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2009年8月16日 (日)

気概のある政治家

1020208_img1衆議議員総選挙は、8月30日行われる。今地方自冶が大きな問題であり、与野党の争点の一つとされ注目を浴びている。国と地方の自冶のあり方どうあるべきかちょっと歴を逆上って考えてみる。

自由党党首板垣退助が岐阜で襲われた際、急ぎ往診して一躍有名になった。「板垣死すとも自由は死せず」と叫んだとされるあの事件であった。 「自治の本能がある」は東京市長になるころ出した「自治生活の新精神」(1919年)と題する小冊子の文の冒頭に掲げられた。

理由は医師らしく生物的自衛と説いた。つまり生物は牙や甲羅で身を守るけれど、人間は集団で助け合ってこそ自分たちを守ることができる、それが自治なのだというわけである(藤原書店「後藤新平とは何か・自治」所収)。 単純な比喩(ひゆ)に聞こえるが、彼が言いたいのは自治は洋の東西を問わぬ人類共通の観念ということなのだろう。

明治政府が参考にした欧州の自治、セルフ・ガバメントはもちろん知っていて、それを日本の村の助け合い、結いに比してもいる。大礼服の高官も印半纏(しるしばんてん)の庶民も等しく談笑できる自治会館が欲しいと述べている。今で言うなら公民館だろう。(東京新聞社説抜粋)

後藤新平とはyahoo!辞書・・・明治~大正時代の政治家。安政(あんせい)4年6月4日水沢藩士の家に生まれる。福島の須賀川(すかがわ)医学校を卒業後、愛知県病院長を経て1883年(明治16)に内務省衛生局に入る。

2年間のドイツ留学ののち、92年に衛生局長となり、公衆衛生行政の基礎を築いた。 この間、相馬(そうま)家の財産騒動に巻き込まれ入獄も経験した。98年より8年間、児玉源太郎 総督のもとで台湾総督府民政局長を務め、島民の反乱を抑え、諸産業の振興や鉄道の育成を図るなど植民地経営に手腕を振るった。

その実績を買われて1906年(明治39)には南満州鉄道株式会社初代総裁に就任した また貴族院議員に勅選され、08年第二次桂(かつら)太郎内閣に入閣し逓信(ていしん)大臣兼鉄道院総裁、12年(大正1)第三次桂内閣でさらに拓殖局総裁を兼ね、16年寺内正毅(まさたけ)内閣では内務大臣、鉄道院総裁を務め、のちに外務大臣としてシベリア出兵を推し進めた。

20年に東京市長に就任、8億円の東京市改造計画を提案し、22年には東京市政調査会を創立し、関東大震災(1923)後の復興にあたっては第二次山本権兵衛(ごんべえ)内閣の内務大臣と帝都復興院総裁を兼任するなど都市改造に力を尽くした。また23年にはソ連代表ヨッフェを招き会談、ソ連との国交回復を図った。

東京放送局総裁、東京連合少年団団長を務め、政治倫理化運動を行い、28年伯爵。昭和4年4月13日に73歳で没した。 明治国家の発展とともにその最先端の領域を歩き、衛生行政、植民地経営、都市政策に多くの業績を残した。

それは新たな方式による国家利益誘導の試みであった。しかしその試みはしばしば既存の体制と衝突し、東京市改造計画案は「大風呂敷(おおぶろしき)」と評され、40億円の震災復興計画は規模、費用、計画主体などすべての点で後退を迫られた

地方自治について欧米には「民主主義の学校である」という格言があるそうだ。

町や村など最小の社会共同体で首長や議員を選び、住民は監視する。むろん失敗もあるので首長、議員の解職請求もできる。直接民主制の一形態で、利点の第一は住民が学び、うんと賢くなること。だから学校というわけである。市長も議会も役所もわれわれ住民がしっかり監視が大事な事なのだ。(東京新聞社説)

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