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2009年7月10日 (金)

死という現実をどう迎えるか

539571上手に年を重ね、上手に死んでいく方法と考えると、死は自然淘汰ではなく、遅かれ早かれやって来る自然現象である。それが故に、人は瞬間瞬間を自分なりの意味を持った時を過ごす努力をしなければならない。 

「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし」。鴨長明は、人の体も精神もゆく河の如く絶えず変化し、成熟し、朽ち果てることを千年近く前に見事に表現している。
日本人の寿命は素晴らしく延びたものの、今は生まれる者と死に逝く者の数は逆転している。つまり、日本人の意志とは違って死はすぐ傍らにあり、あなたも私も死に向かって歩んでいるし、死は極めて日常的なことである。
現在、事故や事件、独居老人の行き倒れ以外は、99%以上病院で亡くなり、自宅で亡くなる姿を誰も見ない。これは若い世代の問題ではなく、70~80代の老人でも同様の生死観となってしまった。
千年前に生命の本質を表現した哲学は、日本人の遺伝子には刻み込まれなかったわけである。つまり、自分が自然死することは当然のことであり、ましてや戦国時代や特攻隊の如く不自然死も日常であったことは、逆に命のはかなさと尊さを理解するのには充分なものであった。
何故、日本人は死ななくなったかというと、面倒な死の場面を現実から捨て去り、相互に理解し合ったり、考えたりすることも忘れ、病院を中心とした他人に任せることを覚えたからに他ならない。
人間は生きものであり動物である。死という現実は、厳然と迎えなければならない。しかし、価値観の相違というか、社会構造の変化と、核家族制度の崩壊による人間関係と絆の希薄さで、死という捉え方大きく変わってしまった。

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