ、予算審議は応じられないと、息巻いている。不況で、失業者は、依然減っていない。自殺者は3万人を超えて最悪であるというのに・・・。

本当の庶民の目線で政治をしてもらいたい。政治とお金の問題も大事なことだが、問題は、昨日・今日の起きたことでではない。谷垣自民党総裁も、ざる法案を作るに係わってきたのだろう。自民党政権の長年付けで、借金大国にしてしまったのでだと思う。

政治家の資産公開で新聞紙面を見ても、余りにも少なすぎる。こんな資産公開をねじり鉢巻で計算しても、国民は納得するはずがない。もっと実のある資産を示すような、法律を変えればいい。そんなことは分かっているのだと思う。そんな、意味のない?事をもっともらしく決めているのは、自分達の保身のためだ。

国の借金はオリンピックでは、金メダルだと菅財務大臣が言った。確かに、日本の財政難は深刻である。景気が先だ!。

そんな内輪もめで、貴重な時間を使っている間はない、国民の命が亡くなってしまっているのだ!何とか耳をかして、本当の国民の目線で死にそうな国民に、手を差し伸べて欲しい。だから、来年度予算審議をしてほしい。

私は、ちょっと、自己防衛と思って、株・投信をしたのだが、半分まで目減りた資産を何とか復活させなければ、老後の資金が足りなくなる。生きるか死ぬかの事態となってしまった。SOSを発信中!である。国会の頭のいい先生方分かってください。

そして私は、景気が良くなる事を祈るだけである。今日は前場300円の急騰あったが・・・。

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老いること

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386351 おっととい、書類に自分の年齢を書いた。数えで何歳?満で何歳?何んて考えてみても仕方がない。いつの間にかこんなに年を重ねてしまった。一つ一つ階段を登るように、確実に一歩一歩登って来てしまった。

回り道、迷い道、いばら道の人生でここまで登って来てしまった。バラ色の人生を目指してきたのだから、これからもバラ色の楽園を夢見て生きたいが・・・。

いつの間にか歳月がすぎて、こんなに年老いてしまった。老いるってなんて恐ろしいことだ。まるでちょっと留守にして戻ったら、なん百年も過ぎていた浦島太郎のように、つい昨日までのような何気なく食べて、寝て、動いて、当り前の幸せから、なんと遠くに来てしまったもんだ。

身体のすべてが、なんの役にも立たなくなってしまった。これは悪い夢、そうに違いない。水気がなくなって、皺だらけの顔になって、鏡に映った自分の顔が信じられなくなった。

忘れものが多くなったり、簡単な字が書けなくなたり、通りを歩いても危ないと注意される。そうして他人から、“爺”と言われ、邪魔扱いにされてしまう・・・。
 
だけど、まだ、生きるしかない、誰も助けてくれない、代わってくれないし、恐怖の中で困難な日々を過ごすしかない。
 
だが、祈ることなら出来る。今、輝いている生命ために、命を得たものの、必ず老いて死ぬ宿命のために、でも、ひとり一人は、その人らしい道すじをたどり、幕を閉じていく・・・。こんなに、なえてしまった体力と気力で、自分らしさってなんだろう?。

とうとう、後戻りの出来ない岸壁までところまで来てしまったなんて、誰もが通る道、自分に通れないはずはないと思うのだが、この生命が終わるのが、恐ろしいし、いつまでも続くのも恐ろしい。

岸壁の下の潮流へ、時の中に飲み込まれてゆく、生命の愛しさ、哀しさ、うつろいゆく季節・自然 ・時代それは、創造と破壊の、宇宙の営みそんな、宇宙の懐に抱かれて生き、ゆだねて死んで行くしかないらしい。

老いてみて、初めて分かる生命の輝き、宇宙の大きな温かさ、老いるって、なんて恐ろしい。だけど、とっても素晴らしいことでもあるんだ。

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2010年2月21日 (日)

嫌消費から経済構造の変化

08gozo_beachl_11 素人目で、戦後から続いた日本経済は大きなターニングポイントに来たように思える。もうとっくに「消費は美徳」なんて言葉は無くなってしまった。そして、一時世間を席巻した、堀江さんのような、世の中をアッといわせる、開拓だましいの夢を描いている人がいなくなってしまったのか?

「車に乗らない。ブランド服も欲しくない。スポーツしない。酒は飲まない。旅行しない。恋愛には淡白。貯えはそこそこ確り」最近の若者の消費動向をそう分析している経済学者がいる。

「車を持っていないが、ぜひ欲しい」と思う人の割合も、2000年=48%から2007年=25%に大きく落ち込んでいる。シンプル族の台頭の時代?嫌消費(消費をしないわけではないが、他世代に比べて収入に見合った消費をしない)層が増えているそうだ。

いまの若者が目指すのは「実にまったりした、穏やかな暮らしだ」という。動機の多くは景気変動ではなく消費トレンドでもなく、経済や社会の構造変化で、その動きはもう戻らない非可逆的で景気が回復しても、20代を中心とした若年層が、期待されたほどに元気な存在となることはもう考えられない。

いまの若者の後に続く世代も恐らくスローライフ世代になる。こうした変化は成長、そして成熟は、結論的・結果的に落ち着く。そして、次の社会モデルを模索しなければならない時期に来ている。どうも北欧型の福祉社会?を目指すのではないかと思われる。

普遍的な社会保障を基本としているので、社会福祉や保健サービスは誰でも公平に受けることができ、その料金は、無料または、かなり低く設定されているというものだ。

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ノルディックスキー・ジャンプは、運・不運ある?

2010022100000004jij_vanpspoview0001 バンクーバー五輪は21日4時(日本時間)オリンピックの花と言うべき、ノルディックスキー・ジャンプが行なわれた。日本の期待した選手は、葛西紀明・伊東大貴、栃本翔平・竹内択の4人の選手が出場した。

特に、ノルディックスキージャンプは、125~145メートルも飛ぶので風の影響が多きいそうだ。だから、ちょうど良い風に恵まれるか、恵まれないかで大きな差が出ると素人は思うのだが、しかし審判の判断で、全選手同じ条件で飛べるように慎重に風の向き・強さなどを選んでいるから、実力8:運2ってところだと思う。

ただ、そうしていてもまれにスタート後の突然の風の変化による運・不運は多少あるが、どんなに風に恵まれても実力のある選手でないとその風を生かせないだろう。

今回のノーマルヒルで日本人選手のときに神風が吹いていたとしても遥かメダルには届かなかっただろう
1位がスイスのシモン・アマン、144㍍・138㍍2位がポーランドのアダム・マリシュ、3位がオーストリアのグレゴリア・レンツァウァー。メダルを取った3選手はみんな実力ある選手で運の要素など全く見られなかった

日本勢は葛西紀明が121.5メートルと135メートルを飛び8位に入った。伊東大貴は117メートル、128.5メートルで20位だった。栃本・竹沢は、一本目で30位以下となってしまって二本目飛ぶことが出来なかった。
 

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オバマ大統領とダライ・ラマ14世の会談

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15401 オバマ米大統領は18日、チベット仏教最高指導者ダライ・ラマ14世と大統領就任後初めて、ホワイトハウスで会談した。大統領はチベットの宗教、文化の尊重や人権の擁護を「強く支持」した。だが、今回の会談についていえば、中国の非難は的はずれだと思う。

中国は「チベット独立を支持した」と問題にしているが、大統領は昨年訪中したときに「チベットは中国の領土である」と明言し、独立と一線を画した。

ダライ・ラマ自身も「中国に要求しているのは独立ではなくチベットの高度の自治」という立場を以前から繰り返している。中国がそれを知らないはずはない。

チベットの独自の宗教に根ざした文化がさまざまな規制を受け、チベット人の抵抗、暴動が起きていることは世界に知られている事実だ。固有の文化と普遍的な人権の尊重を求めることがどうして「分裂の画策」になるのだろうか。中国の当局の強い非難は、理解出来ない。

中国の国情とは、漢民族の事情だけではない。チベットやウイグル民族、文化・民族の伝統のすべて含んだ包容力のある概念が「中国の国情」であるはずである。

チベットの民族文化の独自性は宗教にある。だとすれば、信仰の自由は「中国の国情」になんら反するものではない。チベットとの対話を再開し、ダライ・ラマの帰国を実現することが、中国にとっても最善の解決だ。

米中対立の本当の舞台は経済摩擦である。だが中国の台頭によって、基本的には、両国の世論には「相手に弱腰になるな」という空気がある。とくに中国のネット世論はもともと排外主義的な傾向があるようだ。中国政府も強気な態度を見せざるをえないのかも知れない。

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2010年2月20日 (土)

将来に備えて

Hiroshima101 坂本竜馬の残した人生訓

「世の人は、我を何とも言わば言え。 我が成すことは我のみぞ知る」

「世間の人は、言いたければ、自分の事を思う存分に言えば良い。だが、自分のやりたいことは、自分のみが知っている」

男児志をたてて郷関を出づ、学もし成らずんば死すともかへらず
坂本竜馬、数えで19歳の時、剣術修行のため、藩からいとまごいを許され、 土佐から江戸へ旅立つ時に、詠んだもの。 この江戸行きが、幕末の快男児の活躍の始まりになる。
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将来に備えて・・・
65歳以上の方は将来が不安と考えている人は多い。高齢化に対する将来の「自己防衛」として、早めの備えが必要である。昭和時代の二世代同居から核家族化に進んで、自分の身は自分で始末しなければならないと時代が近くまで来ているような気がする。
だから、私は故郷捨て、隣近所の友愛を断ち切って、静かにご隠居生活を模索している。
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若者たちも考えて・・・政治に関心を持って!
2050年…日本の総人口を占める65歳以上の割合が42.2%になり、老齢化のピークを迎えるのである。過去、どこの国も経験したことのない、驚異的老齢化社会が、21世紀末まで続く・・・。
どんな世の中になっているだろうか?…70歳以上の人は、働かないと年金は貰えないし、社会も経済も回っていかないだろう。

今は不況…失業率が上がった。デフレで、モノが売れないと騒いでいるが、これから先、世の中はもっと厳しくなることを覚悟しなければならない。

憲法で国民の権利が守られている。が、国民の4割が65歳以上になって、国は、私たちの生命・財産、最低限の生活を保障できるだろうか?

国の政策が信用できないなら、暮らしや家族は、自分で守らなければならない。一部政治家や、インチキ事業者のように、法律に違反してまで、不正をやって溜め込むことも出来ない。ならば、贅沢や無駄を慎み、出来るかぎりの貯蓄をしておかなければならない。

冬の時代が迫りつつある今、若者はそんな日本が嫌なら…どこか?暮らしやすい外国へ脱出することも選択肢の一つである。

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自分流スタイル

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24351 あんまり興味のない、バンクバーオリンピックだが、テレビをつけると、中継ばかりである。そんな中で、スノーボードの放送を見た。私は、鼻ピアス・髪など自分流のスタイル?はどうも受け入れられないものがある。

橋本聖子団長に説得されて、少しは、言動が変わったかに見えたのだが、生まれた環境からの性格がそのまま出てしまっているようだ。だから、世間では、親の躾・教育が話題となっているのではないかと思う。母親の「確り教育します」父親の「次はない」とバッサリと言う。

しかし、そんな話題沸騰したのか、テレビ視聴率は、NHKが中継したスノーボード男子ハーフパイプ決勝(日本時間18日午後0時15分)の視聴率は関東が17.5%、関西が12.5%(いずれもビデオリサーチ調べ)と、平日昼間にもかかわらず高視聴率を記録したということだ。

スノーボードの国母和弘選手の8位入賞を伝える新聞に「逆風」という言葉が目立った。「腰パン」などの服装や記者会見の言動に批判が集まった。そんな「逆風」にもめげず8位入賞した。どちらかというと、その「健闘」をたたえる書き方が多かったようだ。

会見での「チエッ」なども「口べただから」ということになった。まるで大人が寄ってたかって、口べたな青年をたたいていたかのようである。案の定、それを「日本社会の不寛容さ」のせいにしようという論調も現れた。だが、はたしてそんな問題だろうか。

オリンピック選手は、みな国を代表している。それならば選手団の制服をきちんと着るのは当然である。指導しない監督、コーチや苦言を呈さないマスコミがあれば、その方がおかしい。

この問題は、今後も議論があると思うが、家庭・地域・国の教育のあり方など注目されて来るだろう。

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2010年2月19日 (金)

つまづいたおかげで

08yokotesigai_yuukei21 思い出した詩がある。
相田みつをの詩で、自分に一番あった詩がある。私が最も心を震わせた詩だ・・・。

今から15年ぐらい前に新横浜駅構内で、横浜線から新幹線に乗り換えるため10段ぐらいの階段を上がろうとした時、足には自信があったので「つまづく」何んて思ったことがなかった。が、人生最大の油断?で階段を踏み外し転んでしまった。辺りに持っていた、旅行かばんから物が散乱してしまった。そして肘を痛めてしまった。

恥ずかしいやら、痛いやらで、悲しいほど悲惨な目に遭ってしまった経験がある。それ以来年齢のせいで仕方がないと・・・、自分の体力と自信を見直しをした。つまり、「年相応な行動」をとると言うことだ。そこで、こんなこんな詩を思い出した。

「つまづいたおかげで」

つまづいたりころんだりしたおかげで
物事を深く考えるようになりました。

あやまちや失敗をくり返したおかげで少しずつだが
人のやることを暖かい眼で見られるようになりました。

何回も追いつめられたおかげで
人間としての自分の弱さとだらしなさをいやというほど知りました。

だまされたり裏切られたりしたおかげで
馬鹿正直で親切な人間の暖かさを知りました。

そして
身近な人の死に逢うたびに人のいのちのはかなさと
いまここに生きていることの尊さを骨身にしみて味わいました。

人のいのちの尊さを骨身にしみて味わったおかげで
人のいのちをほんとうに大切にするほんものの人間に裸で逢うことができました。

一人のほんものの人間にめぐり逢えたおかげで.
それが縁になり次々に沢山のよい人たちにめぐり逢うことができました。

だからわたしのまわりにいる人たちはみんなよい人ばかりなんです。
              相田みつを「にんげんだもの」より

それ以来階段・エスカレーターは、確り手すりに手を添えて、歩くときのは踵から地面に着けて歩くように心がけている。

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自分の感受性くらい

3612 昨夜(2/18)のNHKラジオ深夜便でアンコール放送があった。〔わが心の人〕「茨木のり子」の詞を歌う、シンガーソングライター 吉岡しげ美さんの話であった。その放送を聴いて思い出したのが『自分の感受性くらい』である。
“時代のせいにすることは自身の尊厳の放棄”…これ、大事なことだ。これは、戦時中に生活から芸術・娯楽が消えていく中で思っていた事だそうだ。
本音で人の心をえぐるような訴えは、見事なまでの表現である。私も戦前生まれ、彼女と同じに戦争を体験してきた人間である。
戦争の空しさ、敗戦で荒んだ心、やり場のない嘆きなど体験してきた。『自分の感受性くらい」は「自分の心で受け止め」、“生きろよ!”と叱咤されたようだ。
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自分の感受性くらい』
.
乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて
.
気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか
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苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし
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初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志しにすぎなかった
.
駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄
.
自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ
.
あぁーなるほどなぁー

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八手の葉を見て

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Yatude1 冬のこの時期に八手の青々とした葉を見ると、心が和む思いがする。その植物の環境を大切にして行きたいと思う。植物にとって過ごしやすい環境の3大要素は、日光(日当たり)、水、土である。

自然の条件で植物の種類が違ってくる。その土地・水質・気候条件などで植物は選別されるのである。熱帯・亜熱帯・寒帯などで植物は選別されて、その地に合った植物は育つのだと思う。

植物にとって根は、動物に例えるとおなかの中の内臓のようなもだ。あまり負担をかけずに大切に守ってあげなければ生育しない。また、その環境が合わなければ根が腐ったり、生育が悪くなったりする。

植物が育つ良い条件がある。①通気性 ②保水性 ③保肥性 ④弱酸性である。冬でも青々とした八手の葉っぱを見ると、太陽のエネルギーを一杯受け入れて、寒い冬を乗り切って春を待つ、そして四月になると新しい葉が芽生えて成長するのを見届けて、枯れて散っていくのである。だから八手は、一年中葉は、青く見られる。いわゆる常緑樹である。

冬に落葉樹ばかりの雑木林の中で、ひときは目立つ常緑樹が目に入り、とホッとするのであるが、よく見ると、赤い実をつけている「青木」である。ミズキ科の常緑低木で、葉は厚くつやがある。橙赤色で楕円形である。

夏には大きな落葉樹の中にあって、太陽のエネルギーを十分受けられないのか、冬葉が落ちて太陽を一人占めしているかのように、生き生きとした葉っぱである。なんだか心が豊かになるエネルギーをもらったような気がする。人間にもそんは人がいるかも知れない。

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2010年2月18日 (木)

手紙~親愛なる子供たちへ

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06oga_toga11 今朝NHK深夜便「心の時代」でシング・ソングライターの樋口了一さんが出演で、『老いた親から子どもへの思いを歌に』のテーマであった。手紙の内容が今の私の思いが重なるようで、私も子供たちに送ってみたいような気がした。

作詞:不詳・日本語詞:角智織補作詞:樋口了一

手紙~親愛なる子供たちへ(元々はポルトガル語で書かれた差出人不明の一通のメール) 

年老いた私がある日、今までの私と違っていたとしても 、どうかそのままの私のことを理解して欲しい。私が服の上に、食べ物をこぼしても、靴ひもを結び忘れても、あなたに色んなことを教えたように 見守って欲しい。

あなたと、話す時 同じ話を何度も何度も繰り返しても、その結末をどうかさえぎらずにうなずいて欲しい。あなたにせがまれて、繰り返し読んだ絵本のあたたかな結末は、いつも同じでも私の心を平和にしてくれた。

悲しい事ではないんだ 消え去ってゆくように見える私の心へと励ましのまなざしを向けて欲しい楽しいひと時に 私が思わず下着を 濡らしてしまったりお風呂に入るのをいやがるときには思い出して欲しい。あなたを追い回し 何度も着替えをさせたり 、様々な理由をつけていやがるあなたと、お風呂に入った。

懐かしい日のことを悲しい事ではないんだ。 旅立ちの前の準備をしている私に 祝福の祈りを捧げて欲しい。私の姿を見て 悲しんだり 自分が無力だと思わないで欲しい。

あなたを抱きしめる力がないのを知るのはつらい事だけど、私を理解して支えてくれる心だけを持っていて欲しい。きっと、それだけで 私には勇気がわいてくるのです。

あなたの人生の始まりに、 私がしっかりと付き添ったように 私の人生の終わりに、少しだけ付き添って欲しい。

あなたが生まれてくれたことで、私が受けた多くの喜びとあなたに対する変わらぬ愛を持って、笑顔で答えたい。私の子供たちへ。愛する子供たちへ。

最近核家族化が進んで、子供・孫達が、人間は老人になって死んで行く姿(ドラマ)を知らない。早いか、遅いかあるが誰でも通る道である。「生・老・病・死」の過程を確り持って人生観を持つ子供になって欲しい。

そして、次世代に繋げていくことは大事な大人の役目でもある。日頃から気になっていることで、この手紙は納得いく内容だと思った。

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2010年2月17日 (水)

NHK朝ドラ「ウエルかめ」より

Tonomura11_2  今朝NHK朝の連続ドラマ「ウエルかめ」を見ていた(時々見るくらいである)が,その一場面に四国の田舎に何も前に旦那さん亡くされ、一人暮らしをしている90歳になるという、お婆さんの取材場面であった。

結婚したばかりの波美にお婆さんは、別々な木が長い間、年月をかけ寄り添って一本の木になるという「連理の枝」の話をした。波美はその話を聞いて勇気が出るというシーンがあった。

そこで、「連理の枝」とはを調べてみた。
玄宗皇帝と楊貴妃との悲恋を謳った「長恨歌」は、中唐の代表的詩人白居易、の代表傑作といわれる。その中に次のような一節がある。「比翼の鳥」と「連理の枝」である。

若い夫婦に元気付けるいい言葉と思った。

天に在りては願はくは比翼の鳥と作(な)
地に在りては願はくは連理の枝と為らん
天長地久 時有りて尽くるも
此の恨み 緜緜
(めんめん)として絶ゆる期(とき)無からん

『天に在りては願はくは比翼の鳥と作(な)地に在りては願はくは連理の枝と為らん天長地久 時有りて尽くるも此の恨み 緜緜(めんめん)として絶ゆる期(とき)無からん 』男女の契りの深いことのたとえ。夫婦の仲のむつまじいこと。

悠久の天地もいつか滅びる時があるかもしれないが、「天空の比翼の鳥」や「地上の連理の枝」のように、我らの恋の情念は絶えるときはないと、二人の愛情を高らかに謳う。

ここに、もともとそれぞれ独立していた「比翼の鳥」と「連理の枝」は、男女の固い契りをたとえる成語「比翼連理」となり、今日に至っている。

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風邪を引く

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05detohama11 16・17日と鬼の霍乱?このところ2・3年風邪を引いたことがないが、一昨日の朝何時ものように朝起きてみて、体調が何時もと違った。なんだか熱っぽい。身体の節々が痛い。私の平熱は35.5ぐらいだ。それがなんと37.3度であった。やがて喉が痛くなり、鼻水が止まらない。とうとう医者に見てもらうことに、医者は微熱といったが、熱のためか息も苦しく感じられた。

私は以前から、風邪の予防注射はしたことがない、まして新型インフレ注射はしていない。妻からするように進められているのだが、どうしても風邪の予防注射は信じられないのだ。

熱といえば、人気?『体温を上げると健康になる』の著者・齋藤真嗣氏によると、日本人の平均体温が低下している。1950年代に36.8~36.9℃だった日本人の平均体温は、2009年には36.2℃まで低下。同氏が3年間で治療した患者1万2000人の95%以上が、平均体温36℃以下の「低体温症」だったという。

平均体温が低下して最も恐いのは、「免疫力」が弱まることだ。「体温が1℃低くなると、免疫力は30%低下する」と齋藤氏。寒い冬には、風邪や肺炎、脳卒中、心筋梗塞など循環器系のみならず、あらゆる病気での死亡率が高くなるのはそのためだそうだ。

人間は健康人でも1日5000個のガン細胞ができる。しかし本来はそれを免疫細胞(リンパ球)が死滅させてしまうので問題ないのだが、体温が下がり免疫力が落ちると、ガン細胞を殺し切れないばかりか、増殖させてしまう。平均体温35℃台が、ガンが最も増殖しやすい「適温」だそうで、平均体温を1℃上げると体内の5000種以上ある酵素の働きが活発化、今度は免疫力が「5倍以上アップする」という。

低体温化を招いた原因は、生活環境の変化に伴う自律神経の乱れ、エアコン普及による発汗機能の低下、生活苦や人間関係、家庭問題に起因するストレス等々さまざまだが、最大の理由は「運動不足による筋肉の弱化」だそうだ。

「筋肉」は、体温の40%を生み出す人体で最大の「熱」生産器官。寒かったり小便の後に体が震えたりするのは、筋肉を震わせることで体温を保とうとする重要な役割を担っていることを表している。だから、運動不足で筋肉が弱まると、平均体温が下がってしまうという。

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2010年2月15日 (月)

「知」・「信」の関係

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13_10241 昨夜、夢の中で座禅をしている自分姿を見た。なぜだか分からないが不思議であり、座禅の真髄を考えて見たり、私は鎌倉の建長寺が印象的で心にあり、よく足を運ぶからだろうと・・・。

臨済宗建長寺派の大本山。 建長5年(1253)北条時頼が蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)を開山として創建した、わが国最初の禅の専門道場である。そんなことから「知」「信」という関係を考えてみた。

知は信に基づき、信が知を求める。信があって知が始まる。知の活動に入るのは真理が存在することを信じるので、禅の「只管打座」のような本当の知識を求める行の根底には信があり、信と知、信と行とは一体化しているのだと思う。

知=いわゆる五感に代表されるような感覚機能によってなされる。

信=五常(仁・義・礼・智(ち)・信)の一にあげられ、友情に厚く友を欺かない。

只管打坐(しかんたざ)とは・・・

禅宗には曹洞宗、臨済宗、黄檗宗(おうばくしゅう)の3つの宗派がある。それぞれの開祖は、曹洞宗は道元、臨済宗は栄西、黄檗宗は隠元である。

道元と栄西は、日本の僧で中国へ留学して禅を学び、隠元は、中国僧で日本に渡り帰化し禅を広める。インゲン豆は隠元禅師が中国から持ってきた豆でよく知られている。

道元の坐禅は、「只管打坐(しかんたざ)」である。「ただ ひたすらに坐る」という意味である。「それに成りきること」であり、坐禅は、坐ることに成りきることである。体と心が一つになるということである。

背筋を伸ばし体が真っ直ぐになれば、心が真っ直ぐになる。心が真っ直ぐになれば、思うことが真っ直ぐになる。「形は心をつくる」ということである。座禅という行の根底には信がある。

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2010年2月14日 (日)

春先の雪が心配

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08muhyo_omono_tyokai11 坂道を のぼりつめて 雪となる

福島の母畑温泉は、阿武隈山地といわれる高原の山あいにあるホテルである。先だってバスで一泊旅行をしてきたのだが東京から東北自動車道路で那須インターから途中昼食をとって一般道でホテルに着いたのであるが、出かけるときは小雨だったが、さすがに北国で雪となってしまった。

それでも道路には積もっていなく、チエーンは必要なかったが、ホテルは相当高い所にありのぼりつめた感じだった。ホテルに到着してから、雪はだんだんと降る量が多くなってきたのだ。露天風呂から見る木立に白く覆われた雪の光景はまた、格別であった。

バレンタイン 妻から一つ チョコもらい 

今日は14日バレンタインである。妻から、チョコレートを一つもらい食べた。糖尿病の予備軍と医者に宣告され甘い物は、特に気をつけているので、妻もよく知っているが、一つぐらいはいいだろうと言うことだ。

春の東海・関東地方は、西から前線が近づくと雨から雪に変わることが多い。東京地方に大雪が降る時期は春先で水気を一杯含んだ雪である。そのため山の木特に杉などの倒れる事が多い。

我が家ででは、玄関先ある真木の木である。何回も雪を落とさないと枝が折れる心配だ。今日は、朝から晴れているが西日本は雨で明日は下り坂で、東日本では雨または雪という天気予報だ。

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2010年2月13日 (土)

心温まるはなし

08nangodake_sandou11 昨日、福島県石川町母畑温泉旅行で帰りのバスの車中で、旅行ツーリストの方が持ってきた。DVDで、福岡県南蔵院二十三代住職・林覚乗和尚の「同行二人」は感動した。

今、世の中で忘れかけているものは何か。「ゆたかな心」をそれぞれがそれぞれの役割の中で大切にする。「ゆたかな心」とは・・・。みんな、忘れかけていた何かをつかもう。

人には、それぞれの人生があり、生きていること、活きていられることに、意味があるということ、そして、人に与えるということは、それだけで自分も与えられているのだということを、心温まる話とともに分かりやすく説いている。 経験・知識の勉強は積んでいると思っていても、これを生かす「心の勉強」は置き去りにされてはいないだろうか・・・。

かけがえのない自分を発見することこそ、自分を育てること。自分が好きになってこそ、相手を理解することができ、好きになることができる・・・日常のささやかな出来事のなかに大きな価値を見つけることで、心のゆたかさや出会いの素晴らしさを説いていきます。

面白さの中に、感動を覚えるお話で、さすがに年間250回以上の講演をされている方だと思いました。ツボを心得ているので、人の心の奥深く眠っている何かを目覚ましてくれたような感覚になった。 

ビジネスクラブセミナー・檀家へ説教を説き聞かせるのではなく、博多弁をまぜながら、笑い・涙ありと退屈しない話で、皆様に大変好評であった。経験・知識の勉強は積んでいても、これを生かす「心の勉強」は置き去りにされていないか。素晴らしい講演内容であった。

心温まる話は、慌しい現代では時々必要で、本当の人間の姿を映す鏡のようなもので、大事にしていかなければならないと思った。眠っていた心を揺り起こされた気分でもあった。



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2010年2月12日 (金)

旅行二日目のこと

Yahataya11 旅行二日目バス8台、323人となった大集団で、どこの休憩所でも、混雑してしまい、お土産物の買い物が大混雑となった。しかし、特に大きなトラブルもなく、無事二日目も終了することが出来た。

夜には天気予報通り、ホテルのある福島石川町辺りは雪となって、露天風呂から見る雪は、普段と違った旅情気分を味わえた。

ホテル八幡屋の規模の大きさと施設の充実さ、大浴場の湯量の多さなど、数少ない私の旅の経験では、特筆すべきと思った。ホテルの従業員の対応も良い印象であった。

帰りに寄った、塩屋の岬は、雪空の太平洋からくる潮風はさすがに冷たく、身体がしんから冷えてしまった感じである。時間がない関係で灯台は登らなかったが見上げる白い灯台と付近の枯れ草の強い風に枯れ草が、たなびくさまは、見ていると一層寒さを感じさせられた。

「いわき・らら・ミュウ」と言う魚販売総合施設で買い物はさすがに施設の大きさなどから、バス8台分323人の人数などは、問題もしなかった。

一杯のお土産物をかって、満足そうに引き上げてくるお客で、バスのトランクは満杯ってしまったようであった。

帰り中央高速道路で事故渋滞に遭って、30分ぐらい予定より遅れたが全員無事帰ってくることができて、スタッフの一人として良かったと思った。ちょっと疲れたなぁー。

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2010年2月11日 (木)

久しぶりの旅行

08yokotesigai_yuukei21 今日は、久しぶりバス旅行である。『後援会のふれ愛旅行』目的地は、福島県石川町の母畑温泉 八幡屋である。バス8台331名と大勢である。私は、どうしてなのかフタッフに選ばれた。

心配は、天気である。どうも雪?雨のようだ。自分の身体も心配だが、同行する連中がみんな年寄りで、足元がおぼつかない人ばかりである。雪があったり、濡れた路面などが自分を含めて心配である。

独りで行動したり、忘れ物をしたり、時間を守らない人が出ると予想するのである。まぁーそんな取り越し苦労しても仕方がない。

普段「交通安全の碑」をきれいに掃除しみんなの交通安全に注意を願っているから、大丈夫と信じたい。

とにかく11日・12日の二日間、スタッフとして気をつけて行ってくる。

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2010年2月10日 (水)

春を呼ぶこぶしの花

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1199679946406161252701_2 天を突く こぶしにためる 春陽気

昨日は、東京地方は20度と四月の陽気になった。コートどころれはなく、上着までいらないくらいであった。近くの公園のこぶしの木の枝の先には、開花のた意地らしいほどにジッと堪えているように感じた。立春を過ぎ、光りが存分にあふれる頃になると、あちらこちらの梢の先がほの赤く染まってくる。

鳥のさえずりも、一オクターブ高くなったように聞こえる。そして、木々の芽吹きを思うと、亀が手足を出すにも似て、もそもそっとくすぐったい心地となる。

葉を落し、ふたたび芽吹く木の循環。幹を身体にたとえれば、払い落した指の場所からまた指先が生えてくるようだ。溜めていたエネルギーを徐々に燃やし始めているようでもある。

蘇生=息をふきかえすこと。生き返ること。よみがえること。となっているが春は生き物全てが甦るスタートである。大きく羽ばたく鳥であったり、光を取り込む葉っぱとなる草木であり、人のまた自然の恩恵を受け、飛躍するのも春である。

引きかえ、ほとんど再生不能な人間が苦しいほど不器用に生きているように見えてならない。再生の利かない年になった自分が情けないやら、諦めやら、大木となった楠の枝先にしっかり青々した葉を見上げてため息をついてしまった。

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ゴールデン・チェりーを見て

Goldenchery1 ゴールデン・チェリーの雛が生まれた。我が家で昨年から買っている、小鳥である。卵は五つ産んだのだが、孵ったのは一羽だった。他の四つは何時の間にかなくなってしまった。多分親が食べてしまったのだろう。

誰にも教わらず、本能で「子孫を残す」という自然の営みは、ゴールデン・チェリー原産地は、中央アフリカだそうだ。色の鮮やかなことで、人に飼われて、たどり着いてその子孫が私の家に、飼われている。

生まれたばかりの雛を人間の手で育てると、手乗りとなって飼う事ができると小鳥屋さんのおばさんが言っていたが、どうも面倒で、そのままにしておいたら、二ヶ月ぐらい経ってから、親鳥が、その子供を苛めるようになった。どうやら邪魔な存在?それと、次の子孫を残そうとしたのだろう。巣箱に五個の卵があった。

子孫を残そうとする本能で、狭い鳥かごでは次の子は育てられない。だから早く「別なところで子孫を残しなさい」と言うことだと思う。遠いアフリカの自然の中で生きてきた小鳥が、人間の勝手な欲くで、ペットとして人に飼われてしまったのである。

人間にも、親から生まれた時から手は何かを掴もうとしている。そして親の手で育てられる。生まれて育てられるが、面倒を見てくれる人が親と思い込んでしまう。その親が適切・不適切であろうと、なかろうと育ててくれる人の生き方を学習してしまうのである。

そんなことを考えると、そのまま今の若者たちを表わしているように思えてならない。親たちは、手取り足取り、決して間違いのないように、小さいときから子供を導いいている。

しかし、親の導き方しだいで、大きくなって問題を起こす、その問題ということはその子は親からの学習してきたことなので、生きるための手段であり、当たり前のことであり、悪いこと良いことの判断基準がない。我が家のゴールデン・チェリーと同じであると、おもったのである。

何もかもが自分の思い通りになり、決して悪く言われることなどなかった者が、初めて自分を否定されたときのショックというのは、どれほどのものであろうかと、叱られて叱られて大きくなったにもかかわらず、やっぱり今でも叱られると、めげてしまう私は、その精神的な打撃は同情に耐えない。               

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2010年2月 9日 (火)

人間の死とは

1231 生れてきて欲しくなかった狂暴な若者がいるように、もう生きてて欲しくないようなずうずうしい高齢者もいる。老いてなお美しいと言われる人が備えている尊厳というものは、経験の量が必要条件だが、同じ時間でも中身の濃さが違えば雲泥の差になる。

尊敬されるまでに達するかどうかは人それぞれである。自助努力を続け、後進に多くを残してきた人の長寿なら喜べるけれど、人間の終末期は、自分自身ではコントロールできないし、努力しても死にかたは天命であり、周りに面倒かけてしまう。

アメリカのレーガン元大統領だって、予想もしない病気になって自分自身を見失って亡くなっている。一庶民の生存意義なんて、本人にしかわからないのだから、偉そうに言えたもんじゃない。

限界まで看取られるのは、人間だけである。そして、病院で生命維持装置までつけて生かされているのは生命のルールへの冒涜ではなかろうか。もちろん鋭い精神価値を生み出している人もいるだろうが、脳死状態となっても、生きているという倫理観は、今後見直されていくべきだ。

確か、に素晴らしい社会貢献した方や、スポーツマンで活躍された方など将来有望な選手などが、事故などで突然倒れてしまい、あらゆる処置を施したが、草食人間になってしまったという人もいる。

生きるという事は死んでいないだけでは片付けられない、倫理観や、価値観などの相違で大きな社会問題となり、その時代背景も加わり結論づけることは、将来的にも難しい事だ。

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葉っぱのフレディ

Shirakaba_b1 葉っぱのフレディ(いのちの旅) レオ・バスカーリア作 みらい なな訳

NHKラジオ深夜便「心の時代」今朝放送があった。アンコール放送で、出版社社長の田中和夫さんであった。話の中に「葉っぱのフレディ」という童話に感動したので記してみた。

春が過ぎて夏が来ました。葉っぱのフレディは この春 大きな木の梢に近い 太い枝に生まれました。そして夏にはもう 厚みのある りっぱな体に成長しました。五つに分かれた葉の先は 力強くとがっています。

フレディは数えきれないほどの葉っぱに とりまかれていました。はじめはフレディは 葉っぱはどれも自分と同じ形をしていると思っていましたが やがて ひとつとして 同じ葉っぱはないことに 気がつきました。となりのアルフレッド 右側のベン すぐ上のクレアは女の子です。

みんな春に生まれていっしょに大きくなりました。春風にさそわれて くるくる 踊る練習をしました。日光浴のときは じっとしているのがよいということも覚えました。夕立ちがくるといっせいに雨に体を洗ってもらいました。

フレディの親友は ダニエルです。だれよりも大きくて 昔からいるような顔をしています。考えることが好きで 物知りでした。ダニエルはフレディに いろいろ教えてくれました。フレディが木の葉っぱだ ということ。木の根っこは 地面の下にあって 見えないけれど四方に張っていて だから木は倒れないこと。

目の下にあるのは公園で おはようとあいさつにくるのは小鳥たちであること。月や太陽や星が 秩序正しく 空をまわっていること。そしてめぐりめぐる季節のことなど みんなダニエルが教えてくれたことです。

フレディは「葉っぱに生まれて よかったな」と思うようになりました。友だちはたくさんいるし 見はらしはよいし 枝はしなやかだし その上 風通しも日当たりも申しぶんなく お月さまは銀色の光りで照らしてくれるからです。

夏になると フレディは ますますうれしくなりました。お日さまが早く昇って おそく沈むので たくさん遊べます。 かんかん照りの暑さは なんて気持ちがよいのでしょう。夜になっても 昼間の暑さが残っているのですから フレディは気持ちがよくて 夢をみている気分です。

公園に 木かげを求めて 大ぜいの人がやってきました。ダニエルは立ちあがり「さあ体を寄せて みんなでかげを作ろう。」と呼びかけました。フレディは ダニエルに たずねました。「どうして そんなことをするの?」するとダニエルは「暑さから逃げだしてきた人間に 涼しい木かげを作ってあげると みんな喜ぶんだよ。」と言いました。ダニエルの言ったとおりでした。木かげに おじいさんやおばあさんが 集まって来ました。子どもたちも来ました。お弁当を広げる人もいます。フレディたちは 葉っぱをそよがせて 涼しい風を 送ってあげました。「フレディ これも葉っぱの仕事なんだよ。」

ダニエルの話を聞いて フレディはますますうれしくなりました。老人たちは木かげから出ないで小声で昔の思い出を話しているようです。子どもたちは 木に穴をあけたり 名前をほったり いたずらもするけれど 笑ったり走ったり 生き生きしています。

けれど 楽しい夏はかけ足で通り過ぎていきました。たちまち秋になり 十月の終りのある晩 とつぜん寒さがおそって来ました。フレディも 仲間のアルフレッドも ベンもクレア
も ぶるぶるふるえました。みんなの顔に 白く冷たい粉のようなものがつきました。朝になると 白い粉はとけて 雫がキラキラ光りました。

「霜がきたのだ。」とダニエルが言いました。もうすぐ冬になる知らせだそうです。緑色の葉っぱたちは一気に紅葉しました。公園はまるごと虹になったような 美しさです。アルフレッドは濃い黄色に ベンは明るい黄色に クレアは燃えるような赤 ダニエルは深い紫色に そしてフレディは赤と青と金色の三色に変わりました。なんてみごとな紅葉でしょう。

いっしょに生まれた 同じ木の 同じ枝だの どれも同じ葉っぱなのに どうしてちがう色になるのかフレディにはふしぎでした。「それはねー」とダニエルが言いました。「生まれ
たときは同じ色でも いる場所がちがえば 太陽に向く角度がちがう。風の通り具合もちがう。月の光 星明かり 一日の気温 なにひとつ同じ経験はないんだ。だから紅葉するときは みんなちがう色に変わってしまうのさ。」

風が変わったのは そのあとでした。夏の間 笑いながらいっしょに踊ってくれた風が 別人のように顔をこわばらせて 葉っぱたちにおそいかかってきたのです。葉っぱはこらえきれずに吹きとばされ まき上げられ つぎつぎと落ちていきました。

「さむいよう」「こわいよう」葉っぱたちはおびえました。そこへ 風のうなり声の中からダニエルの声が とぎれとぎれに 聞こえてきました。

「みんな 引っこしをする時がきたんだよ。とうとう冬が来たんだ。ほくたちは ひとり残らず ここからいなくなるんだ。」

フレディは悲しくなりました。ここはフレディにとって 居心地のよい夢のような場所だったからです。「ぼくもここからいなくなるの?」「そうだよ。ぼくたちは葉っぱに生まれて 葉っぱの仕事をぜんぶやった。太陽や月から光をもらい雨や風にはげまされて 木のためにも他人のためにもりっぱに役割を果たしたのさ。だから 引っこすのだよ。」とダニエルは 答えました。「ダニエル きみも引っこすの?」とフレディはたずねました。

「ぼくも引っこすよ。」「それはいつ?」「ぼくのばんが来たらね。」「ぼくはいやだ! ぼくはここにいるよ!」とフレディは おお声で叫びました。

アルフレッドもベンもクレアも そのとき が来て引っこしていきました。見ていると風にさからって枝にしがみつく葉もあるし あっさりはなれる葉っぱもあります。やがて木は葉を落として 裸どうぜんになりました。残っているのは フレディとダニエルだけです。

「引っこしをするとか ここからいなくなるとか きみは言ってたけれどそれはーーー」とフレディは胸がいっぱいになりました。「死ぬ とういうことでしょ?」ダニエルは口をかたくむすんでいます。

「ぼく 死ぬのがこわいよ。」とフレディが言いました。「そのとおりだね。」とダニエルが答えました。「まだ経験したことがないことは こわいと思うものだ。でも考えてごらん。世界は変化しつづけているんだ。変化しないものは ひとつもないんだよ。春が来て夏になり秋になる。葉っぱは緑から紅葉して散る。

変化するって自然なことなんだ。きみは春が夏になるとき こわかったかい? 緑から紅葉するとき こわくなかったろう? 「ぼくたちも変化しつづけているんだ。死ぬというのも 変わることの一つなのだよ。」

変化するって自然なことだと聞いて フレディはすこし安心しました。枝にはもう ダニエルしか残っていません。「この木も死ぬの?」「いつか死ぬさ。でも”いのち”は永遠に生きているのだよ。」とダニエルは答えました。

葉っぱも死ぬ 木も死ぬ。そうなると 春に生まれて冬に死んでしまうフレディの一生には どういう意味があるというのでしょう。「ねえ ダニエル。ぼくは生まれてきてよかったのだ
ろうか。」とフレディはたずねました。ダニエルは深くうなずきました。「ぼくらは 春から冬までの間 ほんとうによく働いたし よく遊んだね。まわりには月や太陽や星がいた。

雨や風もいた。人間に木かげを作ったり 秋には鮮やかに紅葉してみんなの目を楽しませたりもしたよね。それはどんなに 楽しかったことだろう。それはどんなに 幸せだったことだろう。」

その日の夕暮れ 金色の光の中を ダニエルは枝をはなれていきました。「さようなら フレディ。」ダニエルは満足そうなほほえみを浮かべ ゆっくり静かに いなくなりました。

フレディは ひとりになりました。次の朝は雪でした。初雪です。やわらかでまっ白でしずかな雪は じんと冷たく身にしみました。その日は一日中どんよりしたくもり空でした。日は早く暮れました。フレディは自分が色あせて枯れてきたように思いました。冷たい雪が重く感じられます。
 
明け方フレディは迎えに来た風にのって枝をはなれました。痛くもなく こわくもありませんでした。フレディは 空中にしばらく舞って それからそっと地面におりていきました。

そのときはじめてフレディは 木の全体の姿を見ました。なんてがっしりした たくましい木なのでしょう。これならいつまでも生きつづけるにちがいありません。フレディはダニエルから聞いた ”いのち”ということばを思い出しました。”いのち”というのは永遠に生きているのだ ということでした。

フレディがおりたところは雪の上です。やわらかくて 意外とあたたかでした。引っこし先は ふわふわして居心地のよいところだったのです。フレディは目を閉じ ねむりに入りました。フレディは知らなかったのですがーーーー冬が終わると春が来て 雪はとけ水になり 枯れ葉のフレディは その水にまじり 土に溶け込んで 木を育てる力になるのです。

”いのち”は土や根や木の中の 目には見えないところで 新しい葉っぱを生み出そうと 準備をしています。大自然の設計図は 寸分の狂いもなく”いのち”を変化させつづけているのです。  また 春がめぐってきました。

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2010年2月 8日 (月)

トヨタ「プリウス」の問題

539571 トヨタ自動車の、ハイブリッド車の「プリウス」で品質に対する疑いの広がりと深さは「危機的な状況」になっている。最高CEOである豊田章男社長が、2/5に記者会見をし謝罪した。

早かったのか、遅かったのか分からないが、アメリカのメデアは、感情的な面から当然遅かったといっているようだ。あくまでも感覚の問題で、設定を変えれば違和感も消え、「構造的、設計上の欠陥はない」と主張している。

トヨタが生み出す製品と、トヨタというグローバル企業の言動への期待や影響力は、当事者が考えている以上に大きいと言える。メーカーにすれば、「欠陥」と呼ぶほどの重大性はないのかもしれない。

しかし、安全のカギを握るブレーキに違和感のある車は不安で仕方ない。凍結路面などで起きやすいのなら、なおさらである。こうした措置を「品質改善活動の一環」として公表しなかったのも釈然としない。

プリウスは革新的な技術の結晶だが、先進技術も安心して使ってもらってこそ意味を持つ。メード・イン・ジャパンが「安かろう悪かろう」の代名詞だった時代、日本の技術者と企業は小さな実績を積み重ね、評判を覆していった。

日本製品の生命線である高品質と安心感のブランドが築かれた。トヨタは信頼回復の取り組みを通じて、そのことを再確認してほしい。

トヨタがこんなことになるとは、マーティは夢にも思わなかった。米メディアから連日激しい批判を受けている。売りだった信頼は大きく揺らいでいる。もちろんすべての日本製が揺らいでいるわけではない。

なぜか日本が世界誇れる、自動車業界の巨人トヨタは、大胆な拡大路線で、一時は「世界一」にまでなったが、いったん問題が起きれば、そのマイナスの影響もサイズに見合って巨大だ。そして、そのことが日本のイメージに大きく係わっていくので私ごとのように思え心配なのである。

一部カナダなどでは、行的な見方をしているという。確かにアメリカの感情的なメデアで、誇張しているきらいがある。高失業者で、苛立が多いのも原因があると思う。

しかし油断や慢心があれば、たちまち評価は一変すると、今回の騒動は教えている。30年後、今は軽んじられている中国製などが評価を一変させている可能性もないとは言えない。

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ねずみを捕らない猫

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07rose_ame21 “飽食の時代”に溺れて骨抜きになるのは、今や人間ばかりでなく、ペットなど動物にも広がっている。犬や猫はただ可愛ければいいとばかりに“温室育ち”にした結果、今や周りは番犬としては役立たずの犬や、ねずみを捕らない猫だらけ。番犬やねずみを捕る猫の方が珍しい時代である。

むかしは、農家が多かった。私は小作農の生まれで育った。楽な生活ではなく家の手伝いは学校・行き帰り以外行なっていた。そして、どこの家にも猫が飼われていた。餌といえばいわゆる冷や飯に鰹節をかけるのが普通であった。当然缶詰などのペットフードなどなかった。

農家の米倉にねずみがいて、猫の仕事はねずみをと捕ることだった。だから、よくねずみを捕って座敷でもて遊んで最後は頭から、食べている光景を目にしたものである。現代はスーパーやペットショップで猫用食品を買ってきて食べさせているそうだが・・・。

そのため、栄養の取りすぎで肥満になって、歩くのもままならない猫を見かけるが、あの姿ではねずみなどを捕獲する能力はないのは言うまでもない。

猫・人間にもそのことは言えるのである。身体を使わないで、栄養価の高い食べもを食べていれば、余病が出るのは当たり前である。糖尿・高血圧・高脂血症などの生活習慣病になってしまっている。

本当の愛猫家は、その事をどこまで理解しているのだろうか?私の近所にも、飼うのは本人の自由だが一人暮らしのお婆さんが、六匹も飼っていている。その猫たちは、私の庭に糞をしていくので、匂いが堪らない。処分はなんで自分がやらなければいけないのか怒りを覚えるのである。

少なくても、猫が家で飼われた本来をもう一度考えて飼って頂きたいと今朝も庭の糞を片付けながら思った。

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2010年2月 7日 (日)

生きる意味が分からず

07akitakoma_sumire11 人の世に生きる真髄を探求し、70歳を超えても人間の生きる意味が判らず、迷う心に苛立ちさえ起こる。迷い・悩んでいる今日この頃である。まあー死ぬまで考えてしまい結論は出ないだろうが・・・。

鴨長明(1155~1216)「方丈記 」にその一端が見えるような気がするのだが・・・・
「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。

玉しきの都の中にむねをならべいらかをあらそへる、たかきいやしき人のすまひは、代々を經て盡きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。或はこぞ破れてことしは造り、あるは大家ほろびて小家となる。住む人もこれにおなじ。

所もかはらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。あしたに死し、ゆふべに生るゝならひ、たゞ水の泡にぞ似たりける。知らず、生れ死ぬる人、いづかたより來りて、いづかたへか去る。

又知らず、かりのやどり、誰が爲に心を惱まし、何によりてか目をよろこばしむる。そのあるじとすみかと、無常をあらそひ去るさま、いはゞ朝顏の露にことならず。

或は露おちて花のこれり。のこるといへども朝日に枯れぬ。或は花はしぼみて、露なほ消えず。消えずといへども、ゆふべを待つことなし。』およそ物の心を知れりしよりこのかた、四十あまりの春秋をおくれる間に、世のふしぎを見ることやゝたびたびになりぬ。」

三法・四法で解いている。三法とは、「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」の三つを言う。従って、三法とは、「三つの仏教を特徴づける真理」と言う意味である。この三法の特徴を持っているものが仏教であり、無ければ仏教ではないということである。この三法に、「一切皆苦」を加えて四法と呼ぶこともある。

『時間の大切さ』 『絶対の存在はない』 『改革の必要性』を解いている。
平家物語の「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を顕はす。奢れる者久しからず、ただ春の世の夢の如し。猛き人も遂には滅びぬ。偏に風の前の塵に同じ。」 平家の栄華と没落を描いた軍記物語である。

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霜の朝

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386351 盛り籠を 壊してさみし 霜の朝

兄の葬式が終った。葬儀を飾った、盛り花・盛り籠と位牌などを家に引き取った。一夜明けた朝、子供たちが盛り籠を壊し、近所にお手伝いをしてくれた方に、供物をお裾分けをした。 これで、兄の存在が本当消失してしまったのかと思うと子供の頃の思い出がよみ返ってきてしまった。

このところ、何年ぶりかの寒波で、日本列島震えてしまっている。日本海側では、猛吹雪、太平洋側は、乾燥した北風が吹き荒れている。 何年ぶりかなー我が家の庭も霜柱が立っている。日中になると、溶け出しぬかるんでしまう。だからなるべく歩かないようにしている。

霜柱といえば昔を思い出す、小学生のとき、みんな揃って出かけるのだが日陰道に霜柱が道一杯に立っている。サクサク音がするのが楽しくて、みんな我先に踏みつけるのである。

しかし、学校についた時には、靴の底に泥が一杯ついてしまい、落とすのに大変だった。 玄関が泥だらけになってしまって、先生外で落とすように注意されたり、下駄箱は泥だらけを掃除するように言われた事を思い出した。最近は道路は舗装され、こういう光景は見られない。

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2010年2月 6日 (土)

常識と非常識

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3612 「なんて非常識なんだ」。よく耳にする言葉である。常識を辞書をみると、「一般の社会人が共通にもつ、またもつべき普通の知識・意見や判断力。」と書かれている。

常識は、我々がより良い生活をしていく上での、ひとつの基盤になっていることに間違いない。従って、好き嫌いに関わらず、その常識を少しずつ身に付けていく。ある意味では、常識イコール義務教育といえる。

常識の判断は、年々変わっていく、その時代にそぐわなないと非常識と見なされてしまう。また、その人の価値判断で決めることが出来ない。今で言うK・Yを読めない人は非常識と言わざるを得ない。

ある程度の常識が身に付いても、これが常識であれが非常識と、常に頭を働かせているわけではないし、仮にその行動が常識に裏打ちされていたものであっても、これはこういった常識の元に動いているんだ、と思ったりもしない。

情報化時代は非常識は突然やって来る。そこで、自分の身に付いた常識判断に頼ってしまい、非常識であれば、「そんなの常識」と切って捨てられてしまう。 この場合、たとえ言葉が発せられずとも、その非常識に人権までも侵してしまう恐れまで発展する。

非常識はその視線にたじろぎ、後ろめたさを感ずる。まあこれが普通のパターンだが、最近はそうではない。非常識は更に強い視線を発するからだ。睨み返すというこの視線は、さも非常識が常識であるかのごとく常識を打ち砕いてしまう。

すると、常識は逆にたじろぎ、もしかして非常識が本当は常識なのではと、思ったりもする。これは、何もかも自由という観念が強すぎるためで、人の自由を侵してはならないというベースが、一番深いところで固定されているからだ。

常識へと姿を変える非常識。そんな中で、頑なにまでに守り通さねばならない、常識とは何なのか。今それを議論をする余裕のないほど、時代の移り変わりは速く目まぐるしい。

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2010年2月 5日 (金)

教育と政治不信

08take_yuki21 子供は親の背中を見て育つという。親が真剣に子供に対して深い愛情を注いでいれば必ず子供はそれを理解して自然と情操が養われ親に感謝して親孝行をし、又自分の子供に繋げたくなるものである。

戦前の日本は農耕社会が中心でしたが、子供は汗水たらして泥まみれになって働いて自分や家族を懸命に育ててくれている親の「後ろ姿」をみて成長できた。村のご隠居さんをはじめ村人全員も子供に目を配って、叱るべきときには叱り、褒めるべきときには褒めて、子供を育てていたことも事実である。

戦争を経て今の時代は、サラリーマン社会が中心だが、両親は共稼ぎで子供は鍵っ子でほったらかし、マンションの隣の人との交流もなく隣で何が起こっているのか知りうべきもない。
パソコンのインターネットの暗い掲示板にのめりこんでいる子供達の姿を想像するとぞっとするものがある。

おまけに閉じこもった部屋でテレビをつければ番組は視聴率収入を稼ぐ安易な大衆受けするものばかり。政治面においては、民主党政権になって、鳩山首相・小沢民主党幹事長の政治とお金の問題で、ニュースの時間を占めてしまい、世界同時不況で日本国民の生活に喘いでいる人・自殺者が依然3万人を超えているというのに予算審議は大丈夫なのか心配である。

まず大人である自分達が子供達に対する愛情を持つ意識の改革と具体的な愛情ある政策を地道に実践していく姿を見せることが重要であると思う。どんな立派な教育法が成立しようとまず子供達に対して真剣な愛情を持たなければ教育にはなり立たない。

厳しい現実ではありますが、子供たちを本当に教育しようと思うなら37兆円未満の税収がなければ、それなりにつつましく国の指導者が強力に国家財政をきりもりしていく姿勢を持つことが必要である。国会議員始め、官僚などの職についている方たちは、国の借金を返す手法を考え立案し国民に協力を理にかなった説明をする義務があると思う。

少なくともまずは自ら襟を正して血を流し厳しく予算を吟味し直して、強靭な国家体質につくりあげていく姿勢を国会や地方の議会がわかりやすく示すことが次代を担う若人への教育改革の第一歩であると思う。

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温故知新ということ

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15401 ラジオから流れている昔懐かしい歌が聞こえて心が震えるほど感動してしまった。

山が削り取られ、田んぼが埋められ、戦後の故郷は開発が進んで昔の面影がなくなってしまった。村の中心を西から東に流れる湯殿川、上流の兵衛川は、姿を変えたが今も流れている。

僅かに残る村の鎮守様は、長沼地区は六社神社、北野地区は天神神社、打越地区は八幡神社、片倉地区は住吉神社、宇津貫地区は、熊野神社、小比企地区は稲荷神社というように故郷由井村には夫々住民の心の支えとなっていた。

田植え、山きり、野菜作りや、桑摘みをして養蚕、冬は“めかい”を作って生計を立てていた農業が主の由井村であった。そんな時代は50年前のことである。

昭和15年西条八十作詞・古賀政男作曲で戦前のヒット歌謡曲である。
♪花摘む野辺に日は落ちて
みんなで肩を組みながら 
歌を歌った帰りみち 
幼なじみのあの友この友 
ああ 誰か故郷を想はざる♪

そして、伊沢八郎「ああ上野駅」
♪どこかに故郷の香りをのせて 
入る列車の懐かしさ♪
に涙した時代に生きた私たちの年代である。今でも、カラオケなどで歌い継がれる懐メロの定番である。

昭和12・3年に生まれた世代の人は、物心がついた時は戦争・空襲そして終戦その上後は日本人の男は見んな殺される。というイメージというか、マインドコントロールというか、灰色の先の見えない。

そして、配給・マッカサー元帥・ヤミ市・浮浪児・進駐軍・パンパン・朝鮮動乱・農繁休暇などの言葉を覚えて小・中学校を覚える昭和20年代そして、赤線・就職難・就職列車・皇太子殿下ご成婚・東京オリンピック開催という30年代と続くのである。

人には夫々の生きた証の歴史がある。そして、変化・進化している自然環境と、人間の心の変化は、速さは増しているような現代であるような気がしてならない。

その反面最近はそのスピードにブレーキをかけ、地球環境を守り、人間の心を取り戻す動きが出てきたことは、私は嬉しく思う。「温故知新」の心を大事にしていきたい。

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2010年2月 4日 (木)

「さすけねー。」

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24351 昨夜のNHK深夜便で登山家の田部井淳子さんの「今だから伝えたい言葉」を聞いての感想。チームで、高い山を登ることで最も重要なことは、性格が違う様々な人達と目的は一つ「山を制覇する」ということで、アタックするのである。その目的を果たすには、チームとして日常の、共同生活を送らなければならない。

相手の能力や体力などを考えて、チーム内での協調性が大事であることは言うまでもない。不可欠なものは、いわゆる「センス」であり、そこには「正確な状況把握」、「的確な作業の遂行」、「優れたコミュニケーション」といった資質が含まれまれる。

人間は、機械で的に正確には作業が出来ないものである。誰でも失敗はするのは当たり前である。その失敗を、徹底的に追及するのではなく、そういう時にかける言葉があるという。たぶん福島・宮城あたりだが「さすけねー。」と言うのうだそうだ。

これは「差し支えない」のことで、ただそのまま「問題ないよ。」「大丈夫だよ。」という意味といそうだが、人を励まし安心させるニュアンスが含まれていると思う。・・・と話された。英語の「You'll be all right.」が思い出される暖かい言葉である

わたしは、この慌しい世の中、失敗はつき物、反省し2度と繰り返さないように努力することで許してあげる大らかさが大事で、「さすけねー。」という方言を聞いてなるほどいい言葉であり、私たちの日常生活にはとても大事な言葉と思った。

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2010年2月 3日 (水)

平等と不平等

05oonumakoen11 政治家は、平等と公平を目指すのは当然だ。しかし人生は不平等だらけ、不公平だらけである。色の白い人もいれば黒い人もいる、そして何よりも中南米のハイチは先の大地震で犠牲者は、今日のニュースで20万人を超えるという、大被害である。

だから、貧しい国にうまれなかったから良かったと思うのは、ちょっと待った!である。日本では、自殺者が3万人を10年も超えているという。先進国といわれている日本は経済的には恵まれているが、心の豊かさは後進国以下かもしれない。

そしてもともとハイチは貧しい国で、女性の平均寿命が52歳、男性は48歳、失業率は70%、人口の1%が富の50%を所有する一方、85%のハイチ人が、一日1米ドル以下で暮らしているという。そして貧しい国といえばアフリカの小国である。

ふと考えるのだが、もし私がアフリカのナイジェリア人であったら今現在は52歳の平均寿命であり、日本人より30歳近いハンデがあってとても不公平と思わざるを得ない。

人間ただ長生きすれば幸せか?というと、一概には言えない。寝たきりや、他人にお世話にならないと生きていけない、ことになってしまったら、不公平は募るばかりであろう。

そう考えると、公平・公正などはあるはずがなく、自分に与えられたもの、全てを本人が納得し、受け入れることが大事だ。他人と比較しないで、精一杯生きることで喜びをかみ締めることが、人間的に素晴らしい生き方だと思う。

日本など先進国では、頭のいい人もいればわるい人もいる、交通事故で死ぬ人もいれば、同じ車に乗っていて助かる人もいる。それなのに平等と公平が簡単に手に入ると思わせる甘い教育をして、それが実現しないのは政治や社会のせいだと教えるのは残酷なことではなかろうか?

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立春

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191104011 「福は内 今は聞こえぬ 鬼は外」

寒明けと言うが今日は全国的に冬一番の寒さだという。昔から寒さは節分時期がピークだといわれているが・・・。家庭では、柊の枝に鰯の頭を刺したものを戸口に立て、炒った大豆を「福は内、鬼は外」などと大声ではやしながら撒き、その後、門・戸・窓などを堅く閉ざすのである。

しかし、大声を張り上げるというのは、なかなか恥ずかしいものである。近所の声や子の期待感に押されて声を出してはみるものの、二声、三声で萎んでしまう。父の真似をして大声を張り上げていた子供の頃が懐かしい。

「フクワー内・鬼はソトー」声が聞こえていたのだが何時の間にか聞こえなくなってしまった。高尾山・高幡不動・府中大国魂神社などで人気力士や映画スターを呼んで豆まきの行事を行なう。大勢のお客さんが出て賑やかになる。近くの住吉神社でも行なうという。

立春といっても、春は名のみで、早春賦の歌詞の通り暖かさは、まだまだである。春というのはいつからなのか・・・やはり一般的には3月からが春、ということになるのだあろうか・・・。

本来は季節の移り変わる時、すなわち立春・立夏・立秋・立冬の前日を意味するのだが、特に立春(今年は二月四日)の前日のことをいう。邪鬼を追い払い新しい春を迎えようとする儀式である。

まだまだ寒い日が続き、これからも雪が降るかもしれない。しかし、すぐに空は明るくなり朝の明けるのが早くなってきたことが感じれれ、力が入り頑張る。

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2010年2月 2日 (火)

フードデザートとは

 

08nangodake_sandou11_5 昨夜の降った雪が道路に残ってシャーベット状態で滑りやすい、が敢えて片道30分かけて隣駅の北野駅まで、歩いて時計の電池交換に、知り合いの時計屋さんまで行って来た。そして帰りにスーパーに寄って、買い物をしてきて途中、脳疾患で車椅子になられた方の家に寄って、お裾分けをしてきた。

昨夜NHKクローズアップ現代で「フードデザート・食の砂漠」というテーマの放送があったが、私の近所でも、専門店があって、「〇〇銀座」魚屋さん・肉屋さん・酒屋さん・パン屋さんなど軒を並べていたのだが、近くにスーパーが出来き、一軒また一軒とお店をたたみ、何時の間にかクリーニング屋さん一軒となったが、その一軒も昨年店を閉めてしまった。

活気のあった町の様子もすっかり変わって、人通りが少なく寂しくなってしまった。近くにスーパーも、ちょっと先に大型スーパーが出来て一つ消え二つ消えて、とうとうちょっとした買い物は、歩いて30分も掛かかる坂道を行かねばならくなってしまった。

今は、ホームセンターを含めスーパーはマイカーで用を足しているが、この先が心配である。そして、お年寄りの家庭が多くなった近所の方たちも、バスで市内まで買出しは大変だろうと思わずにはいられない。

将来子供にも頼ることも不可能であり、現在の生活を維持していくのはとても困難である。非常に不安となってきた。そこで、「高専賃」(高齢者専用賃貸住宅)などを検討せねばと考えている。

「フードデザート研究グループHP」抜粋・・・都市の構造は、時代とともに絶えず変化している。都市構造が変わるとき、必ず「ひずみ」が生じることだ。現在日本で深刻化している、モータリゼーションの進展による地方都市中心部の空洞化や、大都市圏の縮小の中で取り残され老朽化・高齢化する郊外の住宅団地なども、こうした「ひずみ」の一つであるという。「ひずみ」に落ち込み苦しむのは、いつの時代も社会的弱者と呼ばれる人達だろう。

日本では、地方都市や郊外の住宅団地、中山間集落に住む高齢者の方々を中心に、フードデザート問題は深刻化しているそうだ。所得の格差が広がるなか、別居子からのサポートも得られず僅かな基礎年金だけで暮らざるをえない一人暮らしのご年配の方が、急速に増えている。

急激な人口高齢化を迎える日本において、高齢者の居住環境の悪化は喫緊の研究課題である。しかし、多くの地方自治体では未だにフードデザートを社会問題として認知していないそうだ。フードデザート問題は、今後は非正規雇用の若年層や外国人労働者達に拡大していく可能性もある。国や地域によって、社会・文化的な背景や都市構造等は大きく異なる必然的に、フードデザート問題の性質も多様化する。

番組では、イギリスの事例を紹介していたが、高齢者を中心に問題が深刻化する日本では、欧米とは異なる独自の解決策が必要であると思った。 

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平均寿命と社会の変化

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05sikotuko31高所得ほど平均寿命が長く、低所得国ほど平均寿命が短いという一般傾向がある。日本は男女計の82.3歳であり、世界1平均寿命が高い。また、日本に次ぐ他の先進国は団子状の分布を示しており、人口1億人の大国ながら、そこから少し上に抜け出ている点でも目立っている。

一人当たりの所得では日本は17位であるので必ずしもイコールでもなさそうだ。中国は、もはや世界第2位の経済大国となったが一人当たりの所得は86位で、平均寿命は、所得の格差が大きいからだと思うが68位だそうだ。

だから、日本は平均寿命の点では世界から尊敬をすべき地位にあると思う。近頃は食生活や住環境がよくなったので、より長生きできるようになり、さらには、医療と介護が充実してきたので、急速度に長寿社会になったのだ。

しかし、三世代が同居する家は少数になり、老人介護施設を利用することが多くなるにつれて、お爺さんお婆さんが日常生活で子や孫と接することがすくなくなり、「老」の姿が子供の身近になくなってきた。

ほんの20~30年前までは、家族に看取られて家で死をむかえるのは自然なことであったが、親や祖父母が老いて、そして命尽きる姿を、またご近所でお亡くなりになる人の姿も、日常生活の中で目の当たりにしてきた。ところが近年は、病院で最後の時をむかえるようになってから、人の「死」は日常生活から離れてしまった。

私は、ごく最近、兄の葬儀を済ませたばかりであるが、小さな子供たちに人の死ということを教え“人は必ず死ぬ”ことを実感させることが必要と感じたのである。子供は成長の過程で、老いと死の姿を日常的に目にすることなく大人になっていく、そんな人たちが多くなると、「生」「老」「病」「死」という命の姿についての認識も変わらざるをえない。

葬儀屋さんにうかがったら、最近は家族葬が多くなったようで、ご近所の方が知らぬ間に葬儀を済ましてしまうという。ますます人の触れ合いも希薄になってしまう傾向で寂しく、将来が案じられてしまう。

昨今の少子化や、離婚率の増加、老人の孤独死、葬儀や先祖祭祀についての考え方の変化、さらには人の情ということについても、やさしさやいたわりの気持ちをなくしたことから起こる、いじめや犯罪、ひきこもり、心の病等の増加傾向も、こうした認識の変化と無関係ではないと思う。

 

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2010年2月 1日 (月)

朝青龍の事件に思う

07rose_ame21 世の中どう考えても納得のいかないことや、何を基準に正義とか、正しいとかが言われるのか。一つは、朝青龍の暴行事件である。場所中に起こした暴行事件7日目の1月16日であるが相撲協会は何故16日の時点で事情聴取しなかったのか、16日の朝7時のNHKのラジオニュースで、報道されていた。

ニュースでも場所後に事情聴取するとのことだったが、それまで、何とか表沙汰にしたくない、高砂親方・日本相撲協会の思惑があったようだ。そして何より不愉快に思うのは、事件そのもがなかったことにしたい朝青龍自身と高砂親方であった。

マネジャーが被害者であったり、一般市民が警察に診断書を持っていって、被害届けを出さず、示談で終ったとか?スポーツ新聞によると1500万円とも2000万円の示談金とも?

最近になって、事件はなかったかのような、被害者不在?という不可解なことになってしまったとも報道もある。これではますます相撲ファン離れとなってしまうことは言うまでもない。

確かに朝青龍は、フィクサー的存在であり、ファン離れを食い止めるにはいなくてはならない横綱である。しかし、心・技・体が備わっって初めて横綱の品格が認められるのである。

伝統の日本相撲協会の改革を考え理事に出馬し当選した、貴の花親方の志もあり、この事件を相撲ファンの多くの人に納得いく解決をしてもらいたい。そしてなっと言っても「ファンあっての大相撲である」このことは忘れないで欲しい。

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寒椿の想い

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    08tubaki_takegaki11                                                                           兄が逝き 垣根飾る 寒椿 

昨日兄の葬儀を無事終えて、お世話になった近所のお宅にお礼に回った。その一軒のお宅で見かけた。ピンクの一輪は暦の上では「寒椿」である。近づく春と、また新たに心を入れ替えて再出発に勇気付けられる思いであった。その花の色は身が引き締まる思いだ。

今日は東京地方は、夜には雪の予報であり朝から寒い。

各地の名所からも早咲きの椿の花だよりがとどき始める昔は多くの土地で霊木とみなされたのも、厳冬につややかな葉を保ち、春を招く花をつけたことと無縁ではないようだ。

かっては、私の実家には、大きな椿の木があり木登りをして遊んだ記憶がある。木肌が滑らかで、枝がシッカリして登り安かった。その椿の木は、人の移り変わりを何代も見てきたのである。そして毎年花を咲かせていた。

椿の木で作った杖や槌を神事に用いた日本人だ。欧州ではヒイラギなど冬も常緑の木が生命の復活のシンボルとして神聖視されたが、日本の「椿」の霊力もまた同じ発想に違いない。寒中の凜とした花が呼ぶ春を待つのである。

椿の花の散るときは、花びらが一枚一枚落ちるのではなく、花ごと“ぽとり”と落ちる。兄の家には椿の木はないが、何故か兄の死が椿の花の散ることと想いが重なる。

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