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2008年1月

2008年1月31日 (木)

春隣

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叱られて目をつぶる猫春隣    久保田万太郎

春隣=春がもうすぐそこまで来ていることだが北国の人々は、一日でも早く春の来ることを待ち望んでいる事だろう。似ている言葉=春近し。

二月。四日は立春。そして、歳時記の分類からすれば今日から春である。北国ではまだ厳寒の季節がつづくけれど、地方によっては「二月早や熔岩に蠅とぶ麓かな」(秋元不死男)と暖かい日も訪れる。まさに「春隣(はるとなり)」だ。

作者は、叱られてとぼけている猫の様子に「こいつめっ」と苦笑しているが、苦笑の源には春が近いという喜びがある。ぎすぎすした感情が、隣の春に溶け出しているのだ。晩秋の「冬隣」だと、こうは丸くおさまらないだろう。「春隣」とは、いつごろ誰が言いだした言葉なのか。

「春待つ」などとは違って、客観的な物言いになっており、それだけに懐の深い表現だと思う。新しい歳時記では、この「春隣」を主項目から外したものも散見される。当サイトがベースにしている角川版歳時記でも、新版からは外されて「春近し」の副項目に降格された。とんでもない暴挙だ。外す側の論拠としては、現代人の「隣」感覚の希薄さが考えられなくもないが、だからこそ、なおのこと、このゆかしき季語は防衛されなければならないのである。(清水哲男)

車窓より瀬戸の島山春隣   星野立子

齢積む音閑かなり春隣            中原道夫

背を丸め歩く姿や春隣      キリギリス 

だいぶ年を取った兄の歩く後姿を見てようやっと冬を乗り越えて、春隣の言葉どおり暖かくなる日を身体は、待ち望んでいるようである

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社会不安障害

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今日の名言

樹木は伐り倒されても直ぐに生えて来るが人間は殺されると再び得ることは容易でない。

『プルターク英雄伝』(三)

動機、発汗、震え「社会不安障害」

自分は子供のころから、「引っ込み思案」と親から言われていて、恥ずかしながら70歳の爺さんになってしまった。もう遅い何とかしようと思ってもしようがない。

益々複雑多岐になった世の中、生まれ持ったおしゃべりの上手な人・下手な人がいる。上手な事に越した事はないが、人格の評価基準にされるのは、如何かと思う。上手な人と出会うと、羨ましく思ったり、どうすればうまくなれるのだろうかと、悩んでいた時期もあった。

まあこれが精神療法・薬物療法で改善されると言う。性格の問題だけではないようだ。従って幼少の頃から、注意深く関心を持つ事が大事なのかなあ・・・そこで昨日(1/30)のZAKZAKの記事に以下の記事があったので記してみた。

人前で何かしたり、注目を浴びたりする。知らない人と会話したり、接したりする。そうした場面が苦手で、緊張して手や声の震え、動悸(どうき)や発汗、顔の紅潮などが起こる人も少なくない。だが、それを苦に人づきあい自体を避けるようになると、社会生活への支障となる。

 こうしたことは従来、単に性格の問題と片づけられてきた。しかし近年、これは「社会不安障害(SAD)」という病気で、精神療法や薬物療法で改善が可能と考えられるようになった。

 『人の目が怖い「社会不安障害」を治す本』(マキノ出版)の著書がある、三木内科クリニックの三木治院長に聞いた。

 「社会不安障害は、人とかかわる場面で不安や苦痛を感じ、そのために社会生活に支障をきたす病気。米国精神医学会の診断基準(DSM-IV)に記載され、注目されるようになった。疫学調査の結果、8-30人に1人と非常に高い確率で起こることがわかり、社会問題となっている引きこもりやニートの増加とも関係していると考えられている」

 病気とされることにかえって抵抗感を覚える向きもあるかもしれないが、治療によって改善できる点に着目すべきだ。

 「抗うつ薬として広く使われているSSRIが、社会不安障害にも有効とわかってきた。また、自律訓練法などの心理療法も改善に役立つ。何より、性格のせいだとあきらめなくていいことが、この問題に悩む人への福音といえる。治療で社会不安障害を克服できた患者は、他人には理解されなかった苦しさから解放される。長い間避けてきた場面から逃げないことで、人生が変わった、という人もいる」

SSRIとは Selective Serotonin Reuptake Inhibitorsの略で、新世代の抗鬱剤の一群を指す。

だから、精神障害になった人でも薬物療法で改善されるという事を認識する事である。

 【Aさん(50)のケース】

 50代男性、Aさんはバリバリの営業職を経て、30代半ばで起業。ところが、そのころから突然、人混みや人づきあいに異様な緊張感を覚えるようになり、レストランや映画館に入れない、冠婚葬祭の席も逃げ出したくなる、といった症状が現れた。だが、人に知られては…と、20年近くもそのことを隠し続けた。3年ほど前に新聞記事を見て、初めて自分の症状が社会不安障害と認識。SSRIの投与を受けたところ、しだいに人前で緊張しなくなり、1年ほどで仕事や生活のほぼすべての場面で不都合を感じないほどに改善した。

 「社会不安障害は一般的に思春期や若いころに起こることが多いが、Aさんのような例もある。いずれにせよ、問題となるのは、その人が感じている日常生活への支障の大きさ。たとえ、動悸や発汗などの身体症状が軽度でも、本人にとって非常に気になり、生活に支障をきたしているなら、社会不安障害と診断される可能性がある。精神科や心療内科などの医療機関に相談してみてほしい」 ZAKZAK 2008/01/30

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2008年1月30日 (水)

分らぬつなぎ法案

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怒号の飛び交い、握りこぶしが上がりそうな国会、なりふり構わず!!に ここが、天下分け目の決戦の時と言わんばかりの論戦そっちのけで、国会の先生達は必死である。もう少し議論の場を作れないのか、ちょっと国民に分る国会運営をして欲しいがなあ・・・

『ガソリンなどの暫定税率を2ヶ月間延長する法案』は与党も、民主党も国民のためと言っているが、よく解からない。

確かに、重油の値上がり、で関連する家庭用品は値上げラッシュである。ガソリン・灯油も高い。25円も安くなればどれだけ庶民は助かるが、地方の道路は、欲しくても出来ない。しかし、道路は無くては生活が出来ない。

この問題の、もうひとつおかしいとろは、暫定税率で10年もだ!、どう見ても分らない。それを何回も、繰り返したのだから、なお更だ。

自民、公明の両与党は、3月末で期限切れとなるガソリンなどの暫定税率を2か月間延長する議員立法の“つなぎ法案”を国会に提出した。1月中の衆院通過を目指す。

各誌社説の見出しでもバラバラであり、国民はもっと判りにくい。(以下の通りである)

毎日新聞は、「つなぎ」の役目なら無用だ。

産経新聞は、ブリッジ法案 対立激化だけでよいのか。

読売新聞は、暫定税率延長 混乱回避にやむを得ない措置だ。

朝日新聞は、ガソリン税率―とんだ奇策が飛び出す。

日経新聞は、「暫定税率」で国民生活を混乱させるな。

東京新聞は、つなぎ法案 奇策よりも充実審議を。

国民の噂はでは、道路族議員・陳情次第・おらが議員・有力議員綱引き・政治力の世界など自分の選挙区優先のみ我田引水・だけで奔走しているようでならない。

了見の狭い、地域限定の議員では世界の動きを見る事は出来ない。こんな所に二流の評価されてしまう要因だ。

国難の時期に、世界の流れに乗り損ねてしまう恐れさえ覚える。

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涅槃寂静(その3)

今日名言

女に忘れられたら、男だって意地になります。
そういう女を忘れるために、できるだけの手は打ってみる。
それでもうまく行かなければ、せめて忘れたふりをする。

モリエール『タルチュフ』

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これが最後となる。

春秋時代の話ですが、楚の荘王は、即位して三年になるのに、政令一つ発すること'もせず、「王を諌める者は、死刑に処す」と布告して遊び呆けていたそうです。国の前途を憂えた伍挙という臣下が、恐る恐る申し出たそうです。「丘の上に鳥がおります。三年のあいだ、飛びもせねば鳴きもしません。これはいかなる鳥でありましょうや」と、やんわりと諌めの言葉を発したのです。荘王は、答えました。「三年飛ばずとも、ひとたび飛べば、天のきわみに至るであろう。三年鳴かずとも、ひとたび鳴けば世を驚かすであろう。おまえの言いたいことはわかっておる。」といって、さがらせました。しかし荘王の遊びは輪をかけたようにひどくなり、数カ月後、遂に決死の覚悟で蘇従という二人目の臣下が諌めの言葉を申し出たのです。「諌める者は、死刑だと布告したはずだ、知っているのか」という王の問いに蘇従は答えました。「わが君の迷いを覚ますことができますなら、この身を滅ぼそうとも本望です」と。それ以来荘王はピタリと遊びを止め、素晴らしい政治を展開し、孔子をして「楚の荘王とはなんと立派な人物だろう」と言わしめるだけの英邁な人物となったのです。

 荘王は三年半のあいだ、ただ単に遊んでいたのではありません。真に国の前途を思う臣下と、ただ王に諂って保身を考える臣下とを見極めて、不惜身命の思いで王に従う臣下の名乗り出ることを待っていたのです。戦略的に生きていたからこそ、国政に乱れがあっても、一喜一憂することなく、心乱さず、泰然自若の行動が取れたのではないでしようか荘王がただちに手がけたのは人事でした。これまで王と一緒になって遊んでいた取り巻き数百人を辞めさせ、新人を登用し、伍挙と蘇従に国政を委ねたのです。国民は大喜びし、荘王は、ひとたび鳴けば世を驚かすだろう、という自分の言葉を実践したのでした。

 宗教的組織あっても、悟りへの戦略的取組を持たないと修行者の霊的生命を殺してしまうことがあります。阿羅漢になりたいとして、焦り、しっかりとした修行も積まずに、霊的能カを追い求めて失敗した団体がありました。ある教団では、かつて、霊能力信仰が強まり、心の修行を忘れて、過去世の言葉を語る異言能力を追い求めていました。霊現象に興味を持ち、その能カを与えられた会員達は、その殆どが、魔界の者の餌食となって、倒されていったのです。

 そうならないように、修行者の組織のなかでも、自分の悟りを目指して、焦らずに、長期視点から、戦略的に修行の計画を練り上げなければいけないと思います。修行者が最後に狙われるのが、名誉心、自己顕示欲と言われています。魔界の者は、修行者の心にある「己心の魔」を見抜いています。大如来は悟りを開きたいという思いのなかにも、くなりたいという気持ちが、やはりどこかに潜んでいるところがあるのです。ここをくすぐられた場合に、どうしても、こじ開けられて入ってこられることがあるのです。」と教えて下さっています。名誉心、自己顕示欲、そのほかにも、嫉妬心、冷淡さなど、完全にはぬぐい去れていない心の汚れがあるはずです。それをよく見抜いて、計画的に反省することです。今与えられた環境、地位、待遇、健康など、全ての条件を自分の悟りへの戦略の中に組み入れてしまうことです。今はこの環境、条件のなかで、この部分の心の汚れを修正しているのだ、これが済めば、つぎはここを磨いていくのだ、という長期戦略があれば、目の前の出来事に一喜一憂することなく、平和な心を楽しむことができるはずです。

 かつて最澄が、空海との確執から悟りの道を踏み外しました。根来の密教僧も間違えました。ルシフェルが地上で失敗したのも、地位欲、名誉欲、でありました。無我、空の教えは、悟りへの道であると同時に魔界のものから自分を守るための大切な教えであるということなのです。決して揺らぐことのない、平安を求めて、戦略を立てていきたいものです。

今、日本の指導者はこの「仏教の真髄」を学んで貰いたいと強く感じる。

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2008年1月29日 (火)

涅槃寂静(その2)

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今日の名言

他人の歯や眼を傷つけながら、報復に反対し、寛容を主張する、そういう人間には絶対に近づくな。

『魯迅評論集』

21世紀と言わず、この仏教の真髄の考えは、未来永劫通用することで、生きている人間の心の支えとなっていくことだろう。

地上生活を送るなかで、人はそれぞれの役割を、家庭や会社、地域のなかで持っていると思いますが、何のために役割を持っているのかといえば、仏の子として、仏の心に少しでも近づいていくために、実地体験、実習をさせていただいているのだと思うのです。子育ても、会社生活もすべて、そうなのです。地上生活の全ては、仏の心に近づくための修行であると定義するのです。人生をそのように定義したなら、今日一日の自分の思いと行いは、仏が見ておられて、お喜びになるだろうか、悲しまれるだろうか、と推定してみることです。きっと今まで自分の心配してきたことがらは、仏の関心事では無いはずです。なんだ、取り越し苦労だったのか、仏の考えに無いことなら、心配などしなくてよかったんだ、と思えるでしょう。そして、平和な心境が、涅槃寂静への第一歩が訪れることでしよう解脱の奥行きは広いものがあります。信仰心による解脱は、疑いの克服、猜疑からの自由、仏を信ずるという平安です。禅定を続けるなかに得られる自由は、争い、憎しみ、三次元的な欲望、物質的波動からの自由を得た平安です。三学修行から得られる自由、智慧を得ることによってもたらされる自由が、無明からの自由です。これが阿羅漢になったといわれる段階の解脱、涅槃寂静です。自分自身に科した戒を守り、禅定のなかで八正道を修し、そして、教学を怠らず学び続ける精進の後に、真の智慧を得て果たした解脱、その心境を、大如来は次のように、表現されています。

「涅槃の境地に達した方は、ちょうど澄みきった湖の底の小石や貝殻を、透き通った水を通して見るようなかたちで、みずからのこの世の苦しみというものが、見えるようになってくるのです。これが「涅槃寂静」の境地です」と。これは、実在界から地上の人生を眺め、苦しみの所在を見抜く境地でもあるのです。この境地は、心の働きの中で知性とか理性の分野の解脱からくる智慧に基づく平安です。さらにその奥に、感情や意思をも含めた心全体が自由になって、平和、安泰を感じる境地があります。一切衆生を救済したいという菩薩の心境、愛を五月の風のように屈託なく、爽やかにお届けしようという心であります。その奥に仏陀の悟りである、最奥の解脱があるのですが、一般人には少々無理であると言われています。

 国難をもたらした、オーム教という殺人集団の頭目とその幹部達が、最終解脱という言葉を弄んでいましたが、何処に心の平安があるというのでしょうか。宗教にはまったく該当しない、単なる収奪を目的にした強盗集団にしか過ぎないのです。それを見抜けなかった世論の、宗教に関する無知、邪見は目を覆うばかりです。最終解脱をしたと自称する者が殺人を犯したのに、その邪教性を論駁できないマスコミ人、また受難者キリストと同列に扱おうとする似非言論人が罷り通る言論界には、正しい宗教を学習するという、謙虚な反省の心が求められる筈であります。

論駁=相手の論や説の誤りを論じて攻撃すること。

 解脱には各段階がありますが、阿羅漢に達しても、菩薩に達しても、その平安の心境を維持することは地上生活の中では難しいものがあります。一旦は解脱したとしても、うぬぼれてしまえば、それまでであり、転落が待っているのです。悟りはその維持が難しいのです。

 平和な心を維持し続ける要諦は、長期的展望を持つことです戦略的に生きると言ってもよいでしょう。正しい信仰があっても、短期的な視点で見ていると、いつのまにか、不安感に苛まれることになってしまうのです。人生を長期に展望すること、戦略を持って生きることが、日々の些事に心を曇らせ、魔界の者に倒されてしまわない秘訣であると思います。

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2008年1月28日 (月)

涅槃寂静(その1)

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今日の名言

手軽なことだ、災難を身に受けない者が、ひどい目にあってる者らに、あれこれと忠告するのは。

アイスキュロス『縛られたプロメーテウス

三法印の最後の涅槃寂である。

諸行は無常、常に変化し、変転していくものである。諸法は無我、全ては仏の念いの中に生かされている仏の子である、故に、この地上の一切のものに執着するなかれ、この地上生活の意味を良く見抜き、仏神に感謝して生きていこう、というところまで述べてきました。三法印の最後は涅槃寂静です。無我なる生き方をするとき、すなわち解脱し、自由自在の境地に達した時の平和な心境が涅槃寂静であります。仏の子としての、霊的自覚の下に生きている境地のことであります。

 涅槃とは、ニッバーナのこと、もともとの意味は吹き消すことであります。何を吹き消すのかといえば、肉体ありとする錯覚から生じる煩悩の炎です。無明に基づく生き方の中で作る愚かしい縁起の連鎖と言ってもよいでしょう。智慧なきが故に、夏の虫が、ガス灯目掛けて飛び込んでいき、身を焼き尽くしてしまうような、愚かな行為のことでもあるのです。無明に基づく愚かしい縁起の連鎖を吹き消して、仏法真理に基づいた良き連鎖に変えるとき、身も心もサッパリとした平和な心境になれるのです。

 そんな綺麗ごとを言ったって、誰も実践できやしませんよ、実生活では、住まいのことや、子供のこと、給料のこと、出世のこと、などなど常に心配ごとの連続で、平和な心なんて持ち得ませんよ、とおっしゃる声が聞こえるような気がいたします。勿論解脱にも、段階がありますから、仏と同じ解脱を得ることは、今世一代では困難でしょう。しかし、先ず第一段階として正しい信仰、仏神への信仰を持つことです。

「ニッバーナ」というのは、苦しみ、老い、死、病気から自由になった状態であり、あらゆる問題、心配、苦難のない至高の幸福な状態。

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2008年1月27日 (日)

諸法無我(その2)

今日の名言

ああ! 京の織り子は、つづれ破れた木綿を着て、誰が着るのか判りもしない綾絹(あやぎぬ)を、せっせと織っているよ。

細井和喜蔵『女工哀史』

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現代の政治家や官僚などの指導者に必要な諸法無我を心して欲しい。

かつてこの地球上には、いくつかの文明が生まれては消えてゆきました。その文明の中で、地上生活を送った魂達は、その時点では、社会の規範を金科玉条とし、名誉を求め、民衆の称賛を求めて、これこそが人生の目的であると感じて生きていたことでしょう。しかしながら、何千年も経ったいま、その規範にどれだけの価値があるのか、といったら疑問でしょう。それは恒久的国家理想、永遠の社会規範とはいえないでしょう。その時代を生きるうえでの、人生の海図ではあったでしょうが、重々無尽に重なった縁起の連鎖から出来上がったその時代の海図にしかすぎなかったのです。未来永劫に続く海図というのはこの世にはないのです。だから、諸法無我であるのです。

 宗教も同じです。その時点で地上に生きている人間の理解し得ること、理解可能な範囲での仏神の理想しか、地上には広がらない、降ろせないのです。しかし、その中で得た経験、その時代の海図を頼りに航海を終えた中から得られた心の経験が、仏に近づいていくための、魂の栄養分になっていくのです。それを可能ならしめてくださっている仏神の慈悲、地球という輝ける大地、演習場を提供してくださっている仏神への感謝を忘れてはいけないのです。仏神は、仏子達の織りなす地上生活の進化、進展に応じて、地上の宗教をも計画してくださるのです。

今地上には、釈尊の本体である大如来が下生され、大きな文明の創造を開始されました。いいかえれば、それだけ大変な時代、地上が危機的状況を迎えている時代でもあるのです。地上にすむ一人一人が社会への責任感を持ち、少しでも社会を良くする運動にたちあがらなければなりません。ささいなことかもしれないが、為そうと思えば、行動ができたのに、優柔不断に流れ、何の行動も起こさなかったとしたならば、夢が覚めた時、即ちあの世に帰ったときに、「為さなかったという罪」、不作為の罪に苛まれることになるのです。勇気を出して行動しなければなりません。諸法は仏神の掌にあるのであって、我なるものは本来ないのです。自分の人生、自分の生活、自分の財産等と見えているものは、夢幻なのです。とくにこの混迷の時代・変革の時代をリードする指導者の役割、政治家や、経済人、言論人に求められていることは、諸法無我の奥にある仏神の理想、仏の考えに思いを馳せて、仏の説かれる法に耳を傾け、仏の僧団を大切にすることなのです。そのためにこそ、人生を私物化しないで生きることが大切なのであります。地上の国民を、少しでも仏神に近づけるような、仏に回帰するための経験を提供するために働くことです。ゆえに、指導者は、無我、無私でなければなりません。

 昔、楚の王様がある隠者に、国を治める方法を聞いたところ、身を治める方法を教えたそうです。楚王が重ねて、国を治める方法を間い正すと、隠者が答えたそうです。「今までに君主の身が治まっているのに、国が乱れたという例を聞いたことがありません」と。古来日本の指導者もこれを学んでいます。天子、天皇の地位にある指導者は、国の乱れは己の徳に間題があるのだと自戒して、国政を預かることを、常識としていたのです。天帝から、地上の統治を任されているのが、天子であり、国内に天変地異が起こり、人心が乱れるのは、天子の責任であると考えたのです。

唐の時代には、「十思」「九徳」という指導者の基本的心構えがありました。「十思」とは、①足ることを知って、自戒をし、②民の安楽を願い、③謙虚に自制をし、④満ち溢れる海は全ての川より低いことを思い、腰を低くし、⑤限度を弁え、⑥始めを慎重にして、終わりを慎み、⑦部下の言葉をよく聞き、⑧悪をしりぞけることを思い、⑨報償を誤ることのないようにし、⑩重すぎる罰にならないように心掛ける、ということです。現代の国家指導者に、このような、指導者としての心掛け、国を預かる無我なる指導者の姿勢があれば、邪教とマスコミの中に悪魔がはびこるようなことのない、立派な国家になるはずです。

 無我なればこそ、国家の危機管理にも迷うことなく、判断が下せるはずです。明治維新をやり遂げた、勝海舟は、朝鮮との間の国際的大事件、閲妃事件に困惑していた、小村寿太郎に、「自分も江戸開城などの大きな交渉で、苦労をしてきたが、結局いえるのは、死生を意にとめたら仕事はできないということだ。身命をなげうち、真心をこめてやるという腹さえきまっていれば、あとはその場合その場合で考えたらいい」とアドバイスをしたそうです。未来永劫に渡る恒久的判断基準、物差しは、この地上には見出そうにも、見出せないのです。であるならば、仏神の御心、実在界の視点を、静かな心の中に降ろしていただくような、気づかせていただくような、謙虚な気持ちで、指導者は生きていくことが求められるのです。それが、哲人政治家の姿でしょう。この日本に一刻も早く、哲人政治家が誕生することが待たれます。

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2008年1月26日 (土)

寒中に想う

Shibutoge61 人を良くすると書いて「食」だそうです。なるほど・なるほど。

すつと水仙その上なににもなし  橋場千舟     

水仙の立ち姿。「すつと水仙」。それはギリシヤ神話の水仙を持ち出すまでもなく端正だ。頭上に空以外なにも遮るものがない(むしろ「空」さえもすでに存在しない)悠久の空間におかれた水仙にしばらく自分を同化させたくなる。しかし、どうして今まで誰も「すつと水仙」と俳句を詠み出さなかったのか不思議なぐらい自然。「水仙のすっと・・・」なら思い付くのだが。「すつと水仙その上に」とサ行音が頭韻的に配置され、スマートな句の運び。だが、下五の「なにもなし」のもう一度ハッとさせられる。水仙の水仙らしい姿をリクリエイトしている句だ。(塩見恵介氏)
 

屋根裏に寒の朝日の黄金なす    石田波郷

アッと言う間に1月は終ろうとしている。昨日病院に診察に行った。特に採血の結果で異常なし、病院の待合室で、元会社の先輩が入院していた。そして別の病院に兄も胆炎で入院している。諸行無常の感である。

季節は巡り巡って来る。豆まきの立春・バレンタインデー・そして桜の開花・孫の入学である。世界同時株安・年金問題・公務員の汚職・幼児の虐待などの嫌な世の中である。そんなに嘆いていても仕方がない。今は寒いが、きっと暖かくなる。ポジテブ思考で行こう。先だって読売新聞が日本で生まれて誇りに思うかとの質問で93㌫の人が「誇りに思う」と答えている。何だか勇気が沸いたようだ。

老後の不安が拭い去れない私だけど・・・・

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 諸法無我 (その1)

今日の名言

欲するものを得ないでは生きられず、そのためには、時も快楽も生命も犠牲にする、それが恋なら私は正真正銘恋しているのです。

ラクロ『危険な関係』(上)

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「諸行無常」を勉強して、「諸法無我」に・・・

はっきりいって難しい、熟読し理解したい。

第二回 諸法無我 (その1)

無我なる生き方をするために、諸行無常の物差しが必要なことを述べました。もう一つの物差しが諸法無我という教えです。どちらも地上人生で、肉体煩悩に基づく執着を捨て去りなさいというものですが、諾法無我とはいかなる教えなのかを、学んでおく必要があります。

 諸行無常とは、一切の存在は常に変化変転する、よって、地上の何ものにも執着することなかれ、という教え、即ち時間の流れの中で、この世の存在を見た時に、川の流れのように常に流れ流れて、変化するという見方でありました。一方、諸法無我は地上の存在を空間的にながめてみたときの真理であるのです。

 諸法の法とは、存在と言う意味です。諸々の存在、この地上の一切の存在は、無我であり、我なるものはない。すなわち、重々無尽に重なった縁起の連鎖で成り立っているものであり、永遠に変化しない恒久の存在、その存在が独自にもっている固有の性質、自性なるものはないということです。存在は無自性であるということです。

 これは異なことを、人にも、物にも性質があり、国には憲法が、企業には、社是が、どんな組織でも個性があるではないか、全ての存在には自性があるではないかと反論するかたもありましょう。しかし、自性ありと見えるのは、無明に基づく地上の錯覚、肉体煩悩という色付きのフィルターを通して、地上の存在を認識しようとするところから発生するのです。フィルターを清浄無垢にしてみれば、そこにあるのは、仏神の根源的計画、宇宙創造計画があるだけなのです。かつて、遥かなる昔に、仏神から別れ、再び仏神へ戻る旅にでた仏の子供、仏子たちが、仏との分離感をもったままで、認識しようとしている姿が、我在り、自性ありという心の曇りになるのです。本来無なる自我感を、サナギが殻を脱ぐように、いつの日にか、脱皮し、解け去らせ、洗い清めていかなければならないのです。

 ゆえに、我なるものがあると見えるのは、解脱以前の認識であるのです。解脱を果たした魂に認識出来るのは、無我なる存在、仏神と一体となった本来の自己であり、それこそが追求すべき自己なのです。無我なる自己、仏神と一体である自己を追求するための貴重なる体験フィールド、演習場として、三次元の地上という魂修行の場を仏神は与えて下さっているのです。織田信長がどこまで仏法真理の悟りを得ていたのかは分かりません。しかし、彼はあの桶狭間の戦いで、今川勢の大群を前に、16才で一の谷に散った平家の若武者に思いを馳せ、「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。一たび生を得て滅せぬもののあるべきか」と、扇を片手に、幸若舞の「敦盛」を三たび舞ったのです。そして、矢継ぎ早に下知を飛ばし、立ったまま湯漬をかきこむと、単騎清洲城を打って出たそうです。城を出るとき間に合ったのは、五騎だ気だったと云うことですが、その行為の中に、地上人生の放擲をも覚悟して、天下統一の夢、強敵との決戦に懸けようとした、若干26歳、青年信長の心意気を見る思いがします。

 毀誉褒貶の多い、その後の人生は覇道に生きた人生だったかもしれません、しかし、悟りのレベルは別にしても、何がしかの諸法無我の理解を持っていたがゆえに取れた、信長の行動であったのではないでしょうか。信長に学問を教えたのは、臨済宗の禅僧、沢彦(たくげん)でした。その影響でしょう、彼の死生観には、魂の不滅という考えがあるのは確かです。その死生観があったがゆえにこそ、牢固とした旧弊を捨てて、国家的大イノベーションを断行し、日本の新時代を開くことができたのではないでしょうか。

 ましてや、仏道を志すものであるならば、仏国土ユートピアの建設のために、仏の理想実現のために、それのみに生きる人生、を選択しなければなりません。本来の世界から見たならば、信長の言う通り、この世の人生は夢幻の世界なのです。現実と思っている地上こそが夢、夢(あの世)こそが現実、これこそが恐るべき逆説、人生最大の逆説であるのです。諸法無我とは夢から目覚めよという仏の檄でもあるのです。

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2008年1月25日 (金)

日本国民に誇り

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今日の名言

むかし景気のよかったものは、復古を主張し、いま景気のよいものは、現状維持を主張し、まだ景気のよくないものは、革新を主張する。

『魯迅評論集』
「日本国民に誇り」93%で過去最高…読売調査(読売新聞)

このところ暗いニュースばかりで心がいじけてしまうが、まだ見捨てたものでない。読売新聞の調査は、「ホット」した。 

日本国民であることを誇りに思う人は93%に達し、「国の役に立ちたい」と考える人も73%に上ることが、読売新聞社の年間連続調査「日本人」で明らかになった。

 いずれも、過去の本社調査と比べて最も高い数値。戦後60年余りを経た今の日本人の「国家意識」の高まりがうかがえる。

今回の調査は、連続調査の1回目として「国家観」に絞って12~13日に面接方式で実施したもので、今年で開始30年となる本社毎月世論調査の過去の結果とも比較し、変化を探った。

今回、日本国民であることを「非常に誇りに思う」と答えた人は55%で、「少しは誇りに思う」は38%だった。「誇りには思わない」は6%に過ぎなかった。本社調査では同じ質問を1980年、86年、95年にも行っており、「非常に」「少しは」の合計は91%(86年)、「非常に」は54%(80年)が最高値だったが、今回はいずれもこれを上回った。

「日本の国や国民について、誇りに思うこと」の具体的内容を複数回答で選んでもらったところ、「歴史、伝統、文化」を挙げた人が72%で最も多く、「国土や自然」43%、「社会の安定・治安」「国民性」(各28%)などがこれに続いた。86年の同様調査と比べると、「歴史、伝統、文化」が19ポイント増えた一方、「教育・科学技術水準」が22ポイント減の19%、「経済的繁栄」が17ポイント減の19%に落ち込んだのが目立った。

「国民の一人として、ぜひとも国の役に立ちたい」との考え方については、「そう思う」が73%だったのに対し、「そうは思わない」は20%だった。2005年の同様調査ではそれぞれ68%、28%で、国への貢献を前向きにとらえる意識が強まったことがわかる。

政府のあり方について、「小さな政府」と「大きな政府」のどちらを望むかを尋ねたところ、「小さな政府」を選んだのは38%で、「大きな政府」の33%を上回った。ただ、00年の同様調査と比べると、「小さな政府」を望む人は9ポイント減り、「大きな政府」を求める人は4ポイント増えた。この間に小泉内閣が進めた市場原理主義的な構造改革で、格差問題が深刻化したことなどが影響したようだ。

素晴らしいことだ。日本の国民として責任を持てる人間が一人でも多くなって貰いたいと思った。

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2008年1月24日 (木)

雪の朝のこと

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今日の名言

松の事は松に習へ、竹の事は竹に習へ。

『去来抄・三冊子・旅寝論』「三冊子」

涙雪とも言うのか昨日(23日)の朝、6時半に雨戸を開けて見たら,まだ薄暗い街灯の明かりで見ると、雪がふわふわ、綿虫のように舞い降りるよな感じだった。将に静かに涙を流す雪?寒中である外は寒そうであるが、これなら多分これ位で終るのだろうと思った。

何時もの通り朝食の支度をしながら考えた。社会の悪を雪で覆いつくしてしまったら大変だ。すなわち、公務員の汚職・政治化の不正から始まって一般家庭の問題で、殺人・虐待などの問題や日本中の環境汚染なども雪で覆いつくしてしまったら、それこそ大変だなあ・・・

朝食を食べ、片付け終って外に出たら雪は綿をちぎったような大きな塊で黒雲から舞下りるよう降ってきた。これはいけない、雪で全てが覆い尽くされたら後の始末が大変と思い、早速、何時のように河川敷から国道の歩道をゴミ拾いに出かけた。降る雪は、頭に肩に積もり始めた。登校する生徒・幼稚園に行く親子みんな、足早に私のゴミ拾いをしている姿に異様に映ったのか目をそむける感じさえ覚えた。

ゴミや空き缶・ペットッボルは、雪で被い尽くし真っ白になって一見きれいであるが、溶ければそのまま残るが凍って拾えなくなってしまう。

「おはよう!いってらしゃい」とこちらから声をかけたら、幼稚園の可愛い女の子が「おはようございます」と挨拶をしてくれた。「ほっと」してしまった。こんな事に感動するなって、オーバーかも知れないが心に沁みた。これがボランテアの極意?なのかなあ・・・

1.もらう喜び・受け取る幸福

 2.できる喜び・達成する幸福

 3.あげる喜び・与える幸福

昨日の朝は、自分の行動が人にはどう移ろうと構わない、自分で、幸福と感じればそれでいいと思った。一日一善を心がけているが、少しでも穏やかな平和の暮らしを出来る社会になるように祈りながら、作業を終えた。

雪は午前中降って我が家の庭木にも3センチぐらい積もって、ちょっと重そうに感じた。

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2008年1月23日 (水)

仏教の真髄を学ぶ(3)

これで良いんだ・普通だ・何時も通りだ・変わった事はないなど、日常自覚しないで過ぎてしまう。

社会情勢はもとより、人間も、全ての生きている生物・万物は、一秒たりとも元の姿はないのである。過去は戻らない、いわゆる諸行無常である。

認識有る・無しで人生を楽しく過ごせるのと、苦しんで過ごす違いがでる。だから、今現在を大事に、悔いのない生き方をしなければならないと思う。

webに仏教の真髄を学ぶより勉強!シリーズ(3)

諸行無常とは、平家物語に書かれた栄枯盛衰、盛者必衰のもの悲しい響きを訴える為にある教えではありません。仏教は幸福論であり、諸行無常も人々を幸福に導くため、「無我」を知って魂の喜びを味わうための教えであることを忘れてはなりません。環境は心に応じて変わっていくのです。思いと行いで良き種を蒔けば、良き結果、良き環境が出現し、悪しき種を蒔けば、悪しき結果、悪しき環境が出現するのです。

 勿論もっと深く諸行無常を探究していくと、そこに仏の慈愛が見えてくるのです。魂修行の乗り船としての、この肉体も、地球という魂修行の環境も、そして、魂が規範とするべき道標、考える方向性、即ち人間の理想像、如来像も全て仏の思い一つで存在していることが見えてくるのです。

 たとえば、肉体や、地球を構成している物質の成り立ちを調べていく程に、その不思議さに驚嘆するのではないでしょうか。手も足も原子や分子からできていますが、もっと細かく、素粒子のレベルで見てみると、一瞬たりとも、同じ粒子ではないのです。常に現れては消え、誕生しては亡くなっていく粒子群、常に入れ代わっている粒子からこの肉体はできあがっているというのです。これを見ても諸行無常が判るのですが、そうならば、青空に浮かぶあの雲が、もとの羊や鳥に似た姿を変えていくように、いつの間にか、手も足も姿を変えてしまっても不思議ではないはずです。でも、粒子が入れ替わっても手は手ですし、足は足のままです。けっして手が足に変化してしまうことはないのです。なんという不思議なことが、なんという素晴らしい奇蹟が起こっているのでしょうか、誰が、どのようにして、何を、素粒子に命じているのでしょうか。その素粒子は誰が、どうやって作るのでしょうか、そんな事が人間に出来るのでしょうか。考えがそこまで及んでくるとき、そこには仏神の力が存在することを感じざるを得なくなってくるのではないでしょうか。

 地上の物質が存在するのは、霊的世界に必ずその種があって、根がはえて、そして地上に芽をだし、葉を出してくるのです。その種に相当するもの、完壁な種の設計図を仏は霊的世界に作ってくださっているのです。その設計図、理念があるから、雲が姿を変えるようなことにはならないのです。もしもその理念が無かったとしたらどうなるでしょう。人間杜会は機能するでしょうか、昨日お会いして、約束したその相手が、今日はまったく違った乗り船に乗っていたら、しかも、グロテスクなお化けのように変わっていたら、魂の修行なんてできません。心のなかで、「私ですよ、昨日は人間の姿でしたが、今日はロバの変形した姿になっちゃったんですよ、でも私は私なんですよ」と言われても頭の中が煙に巻かれるだけでしょう。今日も昨日も家族を家族として、友人を友人として認識できることに、どれだけの感謝を払ったでしょうか。私たちは何と恵まれた世界に住み、恵まれた法則の下に人生を享受しているのでしょうか、素晴らしい魂の磨きをさせて頂いているのです。

 このような仏への感謝に繋がる世界が、諸行無常の探究の先にあるのです。それは当然のことながら、無我を知った魂のたどり着く世界でもあるのです。そして、人間は何を目標にして、己れを変えていけば良いのか、どのように考えて行けば良いのか、どんな思いと行いの訓練をしていけば人間完成の港にたどり着けるのか、こうしたことを、仏が教えてくださっているのです。それが無ければ、どんな航海をして、何処の港を目指したらよいのかも判りません。

 仏の教えを正しく解釈し、手垢のついた薄汚れたものにせず、純粋に生き抜いて、如来となって魂の目的港に入るために必要なものが無我なる生き方であるのです。

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仏教の真髄を学ぶ(2)

これで良いんだ・普通だ・何時も通りだ・変わった事はないなど、日常自覚しないで過ぎてしまう。

社会情勢はもとより、人間も、全ての生きている生物・万物は、一秒たりとも元の姿はないのである。過去は戻らない、いわゆる諸行無常である。

認識有る・無しで人生を楽しく過ごせるのと、苦しんで過ごす違いがでる。だから、今現在を大事に、悔いのない生き方をしなければならないと思う。

webに仏教の真髄を学ぶより勉強!シリーズ(2)

『アルジェリアの猟師はね、猿を捕まえるのに、椰子の実にサルの手が入るだけの穴をあけて、エサを入れ、その実を木に括りつけておくんですよ。猿は、エサがほしいから手を入れてエサを握るんですが、握ると拳が引っ掛かって手が抜けなくなるんです。エサを放せば助かるんですが、その知恵がないから、握った拳を放せなくて翌朝猟師に捕まってしまうんですよ。貴女は怒るかもしれないが、冷静に見たら、貴女の姿は、お金にルーズな主人、冷たく不幸な家庭、という映像をしっかりと握っているアルジェリアの猿に似ているかもしれませんよ。』というアドバイスをいたしました。最初は納得出来ないという風情でしたが、すこしずつ正しく見る姿勢を取戻されて、自分の愚かな姿が本当に見えてきたときに、どうしたら、握り拳を放せるでしょうか、と尋ねられました。

 『結婚したときはどうでしたか、優しかったご主人なんでしょう、好きだったんでしょう、子供が無事に生まれたときは嬉しかったでしょう』という問い掛けに、拳がゆるんできたのです。最後は、もう一度やり直します、主人はきっと私が裁判官のように毎日裁いているために、苦しんでいたんだと思います。本当は優しい人なんです。家庭を変えられるような気がします。といって帰っていかれました。正見の反省という仏法真理によって人も環境も変わっていきます。この婦人のように、正しい見方ができるようになると、環境が変わって見えるような、環境の意味を解釈する知恵が生まれるのです。そして次に、環境そのものが変わってしまうのです。この家庭もきっとご主人の姿、家庭の雰囲気が明るいものに、楽しい楽しい家庭に変わってしまうものと思います。

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おひとりさまの老後

今日の名言

母国に帰る敵軍はひき止めてはならず、包囲した敵軍には必らず逃げ口をあけておき、進退きわまった敵をあまり追いつめてはならない。

『孫子』

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老後の問題が深刻です。年金・医療・介護と不安が尽きません。一体どうすればいいのか、ここに東京大学の上野千鶴子教授著(出版社=法研・出版日=2007-7月・定価1470円)の要旨をNHK・視点論点より記し、考えてみたい。

東京大学教授・上野千鶴子著

『おひとりさまの老後』、という本を出版しました。
結婚していようがいまいが、誰でも最後は1人、という考え方が共感を得たようです。
シングルで通した人も、死別や離別でシングルアゲインになった人も、女性も男性も、長生きすれば最後は1人に変わりありません。

2000年のデータを見ますと、80歳を超えて長生きする確率は、男性の2人に1人、女性の4人に3人です。
その80歳以上の男性の10人に3人、女性の10人に8人は配偶者がいません。
夫に先立たれるのは女性、と思ってる方もいらっしゃるようですが、このところ、妻に先立たれる男性も増えています。
後続する世代には、高齢シングル予備軍がいます。「負け犬世代」と呼ばれる女性のシングルが増えていることは、ご存じでしょうが、それ以上に、男性シングルが増えています。
40代前半の男性の4人に1人は配偶者がいません。
この中年シングルは、このまま高齢シングルに、流れ込んでいくだろうと思われます。
老いてシングル、は女性だけとは限らなくなりました。
配偶者に先立たれたあと、子世帯との同居を選ばずに、1人暮らしをする人たちも増えています。
日本の高齢者同居率は下がる一方で、5割を割りました。
1人暮らしの高齢者は、300万人を超しました。
この数はこれからも増えるでしょう。
ここしばらくの間に、介護の常識が大きく変わりました。夫婦がそろっている間は夫婦2人で暮らし、どちらかが倒れたら、残ったほうがぎりぎりまで介護をするという、夫婦介護が、当たり前になりました。
夫婦には年齢差がありますが、介護が順番に来るとはかぎりません。
妻が先に要介護になる場合も多く、そのために、家族介護者のうちの男性の比率が増えています。
だからといっていって、子どもと同居するって、本当に幸せなんでしょうか。
今日の同居はほとんどが、配偶者を失ってからの中途同居、それも親の呼び寄せ同居が大半です。
そうなれば、子どもが親に、親の家に入るんではなくて、親が住み慣れた土地を離れて、子どもの家に入ることになります。
子どもの家の家風に、従わなくてはならないのは、親のほうです。
実際、中途同居の親の幸福感は、高くないことがわかっています。
その上、要介護状態になったら、再び施設への入居など、同居から離れて、別居が待っていることもあります。
だから私は「お母さん、お父さん、1人で寂しいでしょうし、火事でも出されたらたいへんだから、うちに来ない?」という子どもからの誘いを、悪魔のささやき、と呼んでいます。
この悪魔のささやきに対して、「おまえの気持ちは嬉しいが、私は行かないよ。
住み慣れた土地の住み慣れた家で、1人で老いていくよ」と、きっぱり断るための条件はなんでしょうか。
そのためには、1人暮らしの高齢者に対するこれまでの見方を変える必要があります。
自分で選んだ1人暮らしならお寂しいでしょう、は余計なお世話です。
1人暮らしを選んだ高齢者には、暮らしの達人と言うべき人が多いですし、1人で暮らすことは決して孤立と同じではありません。
それだけでなく、1人暮らしの高齢者の在宅生活を支える社会的な仕組みが必要になります。
私は、先進的な介護で有名な、さまざまな介護施設を訪ね歩いてわかったことがありました。
入居者の方に「こちらの住み心地はいかがですか?」と、お尋ねするんですが、あるとき、そう聞くのをふっとやめました。
というのは、どんなにすばらしい施設でも、ご自分の意志で入って来られた方が本当に少ないことに気がついたからなんです。
そういうモデル施設の経営者の方たちに、必ずこうお聞きすることにしています。
「ご自分が要介護状態になったら、どこで介護を受けたいですか?」その中で「自分の施設で」と答えた方は1人もいらっしゃいません。
お答えは例外なく「ぎりぎりまで自分の家で」というものでした。
どんなに立派な施設よりも自分の家が一番というのは、高齢者の本音ではないでしょうか。
家に帰りたいというのと家族のもとに帰りたいというのは同じでしょうか。
私はそうは思いません。
自分の家に帰りたくても、そこに家族が住んでいるばっかりに家に帰れないということも起きるんです。
これが1人暮らしなら誰に遠慮することもなく自分の家に帰ることができます。
自分の家で、他人に支えてもらって1人で安心して老いていく。
そのためには、要介護高齢者の単身生活を支える仕組みがどうしても必要です。ですが、ご存じのように介護保険は単身高齢者の生活を支えるようにはできていません。
家族介護が前提で、その家族の負担を軽くするのがせいぜいなんです。
その家族の負担も重くなれば、施設に親を入居させる傾向がありますし、介護保険は在宅支援をうたいながら、結果として施設志向を強めたと言われています。
介護保険は、介護を他人に外注することを常識にしました。
にもかかわらず、介護保険制度が目指す自立とは介護を受けない状態を指します。
つまり、介護保険は使わなければ使わないほどよいという考え方です。
その上、日本の高齢者はこれまで、家族や他人からお世話されるようになったら申し訳ない、もったいない、私のような厄介者が、と肩身の狭い思いで生きてきました。
自分は介護を受ける権利があると、権利の主人公にはなってこなかったんです。
人はゆっくり死ぬ動物です。ピンピンコロリというわけにはいきません。
きのうまで元気だった人が、コロリっていくのを突然死って言うんです。
死ぬまでの平均寝たきり期間は8.3か月と言われています。
介護は受けて当たり前、だからと言って肩身の狭い思いをしなければならない理由はない、と思うと、日本の高齢者はこれまであまりに自分の権利主張をしてこなかったのではないでしょうか。
よい介護を育てるためには、きちんと自己主張できる利用者でなければなりません。
そう考えて、この本には、介護される側の心得10か条もあげてみました。
その点でも、自分たちの権利を自分たちの力で獲得してきた障害者の権利運動に、学ぶことがたくさんあると、私は思っています。
そう考えて、中西正司さん、この方は障害者自立生活運動のリーダーの方なんですが、この方と共著で、『当事者主権』、という本を書きました。
そう言うとすぐに「負担はどうなる」という議論も起きますが、各種の意識調査を見ますと、日本の国民は自分たちの老後の安心のためなら、多少の負担増に応じても構わない、と考えてることがわかります。
問題はそのお金を託すだけの信頼できる制度が構築できるかどうかです。
これからますます増えるおひとりさまの男女が、安心して老後を迎えることができるかどうかは、私たちの政治的な選択にも関わっています。
そして政策を決定する立場にいる人たちには、ご自分が介護される未来に対して、是非とも想像力を持ってもらいたいものです。

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2008年1月22日 (火)

仏教の真髄を学ぶ(1)

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今日の名言

人間のすることでなにひとつえらいことが ありうるものか。
人間そのものがすでにえらくも たっとくも ないのだ。

『啄木・ローマ字日記』

これで良いんだ・普通だ・何時も通りだ・変わった事はないなど、日常自覚しないで過ぎてしまう。

社会情勢はもとより、人間も、全ての生きている生物・万物は、一秒たりとも元の姿はないのである。過去は戻らない、いわゆる諸行無常である。

認識有る・無しで人生を楽しく過ごせるのと、苦しんで過ごす違いがでる。だから、今現在を大事に、悔いのない生き方をしなければならないと思う。

webに仏教の真髄を学ぶより勉強!シリーズ(1)

無我なる生き方とは仏神の願いをそのまま素直に生き切る生き方であります。そのためには諸行無常を人生の規範にしていなければ、粘着質の人生、執着だらけの人生になってしまい、とても仏の理想を生き抜くことは出来ません。諸行無常とはいかなる教えなのかを、「分かった」と思うまで、しっかりと探求・吟味しておく必要があります。

 諸行無常とは、全て、この世のものは、変化するということです。岩盤の如く固定的、恒常的に見えていても、何一つとして変化せざるものはないということです。あのダイヤモンドにさえ、誕生の時、活躍の時、使命を終えて消滅する時があるのです。人間の肉体も、必ず老いを迎え、死を迎えます。しかし、これはまことに有り難い仏の慈悲なのです。この地上に何千年も縛りつけられていたら、たまったものではないでしょう。老人介護を受けている方々のお気の毒な姿を見てください、あの姿で百才、二百才と生きねばならないとしたら、それは苦しみです、地獄です。したがって、死は仏の慈悲であることが判るのです。家族も同じ、会社も同じ、常に構成員が変化し、組織の形態が変化していくのです。千年も続く、組織、会社はないのです。この地上には、常なるものは何もないのです。ゆえにこの世のものに執着してはならないのです。この世のものに執着する心は偽物の自分なのです。

 天上界にいた時の心を思い出し、その心で地上生活を生き抜くために、物差しを持っておく必要があるのです。その物差しの一つが、諸行無常です。それは、変化するものこそが、全ての本質であるということです。これを知らずに生きるとき、多くの苦しみに捕らわれてしまいます。まるでハエとり紙にくっついて、もがいているハエのような姿を演じてしまいます。

 たとえばこの大地からして永遠のものではありません。自分の土地だ、高いお金を出して購入した、私の不動産だと思っているかもしれませんが、何万年か前は海の底であったのですし、何万年か後には、また海の底になってしまうかもしれません。少なくとも、この世を去れば、他人の所有になってしまいます。いつまでも後生大事に自分の所有物だと思っている、その心が地縛霊となってしまうのです。

 人の心も変化していくのです。たとえば、こんな人がありました。ご主人がお金にルーズなために借金をつくり、田舎から逃げるようにして、子供二人を抱えて東京に出てきたというのです。主人がお金にルーズだという固定した観念を離そうとしないのです。そして子供にもそれを吹き込むものですから、子供達もお父さんに冷たい視線を投げかけて、家の中が真っ暗だ、子供も可哀相だ、私はどうしてこんなに不幸なのだろう、と嘆いておられるのです。主人の所為で私も子供も全く暗い人生を歩まされているのだ、と主張して譲りません。自分の人生は、諸行が冷たく恒常的で、どうしても変わらないというわけです。つまり、その方は、諸行が無常で、主人も環境も自分の心を変えることによって、変わっていくのだという物差し、あるいは自己責任の原則という物差しを持っておられなかったのです。そこで、その方に、アルジェリアの猿のお話をいたしました。

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2008年1月21日 (月)

幸福とは

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今日は、一年で一番寒いとされる大寒入りである。雪の降りそうな雲は朝から低く垂れ込めて、風が冷たい。大陸の寒気が日本列島を被い尽くしているようだ。今日は改めて「幸福とは何か」を書いてみる。

Galleryplayer4_flower 幸福とは何か?そんなことを何年も考えていたが。そして得られたことは、”感謝”と”知足”の心をもつこと。

仏教の考えでは人が幸福になれない理由として、執着心と虚栄心をあげているようですが、”感謝”と”知足”の心はその対義語といえると思います。簡単にいえば、”現在”の自分を能動的・主体的に受け入れている状態を言うのではないだろうか。

また、もう一つの大事な心の持ちようとして、”利他の精神”もあげられるのではないかと思います。人の喜びをも自分の喜びとする精神。もし、そういう心をもてたとするならば、執着心や虚栄心は出てこないのではないでだろうか。

幸福とは、辞書は

 満ち足りていること。不平や不満がなく、たのしいこと。また、そのさま。

などとでできます。また、ちがった観点で幸福という字を分解すると、

 幸とは外からもたらされるもの。福とは自分や家庭の内から湧き出るもの。

そういった説明もあります。他力的な部分と、自力的な部分のバランス。心の安定や調和の取れた状態と言えるのではないだろうか。

また、幸福や喜びには三段階あるとも言われる。

 1.もらう喜び・受け取る幸福

 2 できる喜び・達成する幸福

 3.あげる喜び・与える幸福

倫理説では幸福主義というものがある。幸福が人生の目的であり、善であるとする。

快楽主義が感覚的な快楽を求めるのに対し、幸福主義は持続的な、精神的な喜びをもとめるもの。幸福と快楽、改めて確認してみるとその違いに気がつくが、普段は無意識に混同してしまっているような気がする。

ひとりの「いのち」が、他の一切の「いのち」と深いところでつながっていることに気づいたとき、人は自他の「いのち」の尊厳を自覚できる。その尊い「いのち」を自他の自己現実に向けて燃焼させること、これが「自利利他」の意味だと思う。この背後には、自己の「しあわせ(いたみ)」と他者の「しあわせ(いたみ)」はその根本において別々のものではないとする考え方がある。

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『恕』(じょ)について

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今日の名言
一の世代は、その法律に将来の世代を服属させる権利をもつものでなく、かつ職務におけるあらゆる世襲は、愚劣かつ暴圧的である。
『人権宣言集』ジロンド憲法草案における権利宣言(フランス)

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大寒
21日。小寒から節分前の真ん中で1年でもっとも寒いとされる日。この前後に行われるのが寒まいり。寒稽古、寒中水泳、寒念仏、寒行など。

天気予報では、関東地方も雪で、平野部でも積もる恐れがあるというが、昨夜は何だかとても疲れて、早く寝てしまった。そのために、今朝は2時に目が覚めてしまい、もう寝れない。

仕方がない、起きてパソコンでも動かして見よう。しかし、年を重ねて気がつく事が多い。

「恕」じょ)辞書では、己れの欲せざる所を人に施す勿れとは…之を―の道と云ふ/福翁百話(諭吉)」

犬養 毅(いぬかい つよし、(1855年)6月4日 -(1932年)5月15日)明治~昭和の政治家。第29代内閣総理大臣。)が、以前に新聞で紹介されていたのを思い出した。

『恕』の一字が書かれており、なんと読み、どういう意味かと辞書をみて、「人を思いやる心、自分がされて嫌なことは人にもするな。」と理解し、それ以来、特に心がけてきたこと。

犬養さんが生きておられて(俗っぽい考えで恐縮だが)、今の日本を見て、何と?。 そんな思いと、自分自身が年を重ねたこともあってか、改めてこの言葉の意味、この”一文字”を書き残された人柄を思った。 

『ウィキペディア(Wikipedia)』

養の毒舌は有名だった。親友の古島一雄は、犬養の毒舌がやたらに政敵を増やすのを見て「ご主人の出掛けに口を慎めと必ず言ってくれ」と夫人に頼んだほどである。これも、意志が強固で悪や卑劣を憎む性格からくるものからであった。

しかしながら私生活では全く無欲の人だった。嫌いな食べ物が出ても小言を言うこともなく、着せられる着物を黙って着るなど無頓着だった。

議会事務局で働く少年が病気になると、自宅に引き取って学校に通わせるなど、困った人を見ると援助の手を差し伸べずにはおれないところがあった。宮崎滔天ら革命派の大陸浪人を援助し、宮崎に頼まれて、中国大陸ではお尋ね者となっている孫文をかくまったこともあった。宮崎は当初、犬養が大隈重信寄りだったため警戒していたが、自宅で会ってみると、煙草盆片手にヒョロヒョロと出てきて、あぐらをかいて煙草を吸い全く気取らない。宮崎は直感的に「好きな人」と判断したという。

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2008年1月20日 (日)

何のために勉強するの

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今日の名言

事態が明らかに畏怖すべき時に当って、これを恐れぬということは、明智に乏しいか、これを欠いているかの徴(しるし)ともなるわけだな。

ラブレー『ラブレー 第四之書 パンタグリュエル物語』

539571 学生の頃、勉強していて、時々何んのために勉強するのだろう?と悩んだ事がある。そして、自分の子供にも質問されたりしたが、いい言葉で答えを出せなかった。そんな事を思い出した。

勉強」には3種類ある、「学ぶ」、「覚える」、「悟る」ということだとか。人の一生は、いいお手本から学び、何度も練習して覚え、どんな問題も知恵を絞って解決することが大切と。

「何のために勉強するの?」と聞かれれば、こんな答えかな。そして、付け加えるなら、「教える」ということを勉強する、「人に教えることもなかなか難しい」、人に教えてこそ、自分に何が出来て何が出来ないかが初めて分かる…。」(「父親がわが子に必ずやっておくべき30のこと」幸福の科学出版より

生きていく中で、充実感や幸福を感じられる生き方が出来るように…と、人は勉強をするのではないだろうか。

いくつになっても、それぞれに思うことがあれば学び、努力する中でこそ出会う、「充実感や幸せ感」の存在を知り、また、達成感の価値も、自らが経験しなければ理解できないものと知り、なお、人の世に学ぶことの多きも………。

トーマス・リコーナの言葉に、こんなのがある。

「人生の目的は、自分自身の熟成、そういう自分と他との愛ある関係を結びそれによって社会に貢献すること。」というのがある。

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