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2009年10月

2009年10月31日 (土)

明窓浄机・・読書・・

Sekiseiinko_m1  明窓浄机(めいそうじょうき)明るい窓と清潔な机。転じて、学問をするのに適した明るく清らかな書斎。すがすがしい書斎の形容で、読書人の心得である。

北宋(そう)の欧陽脩(おうようしゅう)の文に、友人の蘇舜欽(そしゅんきん)の言葉として「明窓浄几、筆硯紙墨(ひっけんしぼく)、皆精良(みなせいりょう)を極(きわ)むれば、また自(おのず)から是(こ)れ人生の一楽なり」と見える。几は机と同じ、つくえ。

明るい窓のもと、けがれのないさっぱりした机で、使う筆も硯(すずり)も紙も墨(すみ)も最良のものであれば、こんなに楽しいことはない。

蘇舜欽は蘇(そ)州(江蘇省)に倉浪亭(そうろうてい)という庭園を築いて悠々自適の生活を楽しんだ。欧陽脩も除(じょ)州(安徽(あんき)省)で豊楽亭(ほうらくてい)などを構えて自然の風趣に浸った。このような風雅な文人の生き方を象徴するのが、書斎の「明窓浄机」である。 ・・・・・(全国感字教育学会長石川忠久氏)・・・桜美林大学名誉教授

(産経新聞主張より)文化庁が先ごろ発表された平成20年度の「国語に関する世論調査」報告書によると、1カ月に何冊本を読むかとの問いに、「読まない」と答えた人が46・1%にも上った。14年度調査に比べて約9ポイントも増えており、国民の「読書離れ」が急速に進んでいることがうかがえる。

最近は、若者世代を中心にした「ケータイ小説」の流行などで、“本を読む”というスタイルは、「読書」のイメージを一変した。

ケータイ小説の文章については、日本の豊かで伝統的な国語とはかけ離れた粗雑なものが目につくらしい。規制することは出来ないが、関係機関で、「国語が日本文化の基盤である」と明示されている通り、読書の意義については何より、文化を育てていくような美しい国語との出合いと大切さが重要だ。

とくに子供には、そんな意義を見失わない読書習慣を身につけさせたい。日本の文化や習俗に根ざしながらも今では消えつつある言葉に数多く触れさせることを強調すべきである。

未知の言葉に出合った子供はそこで活字を追う目を止め、さまざまに想像し、考え、感じるだろう。感性や読解力というものは、そうした経験の積み重ねによって磨かれる。

「今の子供は知識を詰める時間はあっても、自分で考える時間がない」と指摘した。「知る」読書ももちろん重要だろうが、秋の夜長に「考え、感じる」読書は最適でもある。

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随所に主となれ

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08kakunodate_koyo11_2 禅語に 「随処に主となれば、立処皆真なり」とある。あらゆる時と場合に自ら主人公となるならば、いかなるところに居ようとも、そこが真実の場所となることである。

自分を取り巻く環境が激変することがる。特に年を重ねると、お金・健康・家族は、毎日生活をしていて最も不安なるものである。悩み事や、不安で夜も眠れぬことは誰でも経験があることだろう。

これが何時までも続くようであれば、過労・精神的障害などで、深刻な問題となり、自分の居場所がなくなり、自信喪失・無気力状態になり、自分自身の歩む道も見失ってしまい、いわゆる、うつ状態となってしまう。

自分の生活において、環境が激変することがある。自分を取り巻く環境で、自分も大きく動揺してしまう、人間の弱さである。人間は、何んために生まれてきて、何んのために生きてきたのかという、原点を忘れないがしろにしているからだろう。

ますます重苦し世相の生活環境あって、アメリカのオバマ大統領のノーベル平和賞が発表された。これは、世界平和を願い核兵器を無くすという演説をプラハで行って、世界の平和を訴えていることだと思う。今までのアメリカの大統領と違った考えである。「チエンジ」を掲げオバマ大統領の発言が注目されている。

自分の使命が何んであるのか、私でなければならない仕事あるのでは、自分に向いていない仕事、嫌いな仕事と思っていても、全身全霊を打ち込こむことで、思わぬ評価を受けると、仕事の良さ、楽しさが分かり、社会の貢献していることの喜びも、沸いてくるというものである。今までの考えを視点を変えて「チエンジ」してみることも必要だと思う。

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2009年10月30日 (金)

冷静さを欠く悪い日だった

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05sikotuko31_2  今日は、脳神経外科医院へ行くため、健康保険証・高齢者受給者証・診察券を確認したが見当たらない。紛失していることに気がついた。かばんの中を、何回も調べてみたがない。今日の診察をしなければいけないし、どうすればいいか、焦ってしまいパニック状態となってしまった。

最後に使ったのが10月26日に八王子市の出先機関である由井出張所に行き、11月8日に行く片倉町一丁目町会研修会で、市の施設を使用ので補助金申請(2500円)で使った。

その時に行った記憶を何とか思い出して見たがどうしても思い出せない。その日は台風20号の影響で雨が降っていたのが、食料品が逼迫してしまい買出しに行く途中に前出の処理を行った。

早速、由井出張所に行き再発行手続きをしてもらった。しかし気持ちが治まらない。特に女房の指摘が大変で、心臓が止まる思いであった。「もし悪用してしまわれたらどうしよう」といても立ってもいられない。

落ち着け、落ち着けと心に命ずるのだが、パニックは収まらない。とにかく脳神経外科医院に行き、それからにすることにし、診察・薬局での薬は貰った時間は12時を過ぎてしまった。

北野駅前交番へ紛失届けを出し(11時40分)、信用情報機関(JICC・市役所から紹介)に届けを郵送しし、昼食をとって帰宅は13時近くとなった。

(JICC)への送付内容は、①本人コメント情報登録申込書②運転免許証・健康保険証(再交付したもの)コピー③手数料1000円(定額小為替証書)

送付先・・・・・・・・・・・・・・・・・東京都千代田区神田多田町2-1神田進興ビル
(株)日本信用情報機構本人申告コメント情報変更行きで

・・・送付する。{尚、シーシービー(CCBクレジット相談室)は(JICC)と、8月合併した。}

この作業を女房に、文句を言われながら辛い作業を行った。しかし、すきあれば,悪どい金儲けに鵜の目鷹の目で、獲物を探している人が多い世の中である。警察・JICCに届けたからといって安心できない。・・・・嫌な世の中だ。

しかし、物忘れ・ついうっかりの激しい年寄りとなってしまったわい、悲しいかな・・・。

診察結果も、へもクロビンA1Cが6.1・・・LDL(悪玉)コレステロール149で「要注意」で情けない結果・・・泣きっ面に蜂である。でもこんな日もある?かな・・・
                                     

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2009年10月29日 (木)

ぼやき・ささやき・つぶやき

F0103667_10746921 「船場吉兆」の女将の「ささやき」は世間に顰蹙(ひんしゅく)を買った。それとは対照的に今季限りで、監督の座を追われた、プロ野球「楽天イーグルス」元野村監督の、試合後に繰り出す「ぼやき」「つぶやき」であった。

ある日、先発・永井投手の出来を問われて、「いいんだか悪いんだか。3人で終わらないもんな。間合いがナガイ、試合がナガイ、名前もナガイのスリーロングだ」。苦笑いしながらも、聞くのが楽しみだった、テレビカメラも意識して頻繁に映るようになった。

後で本人の耳に届くことを計算したうえでこぼす野村監督の試合後の「ぼやき」「つぶやき」が、選手には何かのヒントや発奮材料になったりする。楽天に拾われ、いまやチームを引っ張るベテラン・山崎武司が言っている。「野村さんは野球がすべての人だと思っていた。それが、人間教育を一番に考えている人だと分かった」

「心が変われば態度が変わる。態度が変われば行動が変わる。行動が変われば習慣が変わる。習慣が変われば人格が変わる。人格が変われば運命が変わる。運命が変われば人生が変わる」――野村監督がよく口にした言葉だ。

ヒンドゥー教の教えだそうだ。ベンチではいつも野村監督のそばに座り、試合中の「つぶやき」「ぼやき」を自ら積極的に聞くことにしたベテラン・山崎の野球人生は、たしかに変わった。

しかし、クライマックスシリーズで日ハムに敗れた時のコメントlは、「ぼやき」ではなく、選手達を前に、「結果は、私の責任で選手達は、よく頑張ってくれて有難う」と挨拶した。最後のユニホームとなり、楽天・日ハムの選手により胴上げで労をねぎらった。

「ぼやき」が人間的に性格を変え、人生観まで変えることであるならば、大いに「ぼやき」をすればいいと思う。

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根回し

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09_12801根回しとは移植のための下準備作業。 細根の発生を促し、移植に耐えられる木にする目的でおこなわれる作業である。

根回しは、日本人特有の文化で、物事を公の場で決めない、不透明で卑怯な行動であるという誤解があるが、どの国家や社会にも存在するマナーである。根回しの本質は、事前に正確な情報を関係者と共有することだ。しかし、現実では私も「根回し」をしないで失敗した経験もある。時と場合である。

根回しといえば、前原誠司国交相の八ッ場ダムの建設中止の突然発言・羽田空港のハブ化構想を突然を口にした。一部地方の利益よりも、利用者の利便性と国益を優先させることは、国を預かる大臣であるならば、陳情で地域の誘導するという今までの自民党の政・官・財の癒着の温床となるシステムは私も正さねばならないと思っていた事である。

森田健作千葉県知事が「何にも事前に話がなかった」と憤慨し、靴で床を踏み鳴らしてまで怒る様子をテレビで見た。「冗談じゃない!」と振り上げた拳を、翌日の会談後、いともあっさり下ろした単純さを理解できない。

同じ日、関西空港を抱えて同様の立場にある大阪府の橋下徹知事は、「羽田のハブ化」に理解を示した。森田知事には、パフォーマンスよりも利用者の利便と国益を優先する考えの広さを持ってほしいと思う。

事前の「根回し」が、「足りない」と言うより最初からその気がまるでないように思える前原誠司国交相である。国民の目にはその姿が、自民党政権時代には根回しに始まり根回しで終わっていたような「政官財、癒着の構図」を断ち切ろうとする新政権の新鮮さと映り、期待される。
しかし、経験不足で、若干先行きの不安を感じている向きも少なくない。

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2009年10月28日 (水)

がん治療に第4の治療法

07rose_ame21 NHKの「クローズアップ現代」手術・放射線・化学療法につぐ第4のがん治療法として注目されている。「がんワクチン」が注目を集めているという。10月26日放送である。がん細胞を体の中の免疫システムを利用して攻撃するというもの・・・。注射するだけで、殆んど患者の負担が掛からないで、普通の生活が出きるといことである。

国内ではすい臓がんのワクチンが臨床試験の最終段階に来ているという。ワクチンを注射するだけでがんの増殖を抑え、臨床試験では余命数ヶ月と宣告された患者が2年以上も生存した例もある。

しかし、一方でその他のがんワクチンの臨床試験は進んでいないのが現状だ。理由は臨床試験を行うための資金不足。アメリカではがん患者を支援する民間団体が研究資金を提供し、政府も動かし開発を強力に推進させている。番組では実用化目前のがんワクチンの日米の研究現場を追い、その可能性と課題を探る。

診断した結果は、余命7ヶ月という患者にワクチンを注射で8回投与した結果、がんの進行が止まり、1年後、2年後も変わりがなかった。患者はそのまま、仕事もつづけ、旅行にもいった。残念ながらこの8月に容態が急変して亡くなったそうだが・・・。

ゲスト出演した、ジャーナリスト鳥越俊太郎さんは、「これが有効なら、すごい光明だな。私もがん患者ですからね」という。

いまはまだ科学的効果を確かめている段階で、誰でも受けられるわけではない。大学やがんセンターなど限られている」という、また、試験は、「安全性」「有効性」「総合評価」の3段階があるが、3段階目にあるという。

東大病院では目下、肺、胃、ぼうこうなど13種類の臨床試験が行われている。しかし、その歩みは遅々としている。理由のひとつが研究費不足だそうだ。

その研究費不足を何とか解決すれば、がん患者には朗報である。国のムダな使い方を改め人の命の係わる研究費には十分配慮して貰いたいものだ。

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もういいよ もういいとも  

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2054421 青い空を見上げてみた

飛行機雲がスーと一直線に画かれている

もう見んな忘れよう・・・考えても仕方がないから・・・

俺の人生の軌跡を俺なりに画いてきた

消えることがない? 消えてしまう?

過去を振り返っても仕方がない

もういいよ もういいとも

もう過ぎ去ったことは!

飛行機雲のように消えてしまう

それでいいじや!

もう恨んだり 怒ったり 悲しんだりしない

前を向いて一直線に

精一杯 軌跡を画き続けよう

自分なりの筆の大きさで!


                    

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2009年10月27日 (火)

鳩山由紀夫首相の初の所信表明

08kakunodate_koyo61初めて所信演説は、52分間の長時間で、ごく最近の歴代の首相ではダントツの長さだった。「長年の政治の大掃除をしたい」との言葉が印象的だあった。

自分の言葉で、分かりやすく。鳩山由紀夫首相の初の所信表明演説から、そんな思いが伝わってきた。 具体的な政策のあれこれを説明するよりも、自らの政権が目指す社会の姿を、政治の理念を国民に語りかけたいということだったのだろう。従業員の7割が障害者という工場の逸話を紹介した。働く側も受け入れる側も苦労は小さくない。それでも「人間は人に評価され、感謝され、必要とされてこそ幸せを感じる」という。 (朝日新聞社説)

理念だけでは物足りない。「いのちを守り国民生活を第一とした政治」「『居場所と出番』のある社会」。官僚依存を排して取り組む「戦後行政の大掃除」では、税金の使途を「コンクリートから人へ」と変える。友愛政治の原点は、「弱い立場の人々、少数の人々の視点の尊重」であると力説した。

エピソードを交えた、平易な言葉による演説に、政権交代を実感した人もいたに違いない。経済・外交政策についても、首相は、理念の延長で語った。(読売新聞社説)

公約の優先順位を示せ、最高責任者である首相が国会という、公式の場で改めて整理してほしい。第二に、野党に転落した自民党がどういう政策論争を挑むのか。第三に、「脱官僚」を軸とした国会改革を、その試行錯誤も含めて見守りたい。そうして、公約の優先順位を示せ・平成の維新の気概はよいが、しっかり献金問題を説明尽くしてほしい。(毎日新聞社)

各新聞とも、自民党との違いははっきりしていて、よい評価のようだ。普段着の言葉で、分かりやすかった印象はある。あくまでも国民の目線の政治を貫いて欲しい。

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蟻と象の時間の流れ

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Mammoth1_2

身体の小さな蟻には時間の流れが遅く感じられ、身体の大きな象には時間の流れが速く感じられるという。考えてみれば、身体の小さな子供の頃よりも、現在の方が時間の流れが速く感じられるような気がる。

「楽しいと感じているときの時間の流れは速く、強制的に拘束されているときや何もしていないときの時間の流れは遅く感じられる」と経験はある。

蟻は卵から孵化して働けるようになるまでの時間と、象の成長との時間は何千倍も違う。寿命も全然違う。自然の摂理で、蟻に与えられた一生と、象に与えられた一生があるのだと思う。

蟻も像も、人間以外の動物は、自分では比較するものは仲間だけであり、短い命だが何の疑問も持たず一生を終るのだろう。そして、人間だけが自分の死を知っている。

死を予兆できることは、時間の流れも感じることができる。そのことが良いことなのか、悪いことなのかよく分からい。しかし、人間以外の動物達は、毎日朝になり、明るくなって行動をし、夜暗くなって寝るという行動が、普通の動物だ。中には夜行性で全く逆な生活をしている動物がいるが僅かだ。

明るくなって起き行動を始め、暗くなって寝る、本来の動物の生活パターンに戻って、自然体の生活に生きることを考えて見たことがある。それができることは理想であるが・・・。時間を無駄はしない、悔いのない毎日を過ごしたい。

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2009年10月26日 (月)

雨奇晴好

386351 きのうイベント(由井市民センター祭り)でテントは雨で濡れて、たためないのでそのままにし、明日片付けをすることに決めたのだが、今日は、台風20号で朝から強い雨で、夕方から、関東地方に接近風で飛ばされる危険がでたので、濡れたテントを撤収することになった。合羽をきて7張りを撤収すのだが、作業は7人で行った。

「雨奇晴好」の言葉を思い出した。この四文字熟語の意味を調べてみたのだが、「奇」は抜きん出て普通と違うこと、変わっていて珍しく面白いことを表しているとのことだ。「好」には、美しいという意味があり、「晴好」で晴れの時に美しいという意味になる。

雨が降っている日でも、晴れている日でも、どちらでも景色には趣があると慮山の風景を詠んだ蘇東波の詩の一節からきている。

荷物と傘で塞がった両手・道路で傘でぶつかる傘・雨で濡れてしまう靴など、嫌な雨である。しかし、雨だからと言って朝から、だらだらとした行動で一日過ごししまえば、貴重な時間の浪費となってしまう。

雨が降らなければまた困る。雨は大地を潤し、生物に命を蘇らしてくれる。そして濡れた山茶花の葉と、もうすぐ咲き出すつぼみの水滴を見ていると、普段より色鮮やかな表情を発見出きるかも知れない。

街行く人の傘の模様が性格や、趣味などを想像し愉しい想いを募らせることが出きるかも知れない。「雨奇晴好」は、晴れの日・雨の日・曇りの日、日々変わリ続ける環境にとらわれずそれを、愉しんでみる心を持ちたいものである。

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食の変化に思う

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核家族化の進行に伴い、食材の量が、65年4月に4人分に減り、さらに、は2人分になったという。05年の国勢調査で世帯当たりの人数が2.6人になり、今後も減少傾向が続くと想定されることや、NHKの長寿番組の「今日の料理」テキスト本に、アンケートで「2人分」が要望が多くなり、小人数分に変更したそうだ。

たしかに「食」の場面は、大家族で食卓を囲んだ時代から核家族化が進み、いまやたった一人で食事をとる「個食」の時代へと大きく変った。

人間が食べることを大切なコミュニケーション」。そして、「人間は食べる行為を共にすることによって、心を触れ合わすことができる。しかし、最近の日本で個食が増えているのを見ると、共食によって育ててきた人間の心を失わせているようだ。それにしても、慌しい世の中、食事をとる時間も大分違って来た。一人で食べる人が多い事で早くなっているのかも知れない。

噛むという食事の基本が飲むという食材に変わっているようで仕方がならない。チュウ-ブで飲む、宇宙食?になった食材がスーパーやコンビにある。車で運転しながら満腹する?噛むという食事も柔らかい食材が多くなったようだ。

人間の進化の歴史の中で「噛む」ことが脳を活性化させるという事実を前にしても、主食も副食も、菓子類までもが「やわらかい=おいしい」という物差しで好まれる現代。食材や調理方法が格段に進歩した結果とは言え、脳にこの食生活が、今後どんな退化現象を引き起こすのか気になる。

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2009年10月25日 (日)

核家族の弊害

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07tamurano_yuhi31大きな声でかくれんぼでして遊んだ。あっちの木の影に隠れたり、稲ぼっちもぐりこんで頭が稲くずだらけになったけ!遠いむかしの頃を思い出した。そう「かくれんぼ」したり、「鬼ごっこ」したり、「木登り」した友達の顔は思い出すが夫々の道を歩んで行き、散りじりになり、顔を合わすことがなくなってしまった。

昨日、近くの公園に行きゴミで驚いた。食べたり、飲んだりしたベンチは座ることができない。カップラーメンの食べたままで置いてある。ペットボトル・ジュースの空き缶は植え込みの投げ捨ててあった。近くに住んでいる方に話を聞いたら、ボランテアのグループが片付けて、注意しているそうだが、中々よくならないという。

むかしの遊びは自然の山や川で遊んでいて、現代の食べ物が豊富にはなかった。近所の小言いうおじさんがいて、子供遊びや、行動を気にかけて注意した人がいた。

地域の人の子供の行動に感心ががあり、コミニケーションがあって情報は、見んな共有していたそして仲間意識が強かった。こんな事を考えると、躾・家庭教育の崩壊・地域の見守り意識が不足の結果だと思う。

触れ合いという言葉をよくきくが、同世代どうしの触れ合いは結構いまでも多くあると思うが子供から、年寄りまで各世代の触れ合いというと、今の家族構成では考えられない。つまり、核家族化が進んでしまった結果だろう。核家族の弊害だ。

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2009年10月24日 (土)

晩秋のうす寒さ

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09susuki_yuuyake1s1_2 この道の富士になり行く芒かな 河東碧梧桐

箱根仙石原の芒野の映像を数日前に観た。千石の米の収穫を願って名付けられたにもかかわらず生えてきたのは芒ばかり、結局芒の名所になったとか。かつて箱根の入口に住んでいたので、この芒原は馴染み深いが、数年前の早春、焼かれたばかりの仙石原を訪れてその起伏にあらためて驚かされた。

あのあたりは、かつては芦ノ湖に没していたというが、金色の芒の風に覆われている時には気づかなかった荒々しい大地そのものがそこにあった。この句の芒原は富士の裾野。一読して、広々とした大地を感じる。

明治三十四年の虚子の句日記に「七月十七日、河東碧梧桐等と富士山に登る」とある。掲出句は、同年の「ホトトギス」九月号に掲載。虚子二十七歳、碧梧桐二十八歳、子規の亡くなる前年である。

富士になり行く、という表現の独創性、芒にいちはやく秋の気配を感じる繊細さ。その直後からの碧梧桐の人生に思いを馳せると、この句の健やかさがいっそうしみてくる。「俳句歳時記第四版 秋」(2007・角川学芸出版)所載。(今井肖子)

霜降の 雲どんよりと 今朝の富士

今日は24節季の霜降である。日が短くなり、何時も朝の散歩に出かける五時半は、まだ夜が明けきらない、まして、どんよりとした曇り空で薄暗い。湯殿川の河川管理道路を西に高尾山に重なるように見える富士を眺めて歩き往復1時間歩くのが日課である。

毎日散歩しても季節の移り変わりに気がつかない。台風18号が過ぎ去ったばかりである。お蔭様で大きな被害が出なかったが、管理通路に植えたコスモスもすっかり枯れ果てて、東京都の河川の維持課の業者のお願いし、綺麗に片付けて頂いた。日中は夏日を思わせる暑さになるのだが朝晩は何か羽織るものが欲く、す寒い今日この頃である。

私の地元の由井市民センター祭りが、今日・明日開く、その係りで二日間は忙しい。

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2009年10月23日 (金)

今日から24節季の霜降

08ringo_tyoukai11 朝日待つ 草葉の露の ほどなきに
         急な立ちそ 野辺の秋風  
道元禅師
  
人生は草葉の露の如くはかない、幸せを願い日の出を待ち
望んでいるから、どうぞ情け無い秋風よ吹かないで欲しい。

今日から24節季の霜降である。北国や山間部では、霜が降りて朝には草木が白く化粧をする頃。野の花の数は減り始める、代わって山を紅葉が飾る頃である。

柿が、赤く色づいた実を残し、黄色の葉を落ち始めている。半年も手がけて育てた湯殿川のコスモスは、種を付けたまま枯れ枝となってしまった。今朝はどんよりとした厚い雲に覆われてしまった。天気予報では午後から晴れるという。五時半、朝食の支度を終え何時もの通り散歩に出かけた。ちょっと寒い。近くの山で、百舌の甲高い鳴き声が聞こえる。

季節の移り変わりは早い、今朝は18度で朝3時の起床は床を離れるのが辛くなった。何時ものようにパソコンを開いて、メール確認し、拙いブログを書く、06,3,17日に書き始めて、ようやっと100000のアクセス数となった。

湯殿川は、鴨の群れが10数羽泳いでいる。マガモと思われるが、その生態系はよく分からない。一年中見かけるようになった。確かに20~30年前には見なかった鳥だ。冬はどんな餌を食べているのだろう。何て考えて1時間、約7千歩,歩いて帰宅、それから何時ものようにゴミ広い国道16号を20分かけて行った。

いよいよ晩秋、紅葉の便りが北国から南下して来ている。東京に近い奥多摩・陣馬・高尾などがもう直ぐのようだ。ちょっと天気のよい日に出かけて見るか。

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株の相場の格言に・・・

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24351人の行く裏に道あり花の山、いずれを行くも散らぬ間に行け」(千利休)

株の相場の格言であるが、投資名言の中で、最も有名である。良く使われるということは、裏を返せば最も実行されていないということかも知れない。

人の行く裏に道がある。言われてみると、頭では理解出来るが、実際に自分がその裏の道を行くには、かなりの勇気が必要である。人間は一人で生きられない、集団行動する生き物だからだ。

狩猟時代から農耕時代移って、群れをつくって暮らし、安全を確保する習性があることから、株式投資でも、多くの投資家と同じ行動を取る。理由は単純に人と一緒でないと不安だからでる。

株式市場にとって「花の山」とは、金の山、つまりお金である。そんな山があると分かっているのなら、人の行く裏に行かないと、判断するのはリスクをある程度覚悟しなけば出来ない。そして経験と実績などが必要であるが、これが難しい。

人間が群れる動物である以上、周囲と同じ行動をともにしたくなるのが当然であるが、成功している投資家を分析すると、大勢の投資家と共同歩調を取っていない。

成功するには、人の何倍もの努力や、人の嫌がる仕事をしたり、身銭を切ることが求められる。そして、結果がどうであれ自己責任の覚悟が必要である。そして、一番大事なことは、社会的ルールを遵守と冷静な判断が大事だ。

人の行く裏に道ありというが、気がついたら何時の間にか、表になってしまていることもあるので、人生の歩と同じで難しい。

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2009年10月22日 (木)

郵政民営化人事

1231 今日の新聞各紙は社説で、一斉にこの問題を取り上げて、鳩山政権の懸念する人事を批判した内容だ。確かに官僚出身だから、今まで野党時代に言い続けて脱官僚の唱え文句からすれば、おかしいと思う。

私は国民一人として、すべてが国民のためになる仕事をして頂く人なら官僚出身でも民間出身でも関係がない。今までの自民政権では、長い政権維持の自民党であったので、官政の癒着が余りにも、国民の目に晒され醜態を見せ付けていたからだ。

民営化の推進役だった西川善文日本郵政社長は辞任表明し、後任に元大蔵次官の斎藤次郎氏の名があがったのは、それだけの実力があるからだ。政権が変われば、この人事に問題はないと思う。何も民営化が放棄されたわけではなく、かつて霞が関で名をはせた官僚出身の後任社長だからといって経営に不適格とは限らない。

ただこの路線転換が民営化のメリットを失わせ、単なる官業回帰に終わりはせぬかとの懸念が聞こえてくる。4年前はまるで一国の全運命がかかったような争点とされ、有権者多数が選択した郵政民営化だ。路線見直しにあたっては、政権トップが国民に分かり易く説明をする義務がある。鳩山首相を信じるだけだ。

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ADHDのこと

06hatimantair341_11女の一人暮らしの人が片付けられない。テレビで放送がよくあるがもしかして、ADHDなのかも知れないと思われるようなことがある。ADHDの特徴は多動性・注意の転導性・衝動性の三つが、上げられるという、そして子供だけの事ではないらしい。

私の年を取った兄の、義姉が、「全くダラシがないので困ってしまう」と苦情を漏らす。でも高齢で大きな病気をすると、誰でも軽い認知症になるので仕方がないと思う。今となって、義姉の言う子供の頃からの症状ではないのか?。ハッキリしているのであるが介護が大変であるので、「だらしがない、だらしがない」と言っているのだ。

注意欠陥・多動性障害(英語: AD/HD: Attention Deficit / Hyperactivity Disorder)は多動性、不注意、衝動性を症状の特徴とする発達障害もしくは行動障害という。

専門医師は、かつては子供だけの症状であり、成人になるにしたがって改善されると考えられていたが、近年は大人になっても残る可能性があると理解されている。その場合は多動ではなく、感情的な衝動性や注意力や集中力の欠如が多い。

遺伝的な形質であるため症状は育て方や本人の努力で完治することはないとも言われている。ただ、子供のADHDでさえ曖昧な点も多く、日常生活に支障をきたす精神的な特性を何でもかんでも障害に含めるべきではないとする意見も存在する。

成人にADHDを認めるべきかどうかは医師によって考え方がまちまちであるが、近年では認めないとする意見は少数派である。ただし、近年の動向を知らずに「ADHDは子供だけの症状である」と考えている医師は少数ではないという。

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二枚舌

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10247681 人の身体には、長年の進化によって形や機能が縮小して、辛うじて形をとどめる「退化器官」や、すでに機能しなくなった、虫垂・尾骨や耳を動かす筋肉などの「痕跡器官」がある。

「親知らず」や「足の小指」は「退化器官」である。本来は上下左右4本だった「親知らず」が全部残っている人は、いま日本人なら3割程度だし、最近は生えてこない人も珍しくない。食べる物が柔らかくなり、奥歯をあまり使わなくなったためとされる。

そして、「舌」。多くのコウモリや下等なサルの仲間には、舌が2枚あるものがあるそうだ。この、舌の下にあるもう1枚を「下舌(かぜつ)」というが、実は人の舌の裏にも「采状ヒダ」と呼ばれる「下舌の名残りがある」そうだ(犬塚則久著「『退化』の進化学」)。つまり、国会議員の「二枚舌」が多い種族ということか・・・?

ある新聞に、経済人のこんな話が載っていた。「自民党の国会議員は、選挙区に来ると、『地方を大事にしなければならない。地方切り捨ては間違いだ。これからは地方重視の政治を行う』というが、東京にいると時は、全く地方の話は考えていない発言が多い。 

ある地方の首長はこう語った。「国会議員は二枚舌だ。いままで地元の国会議員を通じて陳情してきたが、国会議員は役に立たない。」地元向けに言うことと中央でやることがまったく違う。

最近もある官庁に行ったら、地元の国会議員がわれわれが陳情したこととまったく違うことを言っていることがわかった。こういう嘘つき議員が増えた。「あてにならないので、国会議員を頼るのはやめた。すべて自分たちでやることにしました」。

権力者は二枚舌を使えば、更に権力が増し強権発言ができると錯覚してしまう。だから、自分では二枚舌との認識がなくなってしまう。恐ろしいことだ。

 

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2009年10月21日 (水)

郵政見直し問題

Cirrocumulus1 山間へき地・郵便局の経営者の高齢化など一部地域での住民サービスの低下など問題があるが、民営化の青写真を大きく変えれば、日本経済が背負うコストは莫大なものとなる。

基本方針では、日本郵政の傘下に4分社がぶらさがる体制を再編し、郵便や郵便貯金、簡易保険を全国の郵便局で一体的に提供する。郵貯と簡保には銀行法、保険業法とは異なる規制を導入する。郵便局網を地域格差是正の拠点とし行政にも活用する。政府はこれを踏まえ、日本郵政グループの株式売却を凍結するというものである。

全国規模で丁寧なサービスを展開すれば事業コストが膨らむ。そのコストはだれに負担させるのか。ゆうちょ銀行とかんぽ生命がそれぞれ民営会社として独立して経営するのを諦めざるを得ないと言うことらしいが、やっと結果が出始めてきた事業を後戻りさせてしまいそうである。

基といえば、役割を終えた巨大な公的金融機関をどうするのか、財政投融資制度の改革が進み、情報伝達の電子化・で郵便事業の継続といったことから、郵政民営化が本旨だったはずだ。

かんぽの宿の売却問題などで経営責任を問われた西川善文・日本郵政社長は辞意を表明した。貴重な資産を不透明な手続きで安売りしようとした西川氏の責任は重い。政権交代で民営化の基本方針が変わったこともあり、現経営陣の刷新は当然であるが・・・。

それにしても、これでは郵政民営化の原点である「官から民へ」の改革が怪しくなってしまい、実態は「国営に逆戻り」となるようで堪らない。

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「便所飯」から思う

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23581「今、若い人の間で便所飯なんて、信じられない。」

精神科医の町沢静夫氏によって名付けられた精神症状の一つ。学校や職場で一緒に食事をする相手(ランチメイト)がいないことに一種の恐怖を覚えるというものだそうだ。

主な症状は、一人で食事することへの恐れと、食事を一人でするような自分は人間として価値がないのではないかという不安である。学校や職場で一人で食事をすることはその人には友人がいないということだ。友人がいないのは魅力がないからだ。だから、一人で食事すれば、周囲は自分を魅力のない、価値のない人間と思うだろう。

「一人でいられない学生の姿が浮かび上がってきた。その突出した現象が便所飯ではないか」。「依存度が高く、他人の目が気になるのは、成長時期の発達段階でよく見られる現象だと思う。

私も、高校時代、特に男女共学であったので、女性との関わりが苦手であった経験がある。人との交わりや生活体験がないが少なかったので、他人の目が気になって仕方がなかった。しかし、依存度などはなかったように思う。

私の青春時代を振り返ってみると、百姓の生まれで、小5で母親に死なれ、兄弟も7人と多く、毎日食べることでせい一杯であった。父親一人の精神教育などはとてもできなかった。

高校に入って、都会っ子の友達となんとしても心身ともなじめず、いつもコンプレックスを抱えていたが、今問題になっている便所飯は経験がない。むしろ一人で影に潜んでしまう性格だったと思う。

私の経験からも、思春期の精神的に不安定な時期に、親・大人の適切な愛情のある対応が必要で、人間形成に重大な影響があると思う。

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2009年10月20日 (火)

ミスは無くせない?

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05sikotuko31ゴルフの石川遼選手が、バンカーショットを打とうとしていたとき、ギャラリーの携帯で撮るシャーターの音が気になり集中力を欠いてしまって、ショットが思う通り打てなかった。専門家はゴルフでは集中力が特に必要な競技であるのでカメラのシャッター音などは絶対にあってはならないものだそうだ。結果は、ホールの縁を回って外れて、プレーオフに敗れた。

外したのは、ミス?全身全霊で集中した精神が切れたり・思わぬ勘違いとなってしまうことがある。それが人間ということかも知れない。最近、信号がない道路の横断歩道を渡ろうとしたら、左を見て、右を確認を怠ったしまい、車が来ていたのが気がつかなかった。

道路の中央で気づき、車の運転手が止まってくれて事無きで済んだ。横断歩道であったことで、車の運転手が気がついてくれたのだと思う。この事から、安全・安心は保険もその一つであるが、安全対策は、複数の対策で臨むことが大切であると考え直した。具体的には「遠回りしても、横断道路を」。「戸締りは一つの鍵より、心の鍵でもう一度」。である。

将棋の第二十期女流王位戦の五番勝負、第二局。石橋幸緒王位が最終盤で自分の歩を飛び越えて角を動かしてしまい、清水市代女流名人に反則負けした。

冷静になって振り返ってみると、『自分勝手な思い込みから来る錯覚』としかいいようがありません」と石橋王位である。錯覚というのは怖いが、それを犯罪に利用する人間もいる。

場操縦の疑いで逮捕された、早稲田大学の投資サークルOBの若者たちは、買う意思がないのにインターネットで大量の買い注文を出し、投資家を錯覚させていた。株価をつり上げて他の投資家の買い注文を誘い、注文確定の前に取り消す手口で相場を操った。

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傍観者効果とは

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06oga_toga11 最近散歩して気がつくのだが、挨拶をしても何の返事もない。確かに知らない人であるが、一人対一人である。「お早うございます」という一言がそんな面倒なのかと思うのだが、知らん振りで通り過ぎて行くのである。

「挨拶」が社会生活の原点であり、コミニケーションの始まりである。今の社会で、見て見ぬを振りをする人が多くなって、お節介な爺さん・婆さんがいた昔が懐かしい。プライバシーの問題もあるが、お隣が近所が・地域がお互い助け合っていくことが薄れ、これが社会現象化されているようで寂しく、不安になる。個人主義?

こう言った現象は、事件となって、現実起きている。過去の話で、ある会社のコラムにいい例が載っていたので記してみた。誰でも、被害者だったらと思うと「ゾット」することだ・・・。「挨拶」たかが「挨拶」が人間生きていくためにとても大事だと思う。そして、重大な事故・事件に「見て見ぬ振り」が「傍観効果」に繋がっていくのだ。

2006年8月、JR北陸線の特急電車内で、36歳の解体工は、隣に座った21歳の女性会社員を脅して痴漢行為を続けた挙句、トイレへ連れ込んで暴行した。列車内には当時40人近い乗客が乗っており、女性が泣きながら連れて行かれる様子に気付いた客もいたが、犯人を事前に止める者は誰もいなかった。

また2008年3月、三重県松阪市内を走行中のバス車内で、携帯電話の使用を咎められた58歳男が、注意した61歳男性に暴力を振るい、被害者が翌日死亡した事件でも、30人いた当時の乗客は、誰も暴行を制止しなかった。他国の非人情を、とても責められまい。

ドイツの心理学者リンゲルマンが綱引き実験で実証した「リンゲルマン効果」は、「社会的手抜き」という別の表現のほうが分かり易い。それによると、1人で綱を引くときの力を基準にすると、2人で引く場合は各々が93%、3人では85%、8人では49%の力しか出さなくなってしまうという。「自分が多少力を抜いても大きな影響はあるまい」と各人が考えることで各々の責任感が薄れ、出す力が弱まってしまうためだ。

ズルさや弱さに起因する、人間誰しもが持っているそうした責任の回避や緩和を心理学では「傍観者効果」と呼ぶが、「傍観者効果」は社会生活の場のみならず企業内でも起こり易く、かつ、後に重大な禍根を残すことが少なくないから見逃せない。

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2009年10月19日 (月)

論語が人気という

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Cosmos_0021 不透明な時代に、道徳教育こそが安心・安全な国造りに大事なことの一つかも知れない。最近、子供たちに「論語」を教えることが人気になっているそうで、大いに結構だと思う。

J-CASTニュースで記事を見た。それによると、陽明学者・安岡正篤氏の孫、安岡定子さんだ。参加者約30人でスタートしたが、今では100人が集まって、部屋は満員の状況だ。親子連れが多いが、お年寄りもふらりと参加する。最近では教育関係者の見学も多いという。

『巧言令色鮮し仁』。(こうげんれいしょくすくなしじん)これは、うわべだけを取り繕っている者は思いやりに欠けるという意味。子供たちには、こういった言葉をふと思い出して、人間関係に役立てて欲しいと思います」と話している。

SNS「mixi」にも複数の「孔子」「論語」コミュニティがあって、書き込みには「行き詰った時やどうしようもない時に論語を読んで生きる知恵を頂いております」「読むと落ち着くんです」「論語は、人間の徳性を磨く書物ですよね」などとあって、「人生指南」の書としている人も多いという。

安岡定子さんが書いた「親子で楽しむ こども論語塾」(明治書院)は初版3000部で2008年にスタートしたが、好評で重版を重ねた。09年2月に発売された続編とあわせると10万部を発行した。これほど売れるのは、児童書のジャンルの中では珍しく、続編も現在編集中だという。

現代社会に不足している、「モラル・マナー・思いやりの心」を育てる論語は健全な人間形成に大いに役立つものと思う。

論語は『心の栄養』と言う。読んですぐに役に立つというわけではない、いつか役立つものである。内容が普遍的なので、子どもにとって、成人になり、父親になって、母親になって、それぞれに違った読みができるのが良い。

これまでないがしろにされがちだった『心』が今、見直されているようになり。この不透明な時代の雰囲気にも、よく合っているのかもしれない。

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不言実行ということ

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08kakunodate_koyo11 「不言実行」とは、あれこれ言わずに、なすべきことを実行することであり、「有言実行」とは、言ったことは必ず実行すること。

「なすべきこと」となると、不言実行のほうが難しい。有言実行は出来ることを言っておけばいい。ちなみに有言実行なんて言葉は無く、不言実行をもじって作られた言葉である。

ところで、世の中には色々な人がいるもの、当たり前だが、一人一人をよく見れば、皆個性がある。集団の目指す目的を達成する時には、その個性を消さなければならない。ルールに則り、目的達成のために力を合わせなければ、良い結果は得られない。

個人に戻った時には、その制約は外れ自由な思いに浸れる。だが、一人暮らしをしていない限り、家庭でも必然的にのルールは作られている。それが「家風」という。昔は家風という言葉がよく言われたものだが、最近は殆んど使われない。道徳教育の意識低下?に繋がっている。戦後、
家制度の解体や核家族化の進行とともに家風の変質・消滅しまった?

人が何かを始める時に、「今日から~を始めます」と宣言することはあまりない。家庭生活の大半は「不言実行」。ところが不都合が起きた時に、話し合いの結果家風を改めようと決める。「明日からは~にしよう」と皆でルールを決める。「有言実行」の時だ。

決めたからには、親であれ子供であれ、それに従わなければ不都合が起きる。特に親がルールを無視した場合、親の「言動不一致」に子供は混乱する。

子供にばかりルールを守る事を要求し、自らが守ろうとする姿勢を見せない時に、子供は親への不信感を抱く。もちろん、どうしても守れない場合もあるだろう。その時は親と言えども、謙虚な姿勢を取り謝罪説明しなければ、一層子供の不信感は募る。

これを「説明責任」と言う。「不言実行」「有言実行」「説明責任」どれも社会で働く場合に欠かせない。そんな難しい言葉を使わなくても、自然と家庭の中で身に付けられるもである。

今の社会を見ていると、「言動不一致」で「説明責任」を放棄したような大人ばかり。それでは良い子に育てと言うほうが無理である。

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2009年10月18日 (日)

人が豊かに生きる=考えよう

08kakunodate_koyo61私は、生まれも育ちも同じで、現在も八王子の、この場所に住み続けて70年過ぎた。湯殿川・兵衛川は姿を変えたが、今でも水は流れている。しかし、私の子供の頃川に棲んでいる魚・昆虫などは殆んどいない、蛙・蛇なども近年までいたが、今は殆んど見ない。

今朝の東京新聞社説に環境に関して書かれていた。恐ろしいほど環境破壊進んでいると改めて感じ、記してみた。
20世紀に入り、生物の絶滅速度は約千倍に加速した。ホッキョクグマだけではない。国際自然保護連合(IUCN)の調査では、哺乳類の21%、鳥類の12%、両生類の30%、そして「池辺群虫図」の主役である昆虫類の約半分が、絶滅の危機にひんしている。若冲の傑作も、遠からず“過去の遺産”を描いたものになるのでしょうか。

COP10は、絶滅の猛スピードに歯止めをかけようと、世界約190カ国の代表など約1万人が名古屋に集まって、話し合う会議である。例えば「名古屋議定書」のような、法的拘束力を持つ数値目標の策定を目指すという意味で、温暖化対策の京都会議と同等の、歴史に残るイベント。

「自然保護」の会議かといえば、それだけではない。もちろん、生物個々の命は、かけがえのないものである。しかし、困ったことに私たち人間は、その命を利用せずには生きられない。私たちは、医療も含め、衣食住すべてを、他の生命に依存して暮らしている。

多様な生き物の多様な命は、私たち人間の多様で豊かな暮らしを支える土台である。人間も生態系の一員、その大切な土台が崩れそうになっている。ほかならぬ人間自身の貪欲と無関心の結果である。

例えば「食」。私たちは、つい半世紀前には身近にあった「飢え」という言葉の意味を知りらない。ところが、スーパーに安価で並ぶ食品の豊富さに目がくらみ、飽食を満喫し、食べ残しの山をせっせと築いているうちに、その影は少しずつ近づいている。

「食」は、命そのもので、命には、質、量ともに必ず限りがある。
国連食糧農業機関(FAO)は、増え続ける地球人口を養うためには、50年までに世界全体で食料を70%増産する必要があると、警告を発している。

我国の食料自給率は、カロリー換算でわずか41%、私たちはただでさえ、命の恵みが乏しい国で危うい日々を送っている。

「生物資源の持続可能な利用」「遺伝資源から得られる利益の公平な分配」も、COP10の重要なテーマである。「食」の問題一つとっても、会議の行方は日々の暮らしに直結している。とりわけ都会の消費者に、大きく影響するはずである。

誰のため、何故「命の多様さ」を守るべきかと問われれば、結局は人間のため、私たち人間が末永く、沢山のい命の恵みを享受しながら豊かに暮らすため、そう強調せざるを得ない。利用のためのCOP10、人間のためのCOP10、だとすれば、だれもが無関係、無関心ではいられない。(記事抜粋)

COP10=生物多様性条約第十回締約国会議の2010年、名古屋開催する。

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夢と現実

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08yokotesigai_yuukei21 昨夜は、夢を見たが、筋書きがはっきりしない。どうも夢を見るときは、私は、寝相が悪い時に見るようだ。目が覚めて見ると、枕がちゃんとしていなかったり、布団が掛かっていなかったりしいることで、浅い眠りの状態になってしまうことで、夢遊の状態になっているときで、ほんの2~3分だろうと思える。

夢というと、一般的には、「そんな大きい事は夢のようだ」「あり得ない現実を空想する」ことをいうことだ。そして現実に夢のような生活を送っている?人がいることの喩えで「夢」という言葉を使う。

例えば、「ありあまるほどの財産があっても、心豊かに健康で長生きできるとは限らない。その日暮らしの貧しい生活の中にも、笑いとあたたかさが満ち溢れた幸せがある。金や名誉はやがて消えてなくなってしまう、栄枯盛衰は夢の如しである。」というように。

人生の3分の1は寝ているが、起きていても眼が覚めていなければ寝ているのと変わらない。夢かうつつか、それさえもわからないような生き方しかできない人も多い、人生は夢の如く過ぎ去ってものである。

人間の認識は独断や偏見でしかものごとをとらえようとしないところが多い。生きてる限りこの迷いの世界から努力しても、簡単には脱け出せない。夢見心地でなく、しっかりとこの世の真実の姿を見極める心は持ち続けたいものである。

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2009年10月17日 (土)

少しずつの積み重ね

07rose_ame21_2 『生き方』稲盛和夫氏の言葉

「昨日の努力に少しの工夫と改良を上 乗せして、今日は昨日よりもわずかながらでも前進する。その、よりよくしようという姿勢を怠らないことが、のちに大きな差となって表れてくる。けっして通い慣れた同じ道は通らないということが、成功に近づく秘訣なのです。」

世は無常である。年年歳歳花は、咲くが全く同じ花はない。進歩(変化)して行くことが、生き続ける魅力になって前に進める。だから、いつもとまるっきり同じ事を同じ様にやったり考えでいては、は進歩がない。

小さな工夫やほんのちょっとの改善でも、日々それを続けていけば、時間が経てば経つほど大きな進歩になる。「少しずつ」でいいから、進歩が実感することで、また前を向いて生きられる。「少しずつ」で良い。焦らずにラクな気もちで毎日目標に向かって過ごせばきっと素晴らしい明日が待っている。

自分の進歩を感じられることは嬉しいもの、前進を長く続けるためには「少しずつのほうがいい」のかも知れない。幸せになるためには、少しずつ自分を育てていけば自信につながると思う。

「より幸せを感じられるようになろう」と心がけていけば、「1年前に比べたら少しは幸せに暮らせるようになれた」と、きっと思えるようになれるだろう。そう思えるのは、とても幸せなことだと思う。そう思えば、少しずつの積み重ねで、いつでも「今がいちばん幸せ」とも言えるようになれるだろう。

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人生を歩む道のり

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08ringo_tyoukai11 「本当の喜びは、意思と活動が一致したときに生まれる」

先輩のお年寄が言った。「恥ずかしいが人のお世話にならなければ生きられない」と嘆いていた。「人は誰でも同じ道を歩くもの恥ずかしいことではない」と慰めたのだが?

人生の道のり考えた・・・
目的地に早く着くのが人生の目的か?急ぎ過ぎると、途中の景色を見逃してしまい、本当の喜びを味わえないし、楽しみがなくなってしまう。

人生の目的は、途中の経過を楽しむこともその一つだと思う。だから困難な道をどう進むかを考えたり工夫していくことで充実した人生を楽しむことができる。

同じ道を通るにしても、車で通るのと歩いて通るにしても、列車で通るのでは、景色が違って見えるような気がする。

気がつくポイントも違うし、何よりゆっくりになるほど、小さな音や、かすかな香りも感じることが出来る。上っ面だけを見ていくより、いろんな情景を感じることができる。

数多くの道を通っていても、速度が速すぎたら、その感触まで感じることは出来ないだろう。自分に納得のいく早さが最もいい。人夫々に個人差がある。だから他人があくせくと速度を上げていても、しっかり、自分の速度を守っていけばいい。

ちょうど自分が納得できる速度を保つことが、簡単なようで難しい。マイペースを守る、心がけているだけでも違うだろう。

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2009年10月16日 (金)

クレーマーに悩む

Flower61クレーマーに悩まされる住人に朗報だ。

東京都国分寺市が全国で初めて、生活音をめぐるトラブルを防止する条例を可決。12月から施行されるという。マンションなどの集合住宅に住む人にとって切実な、ご近所との騒音問題。過去には生活音をめぐって事件まで起きた例もある。条例施行が問題解決の一歩となるかー(JCASTニュース)

一般に騒音トラブルというと、音を出す側が加害者、聞かされる側が被害者と思われがちだが、現実には隣人から「うるさい」と言われ続けて困り果てている人が多い。この記事が注目を集めているとのことだが、それだけご近所トラブルは、解決が難しいことが分かる。

クレーマーの問題もあるが、正当と思える訴えたいことがある。私は最近、我慢が限界になって来ている猫の問題である。近所に一人暮らしのお婆さんが猫好きで、6・7匹の猫に餌を与えている。実際飼っている猫は4匹だそうだが表の通路で餌を与えているので野良の猫が一緒に食べている。

それまではいいが、近所の外履きのサンダルをくわえ持ち去って一時困り果てていたが、犯人の猫を外に出さない処置をとって解決した。ごく最近は、猫の糞公害である。近所の家の芝生・道路に糞をして、その臭いでたまらない。何とか防止剤など買ってきて撒いているのだが、効果がない。

朝雨戸を明けると、異様な臭いで鼻を突いてくる。私の家は裏の家が不在で芝生に毎日猫のトイレ化した状態・東側の道路・南側通路は、砂利道でそこもトイレ化した状態となってしまっている。

ひとりの猫好きなお婆さんの気持ちも分かるが、何とかして欲しいと思う今日この頃である。

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「ならぬ堪忍するが堪忍」

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09_12801 「ならぬ堪忍するが堪忍」
この言葉は徳川家康の言葉である。怒りをこらえて忍び、他人の過失を許すことである。最近、殺人事件や、幼児虐待のニュースが多い、新聞や、テレビを見ていて思い出した。切れる・頭にきたなどの言葉は日常一般的に使われているが、そんな昔からあった訳ではない。

昔からある有名な格言に「ならぬ堪忍するが堪忍」と言い、また「堪忍の袋を常に首にかけ、破れたら縫え破れたら縫え」という言葉がある。生きていく過程には、これでもかこれでもかというように怒る現象が次々にやってくる。

本来は、苦難を堪え忍ぶ意味であったが、肉体的な苦しみだけでなく、精神的な悩みにも耐えて、じっと我慢することから転じて、他人を許す度量の広さをあらわすようになったものである。

「忍」という字は。「心」の上に「刃」を置く。そのように、心臓に刃をつきつけられても、たえしのぶ意味をあらわしている。この世を仏語で、「娑婆」という言葉がある。訳せば「忍土」つまり、あらゆる四苦八苦を忍ぶ世界という意味である。

この世はもともと苦の世界、楽をして生きようなどと考えること自体が間違いなのである。あらゆる苦難を耐え忍んでこそ生きる価値がある、と思わなくてはならないのである。

青春時代には、若さにかまけて、ちょっとしたことにも怒りを爆発させ、とかく暴言や暴力沙汰を起こしやすいが、それをぐっと我慢し堪忍することが大切である。人間がひとまわり大きく成長するのは、そういう時である。なんでも堪忍できる人になるように、努力する事である。

これが「修行」ということだろう。人間煩悩は断ち切れない、太陽は光は同じように照らしているが、人間は、誰一人同じ人間はいない。双子でも、もし、クローン人間が作られても、性格まで、同じの人は作られないだろう。肉体的・精神的(性格)の平等な人は不可能なのである。

つまり、一人として同じの人間はいない。人間社会を生きていくためには、「堪忍心を持つ」こと・「相手を許す心」が、世の中を楽しく生きる「コツ」と言うことだ。

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2009年10月15日 (木)

レオナルド・ダ・ヴインチの肖像画が発見

Davinci_monalisa011 昨夜のNHK深夜便W・Nは作家で、カナダモントリオール在住の関 陽子さんのリポートでレオナルド・ダ・ヴインチ(1452-1519)の肖像画が発見されたとのことである。

ダ・ビンチの「モナ・リザ」を知らぬ人はいないに違いない。私も昔から、何度か写真を通じて拝見している。見るたびに、何か妙なと思いつつ、これが例の謎の微笑というものなのだろう、と一人で納得していた。 

関陽子さんの話の内容は、カナダ出身のコレクターが所有している女性の肖像画が、レオナルド・ダ・ヴィンチの未確認の作品である可能性が出てきた。同肖像画にダ・ヴィンチのものと見られる指紋が残されているという。

フランス・パリの光学系ハイテク企業のルミエール・テクノロジーは1月、カナダ出身のピーター・シルバーマンさんが所有するインクとチョークで描かれた同作品に左手の指紋が残されているのを発見。その指紋がバチカンにあるダ・ヴィンチ作品に付いている指紋と「酷似」していることが確認された。

ルミエールがオックスフォード大学のマーティン・ケンプ教授にこの発見を提示したところ、教授は作品をダ・ヴィンチのものだと考えたという。本物となればその価値は数千万ユーロになる。シルバーマンさんは数年前に同作品を購入した際、19世紀初頭の絵画だと言われていたという。

ケンプ教授によれば、肖像画に描かれた髪を1つにまとめた女性は、15世紀のミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァの娘ビアンカ・スフォルツァではないかという。ルミエールは2007年から放射性炭素年代測定法や赤外線などを使用して、この絵画を徹底的に分析していた。

カナダのコレクターは、骨董品屋で、女性の横顔の画を200万円で買ったそうだ。これが今では150億円ともそれ以上とも言われるようになった。今から500年位前の作品だそうだが、その当時、ダ・ヴィンチは一時サポーターがいない時期だっそうで、そこに残されていた指紋で、ダ・ヴィンチの画に間違いないと断定したということだ。

画に指紋があったことと、その指紋での判定出来た科学者には驚嘆するばかりである。

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残された柿の実

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鳴き声を 見上げる空に 柿ともず

一雨ごとに、寒さは北国からやってくる。そして日が短くなり最近の東京地方の日のでは5時47分となってしまった。雨戸の向こうに百舌の鳴く声がきこえる時間を見ると5時30分だった。鳥の鳴き方で一年を通して色々な種類の鳥がいるものだ。

最近は、百舌のけたたましい鳴き声が澄み切った青空の下、里山ををどこまでも飛んでいくようである。そんな光景は、昔の草葺の農家の庭先の柿ノ木ある風景を思い出す。その柿の木に柿の実が天辺に二・三個残されている。冬の野鳥の餌に農家の人の野鳥にまで、思いやる気持ちからだ。自然の恵みを分け与える、心優しさからだろう。

幼い頃に柿の実を二・三個残して冬空の風に揺れていたのを見て母が話したことを思い出した。「あれはね、きまもりというのよ。人間が柿を全部食べてしまうのではなく、冬になって、食べ物が少なくなるに鳥さんに、少し残しておいてあげるのよ。そうすると、それが木のお守りになって来年もたくさん実をつけてくれるのよ」と・・・。

木守りという言葉を私に教えてくれた母は、生きとし生きるものへの慈しみや、自然に対する畏敬の念をも教えてくれたのかも知れない。

初冬の澄んだ空に残された柿を見ると、私が12歳で亡くなった。母を思い出す。そして、「きまもり」という美しい言葉をこれからも使い続け、残していって欲しいと思う。

北国から初雪・紅葉の便りを聞きもう直ぐ、八王子の里も「木守り」に野鳥すがたが日に映える季節は近い。

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2009年10月14日 (水)

羽田空港のハブ化

Jaz41 前原国土交通相の突然?発言(民主党のマニフェストにもなかった)に大阪府の橋下知事との会談で、大きくクローズアップされた。千葉県の森田知事も「一言も相談がない」激怒の様子が記者会見であらわにしていた。

成田空港の長年の経緯もあり、何の相談もなしに、羽田のハブ化(国際拠点空港)とするの発言は、千葉森田知事の気持ちも分かる。鳩山首相にも相談していないと今日の読売新聞の報道である。

しかし今朝の読売新聞社説は、、「羽田空港のハブ化は推進は当然」と肯定的である。
来年10月に4本目の滑走路ができるのを機に、「国際線は成田、国内線は羽田」という「内際分離」の原則を取り払い、羽田発着の国際線の便数を大幅に増やす。

運営上の制約が多い成田空港の発着枠は大幅増が難しい。利便性を考えても、都心に近い羽田の拠点空港化は当然の選択だ。実現に向け協議を進めるべきである。

また毎日新聞社説でも、
首都圏の空港は、羽田が国内線、成田が国際線という役割分担が前提となってきた。成田闘争などを経て、地元の千葉県などに配慮する形で、この区分が続けられてきた。羽田で国際線を運航するにしてもチャーター便に限定してきた。

羽田は来年10月に4本目の滑走路の運用が始まる。発着枠が増えることから、近距離の国際線定期便に加え、成田で発着ができない夜間について、北米や欧州と結ぶ路線の運航を羽田でも行うことにしている。

しかし、これは例外措置であり、成田が国際線の拠点空港であるという前提は変わっていなかった。前原国交相の唱える羽田のハブ空港化は、この前提の撤廃につながる。

利便性に勝る羽田のハブ空港化は、利用者の立場からは大歓迎だろう。北米路線のアジアの分岐点として羽田が機能するようになれば、日本の航空会社の競争力強化につながるし、東アジアの地域間競争でも日本に有利に働くはずだ。ということで、過去のしがらみを解いて推進すべきとしている。

日経新聞社説でも、
都心から近く、乗り換えに便利な羽田空港の国際化は、乗客の利便向上や観光立国の実現に不可欠の課題であり、私たちも新方針を支持したい。としている。

現在韓国の、仁川国際空港(インチョンこくさいくうこう)に先を越されている。日本空港は、観光・ビジネスで羽田が国際拠点空港の発想は正しいと思う。それにしても、茨城空港を来年四月開港進めている他、地方の空港の経営が問題急浮上してきた。そしてJALの問題と鳩山政権に頭が痛い。

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道徳の希薄さは時代に同化?

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08kakunodate_koyo61 道徳の希薄さは時代に同化?
電車の車中でお化粧をしている女性がいると、私は見苦しくてそちらを見ることはできない。

感受性の高い男性にとっては、電車の中で女性がお化粧をしている光景は耐え難いものだが、その女性が自分の人生の時間をどう使おうか、「基本的にはその女性の選択だ。」という考え方もあるだろうが、人間社会で、同姓でも不愉快な行為は、公共の場では、当然控えるべきである。

最近、公衆の面前で、「全裸らになって駆け回る行為を撮影していた」大学生が逮捕されたというニュースなどは、想像しただけで、感じかた少なくなってしまった。つまり、こういう問題をマスコミは大きく取り上げないので、ますます公衆道徳心が薄れ一般常識に同化されるのでは、ないかとさえ思ってしまう。

なんでこんなにあれこれと感じるのだろうか? なぜ、人生のこととか社会のことに敏感なのだろうか? それは自分の勝ってであり、わがままではないのか?

人のことが気になっても、それだからといって、自分が山奥に一人で住む度胸もない。隣には人がいるのだ、そして、人には人の考えがある。全裸で駆け回っても、お化粧している女性でも、きっとそれが正しいと思っての行為をしているはずだ。

そういう行為を正しいと思っている人を、自分が間違っていると言ってもしかたがない。人間は一人一人今まで生きてきた過程に間違いがないと、自信を持ってやっていることだろう。

さらに言えば、誰もが間違っている。大切なことは、相手には相手の正義があるということを知ることであり、自分は感受性が高すぎると深く反省することでもあるだろう。

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2009年10月13日 (火)

幼児期の躾・教育の重要性

1231 幼児期は、その後の「人間形成の基礎」が培われる時期であり、その育ちの基盤をなす場は、深い愛情に支えられた「家庭」で成長して行くことだと思う。

家庭や地域社会の躾機能が低下しつつある現在、幼児躾・教育の集団施設の果たす役割が、きわめて重要な時代になったといえる。
 

重要なことは、この時期の「人間形成」にとって不可欠である「集団での遊び」を保障することである。
幼児は、健全な、「集団での遊び」を通して、自立と強調、豊かな心情や情緒などの発達して行く。一緒に遊ぶ中で、コミュニケーションを図ろうとする意識が高まり言語能力が伸びる。自分中心の行動から相手の立場を考える行動へと社会性や道徳性が培われる。


「話す」「聞く」「返事をする」など,基本的な学習規律や態度,物事に対する「興味・関心」や「意欲」など、就学前の教育において、小学校以降の「生活や学習の基盤」を培うことが一層求められているということである。


幼児の躾・教育は、人間発達の全貌を視野に入れて考えるのは当然である。現代の青少年の問題行動も改めて「乳幼児期からの心の教育」や「きまりの大切さに気付かせる教育」が大事さを痛感する。

現今、家庭・地域社会人間関係の希薄しているなか、「人間形成にとっての教育」の重要性の認識を再考すべきだと思う。

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「友愛」とは・・・

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06oga_toga11 鳩山由紀夫首相の「友愛」の言葉を私なりに考えてみた。

歴史的に見て日本民族は、島国だったためか、日本人同士は、仲間意識が強く、人情、思いやり、愛情、なさけ、による結びつきは、人々の精神的な信頼のささえとなり、協調性が基本的にあった。

それも、65年まえの終戦を期に、世界各国の人々の交流が盛んになって、文化・文明が進化して日本人の国際化が進んで、個人の意識も変わってきた。今日の世情では、何ごとにつけても、個の存在を声高に主張することが人間関係の基本であるかのような風潮が目に付くようになった。

人間としての思いやり、愛情、情けという人情がからむと、かえって人と人との関係では、不都合が生じるということになりかねない。

したがって、現代人は孤独に悩み、不安を抱いている人が実に多い。それで、人情にふれることのなかった人が、体温の温かさが感じられる心のふれあいに出会った時、身震いするような郷愁を感じることがあるようだ。

ふと、ふりかえってみた時に、自分の周りには人情のふれあいがない、そう感じる人も多いだろう。

悩み苦しんでいたとき、気持ちを楽にしてくれたり、胸のつかえを話したとき、慰めてくれたり、くじけそうになったとき、励ましてくれたり、助けて欲しいそのとき、手をさしのべてくれたり、うれしいとき、悲しいとき、何時も傍にそんな人がいたでしょうか。

人も、生きとし生けるものもみな諸々の条件が具わったからこそはじめてこの世に生まれ、存在している。さまざまな条件に支えられているからこそ生きていける。

人の情け、哀れみ、慈しみの心を人情である。人間のみならず生きとし生けるものすべてをあわれみ、いつくしむ心。慈悲心で、生きていけるのである。それが「友愛」精神だと思う。

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2009年10月12日 (月)

自分の幸せを実感する生き方

3612「幸せとは」・・・考えると・・・

他人からみると健康で何の不足がなく幸せそのもだと思われるが、個人の悩み・不安な気持ちは分かる訳がない。そして、自分の幸せの価値観を見出すには・・・を考えてみた。先ず心身とも健康であること、私も入院手術をして二ヶ月間会社を休んだ経験がある。その時、健康の有り難さと健康で会社勤めが出来る幸せをつくづく感じたのである。

そこで今日は、自分の幸せを実感する生き方について考えて見たいと思う。
自分にとっての幸せが、少しでも分かっていれば、その幸せを感じられるような生き方を目指して努力すればいいことである。

もう一つ方法は、「やりたいことをやる」ことである。自分がやりたいことをやれること自体も幸せなことであるし、それをやっていく中で、いろんな幸せを感じることが出来るのではないだろうか。最初は、時間・お金が掛かるからと躊躇するが、生活の差し支えのない程度の出費で済むことはいくらでもある。

「やりたいことが分からない」と言う人や、やりたいことがあっても「やりたいことが出来ない」と言う人もいる。やりたいことが分からない人は、自分がやりたいことを探せばいい。
「自分の幸せ」と、「やりたいこと」がある程度分かれば、自分の生き方の方針が見えてくる。
自分が望む幸せややりたいことは、次の3つのいずれかに入ると言われている。

1.日々の生活の中で、やれること、幸せを感じられること・・・。
2.夢や目標をもって努力することで、幸せを感じられること・・・。
3.人との関わりの中で、幸せを感じられること・・・。

ポイントは、人の指図ではなく、自分自信が無心になることである。それが分かったら、自分の生き方の方針を言葉にしてみるといい。

「幸せを感じて生活しよう」「生活を愉しもう」「幸せに暮らそう」「夢をもって生きよう」「目標をもって生活しよう」「人(との関わり)を大切にしよう」「人を幸せにできることをしよう」「愛をもって生きよう」など。

いくつかあってもかまわない。自分なりの言葉を見つけられて、自分の生き方の方針が決まれば、それに沿って生活や生き方を少しずつ変えていくことができるのではないだろうか・・・。

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散歩しながら

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07_sl_kurosawa21 台風一過で3連休は天気は行楽日和になるだろうと気象庁予報である。昨日は朝から一点の雲がない、日本晴れであった。久しぶり本格的に歩いてみようと思い、自宅前の湯殿川河川管理道路を、打越・途中京王線北野駅を経由し、長沼を下って淺川との落ち合いまで来た。

向こう側に、長沼(駅)ー日野市平山間にまたがる橋を見ながら、淺川の堰堤を遡る。この辺で家からの距離は7000歩ぐらいで歩行時間は40分ぐらいであった。家をでる時は半そでシャツではちょっと寒いと思って長袖を着てきたが、さすがに暑くなった。汗が額に流れた。背中の下着が汗で気持ちが悪い。それでも、川から吹いてくる風が気持ちよい。

真っ青に晴れた空、遠く奥多摩の山々、がまぐちの形をした御岳山は、昔から姿をかえず、青梅・あきる野・昭島・八王子・立川の平野部を見下ろしている。

落合から10分ほど上流に左側に八王子総合卸売りセンターがある。野菜・肉・日曜雑貨などが売られているが、堰堤の上から見ると人の行き交いが見えないので休みなのかも知れない。

JR中央線の手前で、野球のグランドがあり、白いユニホーム姿で練習する姿が大きな楠の葉陰から見えた。中央線のガードをくぐり、八高線のガード踏み切りに来た。八高線といえば、こんな思い出がある。

「昭和22年2月25日午前7時50分頃、八王子発高崎行きの列車(蒸気機関車)が買出し客を満載して埼玉県入間郡の高麗川駅構外手前1キロメートルの急坂カーブにさしかかった時、6両編成のうち2、3両目の連結器が外れて後部の4両が5メートルの築堤から転落して死者163人、負傷者249人を出す大惨事が起きたという。

「買出し」の懐かしい言葉、「戦争・終戦」で必死で生き抜いた家族・両親の顔が浮んできた。

その当時私は、小学校生であった。新聞に大きく書かれていた記事と父親の話が記憶にある。62年前のこと、あぁ・・今も走っている。八高線は蒸気機関車からデイゼル車にかわったが、たった2両編成でローカルで懐かしい。妻はこの電車で、NHKの朝の連続番組{つばさ」の舞台となった「川越」は、小江戸とも言われ、人気があり一度近いうちに行きたいとせがまれている。

そんな思い出懐かしんで歩いて16号バイパスを潜り、萩原橋をまで出てJR八王子駅前まで歩き、行きつけの床屋によって散髪してもらって帰宅する。11時30分だった。歩行距離17000歩余りだった。ちょっと疲れたかな・・・。

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2009年10月11日 (日)

芸能界の常識は世間の非常識

10247681まさか、清純アイドルと思いきや、覚せい剤の手を染めたり、お父さんと4歳しか違わない男が、年の差22歳の離れた娘と結婚するという。華やかにライトを浴びているうちはよいが、世の中、辛いことの方が多いのだが・・・。その場の感情で燃えても、冷めるのは早いと思うのは良識のある大人であるが?。

54歳と32歳が結婚して子供が、自分の孫より小さいとは、一般常識からすると考えられない。一瞬に燃え盛る炎は、消えやすく冷め易い。孫までいる男が娘と結婚すると言われても、分別つく年であり4歳しか離れていない親はなんとも答えられないと思う。

仕事が不規則な自由な職業いわゆる、自由業といわれる芸能関係は、不特定な人間とのお付き合い、時間も不規則で、昼夜逆転の勤務?で体力・人に媚を売る人気商売である。

お金と、人気で勝負する世界、どうしたって、人間関係に不純が拭いきれない社会で裏社会の日陰のイメージが強い。

こんな話題で、世間の注目を集めようと考えているのかも知れない。目先の享楽だけを考えて、成り行き人生では、世間の常識は当てはまらない。世間では通用しない芸能界の常識があるなんておかしい。タレントといわている人間も当初は普通の常識を持った人間である。

芸能界でも世間でも、どこでも通用する価値観を持つ人間であって欲しい。

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「考えるのはいいこと、考え過ぎるのはよくない」

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06hatimantair341_11生きていくためには「迷い」「悩み」は尽きないものである。悩みのない人はいない。責任感・使命感などが強い人が迷い・悩みのるつぼに陥ってしまい、抜け出でなくなってしまう人が多い。

私は、会社を休み、精神科医者に掛かるほどのうつ病になってしまった経験がある。現代社会の複雑な人間関係・仕事の専門性・動きの早い時代感覚などになじめない。メンタルヘルスケア、が必要と思われる人が多くなっているのではないでしょうか。

私の経験から考えをまとめると、悩みや問題を抱えている時に回避しなければならないのは、そのことで疲れ切らないこと、生活に支障をきたさないこと、そのためには、考え過ぎないこと、だと思う。

何でも長時間力を入れっぱなしでは疲れるし、つらくなってくる。悩ましくなってきたら、「(ちょっと待て。)考え過ぎかな?」と自問できたらいい。

考え過ぎだと気づいた時には、考えるのを少し休んで、できれば気分転換をしたり何か愉しめる時間を挟んで、休み休み考えるのがいい。

どんなに大きな悩みがあっても、一日中そのことを考え続けてはいけない。それでは心身ともに疲れきってしまい、生活にも支障がでる。その悩みがいかに重要なことでも一日に一時間とか時間を限って考えることがポイントである。

考える時間には集中して考える。ただ過去の出来事を繰り返し想い出したり、人のせいとか自分はダメだとか考えたり、今後の悪い結果ばかりを考えていても、つらいだけで問題解決には近づけない。無意識に考えてしまう時には、このような考えが多い。

紙に書いて考える方法などは、今は集中してちゃんと考える、と、いうしっかりした意識を持つことも大切だと思う。悩みや問題について考えても、イヤな気もちにさえならなければ、それは“くよくよ”ではない。

抱えている問題を考える時間と考えない時間を意識してコントロールすることが、くよくよしない方法であり、悩みや問題をうまく考えることにも繋がるのだと思う。

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自立と共生

3612そんなことは私には関係ないから、困っている人を見かけても、見てみぬふりをしてしまう。「そんなの関係ねえ!」の人間が多くなって「人のふれあい」がなくなってしまった。自己主張を表に出し、相手のことは考えない人間が多くなった。

いま「自立と共生」が政治家が大きく取り上げている。本当に自立した自由な生き方というものは、共生なくしてはあり得ない。それも身内や仲間、自分にとって都合のいい人や事柄とだけ共生していくという態度では得られないのだ。

自身の自由ために我を押し通せば、結局は他の我のために自身が侵害され、自由は極端に制限される。昨今重要視される「自己決定原理」は、何事も自分で考え、自分で決めることを第一義としているが、もう一つの重要な要素である自分で責任をとるということを忘れている。

無責任人間が増えると、社会の秩序が保てないから法律を厳しくしようとする。公共の福祉や犯罪防止などの、人権を損ねかねない法律案が次々と国会に提出されている。その法律を作る政治家まで、責任をとらないで、嘘をつき、責任をとろうとしない輩もいる。
個人の自由は制限され、ますます住みにくい社会になる。自身の自由自立のためには、他のためにしっかりと責任を感じ、共に生きていくという姿勢がまずは大事だ。自分自身でどうしても責任をとれない問題もある。
 
共生というと、なんとなく相手任せであいまいな状態になってしまう、この厳しい世の中にそんな「きれいごと」は言ってられないという声をよく聞く。確かに経済至上主義の世の中で競争に負ければ、そのまま落ちてしまうという不安はあるだろう。
市場経済というと激しく競争をして互いに蹴落としあう世界を思い浮かべるが、決してそうではない。人々の互いの信用や信頼があってはじめて市場が成り立つのだ。その根本のところを忘れているから、経済全体が落ち込むと、すべて個人に責任を転嫁する意味で使われる「自己責任」という言葉が踊り、リストラという名の首切りが横行する。
経済が悪いときこそ、すベての人の自由や自立のために共に助け合い、共に生きていくことが必要なのだと思う。

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2009年10月10日 (土)

橋下知事も間違っている?

Shibutoge41 昨日記者会見でも話された、大阪府の橋下知事の会意聞いて、思ったのは、知事は自分が資本を出して、作った会社ではない。知事も職員も大阪府民の税金によって給料を貰っている。知事だからといって、「私の考えは間違いない、文句がある奴は辞めてくれ!」言わんばかりのセリフはおかしい。

確かに職員を責任を持って統制していかなければ、府の行政は立ち行かないと思う。だからと言って、職員の口を封じて、黙ってついて来い!ではかえって、納得いかないし、不審がつのり、効率のよい仕事は期待できない。

もっと部下の意見を聞いたり、話したり職員の身近な位置にいるべきで、日頃から心がける必要があると思う。JーCASTニュースでテリー伊藤さんが、「橋下知事も間違っている」との見出し見て同感した。

記事の内容・・・
「昨日の議会答弁、水需要予測の失敗によって380億円の損失が生まれることに関して、恐ろしいぐらい皆さん冷静です。民間の普通の会社なら組織上げて真っ青ですよ!!何があっても給料が保障される組織は恐ろしいです…」

将来の水不足に備え大阪府と和歌山県がつくってきた『紀ノ川大堰』。最近の調査で水需要が大きく減少したため、大阪府は事業からの撤退を決めた。この結果、建設費用1000億円のうち府が負担した380億円が無駄になる可能性が出てきた。

橋下知事のメールの趣旨は、撤退を府議会で説明する幹部職員に、結果的に税金のムダ遣いしたという意識が足りなかった。議会の先には府民がいることを意識し、申し訳ないと伝えるべきだったというわけ。 しかし、この知事のメールに女性職員が返信メールで激しく反発した。

「このメール配信の意味が分かりません。愚痴はご自身のブログで行ってください。メールを読む時間×全職員の時間を無駄にしていることを自覚してください」無礼と感じた橋下知事は再びメールで「私は上司です。この非常識を改めること。言い分があれば知事室に来るように。聞きましょう」と。

メールを受け取った女性職員はさらに猛反論。「こんなにたくさんのメールが一方的に送りつけられること自体、私には未知の経験。恐怖に感じています。知事室のお呼びとあらば、公務をどけてでもお邪魔いたします」。

橋下知事は「これ組織のトップに対して言う物言いではないだろう」と怒り収まらず、女性職員とその上司を口頭で厳重注意処分にした。スタジオでは、テリー伊藤が「橋下さんは職員を部下とか言っているが、雇っているのは府民。橋下さんも間違っている」。

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「湯殿川の生き物」をクリック

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2054421私は、生まれも、育ちも今の八王子に在住し70年あまり生きてきました。終戦・母の死・朝鮮動乱・ベトナム戦争・就職・東京オリンピック・し家の新築・結婚・オイルショック・父の死などの歴史を経てきたが、環境も大きく変わった。

湯殿川・兵衛川は、蛇行して自然のままの姿からコンクリート化され、田んぼ、畑はなくなり市街化されて、野うさぎ・山栗・きのこ・などが沢山取れた山まで開発が進んですっかり景色が変わってしまった。どじょう・うなぎ・ふな・なまずなどが棲んでいた湯殿川・兵衛川のき物は、すっかり影をなくしてしまった。

インターネット「湯殿川の生き物」で、クリックすると、私の関心のある八王子市の南西部地区に当たる、湯殿川で、小比企町・片倉町周辺の様子を書かれている「ブログ」ある。

子供の頃、田んぼにふなっ子・どじょうをみそこしざるで獲たり、かいぼり(川をせき止めてて魚を獲る)などして遊んだのだが、2008年9月に由井第三小学校 校長 福田 晴男先生が、書かれているが、懐かしい思いがする。

最近、湯殿川の河川管理通路にコスモスを植えて、除草・ゴミの始末をして、利用している市民の目を楽しんでいただいている、活動(作業)をしているが、台風18号の風で倒れ、花はちぎれてしまった。

その処分をどうしたらいいか考えていたら、河川の除草業者の、(株)エージーテクノス様が上流か作業を行って来ていたので、責任者にお願いしたら、快諾していただいた。嬉しかった。昨日は、袋一杯のゴミの収集と、コスモスの倒れ防止の紐(ビニール)を解ぐ作業を半日かけて行った。片付け作業は13日ぐらいなる。Img_041_2

 

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2009年10月 9日 (金)

亀井発言は賛否半々?

08matukawakeikoku_koyo11 歯に絹を着せないもののい方?亀井大臣の発言が話題になっている。5日講演会での発言で、ちまたの居酒屋でも議論沸騰?

「日本で家族間の殺人事件が増えているのは、(大企業が)日本型経営を捨てて、人間を人間として扱わなくなったからだ」「家族内殺人が増えているのは大企業のせい」という亀井担当相の発言に対して、ネットでは賛否の声が巻き起こった。

はてなブックマークのコメント欄には、「これまでの経団連を見る限り、このくらい波紋を広げるくらいで丁度いいと思う。いいぞもっとやれ」「小泉改革は明らかに失敗だったわけだし、人間性を破壊する今の経団連に対してはまっとうな指摘」という賛成意見も寄せられた。

が、一方「経団連は嫌いだから擁護するつもりはさらさらないが、コレはさすがに無理筋だ」
「家族間の殺人は増えてはいない、殺人数の総数自体が減ってる中、相対的に割合が増えてるだけ」と居酒屋の話題となっているとか?

ヤフーでは、サイト内の意識調査コーナーで「日本型経営を捨てたことが家族間の殺人事件増の原因と思うか?」というアンケートを実施。約6万票の回答を集計した数字(10月6日現在)は、「そう思う」が47%、「そう思わない」が53%というもので、否定派がやや多かった。

その結果について亀井担当相は、「ネットの調査だからね・・・。その結果は信用できの?」と納得できない様子だった。という。

私は、確かに不況・失業・倒産などの経済不況で大きな痛手をこうむった日本経済産業である。だからといって、経団連の責任とまでは言えないだろう。無理筋だ。家族間の殺人は生活苦だけではない。

一般的には、人権・人の命・などの教育などの複合的要素があってのことだとだと思う。社会全体で考えて、殺人・自殺者の出ない世の中にするためには、経団連の力と知恵を借りることは結構なことと思うが、家庭教育の見直しをするべきだ。

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自分を知り、足るを知る

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10_12801 『人間としての生き方』(松原泰道)より、

【幸せになるためには、「自分を知る」ことが大事である。自分は何に幸せを感じるのか、自分の幸せを知ることが肝心で、それが分からねければ、どうすれば幸せになれるかも分からないのではないでしょうか。

自分の幸せを知るためには、自分の内面を見つめること。
自分が幸せになれることを考え、実践する中で、本当に幸せを感じられるものを見つけていければいい。

ただ自分の心の中だけを探しても、見つかる幸せは限られている。自分が生きていく中でかかわる様々なことが、自分の心に与える影響に関心を抱いていれば、自分の幸せに気づけることも多い。この世に存在するあらゆることに自分の幸せのヒントがある、と考えることだと思う。】とある。

私の主張・・・・
「足るを知る」このことが大事で、これが修行で、心理で追求であると思う。
煩悩をなくすことはできない、ただそこから離れることによって苦しみを少なくすることができる。人間は煩悩にとらわれているとそれに落ち込んで何も見えなくなってしまう。

しかし一歩引いて客観的に物事をとらえ、別の角度から見たり考えたりする自分を用意しておけば怒濤の如く押し寄せる欲望というエネルギーの流れを分散させこころの決壊を起こさずにすむと思う。

私も欲望が満たされず不満を感じる時は、なるべく、とらわれず、ため込まないようにしようとは思うようにしている。自分に不都合なことこそ自分がこの世で成長するためにある宿題だと思い、自分自身で納得することで、解決出来ると思う。

そこで苦しみや不満にであった時、そこから自分が何を学ぶことができるかよく考える必要がある。自分なりの解答が得られた時には苦しみや不満はずいぶん解消される。

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2009年10月 8日 (木)

我が故郷をしのぶ

0261多摩川の支流の淺川は高尾山が源流だ。その淺川の支流に湯殿川・兵衛川がある。
八王子市の市街から東南方面に旧由井村の地区で、長沼・北野・打越・宇津貫・片倉・小比企の部落があった。私はその湯殿川・兵衛川の交差する片倉の農家に生まれた。
昭和の10年代の由井村は、農家を営む人が殆んどで、山に(藤谷戸山)にはウサギ・キツネ・タヌキなどがいた。そして川には、フナ・どじょう・うなぎ・ギバチ・なまずなどがいた。子供たちは歌の「故郷」にあるような、「兎追いしかの山、コブナ釣りしかの川」の文句のように、自然がいっぱいあって、そして遊んで育った。藤谷戸山は、御殿峠から東にのびて高幡不動まで、ハイキングコース出来(終戦後)何回か歩いたことがある。

その昔、万葉集にもある。多摩丘陵は多摩の横山と呼ばれたそうだ。縦の川としての多摩川に対し、その右岸一帯に横へ伸びるなだらかな丘陵を総称して横山と呼んだようだ。
横山には、古代、辺境の防備兵として北九州へ赴いた防人達の歩いた道筋が残る。また中世の頃、東国の武士達が武門の都鎌倉との往還に踏み固めた鎌倉古道が走っている。建武中興戦争の折、新田義貞が大軍を率いて鎌倉倒幕を目指して駆け抜けた道筋でもある。
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また鎌倉幕府樹立に貢献した武蔵七党の一つに横山党がある。横山党の名は小野篁(タカムラ)の末裔が武蔵国の国司として下向し、そのまま多摩の横山を望む八王子の地に土着して横山を名乗ったことに始まるとされる。
まさに横山は多摩に住む人々にとって心の故郷にも喩えられる丘陵なのである。残念なことにその横山も今や多くが切り開かれてニュータウン化し、昔日の面影は失われてしまった。
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そんな中にあってかろうじて開発から免れた横山の尾根筋を都市基盤整備公団が「よこやまの道」として整備を進めている。公団のカタログには、「よこやまの道」の由来として万葉集の東歌の中に収録された防人の妻の歌を掲げている。
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万葉集巻第20第4417
「赤駒を山野に放し捕りかにて多摩の横山徒ゆか遣らん」
   
豊島郡の上丁椋椅部荒虫の妻の宇遅部黒女の歌

武蔵国の民、椋椅部荒虫(クラハシベノアラムシ)が防人に召集され、国府(現在の府中)に集合する様命ぜられ、至急出発しなければならなくなった。妻の宇遅部黒女(ウチベノクロメ)は、遠く北九州へ向かう夫を気遣って大事な馬に乗って行って貰おうと思い立ち、出立前に馬を野原に放して、腹一杯の草を食べさせていた。ところが運悪く馬に逃げられてしまって、やむなく夫を徒歩で多摩丘陵を越えさせることになってしまった。そんな妻の嘆きを詠んだものであるという。

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台風と実況中継のこと

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24191午前1時45分、我が家の車庫の屋根に激しい雨音で、雨足の激しくなった。台風18号の影響が東京地方のも出て来た。NHKのラジオをつけっぱなしで、台風情報を聞いていたが、東海地方に上陸する可能性が高くなった。台風18号は、ここ10年来で最も大きい台風のようだ。3時5分に雷がとどろき始めて、なお一層の雨音が強くなった。

テレビで、台風状況を各局でおこなっているが、昨日あるテレビ局で、九州鹿児島の海岸近くの道路状況を現地中継の放送があった。女性アナゥサーが、合羽にヘルメット姿でマイクを持って、状況を説明している姿があった。何時も、こんな危険の仕事は女性では、危険であり、男性が行う方が視聴者は安心してみていられる。

昨日の中継の女性はヘルメットを着けていたが、あご紐をしていなかった。ただヘルメットを頭に載せているだけの姿が映った。風で物が飛んできたり、落ちてきたりする危険な実況放送であるにも係われず、あご紐をしていないのは、スタッフの指示なのか、テレビ局の安全対策が徹底されていないと思った。早速電話で、注意したかった位であった。

テレビ中継は、命がけで取り組んでいることだろうが、飛ばされそうになっても中継しなければ危険すぎると思われる中継がよく見ることがある。物が飛んできて頭に当たって大怪我をしたという、内容を放送しているアナウサーが、ヘルメット着用の仕方も知らないでは、自分が怪我をするという実験台に乗っているようなものだ。これは、あまりのも危険であり、放送関係者に警鐘を鳴らしたい。

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2009年10月 7日 (水)

季節の花を見て

Cosmos_0021 一年中咲いている花もあるが、野草は時期に咲く、10月に咲く花は、コスモス・藤袴・ひいらぎ・山茶花・茶・つわぶき・菊などである。

私も毎年、湯殿川にコスモスを世話をしているが、種を蒔いている訳ではない。昨年の咲いた種がこぼれて、春先に雑草と一緒に芽をだすにである。雑草を取り除き、間引きしを何回も何回もおこなうのである。したがって、花が咲く時期が早い、8月頃から咲き出し、今はもう咲き終わりつつある。

花には個性があり、その折ふしの表情もある。勢いよく咲いているのや、少し凋(シボ)みかけているのがある。茎が強く伸び、葉が張っているのも、茎がうなだれて、小さく申しわけのようについているのもある。

雑草を採りの除いた場所には、コスモスは成長するが、そのままの所は、雑草に負けて、まったく、育たない。人間は、自然の花が咲いていて、美しい感動を与えてくれるが、あたえられた条件を変えることができない。

たとえば偶然にあたえられたその時と場所であり、したがって時代と地域的な文化に係わるすべての制約で違ったものとなる。

野菊などは、人の手を加えないで咲いているが、白い可憐な花は、詩情豊かな乙女のような感じで、目立とうとしないで、ひっそりと咲いている。お茶の花を見ると、花を咲かすことで、一年間力努力し、ようやっと咲いた努力を感じさせられる。

花には、人の心を和ませてくれる。しかし、花は、あっと言う間に散ってしまう。私は花を見て人生を比喩してしまう。「花の命は短くて、悩みばかり多かりき」と歌ったのは林芙美子である。

聖書の「草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」を思い出した。

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教育学者ペスタロッチに学べ

08kakunodate_koyo11 いま一流大学に行けるには、貧しい家から行けない。塾に支払うお金がなければ行けない。つまり、一流大学もお金次第であるということである。

民主党政権になって子育て支援政策が注目されているが実際生まれた時から、その子の運命は親の力からで決まってしまうという今では、子供の能力で思い通りの学校に行けて、人生設計が自分の努力で達成できる政策支援をすることが日本の将来を考えて絶対に必要だ。

そこで、有名な教育学者ペスタロッチ論を参考にすべく見直しをすべきと思う。
教育を通じての社会改革
ペスタロッチ(スイス1746-1827)は、子どもたちに経済的な自活の能力をつけさせ、健全な家庭生活が営まれることによって健全な家庭生活が生まれ、道徳的な人間が育成されると考えた。つまり、家庭の教育力を初めて問題にしたのはペスタロッチであるといえる。学校に家庭的な温かさが大切であるとした。
ペスタロッチの教育活動の究極的な目標は,民衆が陥っている貧困の源泉をせき止めるということである。

もう一つの源泉は,家庭の崩壊ということである。自活のための技能を教育によってつけさせることが急務となったのである。また,貧困をせき止めていくために基盤となるのは家庭であるとした。社会改革を実現させていくことが,ペスタロッチの教育活動の究極的な目標であった。

初めて貧民あるいは民衆の子どもを教育の対象として位置付けた。
人格形成までを含んだ組織的な教育活動を「教育」と考えるなら,その対象に初めて,民衆の子どもたちを位置付けたのがペスタロッチといっても良いであろう。
   
「どんなに貧しい,どんなに不良な子どもの中にも,神より与えられた人間性の力があると信じている。」すべての子どもが教育の対象と考えたことで,「民衆教育の父」であるとたたえられていた。

学校教育の方法論の確立
ペスタロッチの教育実践は、知識を言葉によって教えるのではなく,感覚器官を通じて教えていくということである。 明治時代の日本にもペスタロッチ主義の教育実践が流入した。

私は子供ころ、明治生まれの母親にペスタロッチという西洋の偉い教育学者は、学校の校門前で、ゴミ拾いをしているお爺さんがいて、「子供たちが、気持ちよく、学校に行けるように拾っているいるんだ」と言ったという。昭和18年、小学校一年生だったと思うが、いまも忘れていない。

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ゴールデンチェリーの故郷

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Goldenchery1 我が家に5月よりいるペット、小鳥のゴールデンチェリーを飼い始めた。もう6.7年飼っていたセキセイインコが死んで、何か心の支えとなるペットが欲しかったので、時々行く、小鳥屋で、探し当てたのが、セキセイインコより一回り大きい、黄色いゴールデンチェりーを飼うことにした。値段はつがいで2万円と籠・巣などで3万円だった。

餌は、インコと同じであった。他に、麻の実・塩土である。7月ごろ、卵を5個産んで孵化したが、1羽が孵った。小さい時に手乗りにすることが出来ると小鳥屋のおばさんに言われたが、ちょっと面倒と思いそのままにしている。

黄色い羽に頭が赤い鳥でとても綺麗なとりであり見るとりである。鳴き声はピイーピイーと甲高い鳴き声で、故郷はアフリカ中南西部の、アンゴラ・ナミビアにいる鳥だ。

アンゴラといえば、昭和30年代に、実家で飼っていたウサギがアンゴラウサギだった。ちょっと普通のウサギより大きく白い毛がフサフサしていたのが特徴だった。

首都がルアンダで、面積は日本の2.2倍。人口は1700万人で、ダイヤモンド・石油が採れる。ポルトガル領であったが、冷戦時代のソ連・キューバなどの共産圏の介入とアメリカなどの自由圏などの介入により、内戦が耐えなかった時代が続いた。

ジョゼ・エドゥアルド・ドス・サントス大統領で、現在は収まっているが、まだ不安定な政情のようだ。

そんな国から、日本にやってきて、人に飼われている鳥で、私はこの鳥を見たのは最近であった。他にもインコの仲間は沢山いる。東南アジア・オーストラリアなどのいる。くちばしがオウムのように鋭く、カム力が強い、寿命は10年前後であるそうだ。

現在はちょっと大き目の籠に7月に孵った一羽が増えて三羽となった。また、1ヶ月前頃から卵を産み始め四個を抱いているが、孵化に気が入っていないよで、孵化出来ないだろう。三羽が、甲高い声で鳴いてうるさいほどで、電話・ラジオが聞き取れないくらいである。

人の欲望で、ペットとして飼われている小動物など沢山いるが、飼いきれないで不法に処分する人間がいる。飼うからには最後までしっかり愛情を持って買わなければ、生き物の「命」は尊さは人間と同じである。

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2009年10月 6日 (火)

茶の蕾の思い出

Flower61 茶の花に 隠れんぼする 雀かな 一茶

もう何年前になるだろう、実家の庭先に茶の木が植えられていていた。近所は殆んど家は農家であり、どこの家にも、茶の木は植えられていた。

茶の蕾が豆電球の用にふっくらとしてくると、篠鉄砲(紙)を作って兄に作ってもらい遊んだ。(紙を丸めて弾にすのである)が、茶の蕾を使った。茶の木の中に潜り込んで相手の攻撃を避る。そしてその間にポケットに一杯蕾を取って弾に補給とした。

ある日そんな遊びをしていたら、小さい小鳥(後で分かったがミソサザイ)がいて、茶の木の下の枝でチュチュとないていた。夕方になり、母親が子供たちを捜しに来て、見んなそれぞれの家に帰っていった。4・5歳だった頃だ。

空には、一番星がキラキラ輝いていて、母親の手の温もりを感じた。家の湯殿から、白い湯気と薪の燃える赤い火が燃えている。茶の花の季節になり、遠い昔を思い出し書いてみた。

調べてみると、ミソサザイは、ほぼ全国に分布していて、全長10.5センチ。全身縞模様のある黒褐色で、短い尾を振りながら、深いやぶの中や岩の間などを跳び歩く。早春からよくさえずるが、体に似ず大声である。雄はコケで巣をいくつかつくり、雌はそのうちの気に入った巣に産卵する。昆虫やその幼虫卵などを食べるという。しかし、私の住んでいる八王子市片倉町では今は見ることができない。

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少年犯罪に思う

07akitakoma_sumire11 最近の少年犯罪は凶悪化している感がある。ごく最近の少年犯罪事件であるが、4日、兵庫県伊丹市の市立中2年の男子生徒が意識不明の重体となった。顔面を強く殴打されており、同じ中学の3年男子生徒(15)が「悪口を言われたので殴った」という。

こんな事件が毎日新聞・テレビを賑わしている。そして、少年の自殺である。自分が悩むことと他人を殺すこととの間には、何の関係もない。

携帯電話を小学生の頃から持たせ、友達同士でメールを交わしている。携帯電話がなければ、コミニケーションが取れないという。世の中を作った大人にも責任があると思う。

責任と義務が分からない子供たちに使わし、防犯上で必要と認識している親がいることに問題がある。そういった親は、教育・躾などが不完全な?まま成人になったことだ。

元を正せば、進化する科学に対応する家庭教育や学校教育などの仕組みが問題であった思う。「思いやり」「気くばり」が盛んにうたわれる時代であった。物不足、我慢することが美徳された時代から、一気に高度経済成長時代になってしまった“つけ”だったのか?

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元気が出る工夫を・・・

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08kakunodate_koyo61『人間としての生き方』(松原泰道)より、

多忙すぎる現代人には心の床の間は絶対に必要です。座敷の床の間にすぐれた書画を掛けるように、心の床の間には自分を支え、自分をリードするよい教えの詞(ことば)を掲げましょう。

私はそれを、“心の杖ことば”と呼びます。私の今日の杖ことばは、「希望・工夫・好奇心」。「希望」は逆境のときの有力な杖ことばです。

「工夫」は、自分の仕事にいつも創意工夫を怠らないことです。すると進歩のない安易な、惰性から脱出できてつねに新鮮な人生が送れるでしょう。

「好奇心」は、珍しいものに関心をもつという一般的な意味ではありません。自分の知らない事柄に出合ったら、すぐにそれを学びたいという知識欲です。希望をもつことは、とても大切なことだと思います。

心の元気が希望を持つ、そして持ち続けるためには、心の元気が必要だと思う。心に元気がない時には、努力しても希望を持つことが出来ない。
そこで、「心を元気にする工夫」を考えることだ。
「元気が出ない」時は誰にでもあると思うが、その状態がひどかったり長く続くような場合には、とても幸せに暮らすことはできない。「元気が出ない」時に、どうしたらいいかを考えてみると・・・。
元気が出ない理由は、日常に、落ちこむような事があったり、大きな悩みや、不安なことがあるのような精神的なことがある。
そして身体的に痛みや熱などの症状があるとか、病気やケガ、夏バテ、寝不足、疲れ、食べすぎ飲みすぎ、偏食、過剰なダイエット、運動不足などによる体調不良のようなことがある。
元気が出ない理由が自分でわかっているのなら、その対処をするのは当然のことだろう。身体的な理由の場合には、基本的な対策は休養と栄養と運動などで、改善できると思う。病気やケガの場合には、医者や薬に頼ることも必要な場合があるだろう。

自分では、気がついていないが生活習慣である。習慣は生まれときからの性格や今まで生きてきた人間形成が確立されその人の個性として人間社会でいきた実績がある。それは、プライドとなって他人から忠告・批判は人権問題を考える厄介なことになる。

健康は人間の最大の幸せである。心身の健康を大切にすることは重要な幸せになる方法であるのは言うまでもない。

理由がわからずに元気を出すのが難しいこともあると思うが、それなりの努力である程度元気を出だせることも多いと思う。「元気が出ないから何もできない」諦めず、元気が出るように努力できるようになることが、自分の幸せな生活につながるのだと思う。


心から元気を出すには、気持ちの持ちようである。分かっているがなかなか出来ない。アニマル浜口さんの「気合だ!気合だ!」と口にしたり、気分に大きな影響を与えるのが「音楽」である。好きなメロデイーを鼻歌や心の中のBGMとして流したりするといい。

元気が出ない時には、まず体調を整えることが大切である。そのためには、休養と栄養と運動が基本だ。「心の休養・栄養・運動」と「心の休養」である。

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2009年10月 5日 (月)

死を知って生を知る

24351最近、人生の山頂を目指して歩き続けて来たが、ふと辺りを見渡すともう前に歩んでいる人が数えるほどに少なくなってしまったことに気付いたのである。山の頂は見えてきたが、時々その先は、天国なのか地獄なのか分からなくて不安になることがある。

 「年年歳歳花相似たり歳歳年年人同じからず」
これは唐詩の中にある有名な一節である。去年と同じように花は美しく咲いたけれども、共に花見をした人は今年はもうこの世にいないということである。

「生あるものは必ず滅す」誰も否定することのできない真理である。「この世に生まれてきたものは、いつか寿命が尽きて死んでいく」 そんなことは分かりきったことで、誰でも知っていることである。  

私たちは毎日時間に追われて暮らしているが、人生の時間は限られている。人生の無常を感じながらも、金銭や財物、性欲や名誉地位の欲望に迷って、さまざまな罪業を造るばかりで、一生を空しく終わってしまう。  

世の中も、自分も無常であり、無常であるが故に、常に不安が絶えない。この根本的な不安を解決しないと真の幸福は得られない。若さも美しさも、あっという間に衰えてしまう。今最高に幸せと誇ってみても長続きはしない。それ故人は幸せの中で、なお不安を覚えるのである。

財産も地位も権力も、この不安を無くす力はない。むしろ不安を大きくなるばかりである。私たちは、死を知ることによって、生命の尊さを実感することができる。

普段気づかない自分の心の中で命の尊さに目覚め、自覚することで、そのとき人生は一変して素晴らしいものになり、生きることの喜び、勇気、充実感に満たされる。

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突然の死に思う

13_10241 夜空に浮かぶ月の輝きが一段と美しい季節を迎えた三日夜。人の命の儚さを思い知らされたニュースでびっくりした。

「朝には紅顔ありて夕には白骨となれる身」であり、老少不定の理、愛別離苦という厳しい現実を味わうこととなった。 お釈迦さまは「出息入息不待命終」と、お経に説かれている。( 出る息は入る息を待たず、命終わる)

ほとんどの人は、死は遠い先のことで、生と死とは、まったく別のもののように考えている「生と死」は裏・表であることが現実で、人間だけが、自分だけは例外でないのである。

自民党の中川昭一元財務相(56)は今年2月財務相を辞任した後、8月の衆院選で落選して議員バッジも失い、大臣辞任から約8カ月で人生の幕を閉じた。突然の死に対し、ただ々驚きである。

死因は、行政解剖したが死因は不明とのこと、死後10時間前後が経過していた。家族は「睡眠薬を服用していた」という。しかし因果関係は必ずある。腰の痛み止めの薬・睡眠薬などの飲み粟などので、死にべくして亡くなったものだと思う。十五夜の月に召されたのは何かの縁なのかも知れない。

小林一茶の句に 
   「露の世は 露の世ながら さりながら」がある。 

女の子供を一歳でなくしたときに読んだ句だそうだが、相当に力を落としたことだろう。愛娘への諦めきれぬ思いを切々と詠んだ一茶は、その後妻とも死別し、六十歳を過ぎて再婚する。妻のお腹には新たな命が宿したのであった。ところが、喜びも束の間、一茶は我が子の顔を見ることなく六十五歳で亡くなってしまう。

そして、翌年に生まれたのは女の子で、一茶がただひとりこの世に残した娘は、一茶の嘆きを拭い去るように、その後無事に成長して明治という新たな時代を迎えているという。

誰でも死という現実は100㌫迎えるのである。人の一生は儚い、まばたきの間である。人間の「生と死」を考えさせられたニュースでもあった。

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忘却とは・・・

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「忘却とは忘れ去ることなり
 忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ」

0008tyokai1 NHKの歴史的ラジオドラマ「君の名は」菊田一夫の作で、冒頭のナレーションで有名である。私の子供の頃で放送が始まると、お風呂屋さんの客がいなくなったそうだ。

忘却を辞書で見ると=忘れ去ること。忘れてしまうことなっている。
確かに年を取ると忘れることが多くなったように思える。特にごく最近の記憶が薄れてしまって、昔のことばかり思い出してしまう。

忘れることは年寄りの特権である。人の名前を忘れ、顔を忘れ、食事したのを忘れ・・・・忘れるタネは尽きマジ。というところである。

アルツハイマー、痴呆症、惚け老人など病気ありなしに係わらず、「忘れ症候群」を表す言葉である。(痴呆・惚けは認知症と改めた)人間は、忘れるから生きていけるのかも知れない。

どんなにグルメでも一日三度の食事を一年分覚えていたら、脳はパンクしてしまう。イヤな奴に意地悪されて酷い目にあったことも、全部覚えていたらノイローゼになるか暴力に訴えることになるかも知れない。

大事な約束ごとや、借金の返済を忘れたりして、年を取って忘れぽっくなって!許しを乞うことだけはしないようにしたい。

年寄りが嫌われるのは忘れることではなく、覚えていることである。昔の自慢話。これは何年経っても、何歳になっても忘れない。だから死ぬまで繰り返すことになる。私も反省すところもあるかなぁー。

良いことも悪いことも、仕事も家庭もそして漢字なども全部忘れてしまう。そういう世界になったら楽になると思ったりすることがある。それは「死」である。

人は、嫌なことがあったり、気が滅入ってしまったとき、芝居を見に行ったり、旅行に出かけたりするが、効果がある人は、スッキリするが、悩みを引きずってしまう人がいる。頭の切り替えの上手な人が、前向き・ポジテブな生き方なのだ。忘れることは素晴らしいことだ。

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2009年10月 4日 (日)

季節外れ

08ringo_tyoukai11 中秋の陽射しに遊ぶバッタかな

季節の移り変わりは止まることはない。庭先に草藤袴が今年も咲き出した。よーく・・見ると葉に、小さなバッタが日差しを受けて、ジーとしていた。

乾いた空気の中、いい場所を得たりと言わんばかりに、温るんでいるようであった。もうとっくに、バッタの活動時期は終ったと思うが、活動期でもない、今の時期に生きている虫もいる、季節外れである。

季節外れといえば、4.5日前に散歩で、近くの山を歩いていたら、季節外れの桜が咲いていた。吉野桜ではない、彼岸桜?よく分からない、が、梅のようで派手さはないが、今の山に咲いているとは驚いてしまった。何もない枯れ葉となり、落ち葉となる季節の向かえ、殺風景な山道を、賑やかにして心を和ませてくれているようだ。

地球温暖化が大きな話題となっていて、北極の氷が少なくなり、気象に異常が見られれ、何が起きるのか、太平洋の小さな島国で地震が発生したり、東南アジアでも大きな地震があった。

台風の季節でもあるが、17号、18号と日本列島に被害を及ぼしそうだ。の果物、みかん・りんご・梨・葡萄・柿などこれから収穫するものも多いだろう。被害がないことを願いたい。

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散歩しながら考えた

08iwakisan_zinzya11今朝散歩しながら考えた。自然の脅威は恐ろしい。何年前かに東南アジアサモア・スマトラの地震が起きて大惨事である。スマトラ沖の地震は04、05、07、と今年に起きている。04年は22万人の犠牲者が出たと言う。

そして、台風17・18号が日本列島を窺っているようだである。自然には逆らえない。科学が発達して現代社会でも、どうすることが出来ない。神・仏に無事に収まる事を祈るだけである。そこに、人間の力で及ばない、自然に対する畏敬の念として宗教が生まれた歴史があるのだ。だから、生きている限り心配事は尽きないのは仕方がない。

生きている事は、辛いこと、「人の一生は重荷を負うて、遠き道を行くが如し。いそぐべからず 」徳川家康の言葉であるが、現代社会人は、どう受け止めているのだろうか・・・。

心配するばかりでは生きられない、楽しんでばかりでも生きられない。まぁーなるようになるさ・・・。

花の命は短くて悩みばかりでもある。そんなことを考えていたら森茂久弥さんが、うつ病で苦しんでいる俳優の竹脇無我さんに送った手紙を思い出した。

「人生は泣いてばかりでは生きられない。そして、笑ってばかりでも生きられぬ。交互にゆっくり生きればよい、人のお世話にならぬよう、人のお世話ができるようされど報いをも求めぬよう。」

忙しない世の中急いで行っても仕方がない。ゆっくり生きていることを味わって生きていこうと思った。

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中秋の名月に思い出

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09090511 昨夜は、「中秋の名月」であった。お月見といえば、昔はどこの家でも、月がよく見える縁側に、そのために採ってきた、作物(さつまいも、柿、栗、芋)月見団子など、お供えして、すすきを飾った。

十五夜月見の供えものを、子どもたちが貰い歩くという伝承が各地にあった。昭和の大戦後も行われていた地域があり、自分も、断りなしによその家のお供え物を、家の人に見つからないように盗む場合もあれば、家の人が黙認するかたちで持って行く場合、さらには家の人に許可を得てから持って行くのである。

このような習俗が地域の子どもたちによって引き継がれていた。お月見泥棒で、子供たちは作戦を練って、どこの家に美味しい団子があるとか教えあったり、声をかけたりした。

十五夜の晩にはどこの畑の芋でも盗ってかまわない」とか「十五夜にはよその家の柿を盗んでもよい」などの伝承が、やはり各地にあった。「盗み」の行為がなぜ十五夜に行われるのか分からなかった。

関東地方の一都六県に山梨県を加えた地域でも「貰い歩き」の伝承は広範囲に分布してていたという。

十五夜に供えものを貰い歩くことは、社会的にもその地域で半ば公認された行為であっただけに、子どもたちにとっては待ち遠しい行事の一つだった。ごちそうをたくさん食べたいという願望と、いかにうまく供えものを盗むことができるかという遊び感覚の楽しさがあった。

そんな風習も、私の記憶では、昭和25・26年ぐらいで終ったようだ。今で思えば、ラジオ・テレビ・新聞などはなく、楽しみは、ごく限られていて、回覧板・「言いつぎ」などの情報だけであった。終戦直後でも、新聞を取っている家・ラジオのある家少なかった。「♪トントントカリンと隣組♪」のメロデーの記憶がある。

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2009年10月 3日 (土)

オリンピック招致失敗に思う

10_12801夜は、1時50分、トイレで目が覚める。NHKラジオで、2016年開催のオリンピックは、リオネジャネイロに決まる。石原慎太郎知事の推進した東京開催招致は失敗したが残念とも思わない。私ばかりでなく、今一歩盛り上がりをみせなかったのは、どうも石原不人気にあるのかもしれない。
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リオネジャネイロに決まったから言うのではないが、この勝負は客観的に見ても、南アメリカでは一度もオリンピックは開催されていない。その事を、ルラ・ブラジル大統領の熱烈なアピールしたのが各国の委員に受け入れられたのだろう。
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五輪旗のように世界は五つの大陸を表している。一度は南アメリカで行うのは妥当と思うのは私だけではないだろう。
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石原慎太郎都知事は、強引な政治家のイメージがある。もともと2020年の東京開催を目指していたというが?
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このごろ急に都庁で言われるようになったのが「2020年本命説」。つまり、16年はあくまでも足慣らしで、20年のオリンピック開催都市こそが本命だ、ということがわかった。

1964年の東京オリンピックでは、その前の60年にも名乗りを上げた。そのときはローマに負けたのだが、これが足がかりになって、64年開催を勝ちとった。だから今回も20年こそ本命だ、というわけである。

近頃彼は決まって癇癪映像ばかりが流される。私は、映像を見ていて気がついたのだが笑顔で映った石原慎太郎都知事は少ない。 ―人に好かれないのは、人に好かれなくともかまわないと思っているようにさえ見える。
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招致活動だけに150億円の内100億円が都民税が費やされているという。東京都知事の説明も大変苦労するだろう。

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鞆の浦架橋事業のこと

Hiroshima101 最近、八っ場ダムの工事中止・継続などで話題になっているが、広島県の「鞆の浦架橋事業」で、裁判で裁判長は、埋め立てをしないよう命じたのであるが、このニュースは見逃せない。

判決が裁判で問われた埋め立て架橋事業が計画されているのは、瀬戸内海の中央部にある広島県福山市にある鞆の浦である。鞆の浦は、江戸時代以来栄えた港町で、歴史的な町並みの中を通っている道路が狭いため、港の一部を埋め立てて橋をかける事業を広島県と福山市が計画しているもの。

しかし、住民の間で意見が分かれ、計画以来すでに25年以上立っている。広島県が埋め立て免許の申請に踏み切ることになったため、反対派の住民が、事業が行われれば世界遺産の可能性がある歴史的な景観が損なわれ観光振興の妨げになるとして埋め立て免許の差止めを求めて広島地方裁判所に訴訟を起こした。

10月1日に能勢顕男裁判長は「鞆の浦は国民の財産で、免許が交付されれば、住民が日常的に恩恵を受けている景観利益について重大な損害が生じる恐れがある」と原告の主張を全面的に認め、知事に免許を交付しないよう命じた。

鞆港には灯台にあたる常夜燈や階段状の雁木など歴史的な港の施設が今でも揃って残っている日本でも唯一つの港町。映画監督の宮崎駿さんがこの町に滞在し、「崖の上のポニョ」の構想を練った町としても知られている。ところが埋め立て架橋が完成すると、瀬戸内海を眺める景観が妨げられることになる。

このニュースを見て開発より、今までの歴史的価値を残す方が私は良いと思った。開発されて通行の便利になって、地域の人たちの生活が良くるとは思えない。昔から狭い道路で、あったからこそ、人と人の触れ合いがあって、文化が生まれ育った。

道路が広く車の量が多くなり、排気ガスで悩み、環境は悪化など深刻な問題が、日本の各所で事例がある。その上、観光客は、素通りしてしまう。何より問題なのは人々の心の絆が薄れてしまい、日本伝統の心まで失ってしまうことだ。

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感謝の気持ちを忘れない

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06hatimantair341_11私は何時も感謝する気持ち続けたい。悲しいことに出会っても、生きていられる幸せを感謝の気持忘れないようにする。このことは人間生きていくためには必要だと思う。

毎日、辛く悲しいことばかり、でも、朝目が覚め、自分が生きていることに感謝できることの積み重ねは、その人の人格を高めることだと思う。

京セラ創業者の稲盛和夫氏の言葉に・・・
必要なのは「何があっても感謝の念をもつ」のだと理性にインプットしてしまうこと・・・。

困難があれば、成長させてくれる機会を与えてくれてありがとうと感謝し、幸運に恵まれたなら、なおさらありがたい、もったいないと感謝する。

感謝の心をもてれば、その人は満足感を味わうことができる。感謝をすることは、有力な幸せになる方法の一つだと思う。

心から感謝できれば、幸せな気もちになれる。感謝の気もちから生まれる言葉や行動は、幸せを生むことが多い。人生には、いいこともあれば、悪いこともある。

脚本家の山田太一氏の言葉に・・・
「いいこと」にはきっと、「悪いこと」がつきまとっているもの。今はいいことであることも、長い目で見ればマイナスになることがたくさんある。逆に今は悪いことのように思えても、きっとそれはいいことに転じることがある。

もしも今、悪いことに囲まれていたとしても、その経験は必ず自己形成のプラスになる。マイナスの経験があってこそ、人は我慢することを知り、他人に対して寛大になれる。

今がマイナスの状況であったとしても、それはいずれプラスに転じるのだと信じること。そう思わないと、人生はつらくヘトヘトになってしまう。

「いいこと」があったときには、素直に喜んだほうがいい。「悪いこと」があったときには、まずは「こういうこともある」と現実として受け入れたほうがいい。

俳優の森繁久弥氏の言葉に・・・
「いいこと」「悪いこと」がかわりばんこ来るもんだ。だから、いいことがあっても有頂天にならない、そして悪いことがあっても落胆しない。これが生きる「コツ」だよ。

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2009年10月 2日 (金)

我慢強い人は、他人に優しくなれる

07rose_ame21少しく満足を得て、一切の悩みや束縛から脱した、円満・安楽の境地になったら、おそらく私たちは、いろいろな欲望から少し自由になるだろう。満足してしまったらこんなに強い味方はない。満足して心が穏やかになっていたら、今度は、だれかがひどく苦しんでいないか、目を向けて、行動に移すことに考えては如何でしょうか・・・。

戦争で痛んでいる人、悲しんでいる人。飢餓に苦しむ人。失業に苦しむ人。搾取や暴力に痛めつけられている人。多くの人が困難の中にいる。そして、そのなかのだれかひとりに焦点をあてることができるでしょうか。イラクやアフガンや路上生活者や・・・その中のひとりと友だちであったら、自分の心は痛むでしょう。

そして自分の心が、人の痛みが分かるようになる。何故か分からないが、自分が満足していていれば、他人が苦しんでいるのを放ってはおけない人は多い。今、世界には苦しんでいる人が沢山いる。

ひょっとすると、この自分が幸福を得ているために苦しんでいる人はいないか。たとえば日本の繁栄の陰で苦しんでいる国はないか。そして自分が動くことで苦しみを軽減できる人はいないだろうか考える。

この世に苦しんでいる人は沢山いる。しかし、まだまだそういった不幸な人たちに、心配りはまだ不十分だ。私たちの心は痛み、他人の痛みを感じないならば、有情とはいえない。

格差社会で、仕方がない、自分も毎日辛い境遇にいて、他人どころではないという人は多いだろうが、同じ地球という星に住んでいる、空気も酸素も同じ、太陽の恩恵も同じ条件で享けている。地球温暖化はすべての人に係わっている。

人間生まれた時はみな同じ、最初から悪人になろうと思っていた人はいない。育った環境で考えや、人格が決まる。だから、考え方は基本的には人間、必ず他人の痛みを知る力が備わっているのである。そして私たちは、他人に目を向けて、人々の痛みを知らねばならない。我慢強い人は、他人に優しくなれる。

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指導者は大乗の勇気と決断力!

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15401 昨年のリーマンショックから、世界同時不況は、麻生前政権の何度かの景気対策の予算を組んだり、定額給付金などの、景気刺激策を取ったが、依然として、暮らしは良くなったとの実感はない。

現況も、日本は不況の嵐のまっただ中の感じである。リストラ、派遣社員、季節労働、解雇、格差社会、貧困の内容が連日、新聞、テレビで報道されている。

「勝ち組」「負け組」そして「自己責任論」と勝者を讃えることばかりが優先されてきたように思える。その勝者が与えてくれる恩恵を「慈悲」と言うのだろうか・・・?

「慈悲」と「恩恵」は違う。 それが長い間同一視されてきたようである。

「恩恵」は上から下へ押しつけ与えることを言う。
封建制の影響か、虐げられてきた人々の劣等意識からかそのような事を慈悲と曲解していたのだ。

「慈悲」はそのような事ではなく、与える人、与えられる人が、同列の平等の立場である。

下り向きへの恩恵とは異なっている。「慈」と訳された梵語の「マイトレーヤ」と言う言葉には「友情」と言う意味があるそうだ。特定の友人をさす言葉ではなく、全ての人々の幸せを願う心情であり、そこには今、遠く見知らぬ名も知らぬ飢餓に苦しみ又戦争に苦しむ人々、そして広くはあらゆるいのちあるすべてのものへの思いそして友情である。

「悲」という言葉は「カルナー」の訳だそうだ。「同悲同苦」の意味であり、同じ悲しみ同じ苦しみを分かちあってその悲しみ苦しみを解決していく努力である。

鳩山由紀夫首相の「信条」である「友愛」の精神もこの考えから起因しているのだと思う。「慈」も「悲」現代風に言えば「愛」ということなのだ。しかしその愛が「偏愛」になったり「与えてやった」という傲慢さになっては困る。

現実の「与えてやった」「俺が苦労してここまでなつた」とか、特に成功者と呼ばれる方にはこんな思いの傲慢さがどこかに潜んでいるような気がしてならない。、ただ景気、景気のかけ声ばかりで、人間としての本当の矜持(自分の能力を優れたものとして誇る気持ち)と思う。世の常識、必ずしも人生の常識ではない。

今の私達には等身大の生き方が求められている。慈悲心をを持ちながらもそれを、なかなか実践しきれない。指導者は、大乗(広く大衆一般の救済を目的を重んじる)・勇気・決断力が求められている。

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2009年10月 1日 (木)

安定的経済発展を期待したい

Center171日本の家電業界も食うか食われるかのサバイバルである。この所の円高は輸出関連企業は、大きな痛手である。

先だって藤井裕久財務大臣の発言で(為替介入しない?)為替相場が1ドル89円半ばまで円高になった、その後、否定的発言で90円台戻した。それだけ微妙に反応することで、日銀、日本政府は慎重に発言をしないと日本経済は大きくぶれてしまう。

意図的に為替相場を決めることも必要であるが、具体的には、「政府・日銀による円売り介入(為替介入)」。これは言い換えると、政府・日銀が為替相場を操作しているとも言える。為替相場に政府が介入する理由は、日本の景気をコントロールするためだ

為替相場では、円が高くなると輸入業者が得をし、円が安くなると輸出業者が得をする仕組みになっている。これは個人・企業レベルで考えると、円高と円安のどちらかが理想となるだろううが、国レベルで考えると、極端な円高も円安も国家財政にとってはあまり好ましくない

特に日本の産業は輸出産業が中心なので、主に円高に傾いた際は、政府が為替相場をある程度コントロールする必要がある。これは勿論いいことばかりではないが、日本の景気回復の一つの方法であるとは言える手段だ。

いずれにしても、景気回復し、失業率を抑え、安定的経済発展を、鳩山由紀夫民主党政権期待したい。

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建国60周年を迎えた中国

Yangtzeinthreegorges1今朝のメジャー各誌の新聞社説より、参考に日頃、中国の経済成長の足取りを考えて私の想い記してみた。

中華人民共和国は、共産党政権の下、経済面で日本を抜いて世界第二位の経済大国となるのは、時間の問題である。大国に成長した一方で、国防費は、21年連続で2ケタ増という急速な軍拡は周辺諸国の懸念を招いている。

経済、軍事両面で世界に大きな影響を及ぼす大国としての責任が問われている。外貨準備高が世界最大の中国は昨年、米国債保有残高で世界第一位となった。今年は貿易額でも世界一になる見通しだ。

しかし、国内では格差の拡大や、チベット・新疆ウイグル自冶区の問題・環境破壊、失業率の上昇など矛盾が噴出している。少数民族の自主権など、各地でデモや騒乱事件が相次いている。今後は持続的成長へ発展の「質」が問われる時代になる。

中国の極端な貧富の格差は、この政治体制から生まれたものだ。中産階級が育たず、成長の結果、貧困層が増えて社会は不安定になった。そして汚職が蔓延していると、今朝のNHKのニュースでも取り上げていた。共産党指導部は「国体擁護」を叫んでいる。「三つの勢力」すなわちテロリスト、民族分裂主義、過激主義が社会主義を転覆しようとしているという。共産党統治の腐敗に不満を持つ大衆が、テロリストなどに見えるのではないか。軍事増強は外国に向けただけでなく、中国内部への威嚇でもある。

世界への影響でも負の側面が目立つ。温暖化ガスの排出量は今や米国を抜く。効率向上より量の拡大による成長を求め続ければ人類の未来に脅威となる。「量より質」への転換は待ったなしだ。ポスト京都議定書に向け最大の排出国としての責任も引き受けなければならない。

中国の伝統的な歴史観では、60年で干支(えと)が一巡りして新たな時代が始まる。中国が「還暦」を迎えた今、経済面での国際貢献にとどまらず、自由と民主主義を支え、人権を守る大国へと生まれ変わることを国際社会も期待している。

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地球温暖化阻止は人間の責務

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282_field111 元来、人間は利己的な生物である。このことは、大昔生物が地球上に、生存確認できるころからミトコンドリアは本来、DNAの遍歴を経て現代の人間を含め生き物みんな、利己的であったことによりいき残れた。

自己の生命を維持し、子孫を残すことは、生きものは利己的になる。しかし、自然界全体では、さまざまな生きものは互いに命の繋がりがマトリックス状になって、互いの命の支えあいで生かされている。つまり、すべての生きものは、利己的でありながらも利他的である、これが自然界である。

自然界では、食物連鎖により、生命がダイナミックに循環をしている。あらゆる生命は独自に生きているようですが、どこかで他の命と繋がっている。自然界では、個々の命が個々に生きて、そして、利他の命をから、自己の命を維持させて貰っている。自然界は利己的な生物ばかりなのに、利他的な繋がりで生き続けていられる。

個々の生物について、その姿を見ると弱肉強食に見えるが、自然界全体では弱いとか強いとか、そういう序列はないのである。自然界においては、どの命も他の命にとって、かけがいのない存在だからである。

ところが人間社会に目を向けると、そこには自然界には存在しないありさまが日常的に展開されている。人間だけの問題であればいいが、地球温暖化ということにおいては、あらゆる生命の生存をも脅かすことになってしまう。

鳩山由紀夫首相の「友愛の精神」は、民族、宗教、を越えて、普遍的なものでなければ説得力を持たないだろう。地球温暖化の国際公約も政治的駆け引きの具になってしまうようでは、一過性の戯言にすぎない。

氷山も、永久凍土も溶け出して、生物の生態系にも影響しはじめている現状である。地球温暖化が進むことを遅らせることが人間が生き残れるか、人間の浅はかな知恵と利己的な行為で地球上のすべての生き物に生存まで危うくさせている。地球温暖化阻止は人間の責務であり、神から叱咤でもある。

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