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2008年2月

2008年2月29日 (金)

朝日の「スパモニ」が・・・

61毎日見ているテレ朝のスーパーモーニング、玉川リポーターの、国土交通省の天下り問題や無駄遣いの実態を民主党細野衆議議員の調査資料などの紹介と参考にしていた。また、コメンテイターの意見など大変興味深く見させていただいた。(まんじゅう5個はおかいいと思ったが)

だから、そんなに間違っているとは思わない。自民党がBPOに申し立て行うとしても、全部が嘘と、行き過ぎとは思えない。

 自民党の細田博之幹事長代理は29日午前の記者会見で、テレビ朝日を「事実を曲げて報道している」として、NHKと民放でつくる「放送倫理番組向上」(BPO)の放送倫理検証委員会に申し立てを行うと発表した。

自民党が問題視しているのは、テレビ朝日が26日放送した情報番組「スーパーモーニング」。リポーターやコメンテーターが、首都圏中央連絡自動車道(圏央道)の建設について「建設業者の意向を受けて(建設が)長期化している」「道路事業費の約5%が政治家に還流されている」などと発言したという。細田氏は「十分な検証を怠っているのではないか。政治的公平性を欠き、一方的な観点から論点を示すなど放送法に抵触している」と述べた。

細田氏は「十分な検証を怠っているのではないか。政治的公平性を欠き、一方的な観点から論点を示すなど放送法に抵触している」と述べた。

でも、全くでたらめではないと思うし、問題とは言えないと思う。

アホウドリのこと

781_2アホウドリのひな 順調に生育
NHKwebサイトより
アホウドリの80%以上は伊豆諸島の鳥島を繁殖地にしていますが、島の火山が噴火するおそれがあるため、山階鳥類研究所や環境省などは一部のひなを350キロ南の小笠原諸島の聟島まで移して新たな繁殖地をつくるという世界でも初めての取り組みを始めました。
2月19日にひな10羽が聟島に運ばれて10日になります。親鳥から引き離されたひながえさを食べるようになるかどうか心配されましたが、山階鳥類研究所によりますと、運ばれた翌日からトビウオやスルメイカをすりつぶしたえさを食べるようになりました。
えさの量は1日、650グラム程度に上り、ひなはいずれも順調に育っているということです。これから巣立ちを迎える5月までの3か月間、山階鳥類研究所の研究者らが島に滞在してえさを与え慎重に飼育を続けることにしています。
長生きし、子供は少なく産んで大切に育てる
アホウドリは寿命が長く、31歳でヒナを育てていた例が知られています(長谷川, 2006にる)。他のアホウドリ類では、コアホウドリで42歳という長寿記録があります(Welty &Baptista,1988による)ので、アホウドリでもそのくらい長生きする可能性があります。

アホウドリが繁殖をはじめる年齢は遅く、早いもので5歳、平均で7歳程度です。美しい成鳥の羽色になるのは8~10年かかります。1年に1回、1卵のみを産み、抱卵日数は64~65日、ヒナが巣立つまでに4ヶ月ほどかかります。

鳥の中には1回に何羽ものヒナを育てて、年に複数回繁殖する代わり、寿命はいたって短いというものもいますので、それに比べるとアホウドリは少産少死型といえます。外敵の少ない孤島で、自分は長生きして、子供は少なく産んで大切に育てるという人生設計なのです。

しかしこの方針は外敵がほとんどいないことを前提としたものですので、思わぬ外敵が出現すると簡単にしてやられてしまいます。人間がアホウドリをいくらでも殺すことができたのも、一旦減ってしまうとなかなか数が戻らないのも、このアホウドリの生き方に大きく結びついているのです。

地球温暖化、自然破壊、絶滅危惧種、など世界的に大きな問題が叫ばれてきたが、NHKニュースでアホウドリの保護活動のことを聞き、現代の人間がなすべきことだと痛感した。山階鳥類研究所の研究者の皆さんの努力に敬意と感謝を評したい。素晴らしいことだ。

他にもこの地球上から消え去る生物は、たくさんあると思うが、人間一人一人が地球に優しさの心で接し,存続に力を尽くさねばいけないと思う。

季節の詩鑑賞

Boke1季節の詩鑑賞

京都へ・・・近江順子

ぐいと沈む心臓の、あるいは一心不乱に働く葉脈の下の地獄。京都に夜行で来た昔の、杏の。鉛筆が走る馬の季節、桜はまだ。ふくよかな餅の涙。京都の友人と歩いた冬の思い出を齧りつつ、危うい三角。寺から寺への破線をめぐる。

小道から小道へと足を運ぶ。哲学への迷子。歴史のみぞれを頭からかぶって、寒い日の歩行。悲しみなど取り繕う暇もない、下の記憶。大学に行っていた頃の絵画的一日。

黒いコートの画学生風の、小さな圧力。下半身にウムと力を入れて、ちらちらと散る雪の中へ。カラッポを突き進む。友は大丈夫か?京都の尾をつかみ、ドラゴンに乗り、飛ぶ。京都の本当の狂気に惹かれて、朝露を光らせながらドーンと泣く。ドーンと揺れる。

しかけられた死の罠をあやうくかわして、私たちはいつまで
もシュートを続ける。それが何になるか、ならないかを問うことなく、ひたすらシュートし続ける。(北溟社刊『滋賀・京都 詩歌紀行』より)

この「散文詩」は、現代詩風の作り方で、面白い。京都をめぐるさまざまの想念を、こまぎれの言葉を操って一篇の詩にまとめあげた。甘ったるい、少女趣味的な詩句だけが「詩」だと考えている人には違和感があるかも知れないが、現代詩というのは、こんなものである。

なんか、夏目漱石の「草枕」の文章を思い出してしまった。「山路に上りながらこう考えた」智に働けば、角が立つ・・・・そんな心境になった。

四年一回の二月二十九日

今日の名言

京は人をいやしうする所なり。

『宇治拾遺物語』(下)

06oga_toga11うぐひすや家内揃うて飯時分  与謝蕪村

昼食時だろう。家族がみんな揃った食事時に「うぐひす(鶯)」が鳴いた。と、ただそれだけの句であるが、現代人の感覚で捉えると趣を読み間違えてしまう。

「家内揃うて」は、現代の日曜日などのように、一週間ぶりくらいにみんなが顔を合わせているということではないからだ。昔は家族「揃うて」食事をするほうが、むしろ当たり前だった。

だから、句の情景には現代的な家族団欒などという意味合いはない。一年中春夏秋冬、いつだって家族は揃って食事をとるのが普通だったのだ。では蕪村は、何故わざわざ「家内揃うて」などと、ことさらに当たり前のことを強調したのだろうか。

それは「うぐひす」が鳴いたからである。何の変哲もないいつもの「飯時分(めしじぶん)」に、春を告げる鳥の声が聞こえてきた。途端に、作者の心は待ちかねていた春の到来を想って、ぽっと明るくなった。

気持ちが明るくなると、日頃何とも思っていない状態にも心が動いたりする。そこで、あらためて家族がみな揃ってつつがなく、今年も春を迎えられたことのありがたさを噛みしめたというわけだ。蕪村の心の内をこう単純化してしまうとミもフタもないし、句の味わいも薄れるけれど、大筋としてはそういうことだと考える。

現代詩人である吉野弘に、虹の中にいる人には虹は見えないといった詩があるが、掲句では虹の中の人が虹を見ていると言えるのではあるまいか。今日で二月もおしまいだ。現代の読者諸兄姉は、どんな春を迎えようとしているのだろうか。掲句のようにゆったりと、それぞれの虹を見つめられますように。(清水哲男)

そう言えば、私の子供のころを思い出してみて、ああ!なるほどと納得のいく解説だ。昔の家族制度がしっかりした家では、三度の食事は、必ず一緒にした。ちょうどその頃子供だった私は、昼食・夕食は勿論、10時のお茶・3時のおこじゅうなどは遊びに忙しく、よく探してもらって。そうして家族で食事を食べたものだ。

二月尽。地球温暖化が進んで深刻な状況は変わらないが、二月は寒かったです。まあ・・・寒いといっても50年前と比べると全然暖かい。川に氷が張らない、ツララが見られない、風呂の水がこらない、井戸が凍らない、、あァ今は井戸はないから現象が見られないか。。天気長期予報では、今年の夏は暑くなるとか・・・

いよいよ杉・檜の花粉の飛散する時期で今年は寒いせいか二週間ぐらい例年より遅いという。まだ私は花粉症の悩みはないが、今年あたり・・・

2008年2月28日 (木)

20000のアクセス

035571稚拙な《『名もない花』田んぼの畦道》ブログも書き始めて2年(2006/03/17)となる。750編である。まあ毎日書いていたが、本当にくだらないこと日常感じたことを、自分なりの解釈でまとめて「日記・コラム・つぶやき」のカテゴリーである。

毎日書くという事が自分の戒めにもなり、励みとなっているようである。まあ・・・たまに励ましのコメントを書いていただいたりトラックバック送っていただいたり、うれしいですね・・・。

勝手にそんなことを言いながら、な。な。  なんとアクセスが20000ですよ!2万になろうとしている!自分でも驚いている。人生70年も勤めて、恥をかきながら生かされてきたが、嬉しいじゃないですか。と1人喜んでいる次第です。

他にも書いているのだが、まあ・・・少ない年金暮らしの老人であるが、お節介な爺なのかもしれません。これからも、続けて書いていきたいと思っています。

ちなみに他のURLは   http://335059.at.webry.info/ ブログ名・壮快です。http://sns.webry.info/at/335059/diarycreate.do     BIGLOBEウエブリングSNSです。

二つである。よかったら見てください。こちらもごく日常の事で感じたことを思いのままかいています。          

えび・かに材料表示義務づけ

192今朝のNHKwebのニュースの焦点より

「えび」や「かに」が入った食品を食べてアレルギーを起こす人が多いことから、厚生労働省は、卵やそばなど5つの品目に加え、えびとかにも、原材料の表示を義務づけることを決めました。

これは27日、厚生労働省で開かれた食品表示に関する審議会で決まりました。
今の食品衛生法は、アレルギーを起こす頻度が高かったり、症状が重くなったりするおそれがある卵、乳製品、そば、小麦それに落花生の5つの品目を、原材料の表示を義務づける「特定原材料」に定めています。
えびとかには、できるだけ表示するよう求める20品目に含まれ、義務化はされていませんが、厚生労働省の研究班の調査で、7歳以上では、新たにアレルギーを起こす原因の食べ物として最も多いことがわかりました。
さらに、わずかな成分を調べる検査技術も確立したことから、厚生労働省は、えびとかにを「特定原材料」に加えることを決めました。
アレルギー表示の制度が6年前に導入されてから、特定原材料の品目が追加されるのは初めてで、厚生労働省は、来年度の早い時期に省令を改正することにしています。
しかし、小さなえびを餌とする魚が原材料に含まれるなど、わずかに混入するケースについて業者側が調べる期間が必要なため、完全な義務づけは2年後になる見通しです。

義務付けは歓迎だが

アレルギーの患者や家族を支援しているNPO法人は、表示の義務化を歓迎しています。
えびやかにを食べてアレルギーを起こす子どもがいる家庭は、買い物や料理に注意を払ってきました。
アレルギーの患者、中西春乃ちゃん(6)は、1歳のとき、甘えびを食べたところ、顔が腫れ上がり、「えびアレルギー」とわかりました。
母親の光香さんはそれ以来、春乃ちゃんにえびを食べさせないように気をつけ、何が入っているかわからない加工食品は、ほとんど使いません。
しかし、えびとかにの表示は義務化されていないため、つねに不安が付きまとったと言います。
光香さんは「これまで、何が入っているかわからないものは、怖くて買えませんでしたが、表示されるようになると安心して買い物できます。ただ、お総菜や外食になるとえびやかにが表示されず、食べていいのか判断のつかないものもまだたくさんあります。アレルギーのある子どもに安心して食べ物が与えられるようになればと思います」と話しています。
食物アレルギーの相談を受け付けている東京・新宿区にあるNPO法人・「アトピッ子地球の子ネットワーク」では、最近、小さな子どもに関する相談が増えているということです。
えびやかにのアレルギーは、卵などと比べ、大人になってからも治りにくいのが特徴だということで、事務局長の赤城智美さんは、健康被害を避けるため、表示の義務化を歓迎しています。
赤城さんは最近は、カルシウムの強化や、風味付けのためにえびやかにの粉末を入れている食品が多くて、原材料に含まれているかどうか見分けがつかず、食べた人が重いアレルギー症状を起こすケースもあります。しかし、一方で、えびやかにが含まれているかどうかはっきりしない場合でも表示してしまうと、結果としてアレルギーの人が食べられる食品が少なくなります。安全を確認して食べられるものを増やすのが表示制度の目的で、選択肢が減ってしまうのであれば本末転倒なので、食品を扱う業者は、原材料や製造工程の管理を徹底し、食べられるもの、食べられないものを的確に判断できるように表示してほしいです」と話しています。

私は、卵などは「アレルギー」 で悩んでいる事は知っていたが、えびやかにのアレルギーで悩んでいる人がいるとは知らなかった。で、そうであるならば「安全を確認して食べられるものを増やす」事が目的と考える。

春は弾むように

今日の名言

青年時代は知恵をみがく時であり、老年はそれを実践する時である。

ルソー『孤独な散歩者の夢想』

0107ukisima11瀬の岩へ跳んで錢鳴る二月盡 秋元不死男

季語は「二月盡(二月尽・にがつじん)」で春。二月も今日でお終いだ。頭では短い月とわかっていても、実際にお終いとなると、あらためてその短さが実感される。月のはじめには立春があり、だんだんと日照時間も伸びてきて、梅の開花もあるから、本格的な春ももう間近と心が弾む月末でもある。

掲句の作者も、そんな気分だったのではあるまいか。おそらくは一人で、心地良い風に誘われて川辺を散策していたのだろう。あまりに気分が良いので、ほんのちょっぴり羽目を外すようにして、近くの「瀬の岩」にぴょんと跳び移ってみたのである。

むろん難なく跳べたのだったが、跳んだはずみでズボンのポケットに入っていた小銭がちゃりちゃりっと鳴った。そういうことは普段でもよくあることだが、早春の良い気分のなかだと、いささか不似合いである。小銭には、小市民的な生活臭が染みついているからだ。

ちゃりちゃりっと小さな音にしても、せっかくの浮き立った気分が、現実生活のことを持ち出されたようで台無しになってしまう。その少々水をさされた気分が、作者には「二月盡」の思いにぴったりと重なったというわけだ。

春への途上の月ということで、終りまでなんとなく中途半端な感じのする二月にぴったりだと、苦笑しつつの句作であったにちがいない。ズボンのポケットに、バラの小銭を入れている男ならではの発想である。『俳句歳時記・春の部』(1955・角川文庫)所載。(清水哲男)

昨日、街に流れる川の掃除と除草を町内の三人で行った。雨が降って川の水が増えると、川岸に捨ててある空き缶・ペットボトルなどのゴミは水で流れて深みに入ったたり、砂に埋まったりしてしまう。

拾って考えるのは、捨てる人の気持が分からない。「きたないねー。誰が捨てるのだろう」というが、捨ててあった、ゴミは拾わない。拾ってくれる人が、1人でも多くいれば街はきれいになるのだがなあ・・・。

風が冷たかったが、日の当たる枯れ草の中に、しっかりと黄色のタンポポの花が咲いていた。こんなにも植物はがんばっているのだ。

春野行く少女の気分ありて行く    篠原 穂積

草取り作業をしていると、少女がローラースケートで遊んでいた。髪を風になびかせて、元気に走り回っていた。「おじさんご苦労さん」と言って声を掛けてくれた。心にも弾む、春が来たようだった。

2008年2月27日 (水)

不安になる自衛隊の士気

282_field111海上自衛隊のイージス艦「あたご」と漁船「清徳丸」の衝突事故で、あたご艦長の船渡健1等海佐(52)は事故から9日目の27日午後、千葉県勝浦市内で記者会見し「日本の防衛の任にある護衛艦がこのような事態を起こし、(不明父子の)ご家族、漁協、国民の皆さまに深くおわび申し上げます」と頭を下げた。

 吉川栄治海上幕僚長(60)、防衛省の中江公人官房長(54)も同席。会見前には、行方不明となっている吉清治夫さん(58)、長男哲大さん(23)宅で、家族らに「このようなことになり大変申し訳なく思っている。一刻も早い生還を祈っている」と直接謝罪した。

会見で船渡艦長は、事故直前まで1時間以上仮眠していたといい「最初に汽笛が鳴った時点で、何かあったと思った。艦内マイクで『衝突』という意味の放送があり、上に上がった」と証言した。

現場海域について「混雑するという認識はあったが、あれだけの漁船があるとは思わなかった」と述べ、船団との認識がなかったことをうかがわせた。「漁船が小型だから、相手がよけてくれるとの認識があったか」との問いには「ありません」と否定したと言う。

9日もたって謝罪とは、相手がよけたと以前には言っていた。艦の航海責任者の、航海長を海上保安庁に断りもしないで、ヘリコプターで呼んでいる防衛大臣などなど。

どうもスッキリしない石破防衛大臣の発言内容と福田首相の無責任な態度はおかしい。恐れ多くも、日本人の生命財産を守る、自衛隊が事故を起こした。それも世界に誇る超高性能なイージス艦「あたご」である。

どうも、素人目から、判断だが艦長仮眠中・自動航行・見張りが交代での引き継ぎ不徹底だの、いわゆる、士気低下が要因のようで、1400億円という莫大な値段のするイージス艦の自衛隊の乗組員は「猫に小判」的な内容でこれでは、国民は安心して、国の防衛を任すことが出来ない。

桃の節句

Dsc_407006001♪あかりをつけましょぼんぼりに♪のお節句は三月三日である。

web暦より(抜粋)

旧暦でいえばもう少し遅い季節になりますのでちょうどよい季節だったようです(これを書いている2001年でいえば新暦3/27です)。まあ、こういった季節感のずれから「旧暦の方が便利」といった議論も起こるのでしょう。

さて、三月三日は桃の節句と書きましたが、もとは「上巳の節供」「元巳」といわれた。「上巳」とは旧暦三月の上旬の「巳の日」と言う意味で、三日に固定されていたわけではなかった(2001年だとこれに当たる日は新暦3/31)。

現在の様に三月三日に固定されるようになったのは中国の三国時代、魏(AD220-265)の国で。日付が固定されてからは三月三日と「三」が重なることから「重三(ちょうさん)の節供」ともいわれるようになった。

「節句を過ぎたら雛人形を早く片づけないと婚期を逃す」といった話を聞いたことは有りませんか?
まあ大きなお世話だと言えなくもないのですが、「早く片づけないとよくないことが起こる」という考えには理由があります。
雛人形のルーツは、形代(人形)に身の穢れを移してこれを流し汚れを払った、その形代です。本来なら、穢れを移し、これを流すことによって穢れを払い、禍を遠ざけたのですから、その人形をいつまでも飾っておくことは、穢れと禍をいつまでも身近におくのと同じです。
ですから、早くしまわなければならないと考えられたわけです。

中国古代に於いては、上巳の節句には河で禊ぎを行い、汚れを落とし(これを「上巳の祓(じょうしのはらえ)」という)、その後に宴を張る習慣がありました。また同じ日に「曲水の宴」も行われ(河での禊ぎと宴会をミックスし優雅にしたものが「曲水の宴」じゃないのかなとも思うのですが・・・あくまでも私の憶測)、奈良~平安時代に日本の貴族階級に取り入れられたのが、日本での桃の節供のスタート。

 ところがどうしたことか、河での禊ぎはあまり一般化しなかったようで、この日に形代(かたしろ・人形)で体をなで、これに穢れを移して川や海へ流すと言う日本独特の行事が生まれた。今でもこの「流し雛」の行事が残る地域が有ります。

 さてこの形代、いつの頃から公家や上流武家の間で上司への贈答の品となった。こうなると「質素な形代→豪華な人形」へ変化した理由は説明するまでもないでしょう。やがて河に流すものでなく、家に飾るようなものも作られるようになりました。その一方で公家の子女が「雛遊び」として人形や小型の調度品を並べて遊ぶままごとがあり、この両者が融合して「雛人形」への道を歩むことになりました。雛人形を河に流すことなく家に飾ることが主となったのは室町時代頃といわれます。

しかし、現在はマンションやアパートの暮らしでは、飾る場所がない。コンパクトなものでタンスの上に飾るものが多く、五段飾り七段飾りなどはお店で見るくらいとなってしまった。

ひな飾り

今日の名言

書物は、それが書かれたときとおなじように思慮深く、また注意深く読まれなくてはならない。                                  ソロー『森の生活』(上)         

539571古書市にまぎれて無口二月尽 小沢信男

今年は閏年(うるうどし)ゆえ二月は二十九日まである。とはいえ、二月の終わり、つまり二月尽である。まだ寒い時季に開催されている古書市であろう。身をすくめるようにして古書を覗いてあるく。

汗だくの暑い時季よりも、古書市は寒いときのほうがふさわしい。買う本の目当てがあるにせよ、特にないにせよ、古書探しは真剣そのものとなってしまう。連れ立ってワイワイしゃべくりながら巡るものではあるまい。黙々と・・・・。

運よく稀購本を探し当てても声はあげず、表情を少しだけそっとゆるめる程度だが、心は小躍りしている。リュックを背負ったりして、無口居士を決めこみ、時間をたっぷりかけて入念に探しまわる。そんな無口居士がひしめくなかに、自分もどことなくひそかに期待を抱いてまぎれこんでいるのだ。

お宝探しにも似た、緊張とスリルがないまぜになったひとときであるにちがいない。ほしい本にはなかなか出くわさない。いっぽうで、もう二月が終わってしまうという、何となくせかされるような一種の切迫感もあるのだろう。

ゆったりしたなかにも張りつめた様子が目に見えるようだ。歴史ものや調べものの著作が多い信男ならではの、思いと実感が凝縮されていながらスッと覚めている。無口といえば、信男には「冬の河無口に冬の海に入る」という句もある。

掲出句は当初、ほんの62句だけ収めた句集『昨日少年』(1996)に収められた。句集と言っても、一枚のしゃれた紙の表裏に刷りこんで四つに畳んだもので、掲出句は〈春〉の部の二句目にならぶ。全句集『んの字』(2000)所収。(八木忠栄)

「二月は逃げるでアッというまに過ぎてしまう」昔からとよく言われたものだ。でも、今年はうるう年で29日がある。29日というと、お誕生日の人は四年に一回で、損してような得したような感じになるのかなあ・・・

そして、三月である。もう娘は嫁いて十年、両親から買ってもらったひな飾りももうない。残してあるのは五段飾りと一緒に買った一年中飾ってある「藤むすめ」だけである。そして孫に団地サイズのお雛様を買って上げたのがもう八年前となってしまった。そして、息子の娘には七年前に同じような物を買って上げた。

もう飾っているだろうか、三月のお節句には行って、孫の顔を見てくる予定であるが、時の経つ早さを痛感する季節である。

2008年2月26日 (火)

新谷弘実医師Vs酪農協会

282_field111新谷弘美医師Vs酪農協会で2・3年前から激しいバトルが行われているとであるそうだが、新谷氏が著書「病気にならない生き方」で、(1)牛乳カゼイン(タンパク質)は消化が悪い、(2)牛乳を多く飲むと骨粗しょう症になる、(3)牛乳の脂肪は酸化されやすいなど、牛乳批判をぶちまけたのが事の発端だ。私はそんなことは、どうでもいい。色々な種類の食物をとるようにすれば良いのではないかと思う。

「とにかくエンザイム(酵素)の多い食べ物を食べる。」     といっても何だか分からない、ので調べてみた。

1日に必要なカロリーは、大人の男子で約2000キロカロリー、女性で1600キロカロリー、これを栄養的特徴によって分類された、次の4つの食物類をバランスよく摂取するのが望ましいとされている。

第1群 乳製品と卵で、良質蛋白質、脂質、カルシウム、ビタミンA・B2を含む、栄養をより    完璧にする食物。
第2群 肉や魚、豆類、とそれらを原料とする製品、良質蛋白質、脂質、ビタミンB1・B2、カルシウムなどを合み、筋肉や血液を作る食物。
第3群 野菜と果物で、ビタミン類とミネラル、繊維などを含み、体の調子を整える食物。
第4群 穀物、砂糖、油脂などで、糖質、脂質、タンパク質などを含み、体温やパワーの源となる食物。

ライオンなどの肉食動物は、獲物を捕まえたとき、かならず内臓から食べ始めますが、それは内臓がエンザイムの宝庫だからです。エスキモーのように植物のほとんど育たない極寒の地で暮らす人々も、アザラシを捕らえると真っ先に内臓を食べます。ウサギは自分の一度目のやわらかい糞を食べますが、これも未消化のエンザイムを再吸収するためです。
 

最近、ペットの病気が急増していますが、その原因も想像できます。ペットフードです。ペットフードはペットが生きるうえで必要な栄養バランスが含まれているといいますが、それはあくまでもエンザイムを無視した現在の栄養学にもとづいてのことです。

カロリーやビタミン、ミネラル、タンパク質、脂肪などの栄養が足りていても、エンザイムが含まれていなければ、生命は養うことはできません。しかし、その大切なエンザイムは熱に弱く、48度から115度で死滅してしまいます。にもかかわらず、ペットフードは必ず加工工程で加熱されていますから、エンザイムはなくなっているのです。

ちなみに論戦は、今月21日には日本酪農乳業協会主催マスコミセミナーが開かれた。満員の会場で、東京大学大学院農学生命科学研究科の清水誠教授は、新谷氏の牛乳有害説を「どう考えても理解できない」とバッサリ切り捨てた。

 胃腸内視鏡分野の世界的な権威でもある新谷氏。現在のところ、この名医を相手に、酪農業界側が論破に成功している模様。だが、牛乳の消費低迷は依然続いている。バトルよりも、消費者に対するさらなるアピールも課題といえそうだ。

季節の移り変わり

今日の名言

女は常に好人物を夫に持ちたがるものではない。しかし男は好人物を常に友だちに持ちたがるものである。

芥川竜之介『侏儒の言葉 文芸的な,余りに文芸的な』

15401あいまいなをとこを捨てる春一番 田口風子

先週土曜日、2008年2月23日。関東地方では昨年より9日遅く春一番が吹いた。鉄道は運転を一時中止し、老朽化したわが家を揺らすほどの南風は、春を連れてくるというより、冬を吹き飛ばす奔出のエネルギーを感じる。だからこそ、過去を遮断し決断する掲句の意気込みがぴったりくるのだろう。

先月末に〈春待つや愚図なをとこを待つごとく 津高里永子〉を採り上げたが、掲句がハッピーエンドの後に控えた後日談に思えてしかたがない。冬の間、かわいいと思った不器用な男も、春先になればなぜか欠点ばかりが見えてくる。

なにもかもすてきに思えるロマンス期が過ぎて、恋愛の継続に不安や疑問が頭をもたげる時期に激しい春一番が背中を押してくれたようなものだ。しかし、春一番が吹いたあとは、寒冷前線南下の影響で必ず冷たい日々が待っている。

捨てた女の方にだってすぐに幸せが待っているわけではない。どちらも本物の春を目指してがんばれ♪〈秋の声聞く般若面つけしより〉〈すひかづら後ろより髪撫でらるる〉『朱泥の笛』(2008)所収。(土肥あき子)

どうも気が短いというか、せっかちと言うか、面倒くさいというか落ち着いて物事判断せず言動をしてしまうことがあり後で反省したり、落ち込ん出しまうことが過去に何度もある

御破算では、願いましてと言う気持になる。なってしまいたい

病気になっらら悪い部分を取り替えたり、もやもやした人間関係を吹き飛ばし最初からやり直す。まあ・・・本当にそういうことが出来きて旨くいくなら、人生は素敵なことになるのだがなあ・・・と馬鹿なことを考えたりしてしまったことがある。

それにしても、爆弾低気圧の威力が凄く、恐るべき爪あとを残して過ぎ去ったものだ。これは後でテレビのニュースで分かったのだが、富山の高潮の被害や、北海道の猛吹雪の様子が映し出されて驚いた。

死んだ親父が言っていたが、季節の変わり目がある。強風が吹き季節は移り変わるもの。冬から春になるには水気の多いどか雪降る。それが雨になる。「一雨ごとに暖かくなるもんだ」と。今年は例年になく寒い。しかし、今朝のニュースの長期予報では今年の夏は、暑くなりそうだとう。

2008年2月25日 (月)

政治の信頼と子供の道徳心

Weekly1イージス艦の事故は、どうやらイージス艦のミスによる原因の疑いが強いようだ。ある有名コメンテーターも言っているように、日本政府のトップの福田康夫首相の被害者家族に対する謝罪がない。これはには、私も納得がいかない。

また道徳教育が問題になっている小・中学生などに、教育者や親御さん達に政治不信となってしまう恐れがある。悪いかった事は、悪いと謝罪する見本であるべきで、この事は、関係ないとそっぽを向かれているようでは、教育論を語る資格はない。

この事は人間の基本原則であり、うやむやにする事は出来ない。

NHKwebサイト「いつの時代も政治家の心が問われる」東京ストップさんより

政治家が国民の前に明かされたことを正当化して、子どもへの「公共を愛する姿」を示す一番の教育を態度で否定しているのでは、本当の愛国心も道徳も子どもにとって存在しないと言っているのと同じではないだろうか。

間違ったことは時には許されることもあると子どもに教えていないだろうか。せめて大人が反省する姿を見せることが子どもにとっての心の教育の原点なのに、政治家が大人の理屈で公共の事実を隠す行為は、子どもに「いじめを見たらみんなでいけないと言おう」「傍観者は加害者である」「いじめは犯罪である」と言っている意味が全くなくなってしまう。

いま子どもは大人を信じなくなっている。いじめをする子どもだけでなく周囲の子どもも、大人の態度を見てまず大人の言葉を信じなくなるだろう。「いじめをなくすために大人ができること」、それは大人ことに政治家は自分のしたことに心から反省する姿を見せて、自らの心にふさわしい行動をとることだと思う。これはいじめをなくすための出発点である。

社会をあげていじめや虐待の問題が注目されている現在そして今後、政治家の自己弁護が子どもに向き合うときの親の姿勢に少なからず影響を与えていくことは必死です。世の中の大人は政治家の自己弁護を学習し、子どもの前で自らの不正を軽くみる姿を教え、子どもはその親の言葉から間違った心を肯定していくのです。政治家がいじめについて語る姿は、いじめに直面している子どもたちの心にはどのように映っているのでしょう・・・。

大荒れの日本列島

今日の名言

恋に焦がれて鳴く蝉よりも、鳴かぬ蛍が身を焦がす

『山家鳥虫歌』

T6_02xga師の影をしっかり踏んで春の雪 鈴木みのり

ははは、こりゃ面白いや。もちろんこの句は「三尺下がって(「去って」とも)師の影を踏まず」を踏まえている。弟子が師に随行するとき、あまり近づくことは礼を失するので、三尺後ろに離れて従うべきである。弟子は師を尊敬して礼儀を失わないようにしなければならないという戒めだ。

でも、春の雪は解けやすく、滑りやすい。そんな戒めなど、この際はどうでもよく、とにかく転ばないようにと「師の影」をしっかり意識して踏みながら随いてゆくのである。ところで、この戒め。ネットで見ていたら、まったく別の解釈もあるそうで、概略はこうだ。

師の影を踏むほどの近くにいると、視点がいつも師と同じになるために、それでは師を越えられない。せいぜいが師の劣化コピーにしかなれないので、常に師からは少し離れて独自の視点を持つべきだという教訓というものだ。

どこか屁理屈めいてはいるが、この解釈で掲句を読み直すと、滑って転ばぬようにという必死は消えてしまい、どこまでも師と同じ視点に立ちたい必死の歩行ということになる。

こちらはこちらで、哀れっぽいユーモアが感じられて面白い。作者は「船団」のメンバーだから、いずれにしても影を踏まれているのはネンテン氏だろうな。『ブラックホール』(2008)所収。(清水哲男)

昨日の 日本列島を低気圧は、すざましいもだった。東北沖の太平洋側で低気圧が発達し、冬型の気圧配置が強まった影響で、24日も北日本から東日本を中心に強風や大雪に見舞われた。

富山県内では高波で男性1人が死亡、同1人が行方不明になったほか、家屋など200棟以上が浸水。新潟県でも高波を受けて複数のけが人が出た。鉄道や飛行機は運休や遅れなどが相次ぎ、大幅にダイヤが乱れた。

気象庁によると、福島県白河市で午前9時59分に最大瞬間風速34・0メートル、山梨県富士河口湖町で午前8時24分に同29・6メートル、宇都宮市で午前9時27分に同29・2メートルを観測した。

北海道の道路で、大型自動車が吹溜りで道路が雪で、動けないまま渋滞となって、トラックに運転手の28歳男性が排気ガスで死亡した。

季節の変わり目の春は、毎年大荒れがある。春のどか雪は山の樹木に被害が大きい。重く湿り気で家や農家のパイプハウスも雪下ろしで大変である。

関東地方では、強風が吹き荒れた、山道を登っていくと杉の枯れ葉が一面に落ちていた。むかし、大風が吹くと籠を背負って、杉の枯れ葉拾いをした思い出がある。

2008年2月24日 (日)

フィルタリング

24311携帯各社のフィルタリング強化、一律制限で広がる余波 (日経新聞1/24)

携帯電話・PHS各社が1月からサイトの閲覧制限(フィルタリング)を強化した余波が広がっている。携帯によるインターネット接続を制限して未成年者を「有害サイト」から守るのが狙いだが、利用者同士が交流できるサイトなども一律に制限されるため、サイト運営会社は利用者の急減や携帯向け広告市場への悪影響を懸念。運営の見直しや業界主導の認証制度作りといった動きも出ている。

 総合娯楽サイト「モバゲータウン」を運営するディー・エヌ・エーは4月14日、サイト内の掲示板への書き込みなどをチェックする「監視センター」を新潟市内に開設する。

インターネットは、もはや私たちの生活になくてはならないものとなっている。
しかし、その安全で快適な利用を妨げる悪質なコンテンツや、利用モラルの問題が、大きな課題として残っている。

家庭で子どもが不適切な情報にアクセスしないよう閲覧制限をかける」「企業でWeb経由の情報漏洩を防止する」フィルタリングは、このように、日々のネット利用を安心して行えるようにするための、これからのネット社会に必要不可欠な「情報を選別する」技術だ。

私も、ブログを書いているが、コメント・トラックバックがあるが、その中にいかがわしい物がある。ああ・・・こういうものが未成年者に有害なもので、何の目的で入ってきているのか分からない。良い悪いが判断できない年齢では、危険極まりないものが多いのは事実である。

それが、運営会社は利用者の急減や携帯向け広告市場への悪影響を懸念。運営の見直しや業界主導の認証制度作りといった動きも出ているという。

色々な議論はあるが、「安心 ・安全」は第一である。大きな社会問題と捉え考えていかなければならない問題である。

実験衛星「きずな」打ち上げ

Kgk07091400111_2遠隔医療の制度向上をシュミレートした内容をNHKのTVでみたが、離島、山間地域の情報や、格差解消に役立つ技術開発をが期待できる。素晴らしいことだ。

東京新聞webより

高速インターネット通信の実験衛星「きずな」を載せたH2Aロケット14号機が23日午後6時前、鹿児島県南種子町の宇宙航空研究開発機構種子島宇宙センターから打ち上げられた。衛星は分離後に予定の軌道に入り、打ち上げは成功した。

きずなは、宇宙機構と情報通信研究機構が共同開発。世界最高速の毎秒1・2ギガビットでデータを送受信する能力を持ち、日本を含むアジア・太平洋地域を広くカバーする三つの高性能アンテナを搭載している。

 鮮明な映像をやりとりし、既存の通信網が不通となった場合に備えた緊急臨時無線ネットワークの構築や、高精細のスーパーハイビジョン放送、遠隔医療や遠隔授業などの実験を行う予定。大災害時の通信手段の確保や、ネット環境の整備が遅れている ただし、光ファイバーケーブルなどを使った高速インターネット網が国内で急速に普及していることを考慮すると、衛星の優位性は失われつつあり、専門家の中には必要性を疑問視する声もある。

 衛星の開発から打ち上げ、運用までの費用は計約520億円。コスト削減を進めるため打ち上げが民間の三菱重工業に移管されてから2回目の打ち上げとなった。

花粉症

今日の名言

人間はだれでもみんな、灰色の魂を持っている……だから、ちょっと紅をさしたがるのさ……

ゴーリキイ『どん底』

0107ukisima11美しき名を病みてをり花粉症 井上禄子

語は「花粉症」で春。といっても、ようやく最近の歳時記に登録されはじめたところで、分類も「杉の花」の一項目としてである。

幸いにも、私は花粉症を知らないが、多くの友人知己がとりつかれており、見ているだけで息苦しくも気の毒になる。なかにはアナウンサーもいて、職業柄、これはまさに死活問題。ついこの間も、彼が必死の放送を終えると、気の毒に思ったリスナーからよい医者を紹介したいと善意のファクシミリが届き、診療時間を調べてみたら、どの曜日も彼の仕事時間と重なっていた。

「ああ」と、彼は泣きそうな顔で苦笑いを浮かべていた。だから、花粉症の人々にとっては、掲句を観賞するどころか、むしろ腹立たしいと思う人が多いかもしれない。作者が自分のことを詠んだのだとしたら軽度なのだろうが、しかし、他人のことにせよ、「美しき名を病みてをり」には一目置いておきたい気がする。

たまたま読んでいた金子兜太の『兜太のつれづれ歳時記』に、関由紀子の「水軽くのんで笑って花粉病」に触れた文章があった。

花粉症ではなく「花粉病」だ。「『病』が効いていて、『花粉に病む』などとどこかの美女麗人を想像させてくれる」とあり、掲句の作者と同様に、病名(症名)そのものへ美意識が動く人もいるのだと、妙に感じ入った次第だ。ちなみに、兜太自身も六十代には花粉症に悩まされたと書いてあった。『新日本大歳時記・春』(2000・講談社)所載。(清水哲男)

い私は、今のところ花粉症の経験はない。しかし油断は出来ない。妻・妹が酷い花粉症でもう症状が出て、苦しそうである。何だか、今年はスギ花粉が例年の3倍の量が飛ぶとの予報である。これも地球温暖化が原因のようである。

妻などはスギ花粉だけでなく、檜・ブタクサ・イネ科の植物などでもなるらしい。だから半年以上被害にあっているようで気の毒だ。耳鼻咽喉科の医者に診てもらっているが、大変辛いようである。

現在、日本人の約20%が花粉症だといわれています。では、花粉症とはいったいどんな病気なのだろうかというと。天気予報でも、花粉飛散情報も出るようになった。もうマイナーな病気ではない。何時からかなあ・・・

協和発酵の花粉症なび”より

花粉症の治療には、大きく分けて主に以下の4つがある。

  • セルフケア(花粉の除去と回避)
  • 薬物療法
  • 減感作療法
  • 手術療法
どの方法を選択するかは、重症度、病型によって異なる。
花粉の飛散シーズンを少しでも楽に乗り切るために、病気のこと、治療のことを含めて、医師とよく相談しながら治療をする。

(1)私たちの体は、‘花粉’という異物(アレルゲン)が侵入するとまず、それを受け入れるかどうかを考える。
(2)排除すると判断した場合、(3)体はこれと反応する物質を作る仕組みをもっている。この物質を「IgE抗体」と呼ぶ。
(4)抗体ができた後、(5)再び花粉が体内に入ると、鼻の粘膜にある肥満細胞の表面にある抗体と結合する。
(6)その結果、肥満細胞から化学物質(ヒスタミンなど)が分泌され、花粉をできる限り体外に放り出す。
・・・そのため、くしゃみで吹き飛ばす、鼻水で洗い流す、鼻づまりで中に入れないよう防御するなどの症状がでてくる。

2008年2月23日 (土)

イージス艦と漁船の衝突事故で思う

15401防衛省の汚職・秘密文書の漏洩・国会議員の口聞き疑惑などで、あきれた官僚の実態が国民の目に晒された。これは一部の人間であると思っていたが、今度のイージス艦と漁船の衝突事故は、素人判断だが、イージス艦側に一方的に非があると言わざるを得ない。

石破防衛大臣は衆議院安全保障委員会で、イージス艦と漁船の衝突事故でイージス艦が衝突の1分前までかじを自動にして進んでいたことについて「今回のような海域では、手動にすべきだった」と述べ、イージス艦の行動に問題があったという認識を示した。
今回の事故で、海上自衛隊のイージス艦は、現場海域を自動による操だで進んでいて、衝突の1分前に、漁船を回避しようと、手動に切り替えたことがわかっている。

日本の官僚は、防衛省にとどまらず、厚生労働省・国土交通省・ずさんな税金の無駄使いが明るみになった。そうなると野党ではないが、他省でもそうなのかと疑いたくなる。これっでは、真面目に働いて税気を納めている国民をなんと見ているか分かったものではない。

福田康夫首相が、防衛省に業務改革をするよう指示したという。しかし、1400億という高額な、艦船と高機能を使いこなせなかっただけでない。日本の防衛をすると言う意識の欠如といわざるを得ない。超高級な豪華な船乗りを楽しんでいる程度と思われてしまってもい方があるまい。

「日本国土と国民をを守る」使命感はない。「愛国心」がなく「ミーイズム」が蔓延してしまった学校教育、家庭の躾、道徳教育、などに問題がある。

率直言って勤めは、公務員は良い、何故なら失敗しても責任がうやむやに出来る。景気不景気がなく、給料はもらえ、年金も保証されている。と言われているので一頃就職人気ベスト10に入っていた。この程度の志で公務員になったとしたならば、この国は沈没間違いない。

麦踏の思い出

今日の名言

明日を最も必要としない者が、最も快く明日に立ち向う。

『エピクロス』

07bonchi_asayake_hi11畦焼を終へたる錦糸卵かな 松岡ひでたか

畦焼、野焼。早春、田や畦の枯れ草を焼くことで、害虫駆除の効果があり、その灰が肥料にもなるという。野焼したあとの黒々とした野原を、末黒野(すぐろの)ということは、俳句を始めて、知った。

箱根仙石原の芒原の野焼が終わった直後、まさに末黒野を目の当たりにしたことがある。秋には金色の風がうねる芒原が、黒々とその起伏を広げており、ところどころ燃え残った芒を春浅い風が揺らしていた。

穏やかな日を選んでも、春の初めの風は強い。田や畦を焼くのは、一日がかりの、地域総出の、相当な緊張を強いられる一大作業だろう。

錦糸卵は、多分ちらし寿司の上にのっている。無事に野焼が終えることを願って作られたちらし寿司。錦糸卵の、菜の花畑を思わせるお日さま色の鮮やかさと、口に広がるほのかな甘さが、ついさっきまでの荒々しい炎に包まれた緊張をほぐしてくれる。野焼の炎の激しさを詠むことなく、それを感じさせる、ふんわりとした錦糸卵である。『光』(2000)所収。(今井肖子)

去年の秋に箱根仙石原に行ってきた。箱根は都心からも近く観光や休息に訪れる人が絶えない。 美しく水を湛える芦ノ湖・白煙が上がり硫黄の匂いに包まれた大涌谷など、箱根にはいくつもの見所があるが、 一面の芒は、仙石原の風物詩の一つにあげられている。 

光や風を受けて金色や銀色に変わる芒原を眺めていると、時間の経つのも忘れてしう。芒原の中には小さな路が出来ていて、訪れた人は思い思いの足取りで自由に散策していた。 

芒の穂がはらはらと揺れ、風が渡るたびに窪んだり立ち上がったりする芒原を間近に感じることが出来きた。 かつては芦ノ湖の湖底であったという仙石原。標高700メートルにある芒原に佇んでいると、大自然の偉大さ・素晴らしさに改めて気づかされる

昔、農作業の一つに、麦踏みがある。北風が冷たくなり よく晴れた夕暮れで遠くの山が夕日に赤から赤紫に変わるころまで麦踏みをする。この田んぼが終るまで父ちゃんは、まだ帰ろうとしない。ようやっと終わり、畦道を帰るのであるが、私は足が疲れて、足を引きずるように歩いた思い出がある。

畦道は、赤ん坊の籠(農家の主婦は赤ん坊を連れて行き、籠に入れて遊ばしながら農作業をした)の置き場所である。近くを通る人が籠に入った赤ん坊を見て一声掛けてくれて通った。だんだん時間が経つと飽きて泣き出し、母親が近寄ってあやすかすりのもんぺ姿であった。

最近の小麦の産地埼玉の熊谷の郊外で麦踏は、トラクターで行っているTVの映像が2・3日前にみた。時代は変わったなあ・・・そして、輸入の小麦が高騰しているニュースもあった。

2008年2月22日 (金)

道路特定財源と国土交通省

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道路特定財源は国土交通省の財布ではない(毎日新聞社説抜粋)

道路特定財源に関する集中審議が21日、衆院予算委員会で行われ、同時に道路整備財源特例法改正案も審議入りした。

今後10年間、道路建設につぎ込むという59兆円という額の積算が、でたらめで、どんぶり勘定でこれが、逆で庶民申請書を出すのも書き方、書類などは非常に難しく、なかなか親切に教えてくれないが、自分の所では、訳のわからぬ使い方をして、非をつけば、無責任な回答で、誤魔化してしまう。

冬柴鉄三国土交通相は積算に関し「過去3、4年の事業費総額を個所数で割って平均単価を出している」などと説明している。しかし、額賀福志郎財務相が「個別にきちっとやっているわけではない」と認めたように、財務省も国交省の言い値をほとんどチェックもせずに受け入れた可能性がある。やはり「初めに巨額な財源確保ありき」とみられても仕方あるまい。

今回の財源特例法改正案では単年度で道路歳出を上回った分は一般財源化するという。ただし、一般財源化された分の相当額は、翌年度以降の道路整備費に次々と繰り越す規定もある。要するに一般財源化とは名ばかりで、国交省の都合のよいところにだけ配分される仕組みなのである。

毎日新聞は道路特定財源は廃止し、ガソリン税の暫定税率分も含めて一般財源化すべきだと提案してきた。無論、一般財源化とは道路関係だけでなく、福祉や教育など何にでも使えるとの意味だ。

特別扱いの財布がある限り、本当にこの道路の建設が必要かどうかのチェックは甘くなり、国の歳出全体が硬直化するのは指摘するまでもなかろう。

冬柴国交相は特定財源の使途を見直すための改革本部を作るといい、福田康夫首相は「10年間、決めたら何が何でもやるということはしない」と毎年度、道路建設計画を精査する意向を示している。ならば特定財源を廃止した方がよほど改革は進み、精査もできるはずだ。

関連法案は今月末が衆院通過のヤマ場となりそうで与野党とも修正は参院段階でと考えているようだ。だが、この一般財源化の是非を中心に論点はもう出そろっているといっていい。

首相は21日、「改めるべき点は素直に改める」とも語った。改めるべき点はもはや明らかだろう。民主党も「3月末に攻防を」などと政局を絡めず、早急に対案を提出して与党と修正協議に入るべきだ。国会審議もより充実するだろう。

この問題で私の意見は、道路特定財源は廃止し、ガソリン税の暫定税率分も含めて一般財源化すべきだ。

何か事ある度に、監督官庁のずさんな税金の使い方が、問われ、厚労省と年金・薬害や、国土交通省と道路特定財源、防衛省の汚職などの問題は、目を被いたくなる惨状ばかりではないか。

政治家と官僚との関係は透明性を欠かしてはいけない。頭のいい人間も目的を見失うと、いつの間にか、悪に手を染めてしまう恐ろしい日本の官僚社会だ。なんとかしなきゃあ・・・coldsweats02

生活困窮者のこと

今日の名言

人間は地位が高くなるほど、足もとが滑りやすくなる。

タキトゥス『タキトゥス 年代記』(上)

192春光や家なき人も物を干す  和田 誠

光は春の訪れを告げ、物みな輝かす明るさを持った光。まだ寒く冷たい風が吹き荒れる日も多いけど、黒い古瓦に照り返す日差しがまぶしい。小学生のときに読んだ『家なき子』は少年レミが生き別れた親を探す話だったが、現在の「家なき人」は住みどころなく仮住まいを余儀なくされている人たちだろう。

公園の片隅や川の土手にありあわせの材料で小屋を建てる。多重債務。家庭崩壊。病気。失職。自ら競争社会に見切りをつけた人もいるかもしれない。酷薄な福祉環境へ変わりつつある今の日本では明日どんな運命が待ち構えているかわかったものではない。

ホームレスではなく「家なき人」と表現したところに既成の言葉に寄りかからない作者の見方が表れているように思う。仮住まいをしている人たちにも生活がある。春の光があふれる公園で、冬の間に湿った蒲団を干し、ありったけの服を洗濯する。

何年前だったか、とある春の午後、隅田川の土手に仮住まいをしているおじさんが家財道具を干し出したそばの椅子に腰掛け、上流に向う水上バスにしきりに手を振っているのを見たことがある。水上バスのデッキに出ている人達も笑顔で手を振り返す。春日はきらきらと隅田川の川面に光り、手を振る人も白い水上バスも景色の中に輝いて見えた。『白い嘘』(2002)所収。(三宅やよい)

東京上野公園や隅田川河川敷にブルーシートや、ほったて小屋があったり、JRの窓越しから、昔風にいうバラックがみえる。数は、増えてるかどうか分からないがホームレスは、その時代を映している。

政治・経済の影響で大きく左右される。生活貧困層の人たちはなくならない。生活保護者が100万人を超えるという。働いても生活保護者より収入が少ない、ワーキングプアーなどが200・300万人以上という。

『働いても働いても豊かになれない…』。
昨年7月に放送したNHKスペシャル「ワーキングプア」は、生活保護水準以下の暮らししかできない“働く貧困層”の厳しい現実を見つめ大きな反響を呼んだ。
この10年の雇用環境激変の影響を、最も大きく受けた女性たち。その窮状を訴える声が数多く寄せられた。雇用が回復した今も「正社員」は依然として狭き門で、複数の派遣やパートの仕事を掛け持ちしても、生活ギリギリの給料しか得られない女性が急増している。
一方、中小零細企業の経営者からは、『景気回復など実感できない』という声が相次いだ。海外との激しい価格競争の渦に巻き込まれ、廃業に追い込まれる企業が続出。地域全体が地盤沈下するところも出ている。再チャレンジしようにも、衰退した地域の中では、なかなか新しい仕事を見つけることはできない。
さらに老後への不安も高まっている。医療費などの負担が増え、年金だけでは暮らせず、70歳を過ぎても清掃や廃品回収の仕事を続けるお年寄りも数多い。
なぜ真面目にコツコツ生きてきた人たちが報われないのか。どうすればワーキングプアの問題を解決することができるのか。一人一人が抱える現実を直視し、社会のあるべき姿を探っていくことは大事なことである。

また、景気の状況によりホームレス人口の増減があるが、バブル崩壊後の不況下でその数は増し、2003年1月~2月の厚生労働省調査では全国で25,296人に達していた。しかし、2007年1月の厚生労働省調査では景気が回復傾向にあるため、全国で18,564人と減少しているが問題は多い。

中高年男性が95%を占めており、平均年齢は57.5歳である。まれに子供を伴ったホームレスも確認されているが、開発途上国に見られるような子供単独のホームレス(ストレートチルドレン)は日本では顕在化していない。

厚生労働省が2007年6月~7月にかけてネットカフェ難民の実態調査を初めて行い、全国で推定約5,400人のネットカフェ難民がいることがわかった。

格差の問題に真剣に取り組み、政治が改善しなければ日本の品格が問われるだろう。

2008年2月21日 (木)

悩み、学び、日々を楽しく

13_10241 悩み、学び、日々を楽しく

老夫婦で四六時中家にいると、イライラする人がいるらしい。私もそうだが、あまり気にしないで10年経った。たまにはお互いに、怒ったり、悲しんだり、喜んだり一通りの感情を出し合って、ぶつかることもある。趣味は違う。妻は、カラオケ、私はパソコンだ。         

しかし、大事なことは、お互いに理解しあう。それには我慢と寛容と思いやりがないと、長続きしない。これだけは経験で習得したところ、何せ老人になり、心身とも想像できない未知の領域入ったことだから・・・

こだわらないこと、欲ばらないこと、がんばらないこと。

ストレス社会だから、うつ病に悩む人が増えているようだ。過度のストレスによって自律神経のバランスが崩れてしまう。 自分という生命体に素直な生き方をすべきところ、私たちは自我の欲望のおもむくままに利己的な生き方をしているから、自分自身で悩み苦しんでしまう。悩み苦しみが解消されずに重なり蓄積していくと心身の不調をきたしてしまうだろう。

ストレスの多い社会に生きて行かなければならない訳で、ストレス解消を日々心がけて、何がなんでも我慢しないことだと思う、そして一人で抱え込まないことだ。

時には日常の生活を省みることが大事だ。普段の生活に原因があれば、その生活を根本から変えることを心がける。仕事に原因があれば仕事の仕方を変えてみる、思いきって職場を変えることも必要な時もある。これまでに過ごしてきた生き方を変えて、別のレールに乗り換えるのも一つの生き方もあるということだ。
 

これまでとちがった考え方、生き方をすれば楽に生きられるかもしれない。斉藤茂太さんの言葉を借りれば、「過去は安い本と同じ、読んだら捨てればいい」でしょう。

失敗を恐れないことだで、「何でもないところで転んだ人は、難所では転ばなくなるものさ」、「人生に失敗がないと、人生を失敗する」です。

「世の中は、今日よりほかはなかりけり、昨日は過ぎつ、明日は知られず」

都税400億円

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新銀行東京に都税400億円

石原・東京都知事の肝いりで設立された新銀行東京に対し、20日、新たに400億円もの税金投入が議会に提案されたが、議論の紛糾は必至だ。

同行は同日、再建計画を発表し、「経営悪化の背景に非常識な経営実態があった」と、トヨタ出身の仁司泰正・元代表執行役を含む旧経営陣の責任追及に乗り出す方針を示したが、石原知事自身、責任を免れない。蟻地獄となってしまわないのか?。            

東京新聞(社説抜粋)

新銀行設立は石原知事が再選をかけた03年の選挙で公約にかかげ、05年に開業にこぎつけた。大手銀行の貸し渋りに苦しむ中小企業を助けるという触れ込みだったが、開業当初から赤字を垂れ流している。

債務超過の企業でも、日常的な取引や優れた技術力があれば「無担保・第三者保証なし」で融資する。この経営方針を貫くには、貸出先に行員が足を運んで経営実態を審査し、融資の可否を判断しなければならないのに、機械的に審査するスコアリングモデルに過度に依存し巨額の焦げ付きを招いてしまった。石原知事は旧経営陣が常識はずれの経営をしたとして、責任を追及すると述べた。しかし、中小向け公的融資制度の屋上屋を架すという都庁内の慎重論を押し切って出資を最終決断したのは、知事自身ではなかったか。

務情報や定性情報を組み合わせた企業情報データベースを駆使しながら倒産リスクを推定し与信判断を行うこと。与信に要する時間の短縮や、正確さ向上を図る

累積赤字が930億円となってしまった。430人の職員を120人に減らし、400億円を投入し再建するという。黒字化を見通せないなら撤退すべきだ。損失額を膨らませて都民にツケ回したのては、たまったものでない。

07年9月中間期、新銀行の中小向け融資は3月に比べ150億円減った。零細企業の景況感悪化、審査の厳格化などによって貸付先が確実に細っている。大手銀の貸し渋りは徐々に影を潜め、地域金融機関はゆうちょ銀行の出現にもあおられて顧客争奪戦を繰り広げている。自治体が納税者にしわ寄せしてまで銀行経営する意義はもはや見当たらない。

 都議会の自民、民主、公明の各党は新銀行の設立を後押ししてきたが、税金頼みの銀行に安易に追加出資を認めるわけにいくまい。都民への説明責任を果たすためにも、各党は「撤退」を議論の俎上(そじょう)に載せるべきだ。

風邪引きのこと

今日の名言

客というものは、親切を示してくれた主人のことは、いつまでも忘れずに思い出すものだからな。

ホメロス『ホメロス オデュッセイア』(下)

287_field111さびしさのじだらくにゐる春の風邪上田五千石

季語は「春の風邪」。俳句では、単に「風邪」というと冬季になる。冬だろうが春だろうが、風邪引きは嫌なものだ。が、程度にもよるけれど、冬の風邪がしっかり身にこたえるのに比べて、春の風邪はなんとなくだるい感じが先行する。

ぐずぐずと、いつまでも治らないような気もする。そんな春の風邪の気分を、巧みに言い止めた句だと思う。いわば「春愁」の風邪版である。外光も明るいし,気温も高い。そんななかで不覚にも風邪を引いてしまい、いわれなき「さびしさ」にとらわれているのだ。

そしてその「さびしさ」は、だんだんに嵩じてくると言うよりも、むしろだらりと「じだらく(自堕落)」な状態にある。つまり心身から緊張感が抜けてしまっているので、「さびしさ」までもが一種の自己放棄状態になってしまっているというわけだ。

どうにもシマらない話だが、しかしこの状態に「ゐる」のは、必ずしも不快な気分ではない。たとえいわれなき「さびしさ」であるにもせよ、それが自堕落であってもよいのは、せいぜいが風邪引きのときくらいのものだからだ。

日常的、社会的な関係のなかで、ふっと訪れた緊張感を解くことの許される時間……。風邪はつらいけれど、一方でそのような時間を過ごせる気分はなかなか味わえるものではない。

「さびしさ」を感じつつも、作者は「じだらくにゐる」おのれの状態をいやがってはいない。私もときに、発熱してとろとろと寝ているときに、そんな気分になることがある。『天路』(1998)所収。(清水哲男)

現役時代に、私も冬になると1.2回は風邪を引いたが、最近は引かない。理由は、年金暮らしという、心身とも余裕出て来たものと思っている。孫がいる娘夫婦一家などは、四季毎に全員で引いていて、心配かけている。

それにしても、農家の人は風邪を引かない。中学の昨日同級生が営んでいる農家の家に野菜を分けてもらいに行く、その家は、歩いて20分のところにあり、家族は同級生夫婦と、90歳なろうかと思われる、腰が曲がったお婆さんの3人である。牛4頭と畑1町5反を耕作している。

週に1回は、行くが風邪を引いたと言う事は聞いた事がない。本当に丈夫なんだなあ・・・と驚く、生活に屈託がない。と言うことから、風邪を引かない秘訣は神経を病まない・土と馴染み、四季の自然に生きることかなあ・・・そう言えばお爺さんが昨年癌で亡くなった。

入院して手術をして、退院したその日に熱い夏の日に、野良仕事出かけたと言う。これまでしないと、農家はやっていけないのかと思った。「牛を飼っているから、一日も休めないからな・・・病気や風邪など引いていられない。」と問いに答えていた。

まあ・・・腰がヘヤーピンのように曲がっても、牛の世話をしているお婆さん「こうやって、動けるうちは、牛の世話をする。それが生き甲斐なんだよ」と言っている。息子達は、会社勤めで、後継者がいない。他にも何人か農業をしている同級生はいるが、後継者がいない。近郊農家の悩みは同じようだ。

2008年2月20日 (水)

景気判断、下方修正へ

15401 世界的に景気が落ち込みの感が強い。サブプライムローンの問題や、原油高なので、(今日のニューヨーク市場の原油の先物価格が1バレル・100ドルを突破して史上最高値を更新したことを受けて、東京市場でも原油の先物価格が値上がりし、ドルに換算した価格としては取り引き開始以来の最高値を更新している。)

乱高下の株式市況は、世界的である。まあ・・・それに対し日本政府の対応・福田康夫首相は、よそごとのような対応である。一部メデアや、ジャーナリストなどの厳しい見方し、評価している。比較的良いと言われるアジア株も落ち込んで来ている。

景気判断、1年3か月ぶりに下方修正へ(読売新聞)

内閣府は、22日に公表する2月の月例経済報告で、景気の基調判断を1年3か月ぶりに下方修正する方針を固め、関係省庁との調整に入った。

 景気が回復基調を保っているとの見方は維持するが、回復のペースが緩やかになっているとの認識を示す方向だ。景気回復を支えてきた企業の生産活動に、陰りが見え始めたことが理由だ。米国の低所得者向け住宅融資「サブプライムローン」問題をきっかけに米経済が減速していることから、輸出企業を中心に影響が出始めている。

 基調判断の表現は調整中だが、1月に「一部に弱さがみられるものの回復している」とした判断について、「回復」の2文字は残し、勢いが鈍っていることを示す文言を加える方向で検討している。

ニューヨーク市場の原油の先物価格が1バレル・100ドルを突破して史上最高値を更新したことを受けて、東京市場でも原油の先物価格が値上がりし、ドルに換算した価格としては取り引き開始以来の最高値を更新しています。

寒さと乾燥とインフルエンザ

今日の名言

悪人がいくら害悪を及ぼすからといっても、善人の及ぼす害悪にまさる害悪はない。

ニーチェ『ツァラトゥストラはこう言った』(下)

Omoide31ひそと来て茶いれるひとも余寒かな 室生犀星

立春を幾日か過ぎても、まだ寒い日はある。東京に雪が降ることも珍しくない。けれども、もう寒さはそうはつづかないし、外気にも日々どこかしら弛みが感じられて、春は日一日と濃くなってゆく。

机に向かって仕事をしている人のところへ、家人が熱い茶をそっと運んできたのだろうか――と読んでもいいと思ったが、調べてみるとこの句は昭和九年の作で「七條の宿」と記されている。さらにつづく句が「祗園」と記されているところから、実際は京都の宿での作と考えられる。宿の女中さんが運んできてくれた茶であろう。ホッとした気持ちも読みとれる。

一言「ありがとう」。茶は熱くとも、茶を入れてくれた人にもどこかしらまだ寒さの気配が、それとなく感じられる。その「ひと」に余寒を感受したところに、掲出句のポイントがある。「ひそと来て」というこまやかな表現に、ていねいな身のこなしまでもが見えてくるようである。それゆえかすかな寒さも、同時にそこにそっと寄り添っているようにも思われる。茶をいれるタイミングもきちんと心得られているのだろう。さりげない動きのなかに余寒をとらえることによって、破綻のない一句となった。

犀星には「ひなどりの羽根ととのはぬ余寒かな」という一句もある。「ひそと来て」も「羽根ととのはぬ」も、その着眼が句の生命となっている。『室生犀星句集』(1977)所収。(八木忠栄)

このところの寒さは、強情でなかなか緩めてくれない。大陸の寒気団が長居してしまって留まってしまう。だから、余寒などの感じではないように思える。

寒いとなると、日本海側は雪が降り空っ風ふき、東京地方は乾燥して喉がカラカラとなる。湿度12㌫などと4.5に前になったそうで30㌫は天気の日はほとんどである。そうなると火事に気をつけないといけない。それと、インフルエンザだ。

昨日、テレビのニュースで高病原性鳥インフルエンザについて放送を見て驚いた。

インフルエンザシドニー(CNN) オーストラリアのシンクタンクが16日、高病原性鳥インフルエンザが世界各地で流行した場合、最悪で死者は、1億4200万人に上ると発表した。経済損失は、4兆4000億ドル(約520兆円)に達すると見積もっている。

シドニーの「Lowy Institute For International Policy」は、鳥インフルエンザの流行程度を、過去に流行したインフルエンザと比較し、4段階に分類。 最も被害が少ない場合でも、香港風邪(1968─69年)と同程度で、死者140万人、経済損失は3300億ドルと推計している。

中程度の流行の場合は、アジア風邪(1957年)と被害が同程度になると予測。深刻な場合は、約10億人が感染して5000万人近くが死亡したスペイン風邪(1918─19年)に匹敵するという。

最悪の場合はスペイン風邪の被害を上回り、世界で1億人以上が死亡。各国の死者は、中国2800万人、インド2400万人、フィリピン410万人、
日本210万人米国200万人、欧州560万人に達するとしている。

鳥インフルエンザ感染による死者はアジアを中心に増加しており、世界保健機関(WHO
)によると13日現在で、91人。今月上旬には、欧州でも野生の鳥から高病原性H5N1型ウイルスが検出されており、感染被害は世界各地に広がりつつあり、人間への感染が懸念されている。

2008年2月19日 (火)

沖縄事件メディアの見方が割れている

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メディアの見方が割れている。

沖縄で発生した女子中学生に対する暴行事件について、メディアの見方が割れている。週刊新潮が「『危ない海兵隊員』とわかっているのに」という見出しを掲げ、中学生側にも不注意な部分があったことを示唆する一方で、朝日新聞は「被害少女は悪くない」との見出しを掲げ、「責任転嫁は許さぬ」といった女性団体の声を紹介。朝日の記事は新潮の記事を念頭に置いている可能性もあり、「メディア対決」の様相も呈してきている。

地元紙の報道を総合すると、2008年2月10日、中学2年生の女子生徒(14)が、友人2人と沖縄市の商業施設「コザ・ミュージックタウン」に遊びに来ていたところ、20時半頃に大型バイクに乗った男に「送っていくよ」などと誘われ、後部座席に座って、男の自宅まで連れて行かれた。女子生徒は怖くなって一旦は逃げ出すが、男に追いつかれ「ドライブしよう」と言われ、車に乗った。22時半、この車内で暴行されたとされる。女子生徒は北谷町(ちゃたんちょう)の公園で車から降ろされ、うずくまっているところを警察に保護された。

女子生徒が男の自宅や人相などを覚えていたことから、2月11日未明、沖縄県警は米海兵隊2等軍曹タイロン・ハドナット容疑者(38)を強姦容疑で逮捕した。同容疑者は、「抱きついたりはしたが、暴行はしていない」などと容疑を否認し続けているという。

沖縄県では、1995年にも、海兵隊員3人による強姦事件が発生しており、事件をきっかけに反米軍基地運動が急速に加速した、という経緯がある。そのため、今回の事件も沖縄の世論に火を付ける可能性が高いからなのか、各紙とも、今回の事件については、「米軍に綱紀粛正を求めるのは当然」といった論調でほぼ一致している。

ところが、被害を受けた女子中学生周辺にも非があったのでは、と言いたげな記事もあるのだ。

例えば、週間新潮の2月21日号(首都圏では2月14日発売)では「『危ない海兵隊員』とわかっているのに 暴行された沖縄『女子中学生』」との記事を掲載。女子生徒は、大規模な米軍基地を抱える沖縄市在住である一方、実家は宜野湾市郊外にあるとして「宜野湾の基地はコザ(編注: 沖縄市の旧名)とは比較にならない。米兵の怖さを肌身に染みて知らないから、付いて行ってしまったのでは」という、ミュージックタウン周辺の商店主の声を紹介、いわば「コザの人間は、普段から米兵に対して警戒するが、女子生徒は『コザの人間』ではなかった」

といった見方を示しており、記事はこのように結ばれている。「いずれにせよ、『危ない』はずの米兵に気軽に付いていったツケは14歳の少女にとってあまりに重いといわざるをえない」直接的な表現ではないにせよ、女子生徒の「脇の甘さ」を暗示するような書き方ではある。

これに対して、朝日新聞は2008年2月17日の紙面で「被害少女は悪くない」という見出しの記事を掲載。記事はこのような書き出しで始まっている。「米兵による性犯罪が起きるたび、『ついてゆく方も悪い』などと被害女性に責任を転嫁し、根拠もなく中傷する物言いが繰り返された」

さらに、今回の事件もこれに該当すると指摘。ネット上で事件について繰り広げられている議論や、先述の週刊新潮の記事を念頭に置いているものとみられる。記事では、女性団体が「沖縄のことも被害者のことも何一つ知らない人たちが、被害者を中傷することだけは、絶対に阻止したい」などとして、東京や沖縄でデモを予定していることを報じている。

どうも、本土の人間には海兵隊員の怖さは分からないが、一般的には、8時半ごろまで繁華街で、遊んでいて、知らない人に声を掛けられ大型バイクの後ろに乗ってしまう行為は危険と判断できる中学生だと思う。魔がさしたのか、ちょっと普通だったら考えられない行為で、落ち度があったと思う。が私の意見である。しかし、容疑者の行為は絶対に許すことは出来ない。

金正日総書記と朝鮮半島

05detohama11 金正日総書記は世界最悪の独裁者、米週刊紙

【ワシントン17日聯合】北朝鮮の指導者、金正日(キム・ジョンイル)総書記が「世界最悪の指導者」に選ばれたと、米紙ワシントンポストの週末マガジン・パレードが17日に報じた。
パレードは毎年、「世界最悪の10大独裁者」の順位を発表してきた。今年も米国務省や人権団体のヒューマン・ライツ・ウォッチ、アムネスティ・インターナショナル、国境なき記者団などの資料や情報を基に、人権虐待、指導者の統治による住民の苦痛水準、指導者の絶対的な権力の程度などを分析した結果、金総書記が最悪の独裁者順位で昨年の2位から今年は1位になったと明らかにした。

金総書記を「世界で最も孤立し抑圧的な体制を統治している。北朝鮮住民は政府の宣伝以外の情報に全く接することができない」と評している。また、北朝鮮政権は特定個人の犯罪に対し家族3代が処罰されることがあり、約20万人の住民が強制労働の収容所に監禁されているものと推定した。北朝鮮が中国に脱出しようとする人を捕まえ拷問・投獄しているとも言及した。 

米国との関係においては、金正日政権は昨年、米国など他国に対し核施設を閉鎖すると約束したが、昨年12月末と設定されていた全面的な核開発計画の申告は期限を過ぎたと指摘した。

福田康夫首相になってから、拉致問題でテレビ・新聞などの報道が、めっきり少なくなって拉致被害家族の思いは、何とも切ないことだろう。拉致問題も未解決であり、平成16年5月22日の第2回日朝首脳会談において、北朝鮮側より、直ちに真相究明のための徹底した調査を再開する旨の明言があったにもかかわらず、未だに北朝鮮当局より納得のいく説明がなされていない状況である。

最近のニュースで韓国に22名が逃亡したが、北朝鮮に送り返され、処刑されたという。普通の国でないところが怖い。

韓国の新大統領就任2/25日で李明博(イ・ミョンバク)氏は、盧泰愚大統領とは違い、拉致問題も動きは期待したい。

民主党の小沢代表20日から22日まで韓国ソウル市を訪問し、李明博次期大統領と会談する。新政権下での日韓関係や北朝鮮情勢について意見交換するものとみられる。また小沢氏は韓国滞在中、朝鮮日報社主催の「リーダーシップと変化」をテーマにしたシンポジウムで講演する予定である。

北東アジアの平和安定と、拉致問題を含め、北朝鮮半島の新しい動きに期待したい。

雪氷がとけ雨水となる季節

今日の名言

富めるものはつねに貧におびえる習なれば、もっとも乞食をにくむ。富を積むは罪をかさねる所以。

石川淳『至福千年』

Sira81 ふらここや空の何処まで明日と言ふ つつみ眞乃

本日二十四節気でいうところの雨水(うすい)。立春と啓蟄に挟まれたやや地味な節気である。暦便覧には「陽気地上に発し、雪氷とけて雨水となれば也」とあり、天上から降るものが雪から雨に替わり、積もった雪も溶け始める頃を意味する。

三島暦では「梅満開になる」と書かれている通り、少しあたたかい地域ではもうそこかしこで春を実感することができるだろう。掲句では「ふらここ」が春の季語。空中に遊ぶ気分は春がもっともふさわしい。

ぶらんこを思いきり漕ぐとき、一番高い場所ではいつもは見えない空の端を一瞬だけ見ることができる。なんとなくちらっと見えたあたりに本物の春がきているような、ずっと向こうの明日の分の空を覗くような気分は楽しいものだ。

しかしふと、丸い地球には日付変更線が確かにどこかに引かれていて、はっきりあそこは今現在も今日ではないのだと考えているうちに、くらくらと船酔いの心地にもなるのだった。

息かけて鏡の春と擦れ違ふ〉〈羽抜鳥生きて途方に暮れゐたる〉『水の私語』(2008)所収。(土肥あき子)               

二十四節気 雨水(2/19~3/4) ◇雪氷がとけ雨水となる季節 (誕生日の花「あねもね」)

今日の天気は冬型の天気図が続いたが、高気圧が張り出して全国的に晴れるところが多くなる。福岡10度・大阪・名古屋・東京9度の予報である。

掲句の「ふらここ」何んて初めて聞く言葉で、辞書で見るとこうなる。

ふらここ【鞦韆】  《「ぶらここ」とも》「ぶらんこ」に同じ。《 春》 難しい字だなあ・・・  私はブランコは駄目だ。乗ると直ぐに気持が悪くなってしまう。子供の頃は、木の枝に、縄を掛けて、乗って遊んだがなあ・・・。  

2008年2月18日 (月)

ブログの開設1200万人超す

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私も、拙いブログを書いているが、今朝のNHKのラジオのニュースで聞いていたので、再度NHKのwebを見た。まあ・・これまで普及した時代の流れに驚く、私は携帯電話は電話だけの機能しか利用していないが、パソコンではブログ利用者1200万人の1人である。
年金暮らしの暇つぶしのために弄り始めたのだが、アクセスやコメント・トラックバックなどが気になる。
しかし、インターネットも使い方により、犯罪になるようなものもあり、特に未成年者の利用については保護者の注意が必要と思われる。(携帯電話も同じだ)
NHKwebより
ブログは、個人的な日記や写真をインターネット上に公開するもので、4年ほど前に国内でサービスがスタートして以来、若い世代を中心に急速に利用者を増やしてきました。大手のブログ提供会社10社が調査したところ、これらの会社のサービスを通して開設されたブログの数は先月末の時点で、あわせて1200万件を超えたことがわかりました。
この中には、すでに内容が更新されなくなったものも含まれていますが、日本人の10人に1人がブログを公開した計算になります。先月末時点での主な提供会社のブログの開設数は、アメーバブログが250万件、ライブドアブログが240万件、ヤフーブログが150万件などとなっており、どの会社も利用者が急増しています。
大手ブログ提供会社の長瀬慶重さんは「ブログの開設数は、この1年間で70%余り伸びている。情報を受け取るだけの従来のメディアと違って、ごく普通の人が身の回りの情報を自由に発信できる点が人気の秘けつではないか」と話しています。

DVDの規格をめぐる主導権争い

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東芝・マイクロソフトVSソニー・ナショナルでの新世代DVDの規格争いで「決着」がついた。私は、DVDを利用していないので「HD DVD」・「BD DVD」の違いがよく分からない。しかしこのことで、東芝の株価に影響が心配してしまう。(以下産経新聞記事より)

新世代DVDの規格をめぐる主導権争いは、「HD DVD」を主導する東芝が再生機器類の製造を停止する方向となったことで、今後はソニーなどが推す「ブルーレイ・ディスク(BD)」に一本化される見通しとなった。ただ、「消費者置き去り」のまま続いた規格戦争は、すでにHD機を購入した消費者への対応など、重い禍根をメーカー側に残す。
「まだ負けたわけではない。HDの技術的な優位は変わらない」今年1月、ソフトの著作権を握る米映画大手ワーナー・ブラザーズがHD陣営からの離脱を発表した直後、東芝の米国法人幹部はこう強気の姿勢を強調したが、それも長くは続かなかった。
国内外のメーカーで唯一、HDの録画再生機や再生機を製造してきた東芝。BDよりも低価格で売り出す戦略を推し進めたが、主戦場とにらんできた北米市場で、15日に小売り最大手のウォルマート・ストアーズがBD支持を表明。外堀を埋められた格好の東芝は「万事休す」となったようだ。
東芝は米国で、HDの再生機をウォルマートなどの小売店を中心に2万円を切るような「採算割れ覚悟」(幹部)の破格の値段に設定してきた。その効果もあり、米国でのHD機の販売台数は、米マイクロソフトのHD対応の家庭用ゲーム機を含めて100万台を超える。
日本での販売台数は数万台にとどまるとみられているが、米国の消費者の中には「規格争いについてよく知らず、価格面でHDの再生機を購入した人も少なくない」(業界関係者)とみられる。今後、東芝にとっては、国内外を問わずHD機購入者への対応が重い課題になるのは間違いない。
また、撤退にともなう費用や、これまでに投入してきた販売促進費などの関連費用は数百億円に上るとみられる。東芝は、デジタル家電を原子力や半導体と並ぶ主力事業と位置づけてきただけに、HD撤退による損失が経営に与える影響は小さくない。
かつて、ビデオテープの規格を舞台に起きた「VHSvsベータ戦争」では、ソフト充実度で優位にたったVHSの販売台数が市場で優勢になり、勝敗を決した。デジタル家電時代となった今回の新世代DVDでも、著作権を握る映画会社や、メーカーへの発言力を増す小売り企業の判断が大きな影響力を持った。
HD陣営とBD陣営は3年前に一度、規格統一のための交渉に入ったものの、決裂した経緯がある。前回のVHSとベータ戦争に続き、次世代DVDでも“日本発”の規格争いが世界中の消費者を巻き込むことになったわけだが、メーカーの論理に立った消費者不在の製品開発の危うさを再び示すことになった。(塩原永久)

雀のこと

今日の名言

君の義務が何であるかを、当の君自身よりもよく心得ていると思いこんでいる連中がいつもいる。

『エマソン論文集』(上)

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子雀に槍や鉄砲や帷子や ふけとしこ

季語は「子雀(雀の子)」で春。春とはいっても晩春に近いころである。雀の子は孵化してから二週間ほどで巣立ちをし、その一週間後には親と別れる。ほとんど「世間」の右も左もわからぬうちに、独立してしまう(させられてしまう)というわけだ。

そんな子雀の周囲に、帷子(かたびら)はともかく、槍や鉄砲が突然に出現するのだから、おだやかではない。目を真ん丸くしている子雀の様子が、可愛らしくもあり可哀想でもあり……。

ご存知の読者もおられるだろうが、これらは三つとも「雀」という名前のついた雑草である。「雀の槍」、「雀の鉄砲」、「雀の帷子」。いずれも地味な花をつける。「烏瓜」に対応して「雀瓜」があるように、植物界での雀は小さいという意味で使われることが多いようだ。

調べてみたら、雀の槍の「槍」は武器としてのそれではなくて、大名行列の先頭でヤッコさんが振っている毛槍のことだそうである。たしかに、形状が似ている。ただし、雀の鉄砲はずばり武器としてのそれを指し、同様にこれも形が似ていることからの呼称だという。

子雀の前に三つの雀の名のつく植物を集めた野の花束のような一句。生命賛歌である。『草あそび』(2008)所収。(清水哲男)

最近、雀が我が家の近くに来なくなったのか、数が少なくなったのか余り見かけなくなった。しかし、ちょっと河川敷や、田んぼに行くと群れで飛んでいたり、枯れ草の中で、うるさいほどの鳴き声をしている。むかし草葺の農家の屋根の破風などの隙間に巣をつくり春先に子育てする様子を見ることが出来たが、今はその光景は見られない。

意外と身近にいる野鳥だが、その生態は知らない。巣からこぼれ落ちた,目の開かない産毛の雀を見ることがあって、どうする事も出来ない姿を見たことがあった。

元来雀は、百姓の外敵であり嫌われていて、雀よけ、雀はらいなどで、対応したりしていた。終戦直後などは、蛋白源の確保で、山にカスミ網をかけ捕って、焼き鳥で食べた懐かしい、思い出がある。昔から人間との距離がいいのか、存在をあまり気にならない鳥である。

我と来て遊べや親のない雀  小林一茶

童話に「雀のお宿」「舌きり雀」などが有名で昔から、人間に関わりのある。

村にいる雀、街の公園にいる雀、大都会にの片隅でも生きられるところなど、強かさがある。   

2008年2月17日 (日)

感謝の心

282_field111 人と自然
自然の中で生かされし命たち、命は常に自然と共にある。命は自然により命を感じ、自然は命により自然を感じる。ともにある命だからこそ,その意味もまた深くその意味をなすことができる。

人は自然の一部として、そして人は命そのものとして、自然の中で命を育ててきた、育てている、そして育てて行く。この営みを繰り返すことで人は自然に戻れ命となれる。

自然の中にこそ命を生かす力があり、そして命の中にこそ自然の営みが流れている。人と自然とがひとつとなれて初めて命は命となれる。今に生きる多くの人の心が、あまりにも自然からかけ離れた心となり、生きざまとなったがゆえの乱れしこの世の姿でもある。

人の心が本当に求めているものが、自然の中に隠されていることに人は気づかなければならない。そして自然という大きな力をしっかりと見つめ直さなければならない。そして人と自然とがひとつとなれたところに、真の人としての命があることを知っていただきたい。そこが命が命となれる場所であることを人に感じて生きてほしいと願うのみである。

季節

人のぬくもり、季節のぬくもり人のぬくもりも、季節のぬくもりも厳しい寒さの後に生きて初めて感じるぬくもりであります。本当に心がそのぬくもりを感じるのは寒さを越えてきた心があるからでもある。

本当に心からそのぬくもりを感じられるまで、人はその寒さを越えてゆかなければならないんのかもしれない。季節の意味もまたそんな心となるために与えられた自然の巡りなのかもしれない。

Hodaka21 地球の温暖化といわれているが、今年は例年になく寒さが厳しい、春隣・春近し・早春・春浅し・春寒・冴返る・などの季語がる。ちょうど今の季節である。人は自然の中にしか生きられない。この自然を心と身体で受け入れていくことが、幸せな人生を送れることである。

歳時記

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 歳時記 (時候 ・ 天文 ・ 地理 ・ 人事 ・ 動物 ・ 植物

老幹の横たはるあり夜の梅  高野 素十

野仏の胸当て寒き二月かな  上田 俊二

枯色の由布の盆地の春時雨  冨永 津耶

鶯の近くに鳴けば遠もくに   菊池 輝行

いつまでも雪濁りして北の簗  松下 芳子

初午の神の雪道あけありし  福井 みわ

どの句も、素晴らしい。歳時記 おりおりの自然を選び出してみた。春は明るく躍動する季節である。今年は例年になく厳しい寒さの冬であった。それだけ暖かくなる春がたのしみだ。

景気(株価)・ミーイズム・モンスターペアレント・残留農薬・汚職・宙に浮いた年金・虐待・殺人・食料テロ・戦争・環境破壊・焼死などの厭なキーワードが浮き彫りになっている。今年は、耐えて、我慢する年なのかもしれない。

そう言えば、今年は閏年で2月が29日がある。四年に一度のオリンピック(北京)ある年である。

こう考えて見ると、暗くなるばかりで落ち込んでしまう。落ち着いて、自然を見つめる心を取り戻し、掲句のように明るくなるようにしたいものだ。

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春浅い早朝の空

今日の名言

結婚したほうがよいでしょうか、それとも、しないほうがよいでしょうかと訊ねられたとき、「どちらにしても、君は後悔するだろう」と彼は答えた。

ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝』(上)「ソクラテス」

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春浅し空また月をそだてそめ 久保田万太郎

どこをどうひっくり返しても、わたしにはこんな発想は出てこないなと思いながら、掲句を読みました。昔、鳥がいなかったら空のことはもっと分かりにくかっただろうという詩がありました。

それを読んだときにもなるほどと、うならされましたが、この句にもかなり驚きました。日々大きくなって行く月の現象を、作者はそのままには放っておきません。これは何かが育てているからその嵩(かさ)を増しているのだと考えたのです。

それも、よりにもよって空が育てたとは、なんとも大胆な発想です。「そだてそめ」といっています。まだ寒さの残る春の初めの空に、いったん欠けた月は、ちょうどその折り返し点にいるようです。

だれかが手で触れれば、そのままそだちはじめる。「そだてそめ」、サ行の擦り寄ってくるような音がひらがなのまま、わたしたちに静かに入ってきます。多少強引な発想ではありますが、言われてみればなるほど美しく、不自然な感じがしません。

句とは、なんと心に染み込むものかと、あらためて思いました。「春浅し」、今夜はこの句を思い出しながら、月を見てしまうんだろうな。「角川俳句大歳時記 春」(2006・角川書店) 所載。(松下育男)

最近、朝早く起きるのであるが、外に出で朝空に浮かぶ月をみない。月齢9.64:満月は21日だという。たまには、早朝の空けきらない空を見上げて、月・星を見てみよう。

今日の誕生日の花は、Snowfrake1_3 「スノーフレーク」 花言葉 純潔・無垢な心である。

昨日歩きながら、

煩悩(ぼんのう)。貪(とん)・瞋(しん)・痴(ち)。の三毒について考えた。

今、現在 生きていられることの有り難さ、嬉しさを感謝できない人間の貧しさ・愚かさ・怒り・の心は誰にもある。しかし、いかにこれを抑える理性があるかによって、品格が表れる

坂東真理子さん「女性の品格」礼状が書ける」「約束をきちんと守る」「型どおりの挨拶ができる」「姿勢を正しく保つ」「贅肉をつけない」「人に擦り寄らない」「よいことは隠れてする」「得意料理をもつ」「恋をすぐに打ち明けない」――本書は、ビジネスから装い、話し方、恋愛にいたるまで、女性としての振舞い方を具体的にアドバイス。何げない日常の立居振舞いに、女性の生き方と品位はおのずと表われるものである。

もう一度反省をしてもらいたい女性が多い。

)

2008年2月16日 (土)

椿の思い出

今日の名言

私が猫と戯れているとき、ひょっとすると猫のほうが、私を相手に遊んでいるのではないだろうか。

モンテーニュ『エセー』(三)

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椿の夜あたまが邪魔でならぬかな 鳴戸奈菜

椿の花の時期は長いが、盛りは二月半ばから三月。花弁を散らしつつ、咲きながら散りながら冬を過ごす山茶花とは異なり、ぽたっと花ごと落ちるので、落椿という言葉もある。

木偏に春は国字というが、あまり春の花という印象が強くない気がするのは、その深緑の葉の硬質な暗さや、春風を感じさせることのない落ち方のせいだろうか。

それにしても掲句、あたまが邪魔なのだという。ひらがなの、あたま、は、理性、知性、思慮分別。もっと広く、本能以外のものすべてであるかもしれない。

ものみな胎動し始める早春の闇に引きこまれるように、本能のおもむくままでありたい自分と、そんな一瞬にも、椿の一花が落ちる音をふと聞き分けるほどの冷静さで自分を見つめる自分。ならぬかな、にこめられた感情の強さは、同時に悲しみの強さともいえるだろう。

一度お目にかかった折の、理知的で穏やかで優しい印象の笑顔と、「写生とは文字通り、生を写すこと」という言葉を思い出している。『鳴戸奈菜句集』(2005・ふらんす堂)所収。(今井肖子)

椿といえば、子供のころの思い出がある。実家の庭に物凄く大きな椿の木があり、この時期花を一杯咲かせた。次から次えと咲き続き、4月8日のお釈迦様の生誕の日ごろまで咲いていた。近くの慈眼寺でその日、甘茶を飲ませてもらえるので、椿の花を摘んで持って行くき、坊さんに渡した。お坊さんは喜んでいた。その笑顔が忘れられない。

また、大きな椿の木は実がつくのである。その実を採るため登るのである。子供の両手で抱えられないほどの太い木であった。その実を槌で叩いて割って油を摂った。「椿油」だ。

椿の花は、首からぽとりと落ちる。縁起のいいものでない花だ。むかし、罪人が打ち首にされて、落される頭と類似するからと言われた。など、親父がいっていた。

伊豆大島といえば、椿である。旅行して、三原山に行く途中、椿の群生がある。あんこ娘がカスリの着物で頭に白いてぬぐいをかぶり笑顔で迎えられた。高校3年生であった。そして、お袋に椿油をお土産に買った。そんな遠い思い出がある。

老いの価値

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「老いの価値」を考える。誰でも通る道、では、人間として時代を引き継いていくのには、どうあるべきかいわゆる『結いの心』と言うものはなど・・・東京新聞1/20から考えてみた。

「あったかいなぁ」 長野県栄村の特別養護老人ホームで働くヘルパー有田よし江(60)は、九十歳すぎのおばあちゃんに救われた。

今、思う。「あの笑みが、終わらせてくれた…」 それまで、有田はずっと“旅”をしていた。昨春、大阪市近郊のベッドタウンから栄村へ移り住んだ。二十一歳で結婚。二男一女に恵まれ、子育てに追われる「どこにでもいる主婦」だった。そして、それが「嫌だった」。

団塊の世代。「競い合うのが当たり前」の時代を生きてきた。子どもにピアノ、琴やバイオリンを習わせた。変な見えや教育の無理強い、自己満足。でも「その他大勢に埋もれたくなかった」。

四十九歳の時、がんを宣告された。夫の慰めの言葉も耳に入らなかった。手術は成功したが「死」を身近に感じ、抑えきれなかった。「自分らしく自由に生きたい。だから家を出ます」。夫の「二度と帰ってくるな」という言葉を背に家を出た。

アパートを借り、パートで働きながら始めた独り暮らし。山登り、スキューバダイビング、マラソン-。やりたいことは何でもやった。つかの間の満足感。でも長続きはしなかった。

働けなくなったら…不安に襲われ、夜、電灯とテレビをつけていないと眠れない。次第に「独り」が恐ろしくなった。

有田にとって「老い」とは「弱い」もの。新天地に栄村を選んだ理由の一つは、介護保険料が安いことだった。「こんな雪国に来てばっかじゃねえの」なんて言った大家さんが、親身に世話を焼いてくれる。近所の人が「これ畑でとれたから持ってけ」と野菜を置いていく。純粋で損得勘定のない応援だった。

そんな時。村にきて半年後の昨秋、施設利用者の給食の配膳(はいぜん)を間違え、同僚から「何やってんの」と言葉が飛んだ。「やっぱり老化してる」。再び自信がしぼみ、胃が痛くなり退職に追い込まれた。

そして、あの日。再出発を期し介護の職について間もなく、お年寄りの足をベッドの角にぶつけてしまった。「しかられる」。委縮した。とっさに顔を見た。だが、九十歳のおばあちゃんは痛みをこらえながらただ顔の真ん中に深いしわを寄せ、笑っているだけ。ぶつけたあんたもつらいよね-人を許す、そんなあったかい顔だった。

「あのおばあちゃん、ずっと他人に優しく生きてきたんでしょうね」。心の痛みがすーっと消え、やっと気づいた。人を思いやる大切さ、支え合う家族の尊さ。「この村で人のために生きていけたら」 せめて、これから先の人生。村のおばあちゃんらしく、もんぺ姿で麦わら帽子をかぶり、やわらかな「笑み」を浮かべていたい。=文中敬称略

世界有数の長寿国日本で、「老い」は大きな問いを投げかけている。三世代の家族同居が珍しくなり、高齢者の孤立に拍車がかかる。豊かさの陰で、ここにも見失った大切なものがありはしないか。人と人の絆(きずな)が残る村で、「老いの価値」を見つめ直したい。

2008年2月15日 (金)

結いの心とは

東京新聞に面白い記事があったので記して見た。現状の社会の人々の考えの多様化は仕方がないが、人間として心を結ぶ原点を探るヒントになる。

【結いの心 市場原理と山里】

栄村・高橋村長と京都精華大・松尾准教授が対談 つながれば 豊かな社会

2008年1月29日

 長野県栄村を舞台に元日から連載してきた「結いの心」=市場原理と山里。助け合うからできる「米づくり」や、偏差値では割り切れない「学ぶこと」、都会では忘れられがちな「老いの価値」…。グローバリズムのひずみが広がる中、競争やカネとは違った物差しをあててみたら、小さな村がとたんに輝いて見えた。「この村には“絆(きずな)”がある」という高橋彦芳村長(79)や、村人たちにあらためて語ってもらい、村にある「大切なもの」について考えたい。

 グローバリズムとは何か、その中で人はどう生きるべきか。栄村の高橋村長と、村に移住し、山里の価値を見つめる異色の研究者、松尾真・京都精華大准教授(57)に語り合ってもらった。

 松尾 国境が低くなり、人が自由に交わるという意味でならグローバリズムにも希望があったが、現実はカネがもの言う世界で、グローバル競争に勝たなくちゃいけない。

自分の力で生きる

 高橋 今はモノづくりじゃなくて、マネーがマネーを生む投機経済がもてはやされてる。そんなのカネ持ってない人間にとっちゃ、素晴らしい社会って映んないわけ。カネ持ってないと、自分の居場所もないみてえで…。栄村にはマネーの力なんて全然ないけど、その分、一人一人が自分の力で、存在価値を持って生きてる。

 松尾 初めて村に来たときは携帯も通じないし、とんでもないとこだって驚いた。だけど、この村では、特にお年寄りは生きるすべを知っている。物干しざおひとつにしたって、高い石油から加工しなくてもその辺の竹や木でいい。そういうとこに日本人の生き方のヒントがあると思うんだけどカネにならないから、あまり研究費用を出してもらえない(笑)。

 高橋 貧乏を奨励してるわけじゃないし、我慢をしちゃいけないけれど、足元を見ながら、人間らしく暮らしていければいい。グローバル社会に無理して近づいても、ゆがんじゃうだけだって。(北海道の)夕張も炭鉱がだめになったとき、昔の景気を忘れられなくて、何か金もうけをしなきゃならねえって、あの手この手で融資をかき集めてやったら無用のハコものと借金が残っちゃったんじゃないか。グローバリズムにまったく関係しないで生きてはいけねえけど、足がつく浅瀬で貝や小魚をとったりしてる限りはおぼれねえ。結局はその方が、人間にとって安定した社会じゃないか。

 松尾 宮崎県の東国原英夫知事が県民所得が全国で下位だから『どげんかせんといかん』って言うでしょ。でも、その所得って給与とかで、村のばあちゃんが、おいしい野菜を作っても、豊かさには換算されない。村では無報酬のおてんまや普請があり、村の道や水路が維持されている。納めるカネは都会の人より少なくても、はるかに多くのものを支払っている。近世における村というのは、実は行政システムじゃなくて力を合わせて暮らすための共同体。明治時代に、中央の意思を伝えるシステムとしての村ができた。栄村は、共同体としての村の色合いが濃く残っている。

対価以上の何かを

 高橋 自然は個人の所有物じゃねえし、自然と結んで農業していくには、人々が力を合わせなくちゃなんねえ。そうじゃなくて、カネで暮らすようになっちゃうと村の生活はとたんに貧しくなる。『結い』っていうのは古い制度で、労働は対価を払うもんだって批判もされるけど、対価以上の何かを頂ける人間関係をつくるもんなんさ。

 松尾 田舎暮らしブームで、都市から移住した人が、新聞に投書していた。『道普請に出てこいと言われたが、そんなの行政がやることで、もっと行政サービスを充実させるべきだ』と。こういう人には田舎暮らしはしてほしくない。

 高橋 行政がやることって単なるサービスじゃない。住民が対等に力を合わせ、新しいものを生み出す『協働』じゃねえかな。田直しや道直し、下駄(げた)履きヘルパーも住民と一緒にやるんだ、って思いからできた。都会はカネを仲立ちにしてるからおかしくなる。

村のご飯おいしい

 松尾 そもそも大学の学生が村に来ると、米や野菜がこんなにおいしいって知らなかったと言う。都会の人は、ご飯がおいしいと味わう機会はほとんどない。

 高橋 都会のラーメン店へ行くとライスの無料サービスってあって、ライスはお代わりもタダだってんだよ。バカにすんじゃねえっての。カネの価値じゃなくて、百姓がどうやって主食の米を作ってるのか、想像する感覚がない。カネとは違う価値感を持ってもらえるよう交流していかなくちゃなんねえ。

 松尾 僕は共同体が大嫌いで、以前は封建的な共同性を批判してた。しかし、実際に住んでみると下手な大学や企業より、よっぽど民主的だなあと。生活の中から自然に『協働性』が生み出されていく。都会の人がカネでサービスを受ける、っていう暮らしを続けている限り、その必要性は理解できない。他人に何かあっても『そんなの関係ねえ』で終わり。

都市の人も考えて

 高橋 犯罪が起きると、よく近所の人が『驚いた』とか言うんだけれど、それも関係性を失ったところから出てきてる。都市の人にも『結い』ってもんについて、人と関係しなくて、本当に人間らしく生きられるのかどうか、考えてもらいてえ。

<グローバリズム> 直訳は地球主義だが、「世界が一つの市場」と考える市場原理主義の意味で用いられることが多い。企業が地球規模で経済活動を拡大させ、安い労働力による低価格化が進むが、市場原理でヒト・モノ・カネが動くため、風土を無視した効率化やコスト削減など企業側の論理が優先されがち。零細な企業、ヒトが抗しきれず淘汰(とうた)される。近年、サミットなどの国際会議では反グローバリズムを掲げる市民団体が抗議活動を行うなど各地で問題が生じている。

太陽系に似た惑星群見つかる

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太陽系に似た惑星群見つかる。

今朝の7時のNHKのTVの二ユースで聴いた。内容は、

名古屋大学をはじめとする世界11か国の研究者らの観測チームは、おととし3月、銀河系のほぼ中央にある星の光が惑星の重力によって屈折しているのを見つけ、解析の結果、地球からおよそ5000光年離れたところで2つの惑星を発見しました。
これらの惑星はそれぞれ、地球のおよそ225倍とおよそ86倍の質量があり、太陽のように光を放つ恒星の周りを回っているとみられます。2つの惑星の軌道の半径と質量は、太陽と木星、土星の関係をおおむね半分に縮小したような状態で、これまで見つかっている複数の惑星で作られた25のグループのうち、最も太陽系に似ているということです。
名古屋大学太陽地球環境研究所の伊藤好孝教授は「太陽系とよく似た惑星系が見つかったことで、地球と同じような惑星が存在する確率を知るうえで貴重なヒントになる」と話しています。この発見は、15日発行のアメリカの科学雑誌「サイエンス」に掲載されます。以上NHKwebより。
☆☆★★☆☆
5000光年の距離は、想像すら出来ないが、銀河系にあり、今まで見つかっている惑星で作られたグループのなかで、最も太陽系に似ているという。地球と同じような惑星が存在する可能性?があるというものだと思う。
冬空を、天文ファンでなくても、見上げたくなり夢が広がった。素晴らしい発見だ。もしかしたら、生物がいるかも、そして人間のような、いやもっと高度の知能を持った生物がいて、地球を捉えて、様子を伺っているのかも知れない。
そんな、空想を掻きたてたてられる。そして、「地球人よ!つまらない戦争や、人殺し・いさかいはやめて、私達の星と、仲良く交流をいたしましょう」と言ってくるかも知れない。
地球の星の上で、人間が好きな事をして、人間自身で地球を破滅しようとしている。もっと宇宙に目と心を向けて、見ることが、大切ではないでしょうか。
☆☆★★☆☆

生きる事は・・・

今日の名言

世間恐るべきは猛獣毒蛇にあらず 壮士暴客にあらず ただ勉強家と沈黙家と謙遜家とのみ

正岡子規『筆まかせ抄』

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生き死にや湯ざめのような酔い心地 清水哲男

誕生日ゆえ自作を。季語は「湯ざめ」で冬。誕生日が来ると、子供のころからあと何年くらい生きられるかなと思ってきた。平均寿命など知らなかった小学生のころには、人生およそ六十年を目安にして勘定したものだった。

周囲の人たちの寿命が尽きるのは、だいたいそんな年齢だったからである。それが、いつしか昔の目安の六十歳を越えてしまった。この間に平均寿命の知識も得たが、これはその年に零歳の赤ん坊があと何年生きるかの目安なのであって、大人の余命とは直接には関係がない。

今では男女ともに八十歳を越えたとはいっても、私の年代の平均余命をそこまで保証しているわけではないのだ。で、目安を失った六十歳以降からは、なんとなく「あと十年くらいかな」と勘定している。

昨年も一昨年も、そして今年も「あと十年」と思うのは、数字的に減っていないので妙な話なのだけれど、まだ生命に未練たらたらな証拠のようなものだろう。常識では、これを希望的観測と言う。

ただ、このところ毎年のように同世代の友人知己の死に見舞われていることからして、他方ではもういつ死んでもおかしくはない年齢に達したことを否応なく自覚させられてもいる。だから、掲句のように内向的になることもしばしばだ。

でも、とにもかくにも今日で六十七歳になった。せめて今宵は楽天的に「あと十年は」と決めつけて、心地よい酔いのなかで眠りたい。(清水哲男)

私も、同じ年代で、同じようなことを、思った事があるから、不思議である。

そして、今を生きる言うこと・・・そしてこんな事を考えてみた。

生きているということを決して無駄にしてはならない。生きているこの時とは決して当たり前ではない。”生きている”ということを学ぶため、人は生き続けているのかもしれない。さまざまな苦労を通し、さまざまな経験をし、生きていることを実感する、そのための人生だとも言える。

今の自分の命へ対し、本当に心の底から感謝ができるか? 命ある今がとても幸せであると実感しているか? もしできない想えないとするならば、その人の心が本当に”生きる”ということがわかっていないからである。人は死を見つめることで、”生きる”ことがわかったりもする。まさしく死ぬことと生きることは裏表であり、死と生は、重なり合って存在している。

この重なり合いを感じられることが、人が生きることを知る手立てなのかもしれない。死がわからないから”生きる”ことも分からない。生きることがわからないから、生きていることに感謝ができない。そして今を幸せだと感じることができない。”生きる”とは今があるということなのだ。

自分の今を見つめて。今がないとは死ぬということなのだ。今があるとは”生きている”ということなのだ。人が”生きている”ということを感じられることで、人は何を学べる。

人は自分が”生きている”ということを実感できることで、生きることへ精一杯向かえると言える。生きることを知る目的はここにある。人は生きることを感じて生きることで、生きることへ精一杯向かえることができる。そうすればいい人生をつくれる。命をいかせた人生である。 

人は今、自分へ与えられし尊い命を、命として使い生きてはいない。それは”生きる”ことを実感して生きていないからである。この世とは命の集まりで成り立っている世界である。命 同士が支え合っている世界である。 命と命の 共鳴により動いている世界でもある。流されし流れの中で、いかにその命を使いためし生かせるのか、それは命を命として生きれて始めてなせることでもある。(神様から贈り物)より。

2008年2月14日 (木)

人生峠とは

最近とくに人生の峠を過ぎて、下り坂になり急に転げ落ちるような感じてならない。仕方のないことなのだが、そう考えると先はどうなるのだと、ボヤーとであるが想像するのである。そこでいい詩があったので、ぴったりの心境と思い記してみた。

そして、上ってきた過去を振り返り、峠の頂は何処だってのか考えて見たが解からない

どこが、いつが峠だったのか?

気づかぬうちに下りの勾配を歩いている自分に気づく。

視力、気力、体力、耐力・・・何もかも力とつくものすべてが弱くなって来たことを感じて峠

過ぎていることに気づく。

人間の峠とは鋭く尖ったものではなく、程良い曲線を描くなだらかなものだろう。

全く気づくことなく峠の上を歩いてきたのだから。

さて、今峠を過ぎたばかりか、とっくに通りすぎたのか?まあ、どうでも良いか・・・峠の先

続く道がどんなものだか分からないのだから。

ここに『峠』を美しい名文を記して見たが・・・

峠って何だろう。古い歴史が踏み固められているところ。人々のうらみつらみが折り重なっているところ。さまざまの妖精たちがうごめいている。旅人は祈りをささげ、お許しを乞うて通過した・・・。
峠って何だろう。背中の思い出が消えて、目の前にまったく新しい希望がせり上がってくるところ・・・。
峠って何だろう。二つの国から吹き上げる風が、手を合わせるように一つになって、新しい歌を天にささげるところ・・・。
『信州の峠』 市川健夫 第一法規出版

峠の頂上で私は立ちどまる。道は両側へくだり、水は両側に流れる。そしてこの高所でたがいに隣りあい、たがいに手を取り合って一緒にいるものが、かなた二つの世界にそれぞれの道を見いだす。
私の靴のかろく触れている小さい水溜りは、北のほうへ滴り落ちる。その水は遠い寒冷な海へそそぐのだ。
しかしそのすぐそばにある僅かばかりの残雪は、滴々として南へしたたる。
~しかし世界のすべての水はやがて再びめぐりあい、氷海とナイルとは湿った雲の中でまじりあう。
古い美しい寓話が私のこの瞬間を神聖なものにする。われわれ漂泊者にとってもまた、それぞれの道が家へ通じているのだ。 
『ワ゛ンデリング』 ヘルマン・ヘッセ 尾崎喜八 訳 朋文

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峠なんて通り過ぎて分かるものかも知れない。

雪崩の経験

今日の名言

ぼくは元来、あけっぴろげの単純な人間を信用しないことにしている、ことにやつらの話がすじみち通ってる場合はなおさらだ。

ヘミングウェイ『日はまた昇る』

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雪崩るゝよ盆地の闇をゆるがして 藤沢周平

季語は「雪崩るゝ」で春。雪崩はちょろちょろとしたほんの小規模のものから、天地をゆるがすような大雪崩までいろいろである。大雪だったのだろう、ようやく春を迎えようという時季に、寝静まった盆地の村の闇の夜をゆるがすような雪崩が突如起こる。

「ゆるがして」といっても、盆地の一村が埋まってしまうほどの大規模のものではあるまい。しかし、盆地の斜面をドドドーッとずり落ちる雪崩の音に、安眠を破られた住人たちの驚きが暗闇のなかに見え隠れしている。静かな闇をゆさぶり起こす、まさに白い軍団。

それでも、「雪崩るゝよ」の「よ」が、雪崩がそれほどスケールの大きいものではないことを物語っている。いったん目を覚まされた者も再び眠りに就き、おっとりした者は寝床のなかで「今夜も、またか」などと呟いて再び白河夜船か。

手もとの歳時記に「雪崩です沈みゆく白い軍艦です」(田中芥子)というモダンな俳句が載っていて、ちょっと気になった。ほほう、軍艦ですか? 時代小説の名手藤沢周平は若い頃、野火止川近くの病院で療養中に賞味一年半ばかり、誘われて俳句を作ったことがあった。

振りかえって「作句の方はのびなかった」「才能に見切りをつけた」とエッセイに書いている。「軒を出て狗寒月に照らされる」などは時代小説の一齣を思わせるが、やはり大立ち回りというよりは淡々と詠んだ句が多い。(狗寒月=ふゆのつき)

俳句は作るよりも読むほうにウエイトを置いたらしい。人事よりも自然のほうに心動かされたという。のちに小説「一茶」を書き、舞台化もされた。『藤沢周平句集』(1999)所収。(八木忠栄)

もう50年前に会社の先輩達とスキーによく行った。上越の石内・湯沢だ。その頃は、上野発の上越線の土曜日の夜行列車だった。スキーの道具は、持たないでスキー場で借りるのである。深夜1時ごろ現地宿屋に到着する。民家のような宿で10畳の部屋のコタツに足を突っ込み仮眠する。そして7時ごろ起きて、朝食を取り、スキー場に行き、スキー・靴を借りて滑るのである。

そんな経験の中で、湯沢駅から宿屋に歩いて行く途中近くの山の中腹で雪崩が起きて、もの凄い音で雪の塊が落ちて来た。月明かりで樹木を押し倒していった様子を見た。大きな石も転げ落す力に驚いてしまった。「ああこれが雪崩なんだ」大変興奮した記憶がある。

雪崩のメカニズムと言うものがあるというがよく解からない。冬山登山で雪崩で遭難するニュースを見る度思うのであるが、起きるのは突然ではないということだと思う。雪崩になるプロセスがあり、予知は出来ると言う事だと専門家の話しを聞いたことがある。

今年の冬山は、大荒れの日が続くようである。先だってもスノボーで、スキー場、若者7人が遭難騒ぎが起きた。救助に自衛隊など500百人も出働したとニュースだった。でも全員無事でよかった。

13日から、北日本では爆弾低気圧が日本海上で発生今日も大荒れとの予報である。伊豆大島でも雪が降った。東京もこの冬一地番の冷え込みという。

冬山を甘く見てはいけない、そして、過信はしてはいけない。多くの人に迷惑がかかるのだから・・・。

今日は、バレンタインデーだが、我が家では「そんなの関係ねえー」だ。

2008年2月13日 (水)

鳩山法務大臣の発言

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鳩山法務大臣の発言はいささか、疑問
前回もアルカイーダのオサマラビンが、親友の親友の知り合いとの訳の解からぬ発言で世間を騒がせて問題になったが、今回の発言も、またもや問題発言だ。
NHKオンラインより
この事件は、5年前の鹿児島県議会議員選挙で当選した元議員らあわせて12人が、住民に現金を渡して投票を依頼したなどとして、公職選挙法の買収などの罪に問われたもので、鹿児島地方裁判所が12人全員に無罪判決を言い渡し、無罪が確定しています。
これについて鳩山法務大臣は、富山県で女性に乱暴したとして逮捕され実刑判決を受けて服役した男性が無実だったことが判明した事件と比較しながら、「鹿児島の事件はえん罪と呼ぶべきではないとわたしは考えている。
しかし、あのようなことが起きたことはまことに残念で、二度とああいうことがないようにみんなで努力していきたい」と述べました。このあと、鳩山大臣は記者団に対し「鹿児島の事件は、社会通念的にはえん罪と言われてもしかたない。
しかし、裁判で無罪判決が出た事件を何でもえん罪と呼ぶと、範囲が広くなりすぎる。自分としては、検察の士気を上げるために、捜査の誤りなどは十分反省して、前向きに取り組めと言いたいがために、あえて自分の見解を申し上げた」と説明しました。
信じられない、『オイオイちょっと待てよ!』何の関係もない者同士が、赤提灯で酒を飲みながら話しているのではない。日本国の法務大臣が記者の前で話しているんだ。何を思ってそんなことを話すのだ。法務大臣の資質・品格が疑いたくなる。

東京新聞も同意見だ

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昨日ブログで、山口県岩国市の選挙結果と、沖縄の北谷町の女子中学生暴行事件を書いた。URLは、・・・・http://335059.at.webry.info/ 日本人の防衛政策・日米同盟・国際関係などの無関心と、愛国心などの欠如と、蔓延するミーイズムなどで、危機意識が薄れてしまっているとしか思えない。「防衛」の必要性も政府も自民党も説明不足としか言いようがない。

そこで、東京新聞の社説を記したが、日米同盟問題の沖縄県人と事なかれ主義の本土の人の認識と感覚では、同じ日本人とは思えない感覚があると言わざるを得ない状況だと思う。

沖縄少女暴行 繰り返した米兵の野卑

2008年2月13日(東京新聞社説より)

 事件が一日早かったら山口県岩国市長選もどうなっていたか分からない。住民に不安を増大させる米兵の少女暴行事件が沖縄でまた起きた。再発防止は何度も聞いた。政府は根絶へ本腰を入れよ。

 米空母艦載機の移転容認派が当選した岩国市長選投票日の十日夜、事件は起きた。米海兵隊キャンプ・コートニーの二等軍曹が沖縄市内で三人連れの少女に声を掛け、一人を自宅へ誘い込んだ。少女が泣きだすと車で連れ出し、車内で暴行したとして沖縄署が逮捕した。米兵は容疑を否認している。

 沖縄県の仲井真弘多知事は「女性の人権を蹂躙(じゅうりん)する重大な犯罪だ」と非難、怒りの渦が広がっている。国民の平和と安全を守るはずの日米同盟が、国民に恐怖感を与える事態を招くことなど、本来あってはならない。なのに、私たちは何度米兵の野卑の報に接してきたのか。

まあ・・・こういう事は、もうないだろうとの気の緩みもあったのも事実だが、何か事件があって大騒ぎをし、慌てて対応する政府関係者と警察なども問題がある。

兵隊という命がけの緊張が、解かれた人間とは理性を見失って動物本能が芽生えてしまって、抑えが効かなくなってしまったんだろう。だからと言って絶対に許せる行為ではない。

この問題は、根が深い教育や、規則で縛る事にも限界がある。どうしたらなくなるだろうと言えば、日米同盟を否定するしかないからである。

春雨や・・・

今日の名言

東海の景は富士によりて生き、富士は雪によりて生く。

徳冨蘆花『自然と人生』

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春雨や人の言葉に嘘多き 吉岡 実

吉岡実のよく知られた句である。人の言葉に嘘が多いということは、今さら改めて言うまでもなく、その通りでございます。

この句は「春雨」を配した、ただそれだけのことで一句がすっぱりと立ちあがった。「春雨」と「嘘多き」とが呼応して血がかよいはじめた。そこに短詩型ならではの不思議がある。

昨今は「偽」などという文字に象徴されるような安っぽい世相になってしまったけれど、さて、「偽」と「嘘」は微妙にちがう。「偽」は陰湿で悪質である。「嘘」にもピンからキリまでいろいろあるけれども、どこかしらカラリとしていて、それほど悪質とは感じられないのではないか。どこかしら許される余地がありそうだ。「偽」のほうは容赦しがたい。

世のなかも人も、嘘を完全に追放してしまったところで、さてキレイゴトで済む、というものではあるまい。そう言えば、世間には「嘘も方便」というしたたかで便利な言い方もある。

掲出句はやわらかさのある「春雨」をもってきたことで、全体にユーモラスなニュアンスさえ加わり、俳味も生まれている。どことなく気持ちがいい。ここは「春風」や「春光」では乾き過ぎてしまってふさわしくない。

人の言葉の嘘が、ソフトな春雨によってやんわりとつつまれた。文学も文芸も虚の世界であり、虚も嘘もない一見きれいな世界などむしろ気持ちが悪いし、味気ないということ。吉岡実が戦前に「奴草」として124句を収めた、その冒頭の句である。陽子夫人が「昭和13年から15年初めにかけて書かれたと思われる」と記している。『赤鴉』(2002)所収。(八木忠栄)

昨日は春雨が降った。我が家の庭先の梅ノ木も芽がふっくらとしてきて冷たい雨に濡れていた。

春雨に梅一輪に似合う  光夫

このところ、妻の体の調子が良かったり、悪かったりでちょっと心配である。それも、循環器(心筋)関係のようだ。寒暖に注意しないと、それと神経質からそうと決めつけているのかも、2回ばかり、専門医に見てもらっているからなあ・・・薬を飲んでいるし・・・

年を重ねると、あちこち痛んでくるのは仕方がない。自慢の歯も痛くなり歯医者に行って来た。暫く通うようだ。

春雨や寝ながら横に梅を見る  夏目漱石

2008年2月12日 (火)

キングペンギンが危ない

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キングペンギン絶滅の危機…温暖化で餌が減少

地球温暖化による絶滅の危険性が判明したキングペンギン(フランス国立科学研究センター提供、クリックで拡大)
地球温暖化による絶滅の危険性が判明したキングペンギン(フランス国立科学研究センター提供)
 地球温暖化が現在のペースで進むと、南極の近くにすむキングペンギンの餌が減り、絶滅する可能性もあるとの研究結果をフランスや南アフリカなどのチームがまとめ、12日付の米科学アカデミー紀要電子版に発表した。

 キングペンギンは、コウテイペンギンに次ぐ2番目に大きいペンギンで、旭山動物園(北海道旭川市)で冬に散歩する姿が人気。インド洋や大西洋南部で約200万つがいが生息しており、うち3分の2がインド洋南部のフランス領クロゼ諸島で繁殖しているとされる。

 チームはクロゼ諸島で9年間にわたり、約450羽のペンギンの皮下に小型のセンサーを埋め込み生態を調べた。その結果、冬に海面の温度が高くなり餌となる小魚やイカが減ると、成鳥の個体数も減ることが判明。これらを基に計算すると、海面温度が0.26度上がるごとに、ペンギンの数は9%ずつ減少する結果になった。

 気候変動に関する政府間パネル(IPCC)は、今後20年間は、最低でも10年当たり0.2度気温が上昇すると予測している。

 チームは「今回の結果は、温暖化によってキングペンギンが絶滅する危険性が非常に大きいことを示している」と警告している。 ZAKZAK 2008/02/12

地球の温暖化は、深刻なことになっている。ここまで文明が進んできた、付けが廻ってきたんだと思う。最近は、『ミーイズム』の強い人たちが増えて、行き着くところを知らない。

人間の叡智を発揮し温暖化を食い止めないと、将来はない。

どんなに科学が開発されたとて、自然の力には太刀打ちできない。ゴア アメリカ元副大統領の「不都合な真実」などで、地球危機を叫んでいるが、話しはまとまらない。

地球を愛し、自然を愛しする事が出来なければ、人間破滅、将来はない。人を愛し合い、平和を守ろう。戦争なんてやっている時ではない。

春は近くに

今日の名言

強い意志と弱い意志の主な相違は知的なものであって、それは、どれほど粘り強く十分に結果を考え抜くかという点にある。

デューイ『民主主義と教育』(上)

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早春や藁一本に水曲がり 田中純子

作者がのぞき込んだのは、小川とも言えない細い水の流れだろう。道路に沿った排水溝(側溝)のようなところか。そこに藁しべが一本引っかかっていて、よく見ると、流れてきた水がその藁に沿って曲がって流れていると言うのだ。

当たり前といえば、当たり前。まことにトリビアル※な観察句だけれど、作者をしてこの句を生ましめた背景には、まことに大きな自然との交流がある。私にも覚えがあって、気候が温暖になってくると、人の目は自然と水に向うようだ。※つまらないものにこだわるさま。trivial

べつに風流心があったわけではないけれど、田舎での少年時代には、学校帰りにしばしば立ち止まって小川をのぞき込み、小さな魚影や蟹たちなどの動きに見惚れたものだった。冬の流れなんぞは、暗くて冷たそうで見向きもしなかったのに、猫柳が少しずつ膨らんでくるころになると、水を見るのが楽しくなってくるのである。

これから日に日に暖かくなるぞという予感が、そうさせたのだと思う。揚句の作者もまた、春の足音に背中を押されるようにしてのぞき込んでいる。キラキラと光りながら流れている水が、ちっぽけな藁一本を迂回していく様子に、やがて訪れてくる陽春への期待感と喜びの気持ちを重ね合わせている。なんとはなしに、ほのぼのとしてくる一句だ。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)

春近し しょうびん狙う 川もかな  光夫

狙っているのは、何の魚かなハヤかな・・・それとも鯉の稚魚かな(鯉は沢山いるから)

昨日家の前の川にしょうびん(川せみ)が枯れ木に止まり、小魚を狙っている様子を見ていたら、突然威勢良く、川に飛び込んで、小魚がキラキラ光る口先にあった。まだ雪は、降ることもあるが、何となく春は近づいているなあ・・・と感じた昼下がりであった。

でも最近の川は汚れていて、魚の種類は減ってしまった。やつめうなぎ・ふな・どじょう・すなもぐり・おばば・こちぼそ・ぎばちは、勿論カエル・へびまで見る事が出来ない。僅か20年位の間だ。

2008年2月11日 (月)

賢い老いじたく

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人生70歳を過ぎて、人間の行く道を考えるのは、当然である。そこで、毎日新聞の特集を見つけたので、記して見た。誰もが、避けては通れない問題だ。

老いへの備えが不可欠な時代

認知症300万人時代

◇「自立力」を高める--後見人制度の活用

 私たち日本人は、死について語ることは縁起でもないと遠ざけ、老後について考えることを先送りしてきた。しかし、高齢者の生活環境が激変している。

現実には、高齢化、少子化、非婚化、親族関係の希薄化などが一気に進行、「老いじたく」さえ怠っていなければ避けることができたはずの悲劇がおこっている。老いへの備えが不可欠な時代となろうとしている。

「高齢の夫婦2人世帯は、非常時にもろい」と、社会福祉士の池田恵利子さんは述べる。認知症の80歳の夫を70歳の妻がみる老々介護世帯があった。

妻ががんで死亡、子供もなく残された夫は後見人も決まっていなかったため、医療・介護の利用などについての決定がだれもできず困った。このような例はいとまがないという。

「元気なうちに後見人を決めておく任意後見の契約をしていない一人暮らしの人が認知症にかかってしまうと、まず生活が困難になり、悪質な訪問販売などの消費者被害にあうことが本当に多い」と弁護士で、中間法人「市民のための成年後見センター」(銀のつえ)代表である中山二基子さんはいう。

それを防ぐための老いじたくとは

①「年をとって体が不自由になり、寝たきりになったらどうしようか」

②「認知症になったらどうしようか」

③「子供との関係をどうしようか」

に備えることだと語る。

親の財産をめぐり、子どもたちが争う例は少なくない。「老後は子どもに任せておけば安心」とは、必ずしもいえない時代だ。年をとったらどのように暮らすか。

財産の管理ができなくなったら誰に頼むか。しっかり準備をし、子どもにきちんと伝えておくことが重要だ。

NPO法人いきいきフォーラム2010(理事長=川橋幸子)が、昨年末にまとめた「老い支度システム研究会報告―自分の老後は自分で備える」では、自分を知る、地域を知る、制度を知ることからはじめ、公的支援制度として用意されている介護保険、成年後見制度、日常生活支援事業の3つを使いこなせれば、心配がない老後を迎えることができるとしている

オーストラリアでは、50歳を過ぎたら、①遺言、②代理人、③後見人、④アドバンス・ディレクティブ(事前指示書)を用意することが推奨されている。

年をとって心身の能力が低下しても、預金や年金は、自分のために使い、最後まで自分が望むような暮らしをしたい。

しかし年をとり自分で財産管理ができなくなったとき、支援してもらう後見人制度がなくては、自立した生活はおぼつかない。また自分の死後にまで思いをめぐらし、遺言を書くようになれば、老いの独立度はますます高いものになる。 

最近では、支援の継続性を高めるため、銀のつえのように弁護士と社会福祉士が集まった法人が後見人となることもある。同様に遺言の作成を銀行が支援し、確実に内容が実行されるよう遺言執行者に就任するなどさまざまな形での老いじたく支援策が用意されている。

建国記念日のこと

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2月11日建国記念の日(紀元節)

「今日2月11日が「国民の祝日」の一つとしての「建国記念の日」と定められたのは、昭和41年6月の祝日法改正に基づく政令によつてであつたから、本年で既に四十年を越える歴史を閲してきた祝日である。だからこの日を国民の祝日として祝ふ事の意味について、今さら改めて考へたり論じたりする材料は何もない、とも言えよう。

この日が明治6年から昭和22年までの75年間、「紀元節」の名の下に、日本国紀元の開始の日であり、我が国初代の神武天皇の御即位記念の日付であるとして祝はれてきた事や、それが大東亜戦争の敗北の結果、米軍による日本国占領政策の一環として廃止を強制された経緯は既によく知られている。又昭和23年から40年までの空白期間を置いての後、「紀元節」を要望する国民運動の成果として、名称は変更されたもののとにかくその目標を達成できた事の意義やその評価をめぐる附帯事情等については、復活以来40年の歳月の間に謂はば論じ尽されたという趣がある。

紀元節は、日本が生まれた日です。この日が巡ってくると、この国の来し方行く末を思い、暗澹たる気持ちになる。
今この国は様々な深刻な問題を抱えているが、中でも最も深刻なのは
教育の荒であろう。教育は国家百年の大計であり、国の行く末は子供たちの肩にかかっていると言っても過言ではない。国の未来を担う子供たち、そしてその子供たちを取り巻く環境は今荒れ放題になっている。

日本経済新聞(H8-02-02)社説
教育改革論議の仕切り直しを

 安倍晋三前首相の肝いりで発足した教育再生会議が幕を閉じた。議論は迷走を続け、目ぼしい収穫を得ることはできなかったが、教育の行方に対する国民の関心は極めて高い。その構造自体を変える道を、社会全体であらためて探る必要がある。

最終報告はこれまでの報告に盛った6・3・3・4制の弾力化などの提言を集約し、提言の実施状況を点検するための新機関を設けるよう求めた。首相官邸に新たな会議が置かれ、2月中に発足する運びだ。
 

しかし、そもそも再生会議の提言そのものに漠然とした指摘が多く、文部科学省などの施策との重複も目立つ。福田康夫首相も教育改革については明確なビジョンを示していないから、官邸の新会議が何をどう推進するものか心もとない。

そうした実情を踏まえれば、むしろ今後は再生会議の提言だけにとらわれず、いま一度、根本から教育改革論議を仕切り直すべきだろう。その際にまず欠かせないのは、教育の分権と多様化の視点である。教育制度や内容の大枠は国が定めるべきだとしても、なるべく規制を緩め、地方や学校現場がもっと創意工夫を凝らし様々な試みを打ち出せる仕組みに改めていく必要がある。文科省―教育委員会―学校の上意下達システムも見直す時期に来ている。
 

もうひとつ重要な点は、たんに知識だけでなく応用力や創造性を養う教育への転換をいかに進めるかを真剣に考えることである。おもに応用力を問う経済協力開発機構(OECD)による学力調査では、日本は回を追うごとに成績を落としている。このままでは国際的な人材育成競争から立ち遅れる懸念もある。
 

調査で好成績を上げている国のなかには官僚統制を緩め、地域や学校に大きな権限と責任を持たせているケースもある。それだけが学力向上の決め手ではないにせよ、硬直した教育制度が退屈な授業を生み、子どもたちから「考える習慣」を奪っている面があるのは否めない。
 

再生会議はこうした構造的な問題に切り込まず、むしろ中央集権的な施策も打ち出した。それでも提言のなかには現状打開への様々なヒントもあろう。その功罪を見極め、新たな教育改革を目指すべきである。

「教育再生会議」 (2007-1-24)第一次報告で、7つの提言と4つの緊急対応を挙げている。そのうち7つの提言を実現を強く望みたい。

  7つの提言
1.「ゆとり教育」を見直し、学力を向上する。
2.学校を再生し、安心して学べる規律ある教室にする。
3.全ての子供に規範を教え、社会人としての基本を徹底する。
4.あらゆる手立てを総動員し、魅力的で尊敬できる先生を育てる。
5.保護者や地域の信頼に真に応える学校にする。
6.教育委員会の在り方そのものを抜本的に問い直す。
7.「社会総がかり」で子供の教育に当たる。

卒業前の授業

今日の名言

噴火口を密閉したのみで安泰だと思ってるは馬鹿の骨頂だ。何時か一時に奮然として爆裂するは当然過ぎるほど当然である。(山崎今朝弥『地震・憲兵・火事・巡査』)

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春の雪ふるふる最終授業かな  

巻 良夫

高校三年の最後の「授業」だろう。三月のはじめには卒業式がある。で、最終授業は二月の中旬から下旬のはじめくらいか。

最終授業を受ける気持ちは、もとより生徒それぞれに違うのだが、ただ共通の感慨としては、やはり今後はもう二度とみんなでこんなふうにして一緒に勉強をすることはないという惜別のそれだろう。

この授業が好きか嫌いかなどは問題外であり、誰もがやがて否応なく訪れてくる別れの時を意識して、平素よりも神妙な顔つきになっている。折りから、外は春の雪だ。

「ふるふる」と言うくらいだから、かなり激しくぼたん雪が降っている。そしてこの激しい降りが、教室内のみんなの心情をいっそう高ぶらせる。みんながセンチメンタルな気分に沈んでゆく。それは一種心地よい哀感なのでもあり、また暗黙のうちに連帯感を高める効果も生むのである。

かくして後年には甘酸っぱい思い出となるのであろう最後の授業は、表面的には実に淡々と、いつもと同じように終わりに近づいていくのだった。

現代俳句協会編『現代俳句歳時記・春』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)

昨日の朝、遅いある会の新年会に出かけた。久しぶりにスーツを着て出かけのだが、泥んこ雪道で悩まされた。(ちょっとの間)

そういえば昔の道は砂利道で穴ぼこがあったり、水溜り、ぬかるんだり、で靴に泥がついて、履いている靴を見ればどこ辺りから来た人かわかったと、いうくらいだ。

雨の日に、最近ゴム長靴を履いて通勤・通学する人が殆どいない。それだけ、交通環境が良くなって来たのだろう。

5センチぐらい降った雪は暖かな日差しで道路は帰宅した3時ごろには、殆ど消えていた。

2008年2月10日 (日)

アダルトチルドレンとは

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今日niftyのHPで“舜ワード”でアダルトチルドレンが一番にあった。どういうこと?(良く分んない事が多くなった)

アダルトチルドレンとは・・・

アダルトチルドレンとは何でしょう。大人子供ではありません。 子供時代を子供として子供らしく過ごすことができず、そのまま大人になったひとのことです。

両親や家庭環境によって子供時代を歪められて成長した人々です。過剰な期待、過保護、過干渉、無視、精神的虐待、暴力(言葉による暴力)など。本来であれば、親と子の適度な境界線があって、子供は一人の人間として愛され尊重され成長するものですが、親に呑み込まれたり、または突き放されたり、子供を私有化したり存在を無視してみたりと、一人の人間として十分に尊重されずに子供時代を過ごして大人になった人達です。こういう家族を機能不全家族といいます。

子供時代の、のびのびとした自由で、楽しいひとときを体験することもなく、そこから獲得される大切な自己信頼感、心の豊かさ、情緒的安定などの能力を十分に得られずに大人になった人達のことをアダルトチルドレンと呼びます。

アダルトチルドレンは慢性的な見捨てられ不安を感じています。これは、親から安定をした愛情を得られなかった結果の産物でしょう。親の愛を失うことを恐れ、または親に見捨てられることを恐れ育ったからです、なぜなら彼らの親や家庭は、子供を自分の都合のいいように愛したからです。

親が過保護なら子供は自分の好きにする自由を放棄して親の過保護という支配に耐えます。また、親が虐待をするのであれば、虐待をそれが親の愛と勝手に思い込んでしまいます。

そうして子供達は親や家庭に過剰に自分を合わせ過ぎるのです。すべては見捨てられないためです。子供はどの親どんな家庭であろうとも、自分が生き延びるためにはその環境に合せるしかないのです。

これは、ある意味自己喪失にもつながります。自分の人生が自分の人生でないような感じ。
では、誰の人生? さて、私は人が生きるうえで大切なのことは、自分が自分のことを信頼することが出来る「自己信頼感」であると思っています。
自己信頼感があると自分は自分であることが出来、好きに行動することや感情表現を恐れず、他者の評価も過剰に気にせず、自分で人生を切り開く力を持っていると思います。

この自己信頼感は生まれてから幼少期の間に、親に一人の人として十分に愛され、尊重してもらい、成長するにつれて獲得していく力ですから、親や家庭に成長期を歪められたアダルトチルドレンの人々はこの自己信頼感を獲得しそこなっています。

自分に自信がない、人が信頼出来ない(自分を信頼出来ない人は他者を信頼することが出来ません)などの問題を呈するでしょう。

それでは、アダルトチルドレンの子供の時の家庭での役割を見ていきましょう。

    頑張りや

  1. 家の中の用事などを親に替わっていろいろとします。
    これ自体は別に問題がありませんが、自分の好きな遊びもせず、家の中の用事ばかりしているのは子供として楽しく過ごす時間を放棄しています。すべて親の為家庭の為です。自分の感情を抑圧して我慢しています。
  2. 助っ人
    家の中の問題を何とかしようと奔走します。波風立てず、争いを避けることを目的とします。頑張り屋同様これは子供の仕事ではありません。本来親が果たすべき役割を子供が果たすということそれ自体が異常です自分のことをしないで家族のために何かをしようと常に考えています。自分を失っており、自分の必要を自分で満たせません。
  3. ロンリ-
    親や家庭から理解されない悲しみを背負いひきこもります悲しみに満ち溢れています
  4. ヒ-ロ-
    エリ-トに多いです。親の虚栄心のために頑張り続けます。成績がいいのが価値ある人と思い込み暖かさを育めません。
  5. マスコット
    家中を陽気にします。本当は悲しくても明るく振舞ってしまいます。その場に合わした感情表現ばかりしているので、本当の自分の感情が分かりません。
  6. いけにえ
    機能不全家族を代表して暴れ周ります。体を張って家庭の問題を外に出します。
  7. プリンス
    ママの素敵な王子様。パパの素敵なお姫様。思いっきりかわいがられます。親は子供の意思を無視して人形のようにかわいがります。精神的虐待です 役割を背負った子供は、子供として楽しい子供時代を過ごすことは出来ません。

周囲に気を遣い過ぎ感情を抑えたり、大人を信頼出来ず結果他者を信頼出来なくなったり、甘えることが出来ず何でも一人でやってしまう過剰な責任感を負ったり、見捨てられ不安より得たいのしれない淋しさを感じたり、何でも自己関連づけて考えてみたりと様々です。共通して言えることは皆、自分の感情を抑え傷ついています。

雪は降れども春近し

今日の名言

恋人として男と女とがちがう点は、女は一日じゅう恋愛をしていられるが、男はときどきしかできないということである。

モーム『月と六ペンス』

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「泪耳にはいりてゐたる朝寝かな」 能村登四郎

季語は朝寝。しかしこの朝寝は、朝寝、朝酒、朝湯と歌われているものとはだいぶ様子が違います。

のんびりと朝寝をしていたのではなく、前の夜に眠れなかったことが、思いのほか目覚めを遅くしたものと思われます。眠れないほどの悩みとはいったい何だったのでしょうか。手がかりは泪しかありません。

なぜ視覚をつかさどる目という器官が、同時に悲しみを表現するためにもあるのだろうと、不思議に思ったことがあります。その悲しみが限界を越えた所で、人はここから水をこぼします。眠れずに心を痛めたあげくの泪が、幾すじも頬をつたい、耳にたまってゆくのです。

昼日中の泪なら、泣けば心が晴れるということもあるかもしれません。でも、この泪はそのまま翌日に持ち越しているようです。いつまでも寝ているわけにも行かず、起き上がり、身支度をした頃には、もちろん耳に入った泪はぬぐいさられています。

それにしてもわたしは、この人がその日を、どのように乗り越えたのかを、どうしても想像してしまいます。目と、耳と、悲しみを二箇所にもためた人が、どのように悲しみを乗り越えたのかを。『現代俳句の世界』(1998・集英社)所載。(松下育男)

昨日は、日本の太平洋岸の各地に雪が降った。大阪・京都・名古屋・東京などの降っている映像がテレビで映し出されていた。

昨日、午後3時ごろから降り始めた雪は、暗くなってだんだん強くなって来た。ふと、夜来の雪は、静まり不思議なほどに明るい寒い朝。慌ててカーテンを開けると外は一面の銀世界となっていた。

しかし、このように、こうやって降る雪が雨に変わって降り始めると、「「一雨ごとに暖かさ」と昔から人々に言われていて、春は確実に近づいている事が分る。川の淵にある、ねこやなぎは、に芽を膨らませていた。

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「雪は降れども春近し」

2008年2月 9日 (土)

「手紙の神様」に誰でもなれる

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これは面白い、そうだなあ・・・納得してしまった。この記事を書いている人は、一体どんな人なんだろう。編集手帳(読売新聞)はよく拝読させて頂いておりますが関心するばかりである。
2月9日付 編集手帳(読売新聞)
「小説の神様」と呼ばれた志賀直哉は、ちょっとした走り書きのメモも名文でつづったという。阿川弘之さんの「志賀直哉」(岩波書店)に、留守番の心得を孫娘に諭す一文が載っている。
「火の用心/戸締り/泥棒は物品と金は幾らでも与えよ」に始まり、「食ひ物少しでも古いと思つたら食ふな」と締め、追伸の「鉢に水/雀に飯」まで簡にして要を得た文章のお手本になっている。

徳川の功臣、本多作左衛門が陣中から妻女にあてた「一筆啓上 火の用心 お仙(子)泣かすな 馬肥やせ」を思い出される方もあろう。短い文章で愛する人に心を伝えるとき、言葉は光を放つものらしい。

日本語文章能力検定協会が募った「心に響く三行ラブレター」の今年の最優秀賞が発表された。作者は愛媛県の男性(55歳)である。「妻の足爪を切る小春日の病室/伸びた分だけ元気になっているんだよ/意識が正常にもどる日が近づいているんだよ」。

やはり短い手紙では、福井県丸岡町(現坂井市)の「一筆啓上賞」でかつて優秀作に選ばれた、55歳の男性が母にあてた手紙が忘れられない。「修学旅行を見送る私に『ごめんな』とうつむいた母さん、あの時、僕平気だったんだよ」。

人は誰もが「小説の神様」になれるわけではないが、「手紙の神様」にはなれる。そういうことだ。

三度目の雪?

今日の名言

ナショナリストは、味方の残虐行為となると非難しないだけではなく、耳にも入らないという、すばらしい才能を持っている。

『オーウェル評論集』

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黒といふ色の明るき雪間土 高嶋遊々子

東京に今週三度目の雪の予報が出ている。しかしまあ、降ったとしても一日限り、翌日は朝からよく晴れて、日蔭にうっすら青みを帯びた雪が所在なげに残っているものの、ほとんどがすぐ消えてゆくだろう。

雪間とは、長い冬を共に過ごした一面の雪が解けだして、ところどころにできる隙間のことをいい、雪の隙(ひま)ともいう。雪間土とは、そこに久しぶりに見られる黒々とした土である。

雪を掻いた時に現れる土は凍てており、まだ眠った色をしているのだろう。それが、早春の光を反射する雪の眩しさを割ってのぞく土の黒は、眠りから覚め、濡れて息づく大地の明るさを放っている。

よく見ると、そこには雪間草の緑もちらほらとあり、さらに春を実感するのだろう。残念ながら、私にはそれほどの雪の中で冬を過ごして春を迎えた経験はないが、黒といふ色、という、ややもってまわった表現が、明るき、から、土につながった瞬間に、まるで雪が解けるかのような実感を伴った風景を見せてくれるのだった。

「ホトトギス新歳時記」(1986・三省堂)所載。(今井肖子)

近くで、都市整備公団の最後の工事?で造成工事が始まっており、山を削り、黒土をダンプで運びだし、ブルトザー押し均し造成をしている工事現場の斜面は前回降った雪があり、遠くから見ると白い雪の部分と黒い土が帯状になってコントラストが面白い。

昨夜、防犯協会の新年懇親会いわゆる、新年会に出席してきて、普段はお酒はあまり飲んでいないので、いささか酔ってしまった。飲んでいるときは、知らない人、警察の幹部の方が多かったので緊張したのか、家に着いたらダウンしてしまった。

天気予報で、今日の午後ぐらいから、太平洋岸で積雪の恐れがあるとのこと、交通機関が影響がでるだろう。また、3連休で旅行を計画している人もいると思うが、大変である。

天気予報が外れる事を祈るばかりである。

2008年2月 8日 (金)

蔓延するミーイズム

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幅のある考え、我慢、柔軟性などが問われる時代、真面目だけでは通らない社会となった世の中で、教育の難しさはよく解かる。自己主張の通用しようとする人間が多くなって、改めて、感じる。悩んでうつになったり、精神疾患で、辞めてしまう新人先生は年々増えているという。以下2/8付けの産経新聞に載っていたものだが関係する記事で記して見た。

蔓延するミーイズム、すぐ辞める若者

思い描いていた「先生像」のようになれない。関西地方の公立小学校で高学年を受け持つ新人女性教師は、そんな現実を受け入れることができなかった。

 きまじめな性格もあって、あらかじめ自分が決めたところまで授業を進めないと気が済まない。そのため、児童たちの質問には取り合わず、教科書のページをめくり続けた。そのうち、誰も女性教師の言うことを聞かなくなった。

 授業中なのに立ち歩き、騒ぐ児童たち。「学級崩壊」の単語が浮かんだが、認めたくなかった。教師である自分が一喝すれば、すぐに静かになると思っていた。まさか無視されるとは考えもしなかった。

 周囲のベテラン教員たちの助言にも耳を傾けず、「私は悪くない」と言い張ったが、やがて「辞めたい」ともらすようになった。

 採用後、すぐに辞めてしまう教員が少なくない。大阪府の場合、1年以内に退職した教員(死亡、免職含む)は平成15年度が11人で採用者数の0・86%、16年度19人(1・38%)▽17年度21人(1・13%)▽18年度28人(1・56%)-と、少しずつだが増えている。

目立つのは、保護者対応などに悩んで鬱病(うつびょう)などの精神疾患にかかったケースを除くと、冒頭の女性のように現実と理想のギャップを克服できずに教壇を去るケースだという。

 あるベテラン教員はこう指摘する。「現実と理想が違ったとき、多くの人は現実を理想に近づける努力をします。ところが最近は、現実に目をつむって自分を正当化してしまう人がいる

雑木林に春を感じる

今日の名言

無知は富と結びついて初めて人間の品位をおとす。

ショウペンハウエル『読書について 他二篇』

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梅林やこの世にすこし声を出す あざ蓉子

不思議な後味を残す句だ。空気がひんやりしていて静かな「梅林」に、作者はひとり佇んでいる。一読、そんな光景が浮かんでくる。

さて、このときに「すこし声を出す」のは誰だろうか。作者その人だろうか。いや、人間ではなくて、梅林自体かもしれないし、「この世」のものではない何かかもしれない。いろいろと連想をたくましくさせるが、私はつまるところ、声を出す主体がどこにも存在しないところに、掲句の味が醸し出されるのだと考える。

思いつくかぎりの具体的な主体をいくら連ねてみても、どれにも句にぴったりと来るイメージは無いように感じられる。すなわち、この句はそうした連想を拒否しているのではあるまいか。何だってよいようだけれど、何だってよろしくない。そういうことだろう。

すなわち、無の主体が声を出しているのだ。これを強いて名づければ「虚無」ということにもなろうが、それもちょっと違う。俳句は読者に連想をうながし、解釈鑑賞をゆだねるところの大きい文芸だ。だからその文法に添って、私たちは掲句を読んでしまう。主体は何かと自然に考えさせられてしまう。そこが作者の作句上のねらい目で、はじめから主体無しとして発想し、読者を梅林の空間に迷わせようという寸法だ。

そして、その迷いそのものが、梅林の静寂な空間にフィットするであろうと企んでいる。むろん、その前に句の発想を得る段階で、まずは作者自身が迷ったわけであり、そのときにわいてきた不思議な世界をぽんと提示して、効果のほどを読者に問いかけてみたと言うべきか。作者はしばしば「取りあわせによって生じる未知のイメージ」に出会いたいと述べている。

句は具体的な梅林と無の主体の発する声を取りあわせることで、さらには俳句の読みの文法をずらすことで、たしかに未知のイメージを生みだしている。梅林に入れば、誰にもこの声が聞こえるだろう。『猿楽』(2000)所収。(清水哲男)

昨日、誰もいない静かな、雑木林を一人で散歩した。ほうの木の筆のような先は風にゆれ、外気の様子を確かめるような感じであった。ホオジロが、「てっぺんいしろくにしまけた」(これは親父に教わった)とさえずる声の先を探したが姿を見る事ができなかった。

このところ寒さが、厳しい日が続くが日伸びは確実に感じられ、春の訪れは間違いない、我が家の鉢植えの梅は、日当たりのいい場所で、ふっくらと花目が膨らんできた。

入院していた、兄が明日退院すると電話あり、ホットする。「まだまだ寒いので大事にして」と伝えておいた。よかった。

2008年2月 7日 (木)

「倖田來未」言葉の過ち

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倖田來未(歌手・アーチスト)が「羊水が腐る」発言で日本放送の収録し放送されて大きな反響をもたらした問題で、テレビでの謝罪を見た。

この発言は、収録であったので、放送する前にチエックしないで放送してしまった関係者の責任が問われないのは、不自然だ。

それにしても、「羊水が腐る」何んて言葉を使うには、それなりの知識がないと言葉に出てこないのだが、日常会話でそんな話しをしていたんだろう。どうもノーマルでない。

世間を騒がせたことは、本人だけでない、日本放送の関係する人に謝罪会見して欲しい。何故なら、常識を逸脱していると、思うからだ。そうしないと世間は許さない人もいる。

以下産経新聞の記事から、

本当にごめんなさい」…。ラジオで「35歳になるとお母さんの羊水が腐ってくる」と発言した人気歌手、倖田來未(25)が、7日夕放送のフジテレビ系「スーパーニュース」に緊急出演し、涙を流しながら謝罪をした。

Q率直な胸のうちを

軽はずみなことを言ってしまった。どれだけ普段、自分が電波に乗せて軽はずみに話していたのかと改めて感じた。とにかく自分の言葉で傷ついた人たちに謝りたい。しっかり反省しなければならない。

インターネットを使って「羊水」を調べたら、まったくもってそういう事実はのってなくて、間違いを自分の口から伝えたことを反省しています。

Q発言の真意

高齢になってくると出産が大変とか、子供に自分なりに興味があったので、少しでも早くマネジャーに子供を産んでほしいという気持ちを伝えたかった。全く医学の知識とかない中で、軽はずみな発言をしてしまって…。

Q辛かった反響は

不妊治療で悩んでいる方とか、高齢出産で一生懸命頑張っている方からのお言葉です。

Q具体的には

「欲しくても授からない人もいる」「35歳を超えて、37歳で妊娠しました」「私の母は35で私のことを産んでくれました。自分ことを侮辱されているようだ」という言葉に申し訳ないと感じました。

Q自分の周囲では

あまりそこまで話していないけど、実際、一生懸命、不妊治療を頑張っている友達から連絡をもらって「頑張ってね」と声をかけられた。その言葉に大きな意味があると思った。

Q街の声を聞いて

言い訳がましく聞こえて嫌なんですけど、普段から自分の言葉の使い方とかがよくなかったと思えてきて、本当に心からそういう風に…一番、女性の愛だったり、子供だったりを(自分の歌で)伝えてきたことだったので…すみません(涙を流し白いハンカチで拭う)。

Qママにもなりたい、という思いについて

やっぱり女性に生まれたので、自分にそういう資格が、環境を与えていただけるのなら、授かりたいと思いますし、今の質問で、欲しくてもできない方がいるっていうことがあるんだな、と改めて感じました。

Q今後について

自分は冗談とか大きく表現するくせがあるので、言動というのを1つ1つ見返していかないといけない。反省してまたみなさんの前に立てる日を目指して1日1日を送っていきたい。

はっきり言って、この人は言っている事がよく解からない、日本放送の関係する人の考えを聞くまで納得できない。

春の淡雪

今日の名言

あすもまた、同じ日が来るのだろう。
幸福は一生、来ないのだ。
それは、わかっている。
けれども、きっと来る、あすは来る、と信じて寝るのがいいのでしょう。

太宰治『富嶽百景・走れメロス 他八篇』

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昨日午後から雪が降った。関東地方に春に降る雪で、牡丹雪である。過去のデーターで、この辺では2月は平均7日位雪は降るそうで一年で一番多い。(天気予報士の話し)

積もりはしなかったが、水をたぷっり含んだ雪で、路面をま白になり直ぐ溶けた。こうして、この雪が雨となり、一雨ごとに梅の花が咲き出し、春がやって来るんだ。

今日2月7日は『春節』で、中国などの東南アジアの仏教国では、大きなイベントがあり、大変な盛り上がりだそうだ。

話は違うが、今年は寒い日が多いと感じるが、地球環境は異状と思われるほど変わっていることを実感しているのだが、中国では50年に一度ぐらいの大寒波だそうだ。相当パニックを起こしているのではないだろうか。上海では降雪がここ5日間にも及び積雪は16cmにもなり、大量の積雪があった。こんな事は珍しいことだそうだ。

春節の時期の積雪は中国にも大きな影響があると思われる。広東省の深セン市においても、政府が市民に対して今年の春節は帰省を自粛するよう異例の呼びかけを行っているとか。
メディアは、約1700万人以上が被災にあい、死者24人、緊急避難82万7000人、倒壊家屋10万棟以上、損壊家屋は40万棟、経済損失は220億元(約3300億円)以上に上ると伝えていた。日本政府も毛布・テント700万円分を援助で送ったというニュースがあった。

玻璃窓に来て大きさや春の雪 高浜虚子

季語は「春(の)雪」。北国の雪ではなく、この季節に関東以西に降る雪のこと。春雨になるはずの水滴が、気温が少し低いために雪になるのだ。淡く、溶けやすい。また湿り気があるので結晶がくっつきやすく、いわゆる「牡丹雪(ぼたんゆき)」になることもある。

掲句の読みどころは、何と言っても「大きさや」の言い止め方にある。作者は室内から「玻璃(はり)窓」を通して降る雪を見ているわけだが、雪片がガラス窓に近づいてくると、その「大きさ」がよくわかると言うのだ。

それこそ牡丹雪だろうか。窓から離れて降っていても、普通の雪とは違う大きさには見えているが、こうして窓に「来て」みれば、ちょっと想像を越えた大きさだった。が、この「大きさ」がどれほどのものかは書いてない。それどころか、厳密に読むと、雪片が「大きい」とも書いてない。あくまでも「大きさや」なのであり、つまり「表面積や」と書くのと同じことなのであって、その後のことは読者の想像にゆだねてしまっている。

読者の側にしてみれば、「大きさ」をなんとなく「大きい」と読んでしまいがちだけれど、作者はおそらくそのことも計算に入れて、あえて「大きさ」と詠んだのだろう。つまり窓に来る雪片の大きさには、大きいことは大きくても、それなりに大小いろいろあって、そのいろいろを全てひっくるめての「大きさや」という感慨なのだ。

単に春の雪片は「大きいなあ」と表現するよりも、いろいろあって見飽きないという気分がよく伝わってくる。『新歳時記・春』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)

昨日の雪は春の淡雪であった。

2008年2月 6日 (水)

へっついと水がめ

Hettui1_2 『馬鹿の三寸鈍間(のろま)の明けぱなし、』これは親父に教えてもらった?小言である。昔の農家の土間に囲炉裏(火じろ)があって地下足袋を履いたまま囲炉裏に足を入れて暖が取れた。

竃(へっつい)があって、ご飯を釜で炊くのである。こんな実生活をして来た人は少なくなったろうが昭和23頃まで記憶がある。土間のくぐり戸の障子を開け閉めないと外の外気が入り寒い、よく明けはなしで怒られた時の怒鳴って、馬鹿野郎!「のろま」と言われたのだ。

ついでに、(へっついと、吹き竹について)

へっつい、落語の中によく出てくる言葉です。そのまま演題になっている「へっつい幽霊」「へっつい盗人(上方落語)」などもあります。
 噺のながれで「かまど」であることはだいたいお分かりかと思いますがさて形はというと???だと思います。よくご覧ください、写真のような形だったんですねぇ。へっつい幽霊ではこの中に三百両を埋め込み、品川心中ではこの中に頭を突っ込んで抜けなくなり、不動坊火焔の幽霊はこの上にぶら下がっていたわけです。
 さて長屋の狭い台所を見渡すと、土間には「へっつい」。煮炊きは薪を使っていました。鍋や釜があり、そばには渋団扇に火吹竹もあります。魚を焼く時は「七輪」を表に出して焼いたようです。
 へっついのほかには、流しがあり、そこには包丁、まな板、桶などがあり、その横には水瓶が置いてあります。この写真には写っていませんが、横の棚にはざるが数種類そしてすり鉢、すりこ木、味噌こし、味噌、醤油、塩などを入れておく壷や鉢が乗っています。また、紺木綿をわらにまぜて編んだ鍋つかみは常時へっつい側に掛けてあったそうです。
 写真上が長屋で使われたへっつい、下は資料館の設定としては船宿などで使われいた銅壷付へっついだそうです。

(資料:深川江戸資料館解説書より)

水瓶・共同井戸について

長屋の井戸は共同ですので、飲料水は各家の水瓶に汲み置きしておきました。場所によっては水質が悪く、飲料水として井戸の水が使えない場合もあり、そういう所では水売りが、天秤棒に玉川上水あたりの水を入れた桶をかついで町々を売りに歩きました。落語でも「水屋の富」という噺の中でその様子が描かれています。
 飲料水や煮炊きの水は水瓶から使いましたが、台所が狭いので魚や野菜の下ごしらえ、また洗い物等は井戸端で行いました。ここは女房達の社交場、井戸端会議は毎日開催されました。
 また、七月七日の七夕の日は年に一度の井戸浚い(いどさらい)、長屋の連中総出で井戸の底に溜まった土砂などをきれいにしました。

(資料:深川江戸資料館解説書より)

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夕方には、お袋に水がめに水を汲んで置くんだぞ!言われて、井戸からバケツに汲んで運んだ。6歳の時だったと記憶している。

神様を敬い、井戸には水神様・へっついには荒神様のお札があった。

寒波がくる

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硝子負ひ寒波の天を映しゆく    田川飛旅子

大陸から、次々押し寄せる寒波は、日本海の湿気を一杯含んで、新潟をはじめ、日本の山に大雪を降らせ、関東や東海地方は寒風が吹き抜ける。農家のお母さんのしもやけはは、なかなか治らない。元気の良い、お年よりは格好に日向ぼこで話に花を咲かしている。

この句を読んですぐに思い出したのは、田中冬二の「青い夜道」という初期の詩だ。少年が町で修繕した大きな時計を風呂敷包みにして背負い、田舎の青い星空の夜道を帰ってくる。

ここからすぐに冬二の幻想となり、その時計が「ぼむ ぼむ ぼうむ ぼむ……」と、少年の背中で鳴るのである。「少年は生きものを 背負つてゐるやうにさびしい」と、詩人はつづけている。

一方で掲句は幻想を書いているのではなくて、見たままをスケッチしているのだが、双方には共通したポエジーの根があると感じられる。つまり、人間が背中に大きくて重いものを背負うということ。前かがみとなって、一心に道を歩くということ。

その姿を「さびしい」と共感する感性が、日常的に存在したということ。車社会ではなかった時代の人間の当たり前の物の運び方には、つらかろうとか、可哀相だとか、そういう次元を越えた「忍耐の美」としか形容できない感じがあった。

その忍耐のなかにあるからこそ、時計が鳴りだすのであり、硝子(ガラス)が寒波の天を映して壮麗な寒さを告げているのだ。背負うというと、簡単なザックだけという現代では、なかなか理解されにくくなってきた感覚だろう。大きな荷物のほとんどは、みな人が背負うものであった。ついこの間までの「現実」である。(清水哲男)】

しかし、今日は朝から、どんより曇ってしまい、天気予報では、午後から、雨か、雪が降るとのことだ。寒い一日になりそうだ。

冬山登山

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今日の名言

蛇のように賢く、鳩のように純真であれ。

新約聖書 福音書』

『アッ遭難』2/5の朝NHKのテレビニュースで広島の恐羅漢山で、7人が遭難したもようで地元の山岳関係の方をはじめ自衛隊500人が捜索に出かけたといいう。NHK焦点のニュースのwebの記事は以下の通りである。

広島県と島根県の境にある恐羅漢山に、3日、スノーボードをしに入って行方がわからなくなっていた7人は、5日、無事救助されました。

行方がわからなくなっていたのは、広島市や山口県から来た30代から40代の男性客とスキー場の臨時職員のあわせて7人で、3日、広島県側のスキー場から、標高1346メートルの恐羅漢山にスノーボードをしに入ったあと、行方がわからなくなっていました。
しかし、5日午前9時半ごろ、スキー場とは反対の島根県側の山道で、捜索隊が7人を相次いで見つけ無事救助しました。
7人は広島市内の3つの病院に運ばれ、5人は軽い脱水症状を起こしていて点滴を受けましたが、全員、凍傷やけがはなく、入院の必要はないということです。

救助された人たちの話によりますと、7人は3日の昼に恐羅漢山の山頂から雪のあるほうへ滑り降りていったところ、迷ってしまったということです。
その後、廃屋を見つけ、交代でまきをくべて、たき火の番をしながら、誰かに連絡を取る手段を考えたり、「頑張ろう」と励まし合ったりして、雪が降りしきる中、2晩過ごしたということです。
この間、あめや1箱の栄養食品をみんなで分け合い、持っていた携帯コンロや鍋を使って雪を解かして水を飲んだということです。

救助された7人は、それぞれ運ばれた広島県内の病院で記者会見し、スキー場の臨時職員の男性は「雪深いところを滑りたいという単純な考えで、山を甘く見ていた」と話しました。

いつも思うのが、山を甘く見ていて、多くの人に心配や迷惑を掛けている事に、憤りを感じるのである。特に冬山は、天候が変わりやすい、何回も登山の経験はあっても条件は毎回違う、朝は出かけるときは、晴れていても、雨になったり、雪になったり、暴風雪になったりするのである、装備は勿論、食料などは充分持っていく事は当たり前である。どんな落とし穴があるか解からない。特に冬山は慎重の上に慎重にしてもらいたいものだ。過信は絶対禁物だ。

2008年2月 5日 (火)

雪と氷の思い出

今日の名言

心は正しい目標を欠くと、偽りの目標にはけ口を向ける。

モンテーニュ『エセー』(一)

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いちまいの水となりたる薄氷  日下野由季

冬季に水の上にうっすらと張った氷を透明な蝉の羽に似ているということで「蝉氷(せみごおり)」と呼ぶが、立春を迎えた後では薄氷となる。

うすごおり、うすらい、はくひょう、どんな読み方をしても、はかなさとあやうさの固まりのような言葉だ。日にかざし形状の美しさを見届けられる硬質感を持つ蝉氷と、そっと持ち上げれば指と指の間でまたたくまに水になってしまうような薄氷、そのわずかな差に春という季節が敏感に反応しているように思う。

自然界のみならず、生活のなかで氷はきわめて身近な存在だが、個体になった方が軽くなるという液体はおおよそ水だけだという科学的不思議がつい頭をもたげる。その理屈は普段は深く考えないことにする扉に押し込んでいるのだが、それはこんな時ふいに開いてしまい、その先は理解不能の暗部へとつながっている。

そのせいか「氷が解ける」とは、どこか「魔法が解ける」に通い合い、掲句の「いちまいの水」になるという単純で美しい事実が、早春の光によって氷が元の身体に戻ることができた、という児童文学作品のような物語となってあらためて立ち現れてくるのだった。

はくれんの祈りの天にとどきけり

ふゆあをぞらまだあたたかき羽根拾ふ〉      『祈りの天』(2007)所収。(土肥あき子)

昨日の朝、前の日の雪が屋根に積もり溶け出して珍しく、ツララが出来た。最近、ツララというものを見た事がない。子供のころは、よく見た光景だった。

子供のころは、よく大雪が降った40センチも一晩で降った。翌朝の登校は大変で長靴より深いので長靴のなかに入って、びしょびしょに濡れた靴下で、学校にたどり着いた時に素足になって足が冷たかった思い出がある。

むかし、近くのボート場に氷が張った。朝早く水をまき、氷を厚くしスケートをする。というより氷の上で遊ぶのだ。日中になると溶け出し薄くなり、氷が割れて落ちてしまい全身ずぶぬれになり、母親に怒られた、懐かしいなあ・・・。

2008年2月 4日 (月)

情報は的確に

282_field111 世の中、情報は勝手に入ってくる。アメリカの大統領予備選挙で、民主党ヒラリー・クリントンさん対バラク・オバマさんだ。日本のメデアノの取り上げ方で否応なしに覚えてしまう。世界の話題の人となった。何故か共和党のマケインさんやジュリアーノさんなどの情報が少ないと感じるが・・・

余計なことでブルトリー・スピリアーズさんが、精神鑑定で入院なんて児島義男ではないが、「そんなの関係ねえ」だが、気になる「倖田來未さんの羊水が腐っている」発言は、許されない事で問題は残る。

マスメデアの怖いところで、場合によっては命に関係することだ。「ラジオの日本放送」も問題である。大いに反省してもらいたい。

一方、プライバシーの尊守の法律ができ、防災などで大きな障壁が出来たと、地域の防災隊の組織に入っている者として、あそこの家の家族は?普段から知っておかないといけないと指導されているが詳しく分らないので、リストも出来ず、公表もできないで、戸惑いを感じているところである。

1923年(大正12年)9月1日関東大震災の時に横浜で朝鮮人の暴動があって大変との「デマ」が流れて大きな混乱があったと親父に聞かされたことがある。防災時などの非常時には正しい情報が必要である。

今回の中国産冷凍餃子の農薬「メタミドホス」被害の問題でも、日本のメデアは一斉に取り上げているが、それに対し中国は、日本の捏造であると政府系新聞を始め殆どの新聞が報道しているという。この問題は調査中で結論は出ていないが、行き過ぎはただ国民を混乱するばかりである。厳正に受け止め冷静な判断で対処してもらいたい。

インターネットの時代で情報は「アット」いう間に広がってしまう、インターネット・携帯電話は功罪ある。慎重にユーザーも心して使うようにしなければいけない。子供の使用は保護者の注意が大事である。低学年の携帯を持たすには、居場所が分るAUジュニア携帯・ドコモのキッズケータイなどがある、いずれも1500円程度だそうだ。

私の小学3年生の孫も、持たせているが、限られたところしか掛けられないようにしたり、モニタリングしていることが大事である。

立春に思う

今日の名言

どんな美人でも、鏡に向っては口を曲げて見たりしない女なんてありませんぜ。

シェイクスピア『リア王』

05detohama11 立春 (りっしゅん) 

正月節 八節 太陽視黄経 315 度

春の気たつを以て也 この日から立夏の前日までが春。まだ寒さの厳しい時期ではあるが日脚は徐々に伸び、九州や太平洋側の暖かい地方では梅が咲き始める頃である。

書を校す朱筆春立つ思あり   柴田宵曲

立春。と言っても、まだ寒い日がつづく。東京は、昨日の雪でまだ真っ白。立春の本意は「春の『気』が立つ」ということだから、気候的に春が訪れるというのではなく、とくに現代ではむしろ心理的な要因としての意味合いが濃い。

活版時代の編集者の句だ。立春の句は自然や外界に目を向けた句が多いなかで、室内での仕事の「気」を詠んでいて、それだけでも珍しいと言えるだろう。実際、校正は砂を噛むような地道な仕事だ。私が編集者になりたてのころに、ベテランの校正マンから教わったのは「校正の時に原稿を読んではいけない。その原稿に何が書いてあるのかわからないところまで文字をたどることに徹しないと、校正は完璧にはできない」ということだった。

作者もまたそのように文字を追っているのだろうが、今日から暦の上では春だと思うと、同じ朱筆を入れるのにもどこかこれまでとは違った「気」が乗ってくると言うのである。

折しも今週からは「俳句界」の校正が忙しくなってくる。赤ペンを握りながら、たぶんこの句を思い出すのだろう。原稿を読んでは駄目だ。その言葉といっしょに。『合本俳句歳時記・第三版』(1997・角川書店)所載。(清水哲男)

私の三番目の孫の男の子が、この春小学校入学である。そんな思いは60何年前の自分の小学校入学は、お袋の手に引かれ、校庭に、桜が満開の4月8日であった。初めての事が多くて、随分緊張したことを鮮明に覚えている。終戦直後のこと物不足であって、着る物・かばんをはじめ、全てが兄のお古だった。しかし、それでもいいほうで、それすらない友達もいた。とても今では考えられない入学風景だ。

お袋は、小学3年生の時、今では考えられない、胃潰瘍で亡くなった。食糧不足で大変な時代を子供のことで夢中で生きて自分の病気の事は構わなかった結果と、後で分った。

今教育の問題、徳育問題・ゆとり教育など、日本の教育が見直しされ様としているが、国会で問題となっている緊急課題の陰に隠れて、浮き上がってこない。

国家100年の計と叫ばなければならないと思う。戦後60年以上、教育に対する考え方は、大きく変わって、ゆとり教育など学校教育になり、熟が普通、最近は「夜すぺ」などが話題になている。緊急課題に頭を使い、こちらに廻らないでは、済まされない。日本の将来の基本となる「教育」を真剣に考えることを、声を大にして叫びたい。立春の朝だ。

2008年2月 3日 (日)

道路特定財源のこと

035571 ガソリン税が道路予算に使われる現在の仕組みは、まだ必要だ27㌫・時代遅れ72㌫というアンケート調査結果だ。何だかこの問題は自民党の国民に、説明不足なのか、指示されていないのは、ハッキリしている。そして、国民に支持されない法案なんて悪法と言わざるを得ない。

今朝のTVで、元鳥取県知事の片山慶応大学教授は、全国知事会で今のまま継続という要望が決まった事に対し、頭を傾げる。一般財源化して、都道府県に配賦してもらい、その県で何を優先して使うかを任せればいいのであって、道路を作りたければ作ればいいし、福祉に回したければまわせばいいと言う。これは分りやすい、理論だと思った。

そして、民主党の菅さんが言っているように「人民党の権利顔」なんて言われる所以も分るような気がする。ごり押しは、駄目だ、国民を説得して欲しい。

そこで今日の毎日新聞の「余禄」に関連が載っていたので興味があったので記してみた。

暫定」を広辞苑で引くと「本式に決定せず、しばらくそれと定めること。臨時の措置」とある。ガソリン税の暫定税率は35年も続いている。どこが「しばらく」だろうか。

長い間辛抱することを「石の上にも三年」という。「面壁(めんぺき)九年」という表現もある。だが、「暫定税率35年」までは古人も想像しなかったろう。与党はさらに10年延ばそうというのだから、ほぼ半世紀である。「しばらく」ということばの意味が変わってしまう。

税率を下げるか、据え置くかの政策判断はさておき、「暫定」という言い方がいささか腑(ふ)に落ちない。35年も臨時雇いで働かされた人が定年間近になったとする。「あと10年臨時で働け。5月末まで“つなぎ”だ」と言われたら、きっと気分を害するだろう。さすがに「つなぎ」案は消えたが。

暫定税率で集めた税金は、道路特定財源という金庫に入れてもっぱら道路を造ってきた。まだまだ道路を造れという国会議員は与党にも野党にもいる。小泉純一郎氏が首相で、道路公団の改革を叫んでいたころ、こういう議員は「抵抗勢力」と呼ばれ、声をひそめていたものだ。

このごろ「抵抗勢力」という言葉をあまり聞かなくなった。かわりに「道路建設に熱心な議員」と言うらしい。かつて小泉首相は、暫定税率は維持するが、道路特定財源ではなく一般財源に回すと言っていた。

あのころ、改革の掛け声に国民は酔った。「古い自民党をぶっつぶす」と断行した解散で、いまの巨大な自民党ができた。なのに、道路は延びるよ、どこまでも、の「古い自民党」に先祖返りしているようだ。小泉改革はどこにいってしまったのか。これも腑に落ちない。毎日新聞 2008年2月3日 0時10分

節分と豆まき

今日の名言

年老いた者が賢いとは限らず、
年長者が正しいことを悟るとは限らない。

『旧約聖書 ヨブ記』

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節分と豆まき

「鬼は外、福は内!」
 もうすぐそんな声があちこちの家から・・・

節分とは
元来、節分とは「季節を分ける」ことから「節分」です。現在では節分といえば立春の前日だけを指すようになりましたが、季節の始まりを示す立春、立夏、立秋、立冬の前日はいずれも節分である。
現在のように立春の前の節分が特にありがたがられる理由だが、旧暦の時代では「立春正月」などといい、一年の始まりを立春付近に求めたことから、その前日は年の最後の日という意味合いを持ったと考えらている。このように年を分ける「節分」ということで他の3つの節分より重要な位置を占めたのではないだろうか。

節分の日には、炒った豆を年神に供えたあと、その豆を年男(その年の干支の生まれ)が「鬼は外、鬼は外、福は内」呼ばわりながら蒔き。このとき蒔かれた豆を自分の年の数だけあるいは、年の数+1だけ拾って食べ、一年の無病息災を願う風習がある。

この「鬼は外」については、中国から渡来し宮中で行われていた「追儺(ついな)」の行事と節分に行われた方違え行事の中の「豆打ち」の儀式が融合したものだといわれている。追儺は「弓矢などで悪鬼、厄神などを追い払う行事」で、年の暮れに行われていた。豆打ちは豆まきともいわれ、その言葉通り豆やカチグリを蒔いた。

なぜ豆を蒔く?
穀物や、果実には「邪気を払う霊力」があると考えられており、豆を蒔くことで豆の霊力により邪気を払い、福を呼び込むと考えたようだ。
豆とは違いますが、イザナギが黄泉の国の亡者を追い払うのに桃を投げつけるなどの神話も、穀物や果実の霊力によって邪気を払うという点で同根の話であるようだ。
イワシの頭
「鰯(いわし)の頭も信心」などといわれる鰯の頭を焼いて、ヒイラギの枝に刺し、家の入り口に差す風習があります。これも節分の日。これは鰯の頭の悪臭で、邪気が家に入るのを防ぐという意味がある。「邪気」も悪臭は苦手と見えるようだ。

2008年2月 2日 (土)

立春(2日前)

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今日の名言

人生最上の幸福は、愛せられているという確信にある。   ユーゴー『レ・ミゼラブル』(一)

立春の卵立ちたる夫婦かな     小宮山政子

まだ寒い日がつづくが、季節は少しずつ春に向かって動きはじめる。実際、このところ表を歩いていると、大気が春の気配を告げてくる。寒くても、真冬とは違った、かすかにあまやかな湿気が瀰漫(びーまん=はびこること)している感じを受ける。

さて、立春といえば卵だ。この日にかぎり生卵が立つ、すなわち奇蹟が起きる。中国の言い伝えだが、作者はそれを思い出して、実際に立つかどうかを夫といっしょに試してみた。

二人してああでもないこうでもない、ちょっと貸してご覧などと、だんだんに熱中していく姿が目に見えるようだ。そしてついに、卵は見事に立った。成功した。やったと思わずも顔を見合わせたときに、作者は「ああ、これが夫婦なんだ」と感じたのである。

稚気に遊べる間柄。考えてみれば、大の大人にあっては、夫婦以外ではなかなか成立しにくい関係だろう。庶民のささやかな幸福感が、唐突に出された感じがする下五の「夫婦かな」に、しっとりと滲んでいる。

ところで、雪と氷の研究で知られる中谷宇吉郎博士に、「立春の卵」という随筆がある。ひところの国語の教科書にも載ったそうなので、お読みになった方も多いだろう。戦後間もなくの新聞に、東京やニューヨークで立春に卵が立ったという記事が載り話題になったことがある。

これを受けての実験のことを書いた文章だが、それによると卵は必ず立つし、しかも立春以外の日にも立つのだという。つまり奇蹟でもなんでもないことを、博士は証明してみせたわけだ。

コロンブスは卵の尻を少し欠いて立てたのだけれど、そんな必要はない。卵の尻には三脚や五徳(ごとく)のような部分があり、その中心を慎重に探していけば必ず立つ……。

人間の長年にわたる常識がくつがえされたわけで、この程度の誤った常識なら人の歩みに大過はないにしても、最近の政治的な動きにおける非常識の無理矢理な常識化などは、早めに引っ繰り返しておかないと、とんでもないことになってしまいかねない。(清水哲夫)

東風吹くや山一ぱいの雲の影 夏目漱石 

春も本物になってくると生暖かい東風が吹いてくる。春の蠢動の東風に雲も早足にあつまり流れていく。山はそんな雲に被われてしまった。

日本では 春は東北風、夏は東南風、秋は西南風、冬は西北風が吹くといわれます。風は、それが吹く季節によって、様々な吹き方があり、それぞれに名前がついています。やさしく、まろやかに包み込むように吹く風のイメージは、「春風」ですね。

むかし、夜、ラジオで、放送していた番組の主題歌です。Djが荒木一郎の「空に星があるように」です。受験時代に、よく聞いたものでした。その番組の始まりに流れる曲の歌詞は、受験生の心に響いたものでした。

「空に星があるように 浜辺に砂があるように 僕の心に たった一つの 小さな夢がありました。風が東に吹くように 川が流れて行くように 時の流れに たった一つの 小さな夢は消えました。淋しく淋しく星を見つめ 一人で一人で涙にぬれる。

何もかも すべては 終わってしまったけれど 何もかも まわりは 消えてしまったけれど 春に小雨が降るように 秋に枯れ葉が散るように それはだれにもあるような ただの季節の 変わり目の頃」この歌詞の中の「風が東に吹くように」というフレーズです。

でも、それは、ただ、誰にもあるような、季節の変わり目であるということです。また、日本放送などで、有名タレントのDJで番組が始まるとの事だ。『ながら族』などで受験生の勉強が行われるだろう。

今日の強い風も、次に来る暖かいやさしい春への季節の変わり目なのです。そう思うと、風あたりが強い風でも、励まされている感じがする。

2008年2月 1日 (金)

山きりと春隣

今日の名言

ただ一つの思想を知るということは、思想というものを知らないというに同じい。

西田幾多郎『続思索と体験・『続思索と体験』以後』

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切り株はまだ新しく春隣   加藤あけみ

日本列島概ね暖冬という今年である。寒いのは嫌いだがそうなると勝手なもので、大寒の日、木枯に背中を丸めて、こうでなくちゃとつぶやく。十数センチの積雪で電車は遅れ、慣れない雪掻きで筋肉痛になるとわかっていても、一度くらいは積もってほしいと、これまた勝手なことを思ううち、一月も終わろうとしている。春隣、春待つ(待春)、ともに冬の終わりの季題だが、心情が色濃い後者に比べ、春隣には、まだまだ寒い中に思いがけなく春が近いと感じる時の小さい感動がある。冬晴れの日、木立に吹く風はまだ冷たい。一面の落ち葉、その枯れ色の風景の中、白く光るものが目にとまる。近づくとそれは切り株で、ふれると、まだ乾ききっていない断面には、生きている木の感触が残っている。切り株の、とすれば、その断面がはね返している日差が春を感じさせる。しかし、切り株は、と詠むことで、今は枯れ色のその森の木々すべてに漲っている生命力を感じさせるとともに、切られてしまった一本の木に対する作者の眼差しも見えるようだ。ほかに〈中庭は立方体や秋日濃し〉〈クレッシェンドデクレッシェンド若葉風〉〈石投げてみたくなるほど水澄めり〉などさらりと詠まれていながら、印象深い。『細青(さいせい)』(2000)所収。(今井肖子)

はや二月。日の光りは徐々に春めいてきて、確かに日脚も伸びてきましたね。

50年位の前の昔、農家の仕事に『山きり』、という作業があった。新しい年の初めの大事な作業で、作付けに必要な肥料作り、一年分の燃料の蓄えである。『山きり』は、なら・くぬぎ・くり・ほうの木・などの雑木林の急な山に今の時期に、行うのである。先ず下刈りし、くづ掃き、(枯れ葉)をして行うのだが相当な重労働であった。10年ぐらい経った樹を根元から切り倒し、枝を掃い6尺ぐらいにしてから、藤づるで結わく。太い幹は薪にするため1尺2寸ぐらいに切るのである。

そして、そうしたくづ葉、もや(枝)、薪を山から下ろしてリャーカーで家まで運ぶのである。薪は、くづ葉は、牛などの敷き肥料作りとなり、もやは、火じろ(囲炉裏)はへっつい(かまど)の燃料となり、太い幹は、薪割りをして保存し、燃料とする。または、炭焼きとする。天の恵みを全てを無駄なく利用する。

栓をひねれば出るガスなど、考えられない時代である。それが、何と半世紀前まであったのだから、隔世の感がある。その頃の子供の楽しみの一つに薪割りである。幹にのなかに、虫の幼虫(鉄砲虫=くわがた?)がいる。それを焼いて食べるのである。美味しいかった。

その一連の作業が終ると農家の本格的な作業が始まるのである。

切り倒してくぬぎの切り株からまた芽が出て10年経つと成長し、山きりが出来るのである。みずみずしい切り株から樹汁でて、甘酸っぱい匂いは、もう直ぐ春になる知らせのようだった。

今朝は懐かしく、思い出した。不思議な事は東京都心から、40キロしか離れていない当該地と僅か50年ちっよとしか経っていないのに、かまどからガスに変わって便利になったが、それがいま、昔を見直そうとの考えも出てくるとは・・・。

近くに雑木林の公園がある。楢や椚の樹は大木になり下刈りしないのでジャングル?となり、人が入れない。これでは雑木林は悲惨な結果となって樹は耐えてしまう。これは、樹は20年で甦えさせないと、自然は保てない。市の職員に説明しているのだが・・・・

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