2009年11月10日 (火)

世界経済の新たな問題

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15401 景気はよくなったという一方、日本の投資家も、迷うところだまだ先が読めない世界経済である。私も小額であるが、株・投資信託をしているが、中々回復しない株価が気になるところである。

そこで、今朝の朝日新聞社説に「世界経済―新たな不均衡に警戒を」という題目で載っていたので、なるほどと納得しまだまだ楽観できない、世界経済でることを再認識した。

ワシントンのG20サミットに結集してから、1年が経とうとしている。協調は成果を上げ、世界経済は危機のどん底から回復への道が見えてきたかに見える。

アメリカの10月の失業率は10%を突破した。大手ノンバンクや地方銀行の破綻続いている。、商業用不動産向け融資の不良債権化が懸念されている。この事態に、オバマ政権が追加の景気対策の検討を表明した。

欧州のユーロ圏16カ国も今年下半期はプラス成長を見込むが、回復の足取りは弱々しい。失業率は10%突破が避けられそうにない状態である。

一方、中国は7~9月期に8.9%の成長を達成した。中国が今年は8.4%成長を確保し、日米欧の需要減の分の4分の3を補うという、すばらしい勢いを保っている。

中国に象徴される新興国の発展は世界を危機から救い出す力ともなっているのだが、手放しでは喜べない要素がある。世界経済の新たな不均衡の芽も生まれているということだ。

過剰な消費と借金がある一方、貯蓄や生産が多すぎるという不均衡は、世界危機の背景要因になった。その不均衡を是正しつつ、世界経済の新たな不均衡を引き起こさないための協調の仕組みをどう築くかが大きな鍵になる。

結局、1年後をめどに、枠組みを段階的につくっていくことになった。各国・地域が経済運営の方針を示し、相互に監視・協議して世界規模でのバランス確保が重要だ。

だが、景気対策としての財政出動が巨額の赤字をもたらすにつれ、先進国は金融緩和への依存をなかなかやめられなくなる可能性もある。

不均衡の種をいつまでもまき散らさないためには、先進国が危機から早く立ち直るよう全力を注ぐしかない。G20の協調と各国にとって試練が続くだろう。

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2009年11月 9日 (月)

国旗・国歌は当たり前だ

06hatimantair341_11鳩山由紀夫首相は国会質疑で国旗・国歌について「国民にとって大変大事なものだ」と述べて、学校での指導を従来通り進める考えである。

民主党政権では支持母体の日本教職組合寄りの教育政策が目立っていると自民党議員に指摘された。これに対する回答である。(衆議院予算委員会)

愛国心や公共心育成などが盛り込まれた改正教育基本法について「尊重するのは当然のことだ」とし、学校での国旗掲揚、国家斉唱について「必要なときに指導していく」と述べた。

卒業式・入学式を含め、こうした限られた機会でさえ反対する動きがある。民主党政権となり、一部組合員などが反対を強めることが予想されるが、国旗・国歌に敬意を払うことは決して押しつけなどでなく、国際的な常識である。

道徳教育で文科省は小中学生の副教材「心のノート」の全員配布をやめる方針だ。新しい学習指導要領は改正教育基本法を踏まえ、道徳教育充実が盛り込まれた。これに逆行するような施策は首相答弁に反するのではないかと思う。

民主党は改正教育基本法の対案の「日本国教育基本法」で、愛国心や宗教的情操教育について現行法より率直な言葉で踏み込んでいた。そうした公徳心を養う教育こそ実践が必要である。

民主党は平成11年、国旗国家法が議論した当時に反対した議員も多くいた、これまでの党大会で国旗が掲げられなかったが、これからは与党として堂々と国旗を掲げるべきだ。

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評 価

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10_12801 人間の究極の幸せは、物や金でなく、人に愛されること、褒められること、役に立つこと、必要とされることの4つである。愛はともかく、あとの3つは仕事を通じて得られるものだ。働きたいと願うのは、本当の幸せを求める証なのだ」という。

「人間にとって生きることとは、誰かに存在を認められ、評価されることなのだ」と納得すれば、指導者の使命は「人間を評価し、幸福を実感できる場を提供することだ」と思う。

人間の脳は、高評価を受けた時、金銭報酬を受けたのと同じように反応するらしい。俳優・仲代達矢氏と黒沢明監督のエピソードがあるという。仲代氏が20歳の時、「七人の侍」に通行人役で出演した際に「歩き方が悪い」と黒沢監督から何度もやり直しを命じられたのだ。

朝9時のテスト開始から午後3時の本番まで実に6時間、ひたすら歩き続けた。そして7年後、「用心棒」に準主役で抜擢された仲代氏は尋ねた。「監督、僕を覚えていますか」。黒沢監督は答えた。「覚えているから使うんじゃないか」と言った。

この時の仲代氏の感激はいかばかりであったろう。監督の一言で、俳優としての自信を深めたのは想像に難くないが、当時まったくの無名だった仲代氏の、俳優としての素質を見抜いた黒沢監督の「審美眼」は常人ではない。

「褒められる」「必要とされる」評価は人を前向きにする。だがそれは、人それぞれの個性を見極め、才能を見出す「眼」が近くにあってこそである。心の満腹度は、個人差があるが、「褒められる」・「必要とされる」で、尚一層の深みを増し、「生き甲斐」も充実感が増幅されるのである。

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2009年11月 8日 (日)

一所懸命ということ・・・

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Utukushi121 昨日は、プロ野球の頂点を、読売ジャイアンツが2-0で優勝した。それにしても、今年の原監督は、WBCで優勝し、帰国しペナントレースに入って、ジャイアンツを率いて、セントラルで優勝。

そして、クラシックでも勝ち進んでパシフィックの優勝した、北海道日本ハムに競り勝った。日本のプロ野球の監督でも最高の年であった。

ワールドシリーズでは、松井選手がニューヨークヤンキースで活躍MVPに輝いた。そしてシアトルマリナースのイチロウ選手が9年連続の200本安打を達成。このところ、サッカーに話題を取られがちになった野球も、取り戻した感じである。

原監督・イチロウ選手・松井選手にしても、あの笑顔素晴らしい。なんでもなく勝ち取った栄冠には、人と同じ努力では、到底勝ち取ることは出来ない。「一所懸命」という言葉を連想した。

「一所懸命」ということは、あることに賭けて、命ががけで働き努力する。似たような言葉がある「一生懸命」は誤用したもの。現在では同じように、使われているが、こちらは自分の生涯をかけて一筋に生きることを指す。(辞書から)

現代のサラリーマンは「一所懸命」ではなく、初め就職した全社から一定の時期にスピンアウトして自分で会社を創設したり、別の会社に移転したりすることが通常おこなわれるようになった。

また雇用した会社側も急激に変動する経済情勢についていけず、終身雇用制度を維持できなくなり、リストラに追い込まれて、「一所懸命の社員」を養っていけない状態が多くなった。
つまり、人生に亘って「一生懸命」に企業に忠節をつくした人びとも、その考え方を切り替えなくてはならない時代になったのである。勤勉さは美徳であり、与えられた仕事に精をだしていくのが最高の生き甲斐という価値感が、根底から揺るがせられるようになった。

現在では、与えられた仕事に執着することではなく、新しい分野で新しい仕事を求めることが必要な時代になった。新規事業にチャレンジしていくことは、中小企業やベンチャー・ビジネスに必要であるばかりでなく、その規模や従来の実績によらず、むしろ大企業に籍をおくビジネスマンにも必要な徳目となってきたのである。

また「一所懸命」は、命がけで一途に賭けていく姿勢が示されているが、一つのことに将来をかけることは、リスクも大きく問題も多い。

もちろん、愛社精神が必要ないと言っているのではない。自分の属する組織を伸ばすためにも、社を離れて見るということが大切になってきたということである。

複雑な現代社会を顧みて、イチロウ選手・松井選手そして、昨日の原辰徳ジャイアンツの優勝から「一所懸命」連想した。そして、多くの人に夢と勇気を与えたことだろう。

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2009年11月 7日 (土)

糟糠(そうこう)の妻

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271_2故事百選から、・・・今まで空気のような存在であった「妻」の呼び方などを、改めて思考してみる。

糟糠の妻・・・そうこうのつま・・・酒糟うあ米糠のような粗末な食事をともにしして、く労を重ねて夫を助け、家庭を守り、連れ添ってきた妻のこと。

定年をとうに過ぎ、年金暮らしも長くなると、毎日一緒に生活していると、お互いに我がままが出て、意見が合わないことが多くなって来るものである。信頼関係すら疑問視してくる。

最近などは、忘れ物・身だしなみ・食べ方などの日常生活が気になって、注意されることしきり。女房を呼び方も、現役までは、名前で呼んでいたが、最近は「オーイ」と呼ぶこと多くなった。そして孫達の前では「婆さん」となってしまった。

わが国では、「内助の功」という言葉が知られていますが、女性の社会進出が一般的になるにつれ、この表現は古くなっている。また、荊のかんざしをしているようにつたない妻という謙遜した言葉で「荊妻」(けいさい)という表現がある。こちらは現在でも死亡広告等で見かけられる。

現代のサラリーマンは自分の妻のことをワイフ、女房、かみさんなどと呼んでいることが多いようである。子供や孫ができれば、ママ、かあさん、ときにはおばあちゃんなどと愛称していることもある。

いずれにしても、女性の社会的地位が上り、金ができても妻をとりかえるなどは考えられず、「糟糖の妻」は死語に近くなっている。
むしろ自分が定年を迎え、家でゴロゴロするようになれば、夫人の方が活発になり、面倒を見てもらわねばならなくなる。

「粗大ゴミ」とか「濡れ落葉」などは、旧い亭主の別称として通るようになってきた。また、「定年離婚」という言葉さえ生れて、サラリーを持って帰らぬようになったとたん離婚話がもち上がってくる世相だとのことである。つまり、「糟糖の妻」ならぬ「精糖の夫」の時代に入ろうとしているようである。

夫婦で苦労してきた時代に、妻の方からも「夫は苦労して、自分のことをよく考えてくれた」という思い出がないかぎりその危険性は高いと言うわけである。

また、「細君」というのは、中国の故事である「夫人おもい」の逸話から生れたものである。
漢の東方朔という、老爺の家郎は、ひょうきんな人で知られていた。皇帝が夏の盛りの三伏の時に臣下に贈る肉を、役人の来る前に剣で小片を切りとって家へ持って帰りました。その知らせに皇帝は東方朔を呼び、理由を聞きましたところ、「細君に贈りました」と白状した。。。。。
なるほど・・・

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